夏休みも目前に迫ったその日、俺達は何時もの不思議探索の延長線上という感じで、少し離れた遠くの町まで来ていた。探索と名前はついているが、その実態はただ高校生同士がぶらぶらと町をうろついているのと大差ない。
 ちなみに俺達、と言っているが、どういうわけか今日は古泉は不在なので俺と女子三人という四人だし、組み分けもしていない。
 ハルヒは「家の用事で、どうしても無理なんだって」と言っていたが、俺には古泉にハルヒの我侭に付き合う以上の用事が有る状態というのがどうにも想像できない。家の用事なんてのは絶対嘘だと思うが、じゃあ何だ。『機関』絡みかとも思うが、だとしたら、連中は古泉を拘束するよりハルヒの傍に置いて暇潰し対策をさせる方を優先するんじゃないだろうか。
 まあ、四六時中古泉が居ないと駄目というわけでもないんだが。
 けど、どうしても、ね……。正直なところ、気になると言えば気になる。まあ古泉は未来人の朝比奈さんや宇宙人製ヒューマノイドの長門とは違って基本的にはこの時代の人間なので、ハルヒが絡まないところで、どうしても、ということが有るのかもしれないが。
 とまあ、俺がそんなことを時折考えつつ、ハルヒの馬鹿話にツッコミを入れたり目を輝かせている朝比奈さんの姿を眺めていたり時折勝手にどこかへ消えそうになる長門の袖を引っ張ってみたりなんてことをしつつデパートの中を適当に歩いていたときのことだ。
「きゃっ」
 たまたまそのとき先頭を歩いていた朝比奈さんが、何かにぶつかったのか、小さく悲鳴のような声を上げた。と言っても、朝比奈さんはちょっとバランスを崩しただけで、転んだりもよろめいたりもしていない。
「ひゃうっ」
 朝比奈さんよりも下の方から聞こえる、もっと高い声。子供の声だ。
「だ、大丈夫?」
 朝比奈さんが屈んで、その声の主の方を向く。自然と、後ろに居る俺達にもその子供の姿が視界に入った。子供も子供、妹なんかよりももっと下、まだ三つになるかならないかってくらいの、セミロングの髪にでっかい赤いリボンをつけた女の子がその場に尻餅をついていた。
「へ、へーき、だもん……」
 その女の子は、朝比奈さんの手をぱっと振り払い、さっと立ち上がろうとして、
「あうっ」
 もう一度尻餅をついた。
 なんか、まさに子供の動作って感じだなあ。
「ううっ……」
 いや、のんびり見ている場合でも無いような気がするんだが。
「だ、大丈夫ですか?」
「……」
「ほらほら、無理しちゃだめよ」
 順番に朝比奈さん、長門、ハルヒの反応である。女子連中がこれだけ気を遣っているなら俺は放置しても良いよななどと思うわけではないが、入り込む隙間は既に無い。
 しかしだな、心配しているのは分かるんだが、幾らなんでもそんなにいきなり知らない人に取り囲まれたら、驚くんじゃないか?
 案の定、女の子は立ち上がらせようとしたハルヒの手を振り払ってその場で後ずさった。
 あー、このままだと泣きそうだな。というか泣くだろ、多分。しかし親はどこだ、こんな子供を放っておくなよな。いや、子供が勝手に逸れた可能性も無きにしも非ずだろうが。
「あの、」
 緊張の一瞬なのか何なのか知らないが、その場の空気を浚っていったのは、角の向こうから現れた一人の人物だった。
「いっちゃ~ん」
 そして、その人物のところに駆けて行く女の子。
 状況ゆえか言葉が出てこない俺と朝比奈さん。多分状況に関係なく無言の長門。

