§第五章§

――14――
「キョン……。キョン」

声が聴こえる。
……ハルヒ。

「起きて。キョン」
俺はまぶたを開ける。まだ視界がうすぼんやりとしている。寝起きみたいだな。
「……キョン! 気がついたのね!」
閉鎖空間にハルヒと閉じ込められた時とかぶるシチュエーションであったが、目覚めた場所は全くそれとは異なっていた。
「キョンくん! あぁぁ、よかったぁ……」
涙混じりの声でおっしゃるのは朝比奈さんに他ならない。
俺は目をこすりつつ、ようやくピントが合ってきた視界を目一杯観察する。

俺は布団に寝ていて、右にハルヒ、左に朝比奈さんと言う、両手に華と言えなくもない状態に置かれていた。
ハルヒも朝比奈さんも制服姿だ。かく言う俺もブレザーに身を包んでいる。袖が深緑色の服なんて他に持っていない。
「ここは……」

何だか妙に喉が渇いている。その証拠に声がかすれている。それにずいぶん久々に声を出した感じがする。
さっきまで俺はこの二人と長門の前に――、

「……」
戸口に長門が立っていた。眼鏡をかけている。そして無表情。

「よかった、キョン!」
「のわっ!」
ハルヒに抱きつかれんばかりに体当たりされた。たまらずのけぞり倒れる。お前は犬か。
「何よ。心配したんだからね。あんたは前科一犯なんだし、余計によ!」
ぶっきらぼうに言うハルヒであった。あぁ、俺は年末にも倒れたんだったな。そして、今回も。

……。
急激に海馬組織が最近の記憶を検索して結果を一覧表示する。 

「何があった!?」
「わっ!」
飛び起きた俺をハルヒは頭突き寸前のところで回避した。反射神経のよさに関心などしている場合ではない。
「俺が今目覚めるまでにあったことで、分かってることを教えてくれ!」
というか、誰から何をどう訊いていくべきなのか判断に戸惑う。朝比奈さんは早くも、先ほど見せていた安堵の表情を停滞前線に巻き込まれた列島のように曇らせ始めた。ひょっとしたらうかつに発言するのは避けるべきだったかもしれん。
……だが、こうして目覚めた以上、俺は一刻も早く長門や古泉を救うために動く必要があるんだ。

「あんた、身体は平気なの?」
ハルヒは真っすぐ俺を見つめて訊いてきた。普通に心配しているようだ。そりゃそうか。全く動けなかったんだもんな……。この分だと意識だけがあったことすら誰も知らないのかもしれん。
「あぁ、大丈夫だ。何ともない。今すぐ百メートルを全力疾走だってできる」
俺片腕を回してみたりと、らしくないことをして無事なことをハルヒにアピールした。
朝比奈さんは相変わらず心配かつ不安げな面持ちで、長門も無表情。そうだ、この長門がいつの長門なのか、……と言うより今がいつなのか、おいおい訊く必要があるだろう。しかしハルヒがここにいる手前、すぐに訊くのは止めておくべきだ。

