「3月末日を持って原時間平面に帰還せよ。それまでは残務整理を行うように」
 いよいよ未来からの帰還命令が発令されました。
 違う大学に進むことになって離ればなれになるキョンくんと涼宮さん。高校卒業を間近に控えた2月のある日、離ればなれになる寂しさが爆発して泣き怒りながら涼宮さんがキョンくんに告白。キョンくんがそれを受け入れたとき、涼宮さんの力は失われました。
 涼宮さんに時空を変える力がなくなった今、わたしの時間駐在員としての仕事も終わったわけです。規定事項が完成し未来が確定したから。それからほどなく、この帰還命令が届きました。いつかはと解ってはいたことですが、もう皆さんとお別れしなくてはいけないんだ。そう思うと、わたしは一晩中泣きあかしました。
「海外赴任中の両親と一緒に暮らすために日本を離れる」と皆さんに伝えました。でも、キョンくん、長門さん、古泉くんには本当のことを話してあります。古泉さんの機関はすでに解散されており、長門さんももうしばらく留まったあとに姿を消すそうです。寂しくなりますね。キョンくん、涼宮さんをずっと支えてあげてくださいね。
 わたしのお別れ会は、皆さん集まって盛大にしてくれました。いっぱい写真も撮りました。デジタルもありますが、アナログでもたくさん。プリントされた写真とフィルムは、未来にはない物。この時間にわたしがいた証になるものだから…。プレゼントもいろいろ貰いました。未来に帰っても、わたしの大切な思い出です。
 残務整理には、いくつかの意味が込められています。文字通りの残務処理のため。そして、駐留時間での最後の思い出を作るため、未練を断ち切るため。
 まだ、どうしても思い出を残したい人、そして未練を断ち切らなければならない人がわたしにはいます。 そう、キョンくんです。
 わたしは、もう日が沈んで暗くなった駅前の公園にキョンくんを呼び出しました。


「もうすぐですね…」
「ええ…」
 山から吹き下ろす冷たい風が、わたしの髪を撫でつけます。髪を押さえながら、街灯の下でキョンくんと向かいあって、彼の顔を見上げました。寂しそうな、けどしっかりとした顔。彼も3年間でずいぶん大人になったように思います。わたしも変われたのかな。
「明日は、本当に見送りはいいんですか? ハルヒのやつ、拗ねてましたよ」
 キョンくんは優しく、そして寂しい笑顔でわたしを見つめます。
「うん、ごめんね。お見送りされたら、帰るのがもっと辛くなっちゃうから…」
 わたしはキョンくんに促されるまま、近くのベンチに座りました。
「いえ、ハルヒもそれは解ってます。解ってて拗ねてるんです。だから、何か一言くらいは残してやってください」
 涼宮さんの気持ちを代弁するキョンくん。何か少し嫉妬しちゃいます。
「うん、みなさんにお手紙を書いてますから。最後のお別れの言葉はそれに書いています… ごめんね…」
 悲しさがこみ上げてきます。
 でも、悲しんでばかりはいられません。もう残り時間は数えるぐらいしかないのです。わたしは意を決して顔を上げました。
「キョンくん…そのお手紙をみなさんに渡してもらえませんか? お家に置いてありますから。今から取りに来て欲しいの」
 お手紙のことは本当です。でも、それならここで渡すか郵送すればいいだけのこと。本当の目的は別にあったから。最後くらい、好きな人と過ごす時間が欲しかった。だから。
「ええ、いいですよ。そういえば、朝比奈さんの家に行くのは初めてかなぁ。最初で最後…ですね」
 いつもの優しいキョンくんの顔で頷いてくれました。ありがとう。
 わたしとキョンくんは、少し離れたわたしのお家まで並んで歩きました。一歩一歩、名残惜しむように…


