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二章【接触】
 空を灰色の雲が覆っている。
 ……と言っても当たり前だがここは閉鎖空間でもなんでもない。
 あの人っこ一人いない場所と違って、
 この嫌になる長ったらしい坂道をえっちらおっちら歩いてる奴らがいるからな。
 ああ、沈欝なるかな我が通学路……っと。
 そんな生徒のやる気を削ぐためだけに存在する坂道で俺はよく見知った奴を見つけた。
「よう。珍しいな、ハルヒ」
 俺の声に反応して振り向いたハルヒが見せるその顔の様相に俺は思わず息をのんだね。
「おはよ」
 目の下を隈がふちどり、目は真っ赤に充血していた。さらに心持ち顔が白い。
「……おい、大丈夫か?」
 答えは聞くまでもない。
「ダメね。全然眠ってないの」
 あくびを噛み殺すハルヒに俺は訊いてみた。
「どうしたんだ、悪夢でも見たか?」
 途端にハルヒは歩みを止めて顔をハッと上げ、
 泣き出しそうな怒りだしそうな表情をつくった。
「……別に」
 しかしすぐに視線をそらし独り言のように言ったハルヒは歩幅を大きくし、俺から離れていく。
 ……と思ったらふらついて倒れやがった。
「ハルヒ?」
 慌てて駆け寄って声をかける。顔は真っ白、息は荒くかつ弱い。
 ポケットから携帯を取りだし、
 病人と怪我人を気の滅入る空間に運ぶ緊急車両を呼び出すための
 広く大衆に認知されている三桁にかけようとしたがハルヒの手に制止された。
 その手はいつも馬鹿力を発揮しているとは俄かに信じられないくらいに弱々しかった。
「大丈夫よ、ちょっとした立ちくらみだから。寝ればなおるわ」

 どこで寝る気だよ。道端でか?
「んなわけ、ないでしょ」
 語尾が軽く震える。絞り出すように、
「あんた、肩貸してよ。保健室まで。あたし、そこで寝るから」
 お前のことだ。俺が嫌だって言ってもお構いなしだろうな。
 最悪無許可で俺の背中に乗るやもしれん。やれやれ。
「早く。遅刻、しちゃうでしょ」
 その途切れ途切れの台詞で我に帰る。
「すまん」
 とはいえ病人を歩かせるわけにもいかないから俺はとっさに辺りを見回した。
 だが、周りに助けになりそうなのはいない。大体が――もとい全員が――野次馬だった。
 絶望しかけた俺の目は安物っぽい車が坂を登ってくるのをとらえた。
 それを運転してるのは見間違いでなければ岡部だった。
 俺は岡部の車と十分に距離があることを確認してから車道にでる。
 車はクラクションを鳴らしながら徐々に速度を落とし俺の前で止まった。
「危ないだろ! 何やってる!」
 窓から顔を出して怒鳴る岡部の側に近寄り俺は事情を説明して、
 すぐハルヒと共に車上の人になった。
「ありがとう、ございます」
 ハルヒに感謝された岡部が不可思議な反応をして(ハルヒを知ってるなら当然の反応とも言える)
 ハンドルさばきがあやしくなって登校中の生徒に突っ込みそうになったのは、この際余談としよう。


 さて、ハルヒを保健室に送り届けてから俺は職員室に連行された。
「事情は分からんでもないが――」
 要するに車道に飛び出たことに対する説教だ。
「――。もう一時間目が始まる。教室に行け。二度とするなよ」
 俺は形式的に謝罪してから自分のクラスに向かった。
 教室では馬鹿みたいにはしゃいだ谷口が、
「よう、キョン! 朝っぱらからやってくれるねぇ! お熱いことで!」
 とりあえずそこに直れ、谷口。
「? 何だよ、負のオーラが立ち上ってんぞ」
 俺は無言で目一杯、とまでいかなくても強めに、谷口に正拳をうめこんだ。
「いてぇよ。何しやがる」
 知らん、お前のせいだ。少し反省してろ。
「わけがわからん。単なるジョークだろ。……なあ、国木田?」
「どうだろうねぇ。
涼宮さん調子悪そうだったし、
病人をからかうような発言はどうかと僕は思うけど」
「あいつに限って病気はねえよ」
 さあ、谷口。体育館裏に行こうか?
「冗談だって」
 谷口が恐る恐る自分の席に戻ったあと、国木田がこっそり囁いた。
「ちょっと気がたってないかい? 本気で怒るキョンなんて珍しいよね」
 いつかの文化祭以来だ。
「……確かにな」
 国木田が何か――多分慰めの言葉――を言おうとしたその時にホームルームが始まった。