「古泉くん? 何で古泉くんがここに?」

 そんな中、ハルヒだけが『ちょっと離れた場所で偶然友人に出会いました』というのに相応しい、極めて真っ当な反応をしていた。
「あ、いえ……、ちょっと、子守を……」
 抱きついてきた女の子とハルヒを交互に眺めつつ、何となく気まずい様子を見せる古泉。
 どうやら古泉にとってこの遭遇は予想外のものだったようだ。
「へー、そうなんだ。妹さん?」
「いえ、親戚の子ですよ」
「……」
 ハルヒと古泉の会話をどう思ったのか、女の子は無言で古泉の方を見上げている。
 親戚、ね。……嘘か本当かは分からないが、確かに、女の子の顔立ちは古泉に似ているような気がする。多分、少し歳の離れた妹と言っても通じるだろう。
「ねえ、名前は?」
 ハルヒは古泉にそれ以上事情を訊ねるつもりはなかったのか、その場で屈みこみ、女の子と視線を合わせる。
 女の子は一瞬だけびくっとなって古泉を見上げたが、古泉が気遣うような視線を見せて安心したのか、すっとハルヒに向き直った。
「……わかば」
「わかばちゃんか。えっと、若いに葉っぱ?」
「そうですよ」
「ふうん、いい名前ね。……えっと、若葉ちゃん。あたし達はね、古泉くん、あ、ううん、いっちゃんの学校の友達なの」
 ハルヒは女の子こと若葉(ちゃん付けするのもあれなので、何となく敬称略だ。深い意味は無い)が古泉のことを最初に何と言ったか覚えていたのか、わざわざ途中で訂正してからそう言った。
「……いっちゃんの、ともだち?」
「そうそう、お友達よ」
「ほんとう?」
「ええ、そうですよ」
 見上げる若葉、回答する古泉。
「そっかあ、いっちゃんのおともだちなんだあ」
 どうやらそれで納得したのか、若葉はその場でうんうんと首を縦に振っていた。3歳かそこらの女の子にしては、ちょっと行動が大人びているな。古泉との血縁を感じさせるような気がしないでもない。
 いや、しかし、この少女は本当に古泉の親戚なのか?
 俺は、もしかしたらこいつなら気づいているのかもな、何て思って長門の方を見たが、長門は無反応と言うか、視線をじっと古泉の方に固定していた。……何か言いたいことが有るんだろうか。対する古泉はと言えば、その視線にも何処吹く風といった感じなんだが。
「ねえねえ、いっちゃん」
「どうしたのかな?」
 うお、古泉が敬語じゃねえ! 何か新鮮だな。いや、相手が子供だから当たり前と言えば当たり前なんだろうが……、朝比奈さんも、子供相手のときはですますが抜けていたりするもんな。人間、子供に接すると自然と口調が変わるものなんだろうか。
「わかば、いっちゃんのおともだちといっしょにいたいの!」
「えっ、」
「あら、あたしは構わないわよ」
 古泉が何事か言い出す前に、ハルヒが了承した。相変わらず無遠慮な女である。
「あ、でも……、まずかったかしら?」
 言ってから気づいたのか、小声で古泉に問い直しているが。
「いえ……、こちらも大丈夫ですよ」
「じゃあ、それで良いわね」
 ハルヒの疑問に答える古泉は何時もの爽やかスマイルで、それに応じるハルヒもすっかり元の調子だった。
 そんなわけで、俺達は、SOS団+古泉が連れてきた若葉なる名前の女の子という六人で行動することになった。


 行動、と言っても別に何か特別なことが起こるわけでもなく、単に子供連れで彼方此方回るだけである。
「あのね、これはね、」
「うんうん」
「ほへー、そうなんですかあ」
「……」
 子供向けの知育用玩具を片手にその由来を解説し始めるハルヒ、頷く子供、世間知らずのためか素直に感心する朝比奈さん、淡々と隣で同じ玩具のサンプルを弄っている長門という光景は、一見微笑ましいが、どこかシュールかも知れないな。
 俺はそんな光景を適当に見守りつつ、俺の横で本日保護者モード中らしい古泉の方を見てみる。何時もながらの爽やかスマイルとは少し色合いの違う、優しげな微笑。一瞬、親戚云々は本当なんだろうか……、という気にさせるような感じだな。
 古泉が、このパートタイム超能力者兼どこぞの組織の一員である古泉一樹が、ハルヒを差し置いてまで優先するような子供。……それが単なる親戚の子供というのは、どうにも考え辛いことなんだが。
 じゃあ何だと考えてみても、俺には答えが全く掴めない。
 確かに外見的特徴からすると結構似ているようだから、本当に妹だってことも有りえるかも知れない。でも、妹だとしたら、古泉が妹ではなく親戚だと言ったときに否定している……、と思う。ちょっと微妙な反応を見せてはいたが、三歳かそこらの子供なら、妹だったら妹だと主張するのが普通だろうしな。
「そういえば若葉ちゃん、今いくつ?」
「みっつー、ろくがつでみっつになったのー」
 ということは、本当に三歳になったばかりか。ここに嘘が混じって無いとすると、生まれたのは、ええっと、俺達が中学二年の頃ってことになるのか? 古泉にとっては既に『機関』のお迎えが来た後ってことか。
 ますます解せないな。
 いや、若葉の年齢自体は外見から考えてそれでおかしくないと思うんだ。ただ、古泉が『機関』に関わるようになった後に生まれた親戚の子供なるものに一々時間を割く理由がよく分からない。……本当に親戚だとしたらの話だが。
 まあ、現状のこいつの家庭環境なるものも謎なんだがな。そもそも俺は、古泉がどんな風に暮らしているかすら知らないわけだし。
「そっかあ、みっつかあ」
 子供の年齢に思うところでも有るのか、ハルヒが一人うんうんと頷いている。
 ハルヒが考えていることもイマイチ良く分からないが、これはこれで良い暇潰しにはなっているようでは有る。考えてみたら俺はハルヒの家族構成のことも知らないわけだが、この雰囲気からすると、年の離れた弟妹が居るってことだけはなさそうだ。もしかしたら、一人っ子なのかもな。


