長門さんがくれて、彼が無理に僕につけたピンをポケットに押し込み、
僕は素早く前髪を撫で付けた。
朝比奈さんが湯飲みを取りに棚へ向かい、
涼宮さんは、いつも彼女が座る椅子の横に鞄を投げ出す様にして下ろす。
よし、どちらにも見られてない。
パソコンを立ち上げる前から、涼宮さんは上機嫌にマウスを机の上に走らせている。
クラスメイトの女子と放課後に勉強会をしたそうだが、
はかどったのだろう、うきうきとしているのが傍目にも解る。
いいことだ。
昨夜の閉鎖空間と神人を発生させた悪夢を、
目覚めて数時間経った今でも引きずっている様子は全く見られない。
昨夜、の。
…今更ながら、とんでもない事をしてしまったな、と頭を抱えたくなる。
いや、別に何かあった訳ではないのだが。
しかし、何もなくったって一緒にベッドで寝たのは事実だ。
いや、でもやっぱり何もなかったんだし、
大体あれはお互いの寂しさの波みたいな物が同時に押し寄せて、
人肌恋しいが故にその場の衝動で、本能が自分を突き動かすままに
…ってこの表現じゃ、一緒にベッドで、文字通り寝ただけ、
と最初に断っておいていても色々と誤解を招きそうだ。

…まあ、どんな表現をしても、何も無かったものは無かったのだけれど。
あって欲しい訳でもないし。
ダサカワイイだとかユニカワイイだとか、さっき散々言われてしまったけれど、
今長門さんはいつも通りに読書をしている事だし、
もうごちゃごちゃと考え込む必要も無いか。
このピンを僕にくれたのだって、
長い前髪をうっとおしがる僕を見ての親切心からの物なんだろうし、
ぐだぐだ考えるのはよそう。
「もう一勝負するか?」
僕がまぜこぜにした駒が乗るオセロ盤を挟んで向こう側、彼がそう聞いた。
「あ、はい」
駒をまとめて、対局を開始する。
湯飲みと机が触れ合う音、マウスがクリックされる音、
本のページが繰られる音、駒が盤に置かれる音。
騒音とは今はまだ無縁のこの雰囲気に安心しきって、
僕は噛み殺す訳でもなく、顔を下に向けてあくびを一つした。
「寝不足か?」
「ええ、まあ」
「バイトが入ったとか?」
「ええ、まあ、そうです」
バイト、つまり神人退治をこなした後、長門さんと同じ布団に潜った割には、
緊張感もそれほど長持ちせずにぐっすり眠れたけれど、
それでも疲れが完全に無くなった訳ではない。

あくびの一つや二つ、出たっておかしくは無い。
「ねー、前々から気になってたんだけど」
涼宮さんが、パソコンの画面から目を離して僕達を見る。
「古泉くんのバイトってなんなの?
何曜日か決まってる訳じゃなさそうだし、不定期だし」
…まさか涼宮さんに僕のバイトについて聞かれるとは。
不定期なバイトなんていくらでもありますよ、と言おうかと思ったが、
じゃあ具体的にはどんな仕事、と聞かれてしまうと例が上げられない。
彼が、微かにぎくりとするのが視界の隅に入る。
「この前、キョンに
『相手をするのは疲れる』
って愚痴っぽいこと言ってるのを部室の外でたまたま聞いちゃったんだけど、
相手ってことは接客業よね?
夜中のレジに高校生立たせちゃ駄目でしょ。店の方も雇ったりしないだろうし」
聞かれていたのか。
けれど、もし聞かれていてもいい様に、
直接な名詞は使わずにいたから、まだ誤魔化せる。
さて、どうやって逃げよう。
「古泉は、北高の制服じゃなかったら高校以上に見えるだろ。
店の制服着てたらバレねーよ」

「バレるバレないの問題じゃなくって!
…いいえ、まあ、バレなきゃ大抵の好き勝手はしてもいいし、
バレたらバレたで次のバイト探せばいいんだけど…」
涼宮さんは、うーん、と唸ってマウスを放り投げる。
腕を組んで考え込んでいる様だった。
「歳を偽装してるの?」
えー、っと…
「ああ、もう!あたしが聞きたいのはそんな事じゃなくて!」
僕が答えに迷う間すら空けず、涼宮さんは組んでいた腕を解いた。
「どうなの古泉くん!あなたは家庭の事情でバイトしてるの!?
だから、不定期な上に夜中にだって出勤しなきゃいけないくらいの仕事じゃないと、
お給料が間に合わないの!?」
はらはら、と顔に書いた朝比奈さんが僕の前に、湯気の立つお茶が注がれた湯飲みを置く。
あ、あの、茶柱、茶柱を立てるのって、
コツさえ押さえれば簡単にできるって知ってますか~?
と、なんとか涼宮さんの興味を僕のバイトから逸らそうと、
懸命に別の話題を提供してくれている。
「それとも!!」
しかし、涼宮さんはその話には釣られてくれない。
飲んでいる間は時間を稼げるかと思い、僕は湯飲みに口を付けた。
少し舌がひりひりする程、熱々だ。

