プロローグ  

 俺がまだ若く、物事に対する分別を身につけていなかった頃、古泉に言われた言葉がある。その言葉はあの時の俺を的確に表していたし、その後、執拗に俺を苦しめたものだった。
「あなたはどちらかしか選ぶことはできないんですよ?」
 夏休みの休暇を利用してヨーロッパ旅行に行ったときのことで、北欧の肌寒い夜風にあたりながら言われたのだ。俺は古泉の問い掛けに答えることはできずに、透き通った夜空をただぼんやりと眺めていた。古泉がそれ以上の追及はしてこなかったのは、高校二年という時間によるところもあるだろうし、古泉の優しさだったのかもしれない。
 教訓として捉えて欲しくないのだが、人生における重要なできごとでは大抵二択を迫られるものだ。というより、二択にならないようなできごとはさして重要ではないとも言えるかもしれない。それを俺は実体験から学んだし、あれほどまでに特殊な状況に置かれた人間も恐らく俺一人だと断言できる。
 俺がこうしてあの時のことを思い出していると、あの時俺が感じていたことと、今過去を振り返って感じることは違うということに気付く。駅前の人込みや、無機質な部屋、何かを覗くような俺を見つめる瞳。断片化した記憶が熱を失い、明瞭になっていくことで、同時に失われていく得体の知れない何か。
 俺があの時を思い出すと一番最初に浮かんでくるのは、白い壁紙に囲まれたこたつだけの長門の部屋だ。長門の何かを求めるような瞳、そして何かを諦めるような瞳。俺の中にあった憤りは逃げ場を失っていた。無音の部屋で布擦れの音だけが誇張された。俺の胃の中で嘔吐感がめぐって、長門と食べたカレーの匂いに苛立った。今でもカレーの匂いを嗅ぐと、長門の部屋と俺を覗く長門の瞳がフラッシュバックしてひどい頭痛が俺を襲う。
 次に思い浮かぶのはハルヒの笑顔だ。そして、喪失感を帯びた瞳と震える細い身体が鮮明に蘇ってくる。病室でのクリスマスパーティーの後に、二人並んで歩いた学校までの道のりがどうしようもなく切ない思い出になってしまっている。本当なら腹を立てるぐらいの坂道が永遠に続いて欲しいと思ったのはあの時が最初で最後だった。
 全て俺が選んだことだ。そして、俺はその全てを受けれていかなければならない。あの時ハルヒが俺に見せてくれたように。俺の長門への思いはクリスマスに降った雪のように積もりはしなかった。ゆらゆらと空中を漂って、不安定に存在していた。触れたら今にも溶けてしまいそうだった。あの雪は長門が望んだものだったと俺はなぜか確信を持っている。以前に長門は「局地的な環境情報の改竄は惑星の生態系に後遺症を発生させる可能性がある」と言っていた。危険を冒してまであの雪を降らせた理由は何だったのだろうか。 あれからかなりの時間が過ぎてしまったのだけれど、多くのことに俺は答えを出せずにいる。もちろん、ずっとそのことを考えているわけではない。何かのきっかけ、例えば、ハルヒのいない一人だけの夜とか、毎年必ずやってくるクリスマスという日を迎えると俺は無意識にそのことを考えてしまうのだ。長門の存在は時間を経るにつれて、確実に薄まっていくものだけれど、やはり長門のことを完全に忘れることはできない。まるで儀式のように長門のことを思い出して、その度に胸を締め付けるような圧迫感と罪悪感と後悔に苦しめられている。長門はこんなことを望んだのだろうか?
 今、家にハルヒはいない。もう少しでクリスマスを迎える寒い夜に酒を飲みながら、長門のことを考え、俺は一人夜が明けるのを待っている。

 俺は家を出て、電車に乗っている。車両には二、三の人が散見されるだけで、電車とレールとが鳴らす音しか聞こえない。座席の隅に座って、がっくりと肩をうなだらせて静かに低い音に耳を澄ませている。
 なぜ、電車に乗っているのかというと、家にいても螺旋のような思考に陥るだけということが分かっているからで、それなら電車に乗ってできるだけ長門のこと、それにハルヒのことを考えないように音ある空間に逃げ込みたかったからだ。それでも、一人でいる限り目を閉じていても長門の顔が浮かんできてしまう。俺はそれを振り払おうと顔を上げ、電車の窓から見える光の線を目で追った。
 この電車はあの街へと向かっていた。俺が通っていた高校や、SOS団としての記憶があるあの街へ。俺はなぜあの街へと向かうのだろうか? 着いたら、何をしよう? こうやって電車に乗っていると、ハルヒと街中に出たときのことを思い出す。あの日はハルヒと二人で街中に出て行ったんだったけ?
 そうだ、十二月十七日、俺は駅前に向かっていた。何度も何度もペダルを踏んで、自転車を加速させ、スタートの出遅れを取り戻そうと必死だった。その日は市内探索の日だった。秋のイベントも一段落し、悪夢の期末テストが終わり、久々の市内探索だった。俺が駅前に着くと、ハルヒと朝比奈さん、それに長門が既に待っていた。約束の九時には間に合ったというのにハルヒは怒り出したが、とりあえずなだめすかして喫茶店に向かうことになった。古泉の姿が見当たらなかったので、ハルヒに尋ねたところ、バイトがあっていけないとのことだった。喫茶店に入ると、ハルヒのくじによる班分けが行われ、俺と朝比奈さんのペアと、ハルヒと長門のペアに決まった。当然俺は何を言われるまでもなく、会計を済ませた。喫茶店を出ると、ハルヒと長門はさっさと消え、俺と朝比奈さんだけ取り残された。
 なんだ、鮮明に覚えているじゃないか。十二月十七日、この日は始まりの日だ。高校二年のクリスマスまであと一週間と少し。午前中は朝比奈さんと回った。立っていると全ての熱を失いそうな極端に冷え込んだ日だった。
 俺は一つ溜息をつくと、自分がまた長門のことを考えていることに気づいた。そして、力強くこぶしを握ると、俺はもう一度あの時のことを考えてみることにした。長門のことは俺の中だけにあるものだし、結局のところどこへいっても消えるものではないからだ。