 後ろに感じる虚無感に俺の頭は普段の半分以下しか働かなかった。
 大丈夫。あいつは今頃保健室で寝ているはずだ。明日にでもなればきっと元気になる。
 それこそ嫌ってぐらいに。
 と考えながらも俺は昼休みに自分が保健室に向かっているのを発見した。
 軽く扉をノックし入室する。
 ハルヒは俺の予想に反して起きていた。朝より更に青白い顔で。
「あ、キョン……」
 その様子が意味することは一つしかないだろう。
「寝てないのか?」
 首が小さく上下に振れた。
「寝不足なんだから寝とけって」
 ハルヒは弱々しくも怒った口調で、
「そんな簡単に寝られたら苦労しないわよ!」
 さらに続けて俺の想像の範疇を軽くこえることを言う、というか呟く。
「怖い、……夢が怖いの」
 ハルヒをたかが夢がここまで追い込めるものなのか?
「どんな夢だ? この間の長門が出てくる奴か?」
「……」
 黙るハルヒ。
「すまん、言いたくなけりゃ言わないでいい」
「うん」
 どうにも調子が狂うな、このハルヒは。
「放課後にまた来るぞ。少しは寝とけよ」
 弁当も食わずに教室を出たから腹の虫がデモを起こしてやがる。
 ハルヒに背を向けて保健室からでようとしたら、手を掴まれた。
「キョン、一つ約束して。あたしの夢に出てこないって」
 そんなのは夢の中の俺に頼めよと思いつつその必死な声に答えて、
「わかった。どんな形であれお前の夢の中には出ない」
「良かった。夢でまであんたのマヌケ面見るのは耐えらんないからね」
 ホッとしたように言葉を発する。
「あんた、弁当食べてないんじゃない? あたしは寝るから、教室帰ったら?」
 ありがたくそうさせて貰うかな。
 ……だがハルヒよ。手を離してくれないと帰るに帰れないのだが。
 暫く待ってから気の進まない抗議を行うべく振り向いた俺が見たのは、
 俺の手を両手で握り、すっかり安心しきった顔で寝てるハルヒだった。
「こりゃ、午後はサボりだな……」