「あんた、今日一日学校に来てからおかしかったのよ。あたしが話してもほとんど何も聞いてないみたいだったし、放課後も何も言わずに帰ろうとするし……」
まったく記憶にないぞ。そりゃほんとの話か。
「ほんとよ。何か、魂がどっか行っちゃったみたいだった。あたし、あんたがこのままだったらどうなっちゃうんだろうって……」
ハルヒの言葉の後半部分は消え入るような言い方だった。何かざわつくものがあったが、今はまず状況を正確に把握する事が最優先だ。
「それで、その後俺はどうしたんだ」
ハルヒは作るべき表情が分からないようにして、
「うん。三十分くらいして、あんたは突然部室に飛び込んできた。直後に倒れて……それから……」
そこから先は俺にも分かっている気がした。
「朝倉が来て……」
ハルヒは数文節ごとに区切るような話し方になっていた。
こいつにも言い知れぬ恐怖のようなものがあったのかもしれない。……そう、朝倉だ。あいつはこう言っていた。
「言わば幻覚を見てもらった」と。それはハルヒを不安にさせるためだったのか? だとしたらすまないがまたも俺はあいつにネガティブなイメージを持たなきゃならん。ついさっきまで朝倉の存在について考えていたからか、どこか心苦しいものもあるが。
「大体わかった。もういい。すまないな、ハルヒ」
「キョン……。あたし、あんたが何か危険な目に遭ってるって、分かってたのに……」
ハルヒがしおらしくしているのなんてこれまでに何度あっただろう。ここまで弱気になってるのはあの閉鎖空間と、孤島で本当に殺人事件が起きたと思っていた時くらいしか覚えがないが、今回はすぐに元気になるか疑問だ。
「気にすんな。お前は団長なんだ。いつも無駄に元気なくらいがちょうどいい」
ハルヒまで自分を責めるようになったら、俺はもう何を信じればいいのか分からなくなっちまう。
「……そうね」
「それでなハルヒ、俺は長門とちょっと話さなきゃならんことがあるんだ。すまんが、一度朝比奈さんと外してもらっていいか」
俺はこの上なく真面目にそう言った。ハルヒとも長い付き合いだ、冗談が含まれていないことくらいは分かってくれるはずである。
「有希と?」
ハルヒは長門を振り返った。長門は眼鏡のツルを押さえ、否定も肯定もしない。
「……わかったわ。みくるちゃん、行きましょう」
ハルヒは以外にもあっさりと立ち上がった。うながされた朝比奈さんも不安げな顔のまま和室から出て行く。

そう、ここは長門のマンションだった。この部屋での目覚めはあの七夕祭り以来だ。後に残されるのは両目を閉じて戸口に背をつけている長門。……俺はある程度の予測を立てていた。