    ***

「どこ行きましょうか?」
 俺は寒さに身体を震わせながら言った。
「どこ行きましょうか?」
 朝比奈さんは隣から俺を覗くような瞳で見つめながら言った。
「どっか中に入りませんか? ファミレスでもいいですし。ここの喫茶店は駄目で、図書館も駄目ですね」
「それならぁ」
 朝比奈さんは指を口に当てた。
「それならぁ」
 俺は朝比奈さんの口調を真似をして繰り返した。
「わたしの家、来ますか?」
「え……い、家ですか?」
「そうです。ファミレスなんか入っちゃったらお金かかっちゃうし、ただでさえキョン君は奢らされてるんだし。わたしの家散らかってるけど、キョン君が良かったら行きましょう? お茶ぐらいは出せますよ? 最近、新しい紅茶のお茶っ葉を買ってみたんです」
 朝比奈さんは身体が膝から溶けていきそうな笑顔を見せた。
「確かに、紅茶は飲んでみたいですね」
「決定ですね」
 「ふふっ」と朝比奈さんは笑った。
「そ、そうですね」
 俺は朝比奈さんの提案に浮かれながらも、ここにいないはずのハルヒの殺気に怯えていた。後ろから見られていないか、あの停留所の陰から覗き見しているのではないかと、疑心暗鬼になった。
「それなら」
 朝比奈さんはそう言うと、俺の腕を取った。予想外の行動に俺は慌てたが、朝比奈さんからだったので、ハルヒも文句は言えないだろうと、気にしないことにした。組まれた腕から伝わる朝比奈さんの遠慮のない膨らみの弾力に意識をふらふらさせながら、朝比奈さんの家に向かった。

 朝比奈さんの家は――マンションなのだが――、駅前からすぐだった。朝比奈さんと出会ってからこの冬を越えれば二年になるのだが、初めて会った頃より明らかにボリュームアップしているその胸の感触を楽しむ時間は用意されていなかった。それでも、小柄な朝比奈さんのちょこちょこと歩く姿は思わず抱きしめたくなるし、こうやって先輩と日曜日をデート気分で過ごすというのも悪くなかった。時折俺を見つめる大きな瞳に目をあわせることはできなかった。
 朝比奈さんの部屋に入るのは初めてだった。縦長の玄関を抜け、リビングに入って驚いたのは、あまりにも無機質なことだった。ほとんど長門の部屋と変わらなかった。
「驚きました?」
「ええ」
 白の壁紙に、床はカリンフローリングで、小ぶりの木製四足テーブルが中央に配置されていた。その周りにはピンクや水色の柔らかそうなクッションが置いてあった。
「あまり物は置かないようにしているんです。いつ未来に帰ることになるか分かりません
から」
「なるほど」
 朝比奈さんは着ていた白のコートを脱ぎ、リビングから繋がっているオープン型のキッチンに向かった。しかし、すぐにスリッパをぱたぱたさせながら戻ってきた。
「ごめんなさい。寒いですよね」
 朝比奈さんは床暖房のコントローラのスイッチを入れると、
「ごめんなさい。初めてなんです。友達を入れるのは」
 朝比奈さんはそう言って、微笑んだ。何だが朝比奈さんとなら何時間でも一緒にいられる気がした。そんなことを考えながら、俺は水色のファンシーなクッションの上であぐらをかき、朝比奈さんが紅茶を入れてくれるのを落ち着かない気持ちで待っていた。

