○終章

 俺たちがいた閉鎖空間は、古泉が神人を倒して数分のうちに消滅した。
 戻ってみると、あたりはもうすっかり夜で、忘れていた夏前の湿気が鼻をついた。

「他の閉鎖空間も無事消滅。僕の同志たちがうまくやってくれたようです」
 古泉が携帯を閉じつつ軽やかに言った。お前の能力は元通りなのか。
「えぇ。相変わらず、僕の身体には涼宮さんの精神状態がびんびんに来ていますよ」
 気持ち悪い表現をするな。するとあれか。バイトはクビにならずに済んだのか。
「その通りです。もっとも、あの後森さんから『超能力を持たずともあなたにはSOS団の副団長という重要な役目がある。そして同時にそれが機関でのもう一つの使命だ』というようなことを言われていましたが」
 にっと微笑む古泉は、心なしかこれまでよりくだけて見えた。儀礼的な微笑みに、消費税分くらいのやんちゃが混じった感じというか、そんなのがな。
 それに、森さんがそんなこと言ってきたのか。……ってことは、やっぱ彼女はお前の上司か何かなのか?
「さぁてね。それについてはノーコメントとさせていただきます。謎は謎のままだから面白いのではないですか?」
 どっかの誰かと同じようなことを言うな。

「あっ、あぁーっ!」
 嬉しがるような声が聞こえたので、そちらを向くと、朝比奈さんが目尻を押さえて天使のようなという形容詞ではもはや言葉足らずなほどの至上の笑顔を浮かべていた。
「未来との通信が元に戻ってます!」
 心底安堵したように朝比奈さんは言った。
 が、俺は即座にハテナマークを点灯する。

 果たしてその未来には、誰がいるんだ?

 しかし、朝比奈さんがここまで安心している様子を見ると、少なくとも彼女に限っては違和感がないらしい。しかるに俺は押し黙って腕組みをするに止まった。

「情報統合思念体との接続を確認。異常なし」
 背後で呟いたのはハルヒが持ってきたジャージ上を羽織っている長門である。長門はさんざんこのままでいいと言い張ったが、肝っ玉母さんのようにおせっかいなハルヒは断固として反対を受けつけなかった。ハルヒと長門はたまによきライバルとなるが、こういう時は団長に軍配が上がるらしい。

「さぁ、キョン! これからあんたの家に行くわよ!」
 長門の涼やかな呟きに続き、ハルヒの朗らかすぎる声がかかった。俺の家? 何でだよ。
「古泉くんに有希にみくるちゃんもね! 夜通しかかったって説明してもらうんだから!」
 ハルヒは目の前で飛び交っていた謎のトークに興味津々のようだった。大宇宙に花火を散りばめたようなその瞳が好奇の色合いを物語っている。

 長い長い一日は、どうやらこれからが本番のようである。

「さぁ! それじゃ行くわよ! 銀河の果てまでもっ!」
 団長は本当にロケットを発射させそうな威勢のいいかけ声とともに、雲のなくなった夜空に指を突きつけた。


 その数日後――。

「ねぇキョン! バスケに決定したわ!」
 バタンとドアを開けて言ったのは他ならぬ涼宮ハルヒで、すでに他の団員勢揃い。ようやく元に戻った日常でのことだ。
 ハルヒは梅雨そっちのけの笑顔で今の発言の効果の程を確認している。
 あぁそうかいと手を振る俺に、微笑みかけるはなぜか最近ゲームの腕を上げだした古泉一樹。
「涼宮さんは途方もないまでに良好な精神状態です」
 言われなくたって分かるっての。それかお前、やっぱり超能力また使えませんなんてオチじゃねぇだろうな。
 そう言うと副団長は笑顔で手を振って、
「まさか。そうなる理由がもうないでしょう? 彼女は僕たちがいるという現実を肯定したのですから」
 俺は古泉の視線に倣って、パソコンのスイッチを入れて朝比奈さんと談笑しているハルヒを見た。


 あの後。俺たちはハルヒにあの夢のような時空で見てきたこととほとんど同じ内容の話をした。
 マジで夜通しかかってしまい、母親に見つからず密談する団員五名はさながら修学旅行中の就寝時間状態だった。懐中電灯つけてたしな。
 朝比奈さんは早々にダウンしてただ一人ベッドにて安眠し、残る四名でこれまでの一年あまりを半ば総括する形で説明した。
 そう、別の時空の俺の言葉を借りれば「一生分の説明をした気分」である。
 ハルヒは今日一日さんざん喜怒哀楽を爆発させた疲れも見せずに終始話に聞き入り、そこらのSF小説よりよっぽどリアリティのないようなトンデモエピソードの数々をまるごと消化した。
 もちろんそこで現実がまるごと変容するようなことはなかった。
 これは昨年末のあたりには既に思っていたことなのだが、ハルヒは必ずしも思い通りに現実をねじ曲げられるわけじゃないのではないか。この考えを言うとまた長い話になりそうなので古泉には言ってないが、似たような意見を得られると俺は勝手に思っている。