「年齢偽装してレンタルビデオ店のAVコーナーのレジ打ちしてるの!?」
ぶばーーーっ!!
「汚ねぇぇえぇえ!!!」
「わ、ちょっと、大丈夫!?みくるちゃん、雑巾持って来て!」
「はわわわ、はあい!」
「AVとは?」
「!?げほ、ア、アアアニメビデオの略です…っごほ!」
いつの間にか僕の横に立っていた長門さんに、
咳と咳の間に声を絞り出すようにして嘘を吐いて、また咳込む。
駄目だ。明らかに入ってはならない方にお茶が流れた。
これは完璧に気管に入ってしまった。
ひーひーとおかしな呼吸を繰り返しながら、しかしここでもんどりうつ訳にもいかず、
僕は両手で口を押さえて背中を丸めた。
「落ち着く時間が必要」
背中に手が置かれる感触がした。
「立って」
言われるがままに立ち上がる。
そのまま背中を押されて、僕は長門さんが先回りして開いた扉の外に出た。
涼宮さんの声が聞こえる。
「…図星だったりして」
んな訳ねえよ!!

一番近くにある手洗い場に誘導されて、僕は台に手をついて屈むようにして咳込んだ。
息苦しさに上下する背中を長門さんがさすってくれている。
「落ち着いた?」

「はい…ありがとうございます」
まだ少し喉に何か引っ掛かったような違和感が残るけど、今はそれ所ではない。
ポケットから携帯を取り出して、僕は番号を選んで電話を掛けた。
「もしもし、こちら森」
「古泉です。少しお時間よろしいですか?」
「涼宮ハルヒに異変でも?」
「いいえ。変わった様子は見られませんし、閉鎖空間も感知していません。
…ちょっと、森さんの知恵をお借りできないかと思いまして」
困った時の森頼み。
僕はさっきあった会話の内容を手早く伝えた。もちろんAVの件は省いて。
曜日が定まっておらず不定期で、夜中に出勤する必要があり、尚且つ接客業。
涼宮さんが握っている条件が当てはまり、納得してもらえるバイトを森さんは果して――
「ベビーシッターでいいじゃない」
「え?」
――あっさりと思いついてくれた。
「赤ん坊がいる知り合いに雇われていて、
その雇主が所用で家を出る時に電話であんたを呼ぶのよ。
これで曜日が決まっていないのと、不定期なのとはクリアね。」
「ではあの、夜中に出勤、というのは」
「雇主が揃って残業だとか、
夜泣きがその親二人では対処できない程酷い、とでも言えばいいわ」

「涼宮ハルヒは、僕がバイトをするのは家庭の懐事情が複雑だから、
と思っている様なのですが」
「そうね…じゃあこうしましょう。
あんたは、多丸兄弟のどちらかの息子もしくは娘の子守を頼まれている。
企業の社長とその弟、それも孤島と別荘を買える上に、
メイドと執事を雇える程の人物とあんたは、
そこに招かれる程に親しい知り合いという設定なんだから、
家庭の事情でバイトってのもおかしいしね」
「そうですね。
では、雇われていると言うより、子守のお手伝いをしている、と」
「ええ、そうしなさい」
「圭一さんか裕さんか、どちらにしましょう」
「んー…どっちも最近、哀れになる程女っ気が無いのよね…さっぱり」
「森さんこそ、人の事言え――」
「古泉。森園生☆必殺お尻ぺんぺん百叩きの刑(はーと)に罰されたくなかったら黙んな」
「すみませんすみません申し訳ありませんこの古泉一樹一生の不覚」
「次言ったらビデオに撮影したやつ機関内に垂れ流すから」

「ごめんなさいごめんなさいもう言いませんあれは二回も食らえば十分です
それ以外なら減給処分でもなんでもいかようにも罰して下さい
てか録ってたんですかあれどこに隠しカメラあったんだちくしょう
いつ死にたくなってもいいように遺言書いとこうかな今日あたり」
「古泉一樹は極度の恐怖による混乱状態の直中。句読点が入る余地も無い程。
早急に通信を絶つべき」
「マジですかああほんとださっきから僕の台詞が読み難いことに
ではこの辺で切ることにしますさようなら森さん」
「二度目は無いからね、覚悟しときなさい」
通話ボタンを押して、僕は一気に憂鬱な気分にはまってしまいたかったが、
そうなるよりも先に気を取り直した。
「という訳で、僕のアルバイトは多丸さん…
どちらでも大して変わらないでしょうから、とりあえず圭一さんにしておきます、
のお子さんの子守という事で」
長門さんが無言で頷く。
辻褄の合う偽バイトもできたので、部室に戻るべく僕達は廊下を歩いた。
「涼宮ハルヒに、
バイトをアニメーションビデオコーナーのレジ打ちと勘繰られただけだと言うのに、
あなたは過度に動揺していた。何故」