 そんなわけで午後は保健室で身動き一つとらず過ごした俺であるが、不思議と退屈ではなかった。
 もしこうして俺の手を両手で握りながら寝ているのが、朝比奈さんか妹ならばあるいは、
 そのかわいらしい寝顔に誘われて思わず頭を撫でながら子守り唄でも歌ったかもしれない。
 だが、幸か不幸かここにいるのはハルヒである。そんな想像は全く似合わない。
 ちなみに子守り唄云々の下りはあくまで喩えであり、
 本当にそんなことをしているわけではない、とここに断っておこう。
 突然ハルヒの手に入っていた力が抜けた。なにかと思ってベッドの方へ視線をむければ、
 目を覚ましたハルヒがボンヤリと部屋を見渡している。
 顔色がほんの少し良くなったようだ。もっとも真っ白な画用紙に赤い絵の具をほんの一滴、
 水で十倍に薄めてから垂らした程度でしかないが。
「よう、よく眠れたか?」
 俺の問いにまだ眠ってるような声色でハルヒは答える。
「まあまあ、ね。……キョン、今何時?」
 ここで某大物グループの歌を歌ったら殴られるような気がする。
「もう放課後だ。部室行くか?」
 ハルヒは一瞬思案顔になったが、
「今日はやめとくわ。あとちょっと横になったら帰る」と言った。
「そうか」
 病人は大事に扱わんとな。
「鞄、教室から持ってきてやろうか?」
 俺の親切心から出た提案を聞いたハルヒは不審者を見るような目付きで、
「あんた、本当にキョン? 怪しいわね、実はキョンの皮を被った宇宙人だっ……」
「違う」
 ハルヒは「うー」、と唸りながら口を尖らせた。
 俺は一般的でないヘンテコ属性は欲しくないんだ。頼むから変な想像をしないでくれ。
「鞄いるのか、いらないのか?」
「じゃあ、持って来て。あと部室に行ってみんなに今日は活動なしって伝えといて。
それから、喉が渇いた」
 ……体調が悪くてもハルヒはハルヒだった。
「『喉が渇いた』ってお代は俺持ちか?」
 それが自然の摂理といった弾んだ声であっさりとハルヒは肯定した。
「そうよ」
 好きにしてくれよ、もう。
 俺は教室に寄ってハルヒと自分の鞄を回収し、自販機でスポーツドリンクを買い、
 それから部室棟へ渡り、我らがSOS団の本拠地たる文芸部室の扉をノックした。
 返事がない。
 ソロリと扉を開けると机にうつ伏せになっている古泉と本を読んでいる長門がいた。
 古泉がこんな無防備な姿を晒すなんて珍しいな。
「ああ、こんにちは」
 俺がいることに気付いた古泉は顔を上げ無理矢理なスマイルを浮かべた。
 そのゲッソリした雰囲気から察する。
「お前も寝不足か」
「ええ。寝不足だけでなく、二十四時間無休で神人退治。
……間違いなく労働基準法に引っ掛かりますね」
 手に持った栄養ドリンクの空き瓶をもてあそびつつ答える古泉。
 その声にいつもの余裕は微塵もなかった。
「……ハルヒが今日は活動中止だとさ」
 打てば響くといった感じで古泉が言った。
「彼女の調子は?」
 ハルヒの真っ白な顔と少し血色の戻った顔を頭で比べてから、
「寝て少しはマシになったみたいだな」
 古泉が目をわずかに見開いた。
「涼宮さん、眠れたのですか?」
 ちょっとした喜びが声に浮かぶ。
「まあな。……お陰で俺は午後の授業をサボリだ」
 古泉はようやくいつものような顔を作った。もっともいつもより若干緩んだ顔だったが。
「いやあ、助かりましたよ。これで僕も久々に眠れそうだ。
なにせこの土日は分刻みで閉鎖空間が発生しまして、皆疲れ果てていたんです」
 分刻みかよ。
「今日部活が休みと言うなら、僕は帰って寝ることにします。
涼宮さんのこと、よろしくお願いします」
 そう言って鞄を手に取り、古泉は部室を後にした。
 そのサービス残業帰りのサラリーマンのような背中を見送ったあと俺はあることに思い当たった。
 もしかして俺は今日珍しい物を見てるんじゃないか?
 素直なハルヒ、弱々しいハルヒ。デフォルトのスマイルを崩して内面が顔に出ている古泉。
 普段の二人との落差がありすぎる。
 これで饒舌な長門でも見られたら完璧だな。
 と、考えていると当の長門が俺の前に立って本を突き出していた。
「本」
 いつかのように分厚いハードカバー。
「貸すから」
 無愛想に言ってから体を回転させようとした長門に訊く。
「今日、読んだ方がいいのか?」
 長門は小さく、そして確かにうなずいた。
 それから俺に背を向けトコトコと歩いて部室を去っていった。
「そういや、朝比奈さんはまだ来てなかったのか?」
 参ったな。それくらい二人に訊いとくんだった。一応貼り紙でも――。
「こんにちはぁ。進路の相談があって……」
 なんと間のいいお方か!
「今日は活動休みですよ」
 朝比奈さんは瞬きを数回して、首を傾げた。
「何かあったんですか?」
 俺はざっと状況を説明した。


「そうだったんですか……。あ、じゃあキョンくん早く涼宮さんのところに戻ってあげないと」
 そうですね。あんまり待たせると罰金刑が待ってるかもしれませんし。
「戸締まりはあたしがしておきますから」
「どうもすいません」
 こういう時、やっぱりこの人が年上であることを痛感する。
 とか何とかウダウダ考えていると、朝比奈さんが頬を膨らませて、
「もう! 女の子を一人で待たせちゃいけません!」
 まるで、小さい子供を叱るような口調だ。
 俺はもう一度お礼を言ってから部室を飛び出した。