ふすまが完全に閉じられた後、俺は答えを確認するべく質問する。
「長門。今はいつだ」
長門は突然の質問に全く動じず、機械的に事実を告げた。
「あなたがいた時空から四年前の五月三十日、午後四時十二分二十八秒」
「……」
言葉を発さないのは俺のほうだ。なるほど。その言葉で疑問のひとつは解消する。聴覚情報のみの長門やここにいる長門がやたらと無反応な理由。中一ハルヒを手伝ったあの七夕よりも前なんだな、今は。何とまぁ、長門はあれより前にも俺や朝比奈さん、ついでにハルヒにも会っていたってことか。確かに長門は自分から知っていることをぺらぺら喋ったりしない奴だが、こういう時系列に関する出来事にはしばしば度肝を抜かれる心境である。
俺は質問を続ける。
「俺は一体どうしてたんだ。今まで動けなかったみたいだが」
長門は壁によりかかったまま淡々と答える。せめて座るよううながした方がいいだろうか。
「あなたはあるプログラムを元にして生体情報を凍結されていた。わたしはひと月をかけてそれを解除した」
朝倉がそれをやったってことだろうか。解凍に長門でもひと月かかるなんて、どんだけ頑丈なロックなんだ。
「ハルヒと朝比奈さんは、時間を飛んでここまで来たのか?」
「そう。あなたをわたしに引き渡し、ひと月後に時間移動した」
少しずつ疑問が解消していく。
「ハルヒはどこまで知ってるんだ」
一番重要な項目のひとつである。あいつは二度タイムトラベルしたことになる。ひとつは最初の、おそらく大人版朝比奈さんによる約四年間の遡行。もうひとつが今長門が言った、ここまでの一ヶ月間の跳躍。それに、さっきのあいつの説明では朝倉がハルヒの前でどこまで正体を見せたのかも判然としない。ハルヒが非日常たる現象をどこまで認知してしまったかは、今後の行動を考える上でも最重要だ。
「涼宮ハルヒは今、混乱状態に陥っている」
長門は書いてある文章をナレーションするように言った。
「彼女は現実を変容させるほどの現象を認識していない」
「断言できるのか」
俺の問いに長門は本当にわずかに頷く。まるで人間が視覚と聴覚でしか意思を認識し得ないから仕方なく頷いているような素振りである。
「あの涼宮ハルヒは情報爆発やそれに類する規模の変容をこの時空にもたらしていない」
なるほどな。ハルヒが宇宙ごとどうにかしちまうような力を発揮したら、統合思念体にはそれが分かるって寸法か。
「そう」
「そうか……」
とりあえずは平気、ってことなのだろうか。正直、ハルヒがここにいることに関してもまだ全然俺は安心できない。今までであいつが認知しうる非日常現象といえばあの閉鎖空間と雪山だが、どっちも夢や幻ということでまかり通っていることになっている。ということは、今回も無事に帰れた時にはハルヒがそう思えるように仕向ける必要があるのか。……古泉がいれば何とかなるかもしれないが、俺一人による即席のでっちあげで騙し通せるかは、はっきり言って自信がない。
が、次の質問に移っていく必要がある。ハルヒや朝比奈さんを待たせすぎるのも考えものだからな。
「お前は状況をどの程度知っているんだ」
こいつが未来の自分と同期とやらを取れるのは、あの改変されちまった日付までのはずだ。俺たちが元いた四月までそれが及んでいるとは考えられない。今俺たちの時間にいるあいつは、自ら過去や未来の自分と接続することを拒否しているからだ。
「わたしは朝比奈みくるからあなたの生体凍結プログラムを解除するよう頼まれた。他のことは知らない」
やっぱりそうか。……ってことは、俺が今から一ヶ月前らしいあの時に聞いたやり取り以外のことは伝わってないんだな。
しかしまぁ、状況を聞かされないのによく協力する気になったな。仮にも未来人は思念体と直接的には無関係の集団であるはずだ。
「朝比奈みくる、古泉一樹がそれぞれ属する集団には、協力する局面が幾度かあると聞いている」
誰からだ。
「情報統合思念体」
お前の親玉は予言者でもあるのか。という俺の脊髄反射的ツッコミに長門は何も答えなかった。完全なるノーリアクションを貫かれると、こちらとしてもチトつらいものがあるね……。
「そうか。とりあえずありがとな。凍ってた俺を元に戻してくれて。感謝するぜ」
素直に礼を言うと、長門はさっきの肯定の仕草だけで返事をする。実にそっけないね。俺があった中でも最も初期の長門だ。話から察するに、まだ一度も未来と交信していないのではないだろうか。
さて。早急に考えをまとめる必要がある。どうやら、ここにいる長門にはあまり頼りになれそうでない。というか、凍ってた俺を元に戻してくれただけでも十分すぎる。長門にばかり役割を押し付けるのは避けるべきだ。
気になるのは残してきたほうの長門だ。どうすれば助けられるんだ? 状況を見届けることすらできなかった俺には見当すらつけられない……。

「キョン、話は終わったかしら」
タイミングがいいのか何なのか、ハルヒがふすまを開けて入ってきた。
「あたしからも話があるのよ。あんたにね」
俺は思わずぎくりとする。……何についての話だろう。タイムトラベルや宇宙人についての核心を突かれるようなことを聞かれたら、俺は対処できるか分からない。
ハルヒは元気も悲しみも帯びていないような表情をしていた。
「ごめんね有希、こんどはあなたに外してもらっていいかしら」
長門はまた何とも言わず首も振らないで、部屋から出るとふすまを閉めた。
まるでSOS団の女子と交替で対談か面談でもしているような状態だが、あいにく俺はインタビュアーでもなければ記者でもない。