「どうぞ、上がってください」
「おじゃまします。もうほとんどの荷物は片付けられたんですね」
「ええ、明日までに必要のないものは、先に未来へ転送しましたから」
 わたしの部屋をきょろきょろ見回しながらキョンくんは言いました。片付ける前のお部屋なら恥ずかしくってお見せなんてできません。でも、ほとんど空っぽになった今の部屋なら、お見せして困るものはありませんから。
「お茶、煎れますね」
 わたしは台所へお茶を煎れにいきました。キョンくんに煎れるお茶…これがもう最後でしょう。そう考えると指先が少し震えます。
「はい、お茶ですー」
 わざと部室と同じフレーズでキョンくんの前にお盆を差し出しました。
「ああ、そのフレーズも懐かしいなあ。朝比奈さんのお茶が飲めるのも、もうこれで最後ですね……。いままでありがとうございました。ハルヒ共々お礼申し上げます」
 キョンくんはリビングに正座して、深々と頭を下げました。
「ううん、楽しかったから、いいの。気にしないでください」
 わたしは無理して明るく言いました。そうしないと、泣いてしまいそうだから。
 わたしもキョンくんの近くに腰を下ろすと、お茶に口をつけました。この時間で飲む最後のお茶…それは苦いけどほんのりと甘いものでした。
「明日は、いつごろ?」
 キョンくんが聞いてきました。
「うん、10時…朝の。それまで…です……」
「そっかぁ、もうあと15時間くらいですね… 」
「うん、うん…今までありがとうキョンくん…。あっ、お茶おかわり持ってきます…」
 わたしは立ち上がりました。滲む視界。わたしはテーブルの脚に引っかかって、つまづきました。
「きゃっ!」
「危ない!」
 キョンくんがとっさにわたしを支えようとしました。でも、体勢が悪かったのか支えきれず、そのまま二人抱き合うように重なりました。
「あっ…」
 キョンくんの顔が目の前にあります。息づかいも聞こえます。
「朝比奈さん、大丈夫で、う…」
 わたしは、そのままキョンくんに唇を重ねました。
 短くて軽いキス。小鳥のように。
 そのまま、彼の胸に顔を埋めました。
「お願い…、もう少しこうさせてください…」
 キョンくんは少し逡巡してから、わたしの髪を優しく撫でてくれました。
 このまま時が止まればいいのに。そう思いました。

 何分ぐらいでしょうか、そのまま体を重ねていました。まるで刻が止まったかのように。本当に時間が止まってくれたら… キョンくんの鼓動と息づかいだけが聞こえます。


 キョンくんの優しい声で刻がまた動きだしました。
「落ち着きましたか?」
「うん、ごめんなさい…。キョンくんには涼宮さんがいるのに…」
 埋めていた顔を横に向けていいました。まだ彼と体は重なったままです。
「すみません。俺にはもう朝比奈さんを受け止めることはできません、ごめんなさい、だから…」
 そのキョンくんの言葉を聞いて、わたしは切なくて苦しくて叫んでいました。
「そんなの。そんなの解ってる! だって、だって…わたしもキョンくんが好きなの……涼宮さんがいるから、我慢してきたの。お仕事だから、ずっと我慢したの… でも、でもぉ…うう、ぐしゅ… このまんま未来へ帰るなんて…すん…あんまりですっ… もっと一緒にいたい、キョンくんともっと一緒にいたいのぉ!」
 何を言ったのかはっきりと覚えていません。泣きながら、叫びながら、今までの気持ちを全部キョンくんにぶつけた。それは間違いありません。
「ごめん、朝比奈さん。俺はあいつを裏切れないから…」
 キョンくんはわたしの下から抜け出そうとしてもぞもぞしながら、苦いものを頬張ったような顔をして、苦しそうに言葉をはき出しました。
「だからっ、だからっ…。今だけ…お願いだから。明日わたしがいなくなるまで。わたしのためにここにいてください。このまんま未来へ帰るなんて嫌っ。今だけ、涼宮さんのことは忘れてください…… お願い、お願いします…」
 そう言って、またわたしから唇を重ねました。
 長い長いキス。息をするのも忘れて、わたしはただ彼の唇を貪った。
 苦しくなって、唇を離したとき、彼は言ってくれました。
「…今…だけですから…」
 そう言って、こんどはキョンくんからしてくれました。
 そして唇を離しから、はじめて言ってくれました。
「みくるさん…」って
 ………
 ……
 …