 さて、何時もならハルヒ主体のSOS団の行動も、今日だけは完全に子供の行きたい所任せだ。子供というのは基本的にあっちこっちに勝手に向かっていく生き物であり、同時に、酷く飽きっぽい生き物でも有る。若葉なる少女も例外ではないのか、さっきからハルヒや朝比奈さんの手を引っ張りつつ適当にデパートの中を散策している。
 振り回されている方も楽しんでいるようだから、これはこれで有りなんだろう。
 何時もハルヒの無茶な思いつきに振り回されている立場の人間から言わせて貰えば、このくらい苦労のうちにも入らない、といったところか。
「いいなあ……」
 そうそう、若葉は時々ショーケースに張り付いたりしているし、なんとなく呟いたりはしているが、明確に『欲しい』という発言を出したことは無い。子供なりに、その辺りの分別は弁えているんだろうか。
 でもって古泉はと言えば、そんなときの若葉にはほぼノータッチだ。まあ、躾の面から言えば正解なんだろうが、こういう光景が何度も続くと少しかわいそうな気がしてくる。
「あ、あたしが買ってあげようか?」
 ハルヒも俺と同じことを考えていたんだろうか。
 何度目かの若葉のおねだり未満の言葉を聞いたときに、ついに当人に対してそう聞き返した。ちなみに、そのとき若葉が見ていたのは、バスグッズ中心のお店に有る三桁後半くらいの価格の小さなぬいぐるみだった。
「……え、いいの?」
「良いわよ」
「でも……」
「良いの良いの。いっちゃんには何時もお世話になっているから、そのお返し分よ。……良いでしょ、いっちゃん?」
「……すみません、涼宮さん」
 ニヤリと笑っていっちゃん呼ばわりのハルヒに対して、古泉は曖昧な笑みを浮かべたまま頷き返す。何だか微妙な感じだが、OKってことなんだろう。
「んじゃ、会計してくるわね。このウサギさんでいいのよね?」
「うん、うさぎさんー♪」
「あ、あたしもこれ買います」
 妙に機嫌の良いハルヒと若葉、そして何時の間にやらタオルを選んでいた朝比奈さんがレジに並ぶ。休日だからか、レジには順番待ちの人がそこそこ居た。
「なあ、古泉」
「何でしょう?」
「あの若葉って子は、本当にお前の親戚なのか?」
「……ええ、まあ」
「マジかよ?」
「マジです」
 疑問符の消えない俺に対して、古泉は少し苦笑気味といった様子で答える。どこか落ち着かない感じだが、嘘を吐いている雰囲気は無い。
 俺は少し考えてから、近くで突っ立ったままになっている長門の方を見た。長門なら、若葉なる少女と古泉が親戚くらい、分かる……、いや、知っているんじゃ無いだろうか。
「なあ、長門」
「古泉一樹とあの少女との間には血縁関係が存在する」
「そ、そうか……」
「そういうことです」
 全く持って釈然としないが、長門が肯定したってことは、そういうことなんだろう。
 しかし、血縁って……。どういう繋がりだよ? 姪とか従妹とかか?
「……」
 疑問に思う俺を無視し、長門が古泉の方を見上げた。
 珍しいパターンだが、プライバシーに関わることだから本人に同意を求めているってことなんだろう。
「それは……」
「会計終わったわよー」
 と、そんな風に会話していた俺達のところに、会計を終わらせたハルヒが帰ってきた。ジャストタイミングってやつなんだろうか。俺にとっては少し微妙だったが。
「はい、若葉ちゃん!」
「ありがとー!」
 目の前でプレゼントが渡される光景は、それなりに微笑ましい。
 そろそろ、俺達は一体どんな集団なんだという疑問も沸いてこなくは無いが、まあ、普通に、高校生同士の集まりだけれど、そのうち一人がどうしても妹なり姪っ子なりを連れてこなければいけなかった……、という状況に見えるんだろう。
 というか、そうであって欲しいものである。