「キョン。あんた、何か隠してるでしょう」

直球。
今訊かれて困らない質問のほうがマイノリティであるのは間違いないが、何て答えりゃいいんだよ。

逡巡する俺にハルヒは二の句を告げる。
「あんたが元に戻って安心したけど、同時にあたしは何かおかしなことを沢山見過ごしている気になったのよ。まず……あの女の人は誰なの? すぐに消えちゃったけどさ。あたしは部室にいたはずなのに、気がつけば公園でみくるちゃんと一緒に動かないあんたを見ていた。部室には有希と朝倉もいたはずなのよ。いなくなったのはどうして? それに、有希があんたを治せた理由も分からない。いくら有希が万能選手だからって、呼びかけてもうんともすんとも言わなかったあんたを元通りにするなんてただごとじゃないわ」
いくつかの核心をつらぬき、またいくつかの点を無視してハルヒは俺に訊いた。とりあえず思いついたことをそのままぶつけてみました的な質問乱舞である。古泉であったとしてもこれを無傷で切り抜けるのは至難の業だろう。というか長門よ、こいつは思い切り疑問を抱きまくってるぞ。
……さて、どうすりゃいい。冷静に考えろ。
「ハルヒ。今までお前がおかしいと思ったことは、他にどんなことがある?」
質問に質問で返すのはフェアじゃないと何かで読んだな。俺の問いにハルヒは思い出すようにしてうつむく。
「そうね……。古泉くんが何日も学校休んでることとか、朝倉が急に帰ってきた理由とか」
今回の一件ほとんどすべてだな。
「お前が感じたことを言ってみてくれないか。何でもいい。検討外れかもしれなくてもいいから」
俺がそう言うと、ハルヒはためらうようにして一瞬顔をしかめた。
「……あたしの考えを聞いて馬鹿にするんじゃないわよ?」
えぐるような視線を横目で向けてくる。落ち着かないのか部屋の中を時折動き回るハルヒである。
「するわけない。そんなことするくらいなら初めからSOS団なんつー団体にいないさ」
この言葉はそこそこの効き目を発揮したらしい。
ハルヒは少し喋りにくそうにではあるが、話し始めた。
「あたしの考えではね、ここはさっきまでいた部室とは別の場所なのよ」
そりゃぁ長門の家だしな。
「そうじゃない。そういう意味じゃないのよ。……具体的に何がどうってまだはっきり言えないけど、そんな感じがするの」
こいつの考えは正しい。もちろん俺はハルヒが言わんとすることをしっかり把握している。
さっき長門から聞いたように、今は四年前の五月だ。ハルヒはタイムトラベル初体験なわけだし、俺をどうにかして元に戻すことに必死で、いつかの俺のように新聞やなんかで日付を確認したりすることすらまだしていないのだろう。賭けてもいいが長門の家にはテレビも新聞もない。何度も来ている俺が言うんだ、間違いない。
しかし問題は現在時刻ではない。ハルヒが自分がタイムトラベルしたことに感覚的にではあるが気がついていることである。何の前情報も証拠もなしにそれだけ気付けりゃ大したもんだぜ。普通ならまず自分の感覚や世界そのものを疑ってかかるだろう。これは夢や幻じゃないか、ってな。……実際予告なく世界が変わっちまったあの時、俺はしばらく我を忘れるくらいの精神的衝撃を受けた。超常現象をいくつも目の当たりにしたにも関わらずだ。だがハルヒは理性を保っている。古泉の言う常識的な部分、とやらか?