「遅い!」
 保健室ではハルヒが不機嫌オーラを振り撒きながら出迎えてくれた。
 ちっともありがたくないぞ。
「ちょっと色々あってな」
 言いつつスポーツドリンクをハルヒに手渡す。
「じゃあ、帰るか」
 俺は二人分の鞄を持ち、ハルヒと下校することにした。
「あんた、いっつもこれだけ気がきけば良いのに」
 字面だけ見ればハルヒはどうにか本調子のようだ。
「悪かったな」
「本当だわ。あんたのこれからの課題ね」
 とまあこんな愚にもつかないことを喋りながら、二人並んで歩いてたわけだ。


「この辺でいいわ」
 ハルヒがポツリと宣言した。
「どうせなら家まで送ってくが?」
 軽く笑ってハルヒは、
「大丈夫よ。それよりあんた、あたしの夢に出てこないでね」
 昼もそんなことを言わなかったか? そんなにハルヒの夢に出る俺は見苦しいのか。
「……別にそうじゃないのよ。それはともかく!」
 唐突な大声に体が震えた。
「今日はありがと」
 言い残してハルヒは歩きだした。


 『ありがと』
 お礼の言葉。あのハルヒが。……俺に?
 ぼんやりとした足取りで歩きながら俺はそのことばかりを考えていた。
 家に帰ってからも危うく長門から借りた本の存在を忘れそうになるほどにそれは俺の頭を占有していた。
 俺は本を広げ栞を探した。
「これか……」
 いつものようにワープロでうったような字でそこにはこう書いてあった。
『午後七時。光陽園駅前公園にて待つ』


 一年前とまったく同じ呼び出し文がそこにあった。
 時計を確認すると現在の時間は六時半。ある程度の余裕はある。
 急いで自転車に飛び乗り、俺は夜の町へ繰り出した。
 と言えば軽く不良っぽく聞こえるがなんてことはない、友人との待ち合わせだ。
 案の定、長門が先に公園にいた。
「待ったか」
 否定の仕草。
「こっち」
 そう言って一年前のように俺をマンションの一室に誘導する長門。


「飲んで」
 そしてまた繰り返すお茶のもてなし地獄。
 俺がお茶を飲み、長門がすかさず湯飲みにお茶を注ぐ。それをまた飲み干し、また注がれ……。
「そろそろ、呼んだ理由を聞かせてくれないか」
 長門の急須が空になり、俺がそう言ったときにはもう俺の胃の半分はお茶で満ちていた。
 長門は俺の台詞を無視し、急須を片手に立ち上がり台所へ向かった。
 それから、引き換えして来て言った。
「紹介する」
 玄関の開く音。
「思念体のインターフェイス」
 そいつが俺の前に姿を見せた。
「パーソナルネーム、」
 ――朝倉涼子が俺の前に立っていた。
「お久しぶりね」