 まぁ、おかげでその翌日の授業はぶっ続けで睡眠時間と化したがな。早くも期末試験が心配だ。
「勉強なら引き続きあたしが面倒見るわよ」
 とハルヒは言っていたが。


「しかし今になってみると、早いところ真実を涼宮さんに言っておくべきだったのかもしれませんね」
 古泉がお茶を一口飲んで将棋の駒を進めて言った。あぁ、そこは痛い一手だ。くっ。
「早く知らせておくだって?」
「えぇ」
 俺の聞き返しに古泉は、にこやかに顔を傾けて、
「涼宮さんはとっくにこの現実を受け入れる用意ができていたのです。それは今の彼女の笑顔を見れば明らかでしょう」
 一足早く真夏を呼び寄せたかのような灼熱晴天の笑みを浮かべて、ハルヒはマウスのボタンをばしばしやっている。
「まぁな。だが、重要なのはタイミングだろ。うっかり早くしゃべりすぎちまって、次の日から道行
く人が空飛んでたりコンビニのバイトくんが目でバーコード読み取ったりするのなんざ俺はごめんだぜ」
 そういうと古泉は笑い、
「えぇ。それは僕ももちろんです」
 次の一手に迷う俺に続けて、
「僕はこう思うのですよ。もしかしたら、彼女が自分自身の力について知ることは必然だったのではないか、とね」
 ようやく苦し紛れに持ち駒を使うことを選択した俺は顔を上げ、
「必然ってな、どういうことだ」
 願いを込めて銀を置いた。この勝負の行方はキミにかかっているんだよ銀ちゃん。
「考えてみてください。『分岐点』の先にある本来選ばれるはずだった時間軸で、涼宮さんはこの時間軸と同様に、僕たちや彼女自身の力に関することを知らされるはずだった。ここまではいいですか?」
 古泉は驚くほどの速度で駒を置いて言った。何つう考えの早さだ。
 俺がデタラメに肯くと古泉は、
「しかし、その時間軸は朝比奈さんたち未来人が『介入』と呼ぶ行為によって成立しなかったわけです。そしてその結果、僕たちが今いるこの時間が選ばれた。ここもいいですよね?」
 俺は待ったをかけた。将棋に。
「ええ。いくらでも」
 古泉は悠然とした調子を崩さずに、
「話の続きですが、こちらの時空でも結果的に涼宮さんは真実を知ってしまったわけです。過程はどうあれ、ね」
 俺は何手戻れば自陣と敵陣の情勢をフィフティーにできるか逡巡していた。
 見上げると古泉が窺うような顔つきでこちらを見ていた。あぁ、続けていいぜ。
「となれば、もしかしたらそれこそがこの時空で世界が存続するための条件だったのではないか、と僕は思うのです」
 よし、分かった。三手戻ろう。そのくらいならかろうじて逆に辿れる。
 俺が勝手に駒をいじっていると古泉は、
「ええ、どうぞご自由に。続けますが、そうなると逆にこうも考えられます」
 何だよ。
「あなたがあの行動を取らなければ、とっくにこの世界はなくなっていたのかもしれません」
 あっバカ。どこまで戻ったか解んなくなったじゃねぇか。
「世界がなくなってただって?」
 俺は戦局の逆再生を諦めて古泉に向き直った。この勝負は間を取ってドローだ、うん。
「そう考えるといくつか説明がつくんですよ。あの時、朝比奈さんが未来と連絡を取れなくなりましたよね?」
 俺は駒を初期配置に戻しつつ適当に首肯した。
「それは昨年の夏休みと同様、あの時点では未来がなかったからではないかと思うのです」
 妙なことを言う。なかったも何もないだろ。直前までどうなるか分からないのが未来なんだから。
 俺がひたすら歩を並べていると、
「ですが、それではあなたもご存知の『彼女』が不完全な状態でしかここに来られなかった理由が分かりません」
 古泉は「彼女」の部分にアクセントを置いて話を続ける。
「確かに未来があるのなら、何の問題もなく登場できるでしょうし、そもそもあんな困った事態にもならなかったはずなんです。結局は推測でしかありませんが、やはりあの時、そこから先の未来はなかったのではないでしょうか」
 うし、始めようぜ。先行はどっちにする?
「お先にどうぞ。まぁ、何を言っても憶測にしかならないのはいつも通りなのですが。最後に、もう一つだけ言っておきたいことがあります」
 俺はいつも最初に動かす歩を前進させた。
「この際だから聞いてやるよ。何だ」
 古泉はありがとうございますとばかり黙礼をして、