俺はハルヒの両肩に手を置いた。ずっと前にもこんなことをしたが、別に意識して同じ事をしてるわけじゃない。
「ハルヒ。……すまないが、俺はまだお前に答えを話してやることができない」
俺は言った。ハルヒは困惑するような、無理に威勢を張るような二面相をしてから、
「それってどういうこと? キョン、あんたは一体何を知ってるの?」
何を知っているかだって? ……お前の望んでいたものすべてがすぐ近くにあったってことをだ。だがな、すべてを包み隠さず話してやることは、まだ出来ない。俺の頼りない直観がそう言っている。
「なぁハルヒ、お前はまたSOS団が元に戻ってほしいと思うか」
直接答えずに、またも俺は質問を返す。ごめんな。今はこれが俺の精一杯だ。初めて俺が大人版朝比奈さんに会った時、彼女もそう言っていたな。まさにそんな感じだ。言いたくても言えないことっていうのは、目に見えない形で確かに存在している。それを俺はこの一年で学んでいた。
ハルヒは意表を突かれた顔色で、
「えっ。何よ急に」
「いいから、答えてくれ」
ハルヒはどうしてそんなことを訊くのか疑問に思っていたようだが、やがて、
「……そうね。当たりまえじゃないの。何のためにあんたを助けたと思ってるのよ」
助けたのは長門だがな。などと俺は言わん。こいつは俺を救うために全力で走って長門を呼びに行った。それだけでも感謝してあまりある。
「だよな。俺も同じ気持ちさ。こんな楽しい部活は全世界探してもそうそうないもんな」
一聴すると茶化しているような俺の台詞。だが俺は大マジメだった。
それを聴いたハルヒは一拍遅れて笑顔になると、
「あ、当ったり前よ! 何せあたしが作った団なんだからね。365日すべてを面白くして、一秒一秒を楽しく過ごすのがSOS団の活動理念よ」
活動理念にまでなっていたとは知らなかったな。ともあれ、ハルヒが一時的にでも笑顔になってくれるのは俺としても安心だ。どうやらこいつの笑顔には理由不明の元気の素が配合されてるらしいね。
さて、ならば俺が言うべきことも決まってくる。
「だったらハルヒ、今ここでお前に話せないことがあるってのを分かってほしいんだ。団員を信じてくれ。言っておくが、やましいことはひとつもない。誓ってもいい。俺がお前にうまくウソをつけないことくらい、とっくにお見通しだろ?」
ハルヒはきょとんとして俺を見つめた。……何だよ。もう少し喜怒哀楽のいずれかを表明してもいいんじゃないのか。俺の予想ではそのうちの二文字目が選択されると思っていたんだがな。ネクタイつるし上げを喰らう覚悟もできていたんだが。

「あんた……」
何だ?

俺の瞳に文字でも書いてあるのだろうか。
こっちのほうが目を背けたくなってしまうくらい真っすぐにハルヒは俺を見ている。

……。

どれだけ経過したのだろう。たぶん客観的には一分にも満たない時間だったと思うが、俺には数十分にも感じられた。

ハルヒは両目を閉じて嘆息するようにすると、
「分かったわ。本当なら団長に隠し事するなんてあるまじき行為だし、内容によっては罰則を複数同時に課すところだけど、嘘じゃないみたいだし、特例にしといてあげる」
そりゃマジか。もっと食い下がられるとばかり思っていたのにな。
「本当に言いたくないことっていうのは誰にでもあるものよ。あんたのがそれなのかは知らないけど、考えがあるようだし、無理矢理吐かせるようなことはしないわ。そのくらいの線引きはあたしにもできるのよ」
俺は呆然を通り越して感心したくなるほどだった。いや、ある意味人として当然なのかもしれんが、それがハルヒの口から直に聞いた言葉となると、俺は咄嗟に取るべき反応に困ってしまう。
「何よポカンとして。……でもまぁ、そうね。代わりにあたしからあんたに言っておくわ」
今度は何だろう。俺の方が驚いてばかりいてどうするんだ。