 なぜ朝倉がここにいる?
 長門に消されたはずのこいつがどうしてここにいるんだ?
 俺の頭の中では疑問符が手を取り合いながらラインダンスを繰り広げてる。
 そんな俺の顔を覗きこむようにして朝倉は言う。
「ひどいな。挨拶くらい返してくれてもいいんじゃない?」
 すねたように聞こえる声色に動揺し、それがまた俺を困惑させる。
「……冗談じゃない」
 ようやく、無理矢理に俺は言葉を喉から押し出した。きっとこれは夢か何かに違いない。
 しかし、朝倉は笑ったまま言った。
「そうね。冗談でも夢でもない、現実よ」
 ちくしょう、考えてることが読まれてやがる。まさか、読心術? ……んなアホな。
 変態属性は宇宙からの暗殺者だけで十分だろうに。むしろその二つだけでお釣りが来る。
「情報統合思念体の意向により彼女は再構成された」
 はい説明ありがとう、長門クン。
 説明ついでにこいつを消してくれたら崇め奉ってもいいくらいだ。SF物の分厚い本でも寄進するぜ。
 断っておくが無害だって言われても信じる気はないぞ。
 そこで俺は朝倉に殺されかけた人間として、ごく常識的な行動をとる。
 インターフェイスの身体能力からすれば俺と朝倉の間の距離なんて
 あってないような物だろうが、それでも少しづつ後ろに下がることで距離をとり、尋ねる。
「何の用だ」
 当然の心理として俺は今すぐにでも家に帰りたい。五体満足で、生きたまま。
 しかし、用件を果たすまではおとなしく帰してはくれないだろうから渋々である。
「ちょっと訊きたいことがあるの」
 うわ、いつかやったなあ、こんな会話。
 まさかとは思うが「人間はさあ」とか言い出して、
 挙げ句の果てにはナイフを持って襲いかかってくるとか。
 流石に長門の目の前でそんな真似はしないか。しないよな? しないって言ってくれっ!
 ……すまん、取り乱した。そのせいかどうか、
「実はね、長門さんのことなの」
 この言葉の意味を理解するのにたっぷり十秒はかかってしまった。
「長門の?」
 おいおい、お前のすぐ横にいるのは誰だよ?
 紛れもなく文芸部室の主にしてSOS団陰の実力者長門有希だろう。
 本人の目と鼻の先で本人のことを訊くとは……。
「何で彼女が変わったって思ったの」
「は?」
「あなたも涼宮さんも古泉くんも、長門さんが変わったと感じたんでしょう?」
 ついでに朝比奈さんもそこに加えといてくれ。いくらあの人でも長門の変化に気付かないはずがねえ。
 確かに抜けてる所もあり、そこがまたチャームポイントで、……って違う、違う!
 言いたいのは彼女が抜けてはいるが鈍いわけじゃないってことだが、それはひとまず横においとこう。
 一体なぜこいつが――。
「具体的にどこがどう変わったの?」
 畳み掛けるように言葉を発し、俺の思考を中断させる朝倉。
「いや、感覚的なものだから、具体的にと言われると困るんだが……」
 朝倉は身を乗り出して言う。
「感覚的ね。……あなたたちはそんな曖昧な事を信じるの?」
 俺は体を心持ち後ろに反らしながらはっきり答える。
「信じるぞ」
 なにせ俺は自分の頭より直感の方に重点をおく人間だからな。
「でもさ、それっておかしいと思わない? もしかしたら長門さんは普段と何も変わらないのに、
あなたたちが変わったと思い込んでいるだけじゃないの?」
「それは――」
 答えようとして唐突に、本当に唐突に、俺の危機察知信号が点灯した。それも真っ赤に。
 あの未来人野郎と遭遇した時の比じゃないぜ。
 今すぐ回れ右して軍隊式小走りでこの部屋から出るべきかもしれん。
 俺は落ち着き過ぎだ。
 なんで朝倉を前にしてここまで落ち着いていられる?
 去年の12月の事を考えてもみろ。俺は半狂乱だったじゃねえか。
 いくら長門が側にいるとは言え、おかしい。
「何かしてるだろ」
 俺のカマかけ的問掛けに朝倉が笑顔の質を変えた。
 人畜無害な微笑みから、獲物を前にした肉食獣のような笑みに。
「気付かれちゃったみたいね。もう良いわよ、長門さん」
 朝倉の言葉に合わせて長門がこの現実世界の法則を徹底的に無視し、
 挙句にそいつをコンクリート詰めにして海に沈めてしまうようなトンデモ呪文を唱える。
 唱え終わると同時に恐怖が小ネズミのように俺の体を這い回る。
「……何をしやがった」
「何もしてないわ。強いて言うならこの部屋を元に戻しただけよ」
 朝倉に続けて長門が小さく、でも聞き取り易い声で、
「この空間は人の脳に働きかけ、通俗的な言語を用いれば『感情』を操作する」
 要するに俺の頭はいじられてたわけか。だが、なぜ長門が?
「彼女が私のバックアップだからよ」
 一年前の二人の会話と違う。朝倉が長門のバックアップのはずだろう?
「情報統合思念体は涼宮さんの力の衰えを危惧し始めたの。