 その後俺達は、若葉の「おなかすいた」の一言を元に、少し早めの夕食を食べてから解散することになった。場所はデパートの中のファミレス、古泉の「今日はお世話になったので」という一言の元に、古泉の奢りとなった。
 さっきのプレゼント分は多分これでほぼチャラだろうな。まあ、俺には関係ない話だが、奢るのはともかく奢られるのは悪い気分では無いので、素直に奢られておくことにした。
「若葉ちゃんは何にする?」
「おこさまらんちー!」
 さすが子供、分かりやすいな。
 ちなみにハルヒは無遠慮なことにカレーライスとハンバーグプレートとカツ丼を纏めて注文しやがった。長門もハルヒと似たり寄ったり、俺と朝比奈さんは常識の範囲で、会計持ちの古泉も普通に注文していた。
「そう言えば若葉ちゃん、お父さんやお母さんはどうしているの?」
 会話の流れだったんだろうか。
 何となく、ハルヒがそんなことを口にしていた。
「んー、わかばね、おとうさんはいないのー」
 ……。
 ……どうやら、それは思いっきり地雷だったらしい。
 質問したハルヒもその質問を防げなかった古泉も含め、全員、沈黙するしかなかった。
 答える声から寂しさや悲しみの色が感じないのが、何だかかえって痛々しいような気がする。父親が居ないって……、離婚が多い昨今じゃそんなに珍しいことでも無いような気がするんだが、一体どんな境遇なんだろうな。
「あの、お母さんは、」
「わかばね、おかあさんにも、あんまりあえないの」
 気を取り直しての朝比奈さんの質問は、どうも地雷その二だったらしい。
 父親不在、母親にも会えない……、本当、どんな境遇なんだよ。この子と親戚らしい古泉の家庭環境も含めて、謎だらけだな。
 まさか、保護者の居ない古泉の親族の子供を『機関』の連中が面倒見ているとか言うんじゃ無いだろうな。……いやいや、まさかな。
「そ、そうなんだ……」
「うん、でも、わかば、さびしくないよっ」
「そう……」
「わかばね、おとーさんはいないし、おかあさんにもあんまりあえないけど、でも、それで、んと……『どーじょー』されたくないの。だって、わかば、さびしくないもん」
 自分で言っている言葉の意味を分かっているのかどうか分からないが、若葉なる少女は、少し首を傾げてからそう言い切った。子供だというのに、にこにこした笑顔からは、ちょっと真意が読み取れそうに無い。
 何となく、古泉との血の繋がりを感じさせる笑顔だ。
「若葉ちゃん、偉い!」
 何を思ったのか知らないが、若葉の言葉に心を打たれたのか、ハルヒが隣に座っていた若葉をぎゅっと抱きしめた。
 俺はそんな微笑ましい光景に目を向ける振りをしつつ、俺の隣に居る古泉の方をちらりと見てみた。古泉は、何時もの爽やか笑顔もどこへやら、ただ、曖昧な、色の薄い笑みを浮かべているだけだった。