「SOS団をお願いね」

「……」

何だそりゃ。遺言じゃあるまいし。
俺の表情をどう取ったのか、ハルヒは言葉を続ける。
「もちろん団長はあたしだし、団の存続に関わることは全部自分で解決するわよ。……でもね。あたしだけじゃどうにもならないことだってあるんでしょ? あんたの話だとさ。例えば動けなくなってたあんたを元に戻すなんて、あたし一人じゃどうにもできなかった。有希がいなかったら、あたしどうしてたか自信ないもの。だからこう思うのよ。困難は分割せよ……ってね。確か昔の人の格言かなんかになかったかしら? こういうの」
ハルヒは早口とともに元気になっていくかのようで、また目のキラキラが蘇り始めていた。思わず苦笑しそうになる。
さすがだな。団長さんよ。しかしお前、過去の偉人達の格言とかそんなもんを軽視していたことがなかったか?
「それどこの都市伝説よ。あたしは昔からの慣わしとかしきたりってものを、それなりに尊重してるわ。節分とか、ひな祭りとか、あんたもやってきたでしょ」
微妙に話がすり替わっている気がしないでもないのだが、まぁ、これでこいつもとりあえず大丈夫。なのだろうか。
まだ残っている問題は山のようにあるけどな。

俺はそこで思い当たって、ハルヒに訊いた。
「ハルヒ、さっき長門から朝比奈さんが手紙らしきものを持っていたって聞いたんだが」
手紙。大人版朝比奈さんがしたためたであろう手紙に、俺も目を通しておく必要がある。ハルヒに見られても平気ってことは、もちろん俺が見ても大丈夫なはずだ。
「あぁ、あれね。みくるちゃんが持ってるわ」


長門のリビングに俺たちは戻った。戻ったというか、俺は今回初なのだが。
「キョンくん、もう大丈夫なんですか……?」
心の底から俺を心配してくださっている朝比奈さんに心をキリキリと痛めつつ、先ほどの手紙とやらを拝借する。
ハルヒが読み上げた箇所の続き。そこから先を俺は知らなかったからな。
朝比奈さんから受け取った便箋は例によってファンシーな淡い色のもので、大人となった彼女の丸まっちい字で数行に渡り文章が綴られている。先ほどの続きから文面を提示するとこのようになる。

 彼が元に戻ったら、その場所で一泊してください。彼女は許可をくれるはずです。

これで終わり? あの様子からして、まだ長い指示が続くのかと思っていたのだが……。
文末には見覚えのある俺には読めないコードらしきものが印字されていた。この優先度とやらはいかほどなのだろう。
と、ここで朝比奈さんには訊けない。ハルヒがいるからな。一泊か。

一泊……?

「何だって!?」
思わず声を上げてしまう俺である。

短文ながら何たる殺傷力だ。
長門の家にひとつ屋根の下。俺と、長門と、朝比奈さんと、ハルヒとで泊まるってのか!?
待て待て待て待て。もう一度よく文章を読み返して……。

……。

間違いない。いくら今まで冷凍カツオになっていたからって、俺の日本語力は一般高校生くらいにはあるはずだ。
俺は思わずきょろきょろしてしまう。朝比奈さんはいまだ不安げな表情。さて今何を怖がっているのだろうね。ハルヒは一体どんな態度でいればいいのか分かりかねるといった状態のようで、つまり手紙の内容を全部読んだってことだろう。長門は全くの無機質棒立ち状態であり、こいつのいる辺りにだけ深遠な宇宙という虚無を感じなくもないって俺は何の感想を述べているのだろう。
「その指示、従わなきゃいけないの?」
ハルヒがぶっきらぼうに言った。無理矢理欄乱暴に言っている気配がしないでもない。
俺は朝比奈さんの方をチラッと見た。確認するいいチャンスだ。朝比奈さんは弱りがちに素早く首を二回振った。
縦に。

……決定らしいな。
なんと、突如SOS団一部メンバーによる一日合宿in長門宅の開催が決定されてしまったのである! しかも団長でも団員でもない人が書いた手紙の指示によって。……いや、元団員なんだけどさ。

「それじゃしょうがないわね。有希、いいのかしら?」
ハルヒの表情を再確認しようとしたがうまくかわされた。長門は数ミリ顎を引いた。三秒置いて、
「いい」
今返事の仕方を覚えたんじゃないだろうな。
「そう。よし、決まりね! キョンがいるのはあたしとしてもどうなのって思うけど、あんただけ別の部屋で寝