「…さあ…何故でしょうねえ……」
AVの略は一般的にはアニメーションビデオではないからです、
とも言えず、僕は辿り着いた部室のドアノブを捻った。
「お騒がせしてすみません。外の空気を吸ったら落ち着きました」
「あ、大丈夫ならいいわよ。あたしこそ変なこと言ってごめん」
ほんとにな。
「隠していた訳ではなく、言いそびれていただけなんですが」
と前置きをして、僕は森さんが考えてくれた子守のバイトの説明をした。
「ははあー、なるほどねえ…子守かあ…」
説明を終えると、涼宮さんが再び腕を組んで何度か頷く。
納得してくれたらしい。一安心だ。
「夜泣きの赤ん坊の相手は疲れるって愚痴っても、
子ども好きじゃないと勤まらないよな。ベビーシッターなんてさ」
こちらの説明臭い台詞の彼も、なるほどという表情をしているが、
涼宮さんのものとは違い、そう来たか、という顔だった。
「ええ、まあ」
けれど、辻褄を合わせてくれているのには変わらないので、それに乗る。
「赤ちゃんのお守ですか…?ああ、ほんと。それだとちゃんと話が合いますね」
この人が真っ先にぼろ出しそうだ。
気をつけて貰わないと。

僕達の真横を、長門さんがパイプ椅子と本に向かって歩いて行く。
「子ども好きなの?」
「ええ、まあ」
「ほんと?たまにイラッと来て、圭一さんが見てない所で虐待とかしてない?」
「してませんしてません」
…恐ろしいことを言う人だ。
「そーね。古泉くん面倒見良さそうだし、それは無いわよね。
子どもに囲まれたら、まんま教育番組のお兄さんって感じ」
「はあ…そうですか…」
「うんうん。いいなー、ベビーシッター」
「お前に子守は無理だろ」
涼宮さんのぼやきに、すかさず彼が突っ込む。
それこそ虐待騒ぎだ、と小声で呟いたのを聞いたのは向かいにいる僕だけだろう。
「ちがーう。あたしが羨ましいのはベビーシッターじゃなくて赤ちゃんの方」
「なんだお前、胎内帰還願望でもあるのか?」
「な訳ないでしょ。馬鹿言わないで。そうじゃなくって、
んー、こうして学校行ってるとさ、赤ちゃんとまではいかないでも、
幼稚園児とか小学生の頃に戻りたいなあー、ってたまに思わない?
ほんとのほんとに、たっまーにだけどね」
「あー…言いたいことはなんとなく解るな。勉強しなくてもいいし」

「あ、わたしもたまに思います」
「よね!誰でもそう思うわよね!!古泉くんは!?」
「ええ…まあ…まれに…」
……え、なんだこれ、この会話…え、なんか、とてつもなく嫌な予感が…
「有希は?有希もたまには、ちっちゃい頃に戻りたいって思うんじゃない?」
ちっちゃい頃も何も、長門さんは生まれた時には既に、
この外見と年齢が設定されていたのだろうから、
幼い頃の記憶とやらに興味を持ってもおかしくない、と思う。
「……」
しかし、涼宮さんにそう聞かれても、
長門さんは無言で頁を捲っただけだった…ら、どれ程良かっただろうか。
「思う」
「でしょ!あーあ、ほんとに戻れたらいいのにな、幼稚園児とか保育園児くらいにさ」
「だな。
…!って、待った!ハルヒっ!さっきの取り消せ!高校生だって捨てたもんじゃな――」
二番目に嫌な予感に気付いたのは彼だったが、如何せん遅過ぎた。
くしゃりと前触れも無しに、僕の視界で確認できる範囲の中にある、
三つの制服と一つのメイド服が椅子の上に崩れた。
それを着ていた持ち主達は多分、服に埋もれている。
「しまった…!」

嫌な予感が的中したことに青ざめ、僕は慌てて椅子を後ろに倒して立ち上がる。
余りの急展開に、何故僕だけ涼宮さんの力が働かなかったのだろう、
という疑問なんて、この時は思い付きもしなかった。
「大丈夫ですか!?」
一番近い椅子に駆け寄って、ブレザーごと抱え上げる。
ぶかぶかの制服の中に座っていた人物は、あの見慣れた、眉を寄せる動作を取り、
「おじさんだれ」
………おじ!?おおおおじ!?!?おじ!?…おじ…って、そこじゃなくて!!
「まさか記憶まで…!?」
「そう」
「長門さん…!
良かった…あなたは記憶を失わなかったんですね?」
「そう」
椅子の上で、セーラー服の中で立ち上がった、頼もしいその人(ミニチュアサイズ)は、
「あんしんして。
このぎんがをとーかつしゅるじょーほーとーごーしねたいによつてつくられた
たいゆーきせーめーたいこんたくとよーひうまのいどいんたーふえーす」
「………」
「しょれがわたし。あにゃたがふあんになることはない」
一気に押し寄せて来た不安に、僕は卒倒するのをなんとか堪えた。
手の中にいる幼い子どもを取り落とさないためにも。


一へ続く
「ただのいんげんにはきょーみありません。このなかにまじょっこ、へんしんひーろー、
しゃべるどーぶつきゃらがいたらあたしのところにきなさい。いじょー」
「うああああああん!ぱぱあ!ままあ!!」

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