「本当の意味での『分岐点』は、もっと前にあったのかもしれません」

 俺は顔を上げて眉をひそめた。何言ってんだこいつは?
 副団長は俺の怪訝な表情と裏腹に柔和な微笑をして、
「考えても見てください。これも結果から見てですが、『分岐点』で分かれたはずの時空は両方とも、涼宮さんが真実を知る、という未来につながっていたのです。……これはおかしなことですよ」
 なぜだ。つかそんなついでのように将棋すんな。
 そう言うと古泉はやんわりと詫びの仕草をして、
「失礼。ですがもし結果を分かっていたのなら、わざわざ『分岐点』などという呼称を持ち出して、僕がいなくなっていた四月のあの時期に特別な注意を払う必要もないはずです」
「……確かにそうだな」
 俺は腕組みをして思案する。
 これまで選ばれてきた時間ではハルヒが真実を知る。しかし分岐先でも結果としてハルヒは真実を知る。
 ……ん? ならば、
「これまで選ばれてた時空からこっちの時空を見ることはできなかったんだろ。こっちの時空ではひょっとしたら世界がまるごと消えちまうかもしれない。だがあっちでは少なくとも俺がハルヒに打ち明けることと引き換えに未来があることが分かってる。だからあの時間を固定しようとしてた」
「すばらしい意見です。僕も同じように思います」
 お前に褒められてもうれしかねぇけどな。どうせなら朝比奈さんご本人に賞賛の言葉を頂きたいところだ。頬にキスくらいあってもいいかもしれん。今勢いでハルヒに髪をいじられてふえふえ言ってるが。
「まさしくそのような理由から、『困ったことになるかも』という曖昧な言い回ししかできなかったのだと思います。……確か彼女はそう言ったんでしたよね?」
 う。この二ヶ月、確かに若干退屈ではあったが、いつの間にか俺はそんなことまでこいつにゲロっちまってたのか。
 古泉は一連のまとめとばかりに一呼吸置いて、
「つまり、あの時空の彼女からは観測できない未来を僕らは進んでいることになります。涼宮さんが真実を知った過程も、二ヶ月前に起きたことも含めて、すでにこれまでの時空とは違う状態になっているはずです。それは実際にかつてあった時空での記憶の一部を持っているあなたなら自明のはずです」
 何文字演説する気だ。やっぱり早いとこ黙らせておくべきだったか。
「あなたの番ですよ?」
 言われて盤面がそれぞれの歩が一歩前進しただけなことに気がついた。慌てて俺はそっちに没頭する。
 古泉はなおも話を続ける。そろそろ結論を言ってくれ。
「ということは。つまりここから先の未来は今までの情報からはまったく何も予想がつかないということになります」
 未来は自分でつかみ取れとでも言いたいのか。将来教員にでもなったらどうだ。少なくとも生徒受けはよさそうだぜ。変なことしゃべらなければな。
 俺が言うと古泉は苦笑して、
「ええ、候補に入れておきますよ。それで、先ほどの分岐点のお話ですが」
 まだあんのか。
「これで最後です。どうぞ二手目を考えながらお聞きください」
 聞き流すかもしれん。
「それでも僕は満足です。少し話を戻しますが、結果的にどちらの未来でも涼宮さんは真実を知ったわけです。ならば反対に、彼女が何も知らないままの未来はなかったのでしょうか?」
 待ってくれ、真剣に考えてるんだ。えーと、あれがこうなって、こいつは習性的にこう来るから……
「僕はそうは思いません。どこかに涼宮さんがあなたから真実を聞かない道に続く時間があったはずです」
 そりゃどこだよ。はい、お前の番。
 古泉はふっと息を吐いて、
「それは分かりません。もしそんな本当の意味での『分岐点』が存在しているのなら、それこそこの世界を外部から見ている者でもない限り分からないでしょうから」
 そう言うと古泉はまた驚くべき反応速度で二手目を指した。今のこいつには平安時代の棋士の霊が憑依しているとしか思えない。
 俺は肩をすくめて古泉お得意の仕草をまね、
「さっぱり分からんね。何がどうであれ、俺たちが今ここにいることに変わりはないだろ。だったら小難しいことは考えずに……対局に集中することとしよう」
「まったく、その通りかと」
 古泉は穏やかに笑った。俺は部室を眺める。

 そう、ここが俺の現実であり、他の時空なんてものとは無縁なのさ。俺はこの時間を存分に楽しんでいるし、それはここにいる全員がそうだろう。じゃないとハルヒがすべてを知ったことの意味なんてものをまた考えないといけないじゃないか。


 物語が進むほどに、答えはシンプルになるものだ。

 俺はハルヒが好きだ。SOS団も好きだ。それでいい。


「ところで」
 何だよ。
「その後どこまで行ったんですか?」
 古泉の意味ありげな眼差しを受けつつ、俺は息をついて言った。

「さーてね」



(おわり)

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