「どうぞぉ」
 朝比奈さんはやることもなくぼんやりとしていた俺の前にティーカップを置き、ピンクのクッションを持ってきて俺の隣に座った。女の子座り――尻をぺたっとつくやつだ――で、俺が飲むのをじっと見つめていた。俺はおどおどしながらティーカップを傾けると、
「おいしいですよ」
 感じたままのことを言った。俺が飲んでいた紅茶はなんだったんだというくらい滑らかな口当たりだった。
「え、あ、はい」
 朝比奈さんは俺をじっと見つめていたのが恥ずかしかったのか、俯いて手をもじもじさせていた。いじらしいくらいにかわいくて、俺の良心とやらがなかったら、きつく抱きしめていただろう。邪念を振り払うために、俺はティーカップを深く傾け一気に飲み干すと、胃の壁を伝う暖かい感触が広がった。
「せっかく上がらせてもらったのはいいんですが、あんまり長くはいれませんね。十二時にはここをでないと」
 俺は案外冷静なことに気付いて、自分自身驚いた。確かに朝比奈さんの部屋で朝比奈さんと二人っきりというのはこれ以上ないシチュエーションなのだが、それよりもやはりハルヒにばれることが怖かったのだ。死刑云々の恐怖ではなく、それ以外の表現しにくいまとわりつくような気持ちの悪さだった。
「そうですねぇ」
「それまでなにしましょうか?」
「そうですねぇ」
 そう言うと、朝比奈さんはまた俺の腕を取って自分の腕と絡めた。朝比奈さんがニット一枚になっていたせいで、朝比奈さんの膨らみはさっきより明確に伝わった。感触として柔らかいというのもあったが、その圧倒的な量に俺は心を奪われていた。
「少しだけ、眠らせてくれませんか?」
「ええ、いいですよ。朝比奈さんの頼みを断れる男はいません」
 朝比奈さんは甘い微笑を浮かべると、俺の肩に寄りかかった。
「最近、あんまり眠れていないんです」
「何かあったんですか?」
「うーんと、禁則事項です」
 朝比奈さんは俺の肩に頭を乗せながら、呟いた。朝比奈さんが小さいので、俺はクッションを朝比奈さんの下に敷いて二枚重ねにして高さを合わせた。朝比奈さんは疲れていたのだろうか、しばらくして目を瞑ってしまった。時折香る朝比奈さんの髪の匂いに、俺はくらくらしていた。匂いが長門の肩を揉んだ時の髪の匂いに似ていた。
 俺はこの時朝比奈さんの言った言葉が妙に頭に残っている。
「この時、今だけは、あたしだけのものだよねぇ?」
 眠っている朝比奈さんが涙を落として、呟いた。朝比奈さんを苦しめる悪夢が何だったのかは分からない。できるなら、助けてあげたい。ゆっくり眠らせてあげたい。でも、俺には立ち入ることはできなかったのだ。そして、俺はこの状況にある種の失望を感じながら、秒針の鳴る音をただ聞いていた。

    ***

 携帯が鳴った。電車から降りて改札口を抜け、目的地もなく歩いていた時だった。ディスプレイに表示された「ハルヒ」の文字。俺は携帯を耳につけることなく、ボタンを押した。
『ちょっと、キョン! あんたどこにいるのよ!』
 予想通りの爆音に、携帯からの声が音割れしている。
『あんたねー、家にいなさいっていったでしょ!』
「分かったから、声を張り上げるな。頭痛がする」
 俺はハルヒの声にしぶしぶ答えた。
『あんたはそのぐらいでちょうど良いのよ。どうせ、あたしの声なんて聞いてなくて上の空なんでしょ?』
 俺は何も答えなかった。
『どこにいるのよ?』
 ハルヒの質問に俺は顔を上げた。俺は、――長門の住んでいたマンションの前に立っていた。どうして俺はこんなところにいるんだ?
『キョン? 答えなさいよ』
「マンション」
『どこのよ? ――大体は見当つくけどね。でも、あたしからは言いたくないわ』
「長門の」
『……そう。』
「ハルヒ?」
『何よ』
「俺、どうしたらいいんだ?」
『………』
「……ハルヒ?」
『……今から行くわ。そこで待ってなさいよ! 話はそれからするから!』
 ハルヒはそれだけ言うと、一方的に電話を切った。俺は携帯をポケットに入れると溜息をつき、あたりを見回した。やはりそこは長門のマンションだった。駐車場に続く細長いスロープもあったし、キノコ型のポーチライトも確かにそのままだった。それらの象徴的なものを見ていると、脳に直接訴えかけるような圧力が掛かって、あの時長門とここで二人で立っていた時の情景がありありと浮かんできた。どうしてこんななんでもないところが重要なのだろうか? ――そうだ。あの時俺は、長門と一緒にいたかったんだ。でも、もう少し前から、それに至る経緯を説明した方がいいだろう。
 あんたはどう思う? こんなヘタレになっちまった俺を笑えるかい? 人はその人に何かがあった時、常に過去を探ろうとするものだ。そろそろ、どうして俺がこういう状態に置かれているか、現状を把握したいだろう。少しだけ長くなってしまうだろうな。だが、ハルヒが来るまでには終わる。あの日俺は唐突に訳の分からないことに巻き込まれて、それが今まで一番たちの悪いものだったなんて気付いたのは結局決断する直前だったんだから笑いものだ。それじゃあ、始めようか。どうしようもないほど煩雑で、感情に満ちた三週間を。



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