だから、多少強引な手段を使ってでも情報爆発を引き出すことにしたわけ。
つまり、私たち急進派が今は主流派なの」
 ……まずくねえか、俺? 一生に一度あるかないかの危機的状況。
 長門の助けなしに俺が宇宙人から逃げ切れるわけがなく、
 その肝心の長門は、少なくとも俺の味方ではない。最悪の場合、朝倉の味方だ。
「安心して、まだ手は出さないから」
 笑いながら言われるが全っ然、安心できん。
「今、あなたを殺すことと世界が崩壊することは同義。わたしたちはそう判断している」
 涙が出そうだ、比喩とかそんなんじゃなく。
「言ったでしょ? 長門さんの操り主が意見を変えるかもしれない、って」
 ああ、聞いたとも。だが俺は信じていた、あるいは望んでいたと言えばいいか。
 『宇宙人』としての長門有希ではなく『SOS団員』としての長門有希がいることを。
 それは幻の存在なのか? 結局こいつは親玉の言いなりにしかなれないのか?
「それはどうでしょう?」
 夏に吹く涼風のような声が響いた。
 振り向いて、そこにいた人物の意外さに俺は馬鹿みたいに口をポカンと開け、
 ざっと十秒ほどその人の顔を見つめ、そしてようやく呟いた。その人物の名前を。
「喜緑……さん?」
 彼女は笑みを崩さないまま軽く俺に会釈し、すぐに視線を朝倉に固定した。
「わたしとの約束を覚えていますよね?」
 問いつめる姉に誤魔化す妹の構図、とでも言おうか。それでも屈託なく朝倉は、
「うん、覚えてるよ」
 二人の間のはりつめた空気が痛い。
「不用意な接触は避けるはず、では?」
「不可避の事態よ、これは」
 何が不可避だ、俺を呼び出しといてよくもまあそんな事を言えるな。
 そこは喜緑さんも同じ考えのようで、
「どう好意的に解釈してもそうはなりません」
 しかし、朝倉は悪びれた様子を一切見せずに言う。
「あの修正プログラムが長門さんの自律行動になんの影響も及ぼさない事は知ってるでしょ?
それなのに彼らは長門さんの変化に気付いた。
つまり、私達と違う情報解析プロセスを人間は持ってるってことになる。
もしかしたらそれを解析することが自律進化の閉塞を打ち破る鍵になるかもしれない、
だから長門さんに頼んで呼び出したの」
 修正プログラム――?
 つまりそれが長門を元の鉄仮面的無表情、無感動少女に戻したのか。
 ……くそったれ共め。長門の努力を踏みにじるようなことしやがって。
「外交儀礼は結構です。
例え自律進化の為だとしてもあなたの行動はわたしとの約束を反故にするものです。
あなたが約束を破るのであれば私たちがあなたがたに協力する必要性はなくなります」
 朝倉は小さく舌打ちした。
「石頭ね」
 大理石のように堅い声で喜緑さんが言う。
「どう言われようと構いません」
「折角の機会なんだから協力してくれてもいいでしょ」
「性急さにはそれ相応のリスクが伴います。あなたの方法は特に危険性が高い。
穏健派としては最悪の事態に至る可能性はできるだけ小さくしたいのです」
 朝倉は首を振り、
「ちえっ。結局協力の話はなしってこと?」
 喜緑さんは首を傾げて、
「そうだとすれば?」
「今ここで有機情報結合を解除するわ」
 実はインターフェイス間打ち合わせマニュアルでもあるんじゃないか?
 つい馬鹿な事を考えてしまった俺をよそに、部屋の中が幾何学模様渦巻く別世界に衣替えを果たした。
「長門さん、記憶の修正をお願い」
 言うや否や朝倉は飛び出した。それに合わせるように喜緑さんも。
 そして長門は――。
「おい、長門。やめろ!」
 ジリジリと俺との距離を詰めていく。
 朝倉の言った『記憶の修正』がどんなものかは想像に難くない。
 多分響きそのままな行為だろう。
 最悪だ。
 今の俺は長門の変化の原因も、俺やハルヒに危害を加える可能性の高い朝倉の存在も知っている。
 それを忘れて事が起きるまでのうのうと暮らせと?
 お断りだ。お断りだが、どうすることもできない。
 こんな第一級非常事態に俺が頼るのは長門しかいないが、
 その長門がそんな状況に関わってる場合俺はどうすりゃいい?
 俺の馬鹿みたいな長門依存症の害悪の一つだな。
 ……というより百害あって一利なし、とはこのことか。
 こういう事態に陥るとつくづく思うよ。俺はなんでここにいるんだろう、ってさ。
 ほらまた、喜緑さんと朝倉の方をチラリと見てあわよくば……、とか願ってしまう。
 平均的な男子高校生として正しい反応かもしれないが悔しい。


 とうとう、長門が呪文を唱え始め、俺の意識はフェードアウトする。
 ちく、しょ――。


………
……

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