 食事終了後、ハルヒは若葉を抱っこしたままもう片方の手で朝比奈さんの手を引っ張るという器用なことをしながらさっさと店に出て行ってしまったが、古泉は、伝票を手に取る傍ら、俺に向かって、
「……先ほどの続きが知りたかったら、解散後に……。出来れば、長門さんと一緒に」
 なんて風に耳打ちしやがった。
 古泉が告げた先は、俺達の地元から少し離れた各駅停車しか止まらない小さな駅だった。
「分かったよ」
 何故長門が一緒なのかは分からなかったが、気になることは気になるので、俺は古泉の誘いに乗ってやることにした。
 ……後から振り返って思う。
 それは多分、誘いではなく、古泉流の防壁の張り方だったんだと。
 そして、自分勝手な俺は、それを自分の都合の良い方に解釈していただけだったんだと。


 それから約一時間半後。
 若葉を送る必要が有るからといって俺達と一緒に電車に乗らなかったはずの古泉は、さっき言っていた通り、駅で待っていた。
 休日だからだろうか、辺りに人気が殆ど無い。
 そして、古泉の腕の中では、若葉が眠っていた。遊び疲れたんだろうな。
「待たせたな」
「いえ、こちらも到着したばかりですよ」
「なあ、古泉……、この子は一体何者なんだ?」
「……」
 俺の率直な疑問に対して、古泉は沈黙で答えやがった。
 おい、答えるんじゃなかったのかよ。
「……僕の口から言うより、長門さんに言ってもらった方が、信用していただけるでしょうね」
 どういうことだよ、それ。
 というかなんでそんなに自分で言いたがらないんだよ。わけわかんないぞ、お前。
 その子はお前の親戚じゃないのか? 優しげに見守っていたのは何なんだ?
 それなのになんだよ、その、困ったような顔は。
「……」
 訴えかけようとする俺の服の袖口を、長門が摘んでいた。
「長門?」
「わたしが言う。多分、あなたは……、あなたは、古泉一樹の口から言われても信用できないだろうから」
「お前までそんなこと言うのかよ。……で、一体何なんだよ」
 答える前の長門が息を飲む音がやけにはっきり聞こえたような気がしたのは、俺の空耳だったんだろうか。