 カーテンを閉め忘れた窓から差し込んだ朝日で目が覚めました。
 わたしの横で、キョンくんが寝息を立ています。一度も見たことがない、何も纏わぬ姿で。
 わたしも何も纏っていません。起き上がると、お布団の周りに散らかった服からブラウスをとって上から羽織りました。
 あと1時間。わたしは彼を起こさないように、お部屋のお片付けをはじめました。
散らばった彼とわたしの服を畳み、飲みかけの彼とわたしの湯飲みを洗い… 小物は一纏めにしておきました。 残った物は、駐在準備作業を行う専用のエージェントが未来へと転送してくれます。片付けが終わって、服を着ました。
 あと30分。テーブルの上にみなさんに渡す置き手紙と、キョンくんへのメモを書き残しました。
 あと10分。お布団の横に座って、キョンくんの顔を眺めます。
 あと2分。寝返りをうったキョンくんに布団をかけ直しました。
 あと1分。さようなら。わたしの大好きな人。頬を寄せてキスをしました。もう時間です。唇を離して、彼の顔を撫でながら、わたしは未来へ戻りました…



エピローグ
「あー! ママ、今日はおめかしさんですね。パパにあいにいくのっ?」
「そうよ。昔のパパとお仕事するの」
「いいなぁ、あたしもパパにあいたいなあ」
「ごめんね、パパはこの時間にはもういない人だから… お仕事だから、あなたを連れてはいけないの」
「うん、パパは今はお星さまになっちゃってるから。それにママはおしごとだから、あたしがまんするの。 あたしもママと同じおしごとしたらあえるかな?」
「がんばって勉強して、ママの後輩になってね。そうしたら逢いにいけるかもよ?」
 父親がいなくてずいぶん寂しい思いもさせたけど、時空間把握力がわたし譲りで備わっているのでしょうか、小学校に入った今では時間管理の仕事の意味をだいぶ理解してくれています。時間駐在員の適正は問題ないでしょう。
 わたしも、もっとがんばって上にいかないと… 今度は、わたしがキョンくんやみんなを助けなきゃいけないから。そして、この娘をあの時代にエージェントとして送ることが今のわたしの夢。パパと何もできなかったママを見守ってください。子供にそんなこと頼むのも変かもしれないけれど。それに彼に逢うことができても、名乗りをあげることはできません、でもせめて写真じゃなくて自分の目で彼を見てほしい。
「この前のバレンタインのチョコレート、パパよろこんでくれたかなあ。あたしとママでがんばって作ったんだもんね」
「ふふふ、じゃあ、聞いておくわね」
「うん、きいておいてね。じゃあママがかえってくるまで、お勉強します」
「じゃあ行ってきます。お留守番よろしくね」
 わたしは仕事場へ向かいました、航時機に乗るために。いつか、彼に話せる時はくるのでしょうか。それは未来のわたししか知らないことだけど。ふふふ、知ったら彼びっくりするだろうなあ。涼宮さんにバレたら、彼死刑かしら? なんて、頭の中だけで涼宮さんに復讐します。キョンくんとられたことの。
 ほんとに、いつ言ってやろうかな。もっと偉くなったら航時機を使う要件も緩和されるから、言える時もくるでしょう。そんな考えをしながら職場へ急ぎます。航時機に乗れば、娘には悪いけど、ひとときの間わたしは朝比奈みくるに戻ることができます。それを楽しみにして…


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最終更新:2007年03月17日 05:12