「彼女……、戸籍上は森若葉となっている少女は、古泉一樹の直系親族」

「……は?」
「簡潔に言えば、娘」
「……は? はあ? ……はああああああ!!」
 直球過ぎて思わず俺の斜め上を滑っていきそうだった長門の言葉が、数秒の間を置いてから俺の頭の中に戻ってくる。娘って、娘って……、おいおいおいおいおい。
 幾ら何でも……、いや、無いだろ、それは。
「な、長門、それは……」
「本当のこと」
「いや、でも……」
「これは、本当のこと。……あなたが望むのならば、今ここで二人のDNAの解析結果を提示することも可能」
「……いや、良い。そこまでしなくても、良い。……信じるよ」
 長門がここまで言うってことは、本当……、何だろうな。
 全く持って信じられないというか、非常識極まりない話だが。
「なあ、長門、もう一つ聞いて良いか。……古泉は俺と同い年だよな?」
「この国の学齢基準に倣い通常の場合同学年となる範囲という意味でなら、そう」
「そうか……」
 てっきり年を幾つかを誤魔化しているんじゃないかとも思ったが、それも否定されたよ。
 いやしかし、高校二年生で三歳の子供が居るって……、いや、待て。
 それもおおいに問題だが、もっと、問題にするべきことが有るだろうが。
 戸籍上は……、何て言った? えらく聞き覚えの有る苗字だった気がするんだが。まさか、偶然、なんてことは有り得ないよな。
「おい、古泉。……お前がその子の父親だってのは理解した。理解したくないが理解してやる。倫理的な問題はおいておくとして、生物学的には有り得るって範疇だろうからな」
 二次性徴がどーのなんていう小学校か中学校での保健体育の授業の内容はすっかり忘れているが、出来るってことは作れるってことだろう、というくらいには理解出来るつもりだ。
「……」
 古泉、無言。 
 そりゃそうだろう、返す言葉なんて無いだろうな。
 ここでべらべら喋られても俺がこいつを張り倒したくなるだけだ。
「なあ、その子の母親は誰だ?」
「……そろそろ、迎えに来ますよ」
 ようやっと、古泉が口を開いた。腕の中で眠る子供を見守る視線は優しげだ。
 当たり前か、どんな経緯で出来た子供か知らないが、自分の子供なんだもんな。本人に本当のことは告げてないみたいだが。……言えるわけも無い、か。
 そうして、言う言葉もかける言葉も無い俺達が立ち尽くしているところに、ロータリーに、見覚えの有るタクシーが止まった。中から降りてきたのは、俺も何度か見たことが有る女性だった。
「こんばんわ」
 その女性……、森さんは、俺と長門に向かって、さっと頭を下げた。
 動揺しているようなところは全く無い。全て連絡済み、了解済みってことか。
 まあ、そうでなきゃ、古泉が俺に種明かしをするわけも無い……、そういうことなんだろう。
「若葉を」
「あ、はい」
 古泉が、腕に抱いていた子供を森さんに手渡す。
「ん……、あー、おかーさん」
 ジャストタイミングって言うんだろうか。って、この言葉を使うのも本日二度目だな。森さんの手に抱かれたその直後に、若葉が目を覚ました。
「おはよう、若葉」
 森さんの表情が、優しげなものになる。
「おはよー、でも、いまはよるだよ?」
「そうね。……あのね、若葉、先に帰っていてもらえる?」
「おかあさんは?」
「わたしはまた後でね」
「そっか、わかった」
 短い母娘のやり取りが終わり、若葉が母親の手から離れ、一人でタクシーに乗り込んだ。
 ちょっと後ろ髪引かれるような印象は受けるけれども、むずかるようなところは全く無かった。これも、当たり前の光景ってことなのかよ。
「おかーさん、いっちゃん、またねー」
 幼子の言葉一つ残して、タクシーのドアが自動で閉まり、ロータリーから消えていく。
 後に残されたのは、俺と長門、古泉と森さん。
「お話は既に聞いていると思いますが、わたしがあの子の母親です」
「………………」
 三人分の三点リーダは、長くて重い。
「あの子の父親は古泉ですが、あの子はそれを知りません。ですから、あまり会うことは無いと思いますが、もし次に会っても、今回のように、ただの親戚の子供として扱ってあげてください」
 森さんは、ただ事実を確認するように淡々と語る。
「…………」
 三点リーダは、二人分でも充分長い。
「……これからも古泉をよろしくお願いします。それでは、また」
 森さんはほんの少し躊躇いめいたものを窺わせてから、俺と長門に向かって頭を下げ、駅の改札口へと消えていった。俺達が住んでいる方とは反対側に向かうみたいだ。
 彼女は、一体どこへ向かうんだろう。
 我が子のところ、ということだけはなさそうだが。
「森さんも忙しい人ですから」
 古泉が、ぽつりとそう言った。
「説明しろ」
 駅のロータリーには俺達三人以外誰も居ない。もし他に誰か居ても長門が居るから何とかしてくれるだろう。空間を閉鎖することは出来なくても、長門なら周囲に漏れるはずの音声くらい誤魔化してくれるさ。
 だから、説明してくれ。
「僕が力に目覚めてすぐ『機関』に迎え入れられたのは知っていますね」
「ああ、そう聞いた」
「森さんは、その頃からの知り合いなんです。僕の監視役兼保護者兼補佐役、そんなところだったんでしょうね。……少なくとも僕は、そう思っていました」
「……」
「僕もまだ子供でしたし、状況が状況でしたからね、あっさり絆されてしまいましたよ。彼女の目的、いえ『機関』の目的も知りませんでしたから。……お偉方の中に、能力者の子供がどんなものかということに興味を持った人が居たんでしょうね」
「……」
「……正直、彼女が妊娠している知ったときは驚きましたよ。というより、わけが分かりませんでしたね。わけの分からないまま月日が過ぎて、あの子が生まれて……、多分、彼女にとってはこれも『仕事』のうちだったんでしょう」
 さらさらと、淡々とした古泉の声が俺の耳元を通り過ぎていく。
 聞きたい、いや、聞きたくない。
 知りたい、いや、知りたくない。
 言いたいことは全部言っちまえ。違う、言うな、そんなこと。
 なあ、どうして、そんな、そんな。
「僕があの子に会えるのは、一月に一度有るか無いかというところです。彼女も、似たり寄ったりなのでしょう。あの子の普段の生活のことは良く知りませんが、話を聞いている限りでは、普通に、幸せに過ごしているようです」
 幸せって何だよ、幸せって。 
 何だよ、それ。仕事だとかお偉方の都合だとか、母親には殆ど会えなくて、父親のことも知らないだとか……。
 何だよ、そんなのが、幸せなのかよ。
 そりゃあ、本当のことだけが、人を幸せにするわけじゃ無いだろうけどさ。

「馬鹿野郎!」

 何をどう言って良いかさっぱり分からないまま、矛盾する何かを内に抱えたまま、俺は古泉に殴りかかった。否、殴りかかろうとしていた。
「長門……」
 俺の腕を止めたのは、長門だった。
 長門が俺の腕を掴んだまま、ガラス玉のような瞳が、ただ真っ直ぐに俺を見据えていた。
「あなたが古泉一樹を殴っても、現状は何も変化しない。……寧ろ、あなたの後悔に繋がる可能性が高い」
「……」
「あなたの理屈と常識は、あなた以外の人間が生きる場所では通用しない可能性が有る。……あなたは、それを知っているはず」
 ああ、そうさ。そうだよな長門。
 お前の言う通り、この世は俺の知らない不条理だらけさ。
 だがな、だからって、そんな不条理なことを全部認められるわけ無いだろう。
 だって、こいつは、こいつは、
「……すみません、長門さん」
「いい、あなたが悪いわけではないから」
 長門が俺の手を離し、古泉の方に向き直る。
 長門は……、何時から、知っていたんだ? もしかしたら、出会うよりも前からか?
「長門……」
「……そろそろ、帰った方が良い。もう、大分日も落ちてきたから」
 長門はそう言って、俺と古泉に改札の方に向かうよう指出した。
「お前は?」
「わたしは少し後の電車で帰る。……多分、ここから先は、わたしが居ないほうが良い話しやすいと思う。わたしには、有機生命体の親子間に発生する感情に関する概念が理解できないから」
「…………」
「早く」
「分かりました」
「……」
 古泉が頷き、俺が三点リーダで応じる。
 夏なのに、ちっとも暑く感じないのは何でなんだろうな。


 休日の各駅停車は、完全にがらがらだった。
 車両に二人っきりなら、確かに、何を話しても咎められたりしなさそうだ。
「さっきは悪かったな」
「いえ、あなたは何も……。あなたが怒るのも、当然でしょうからね。僕は、何一つ責任を果たしてないわけですから」
「お前が『機関』で働いているおかげで、あの子が『機関』のバックアップつきで幸せに過ごしているっていうのなら、それで責任を果たしていることになるんじゃないのか?」
「さあ、どうでしょうね……」
 古泉の表情からは、何時ものスマイルが完全に消え失せている。
 多分こいつ自身、自分が何をどこまで出来ているかってことを分かって無いんだろう。いや、分かるわけも無いか。中一の時点で初体験を済ませているっていうのもあれだが、子供が出来ました、なんてなあ……、それで状況に着いていける方がおかしいだろう。
 こいつは、まあ、こいつなりに……、それなりに、頑張っている方なんじゃないだろうか。
 正直なところ、俺にははっきりしたことは何一つ言えないんだが。
「……別に、お前が悪いわけじゃないさ」
「……」
 陳腐な慰め以上のことを言えない俺に帰ってきたのは、既に本日何度目か分からなくなっている三点リーダだけだった。
 馬鹿だろ、俺。
 古泉だって長門だってちゃんと何度か予防線を張っていたはずなのに、知らなくても良いことを知って、勝手に怒って、勝手に慰めにもならないことを言って……。やっぱり、馬鹿だ。
「なあ、古泉」
「何ですか?」
「お前、あの若葉って子が大事か?」
「ええ、大事ですよ」
「そっか。……じゃあ、今は、それで充分なんだろ」
「……」
 古泉は、俺の言葉に応えてくれなかった。
 こいつはこいつで、ずっと自責の念に駆られてきたはずなんだ。
 それを、たった今事実を知ったばかりの他人の言葉でどうにか出来るはずも無いだろう。
 分かっている、分かっているさ。
 古泉が悪いわけじゃない、俺には何も出来ない。
 世界は相変わらず不条理で、俺にもこいつにもちっとも優しくない。
 俺は、沈黙が支配する中、冷房が効き過ぎた車内の冷たさを感じながら、電車が目的の駅まで辿り着くのをただ待っていた。
 ただ、無意識に握り締めた拳の中だけが、不条理さに対する行き場の無い怒りを閉じ込めたかのように熱くて仕方が無かった。


 終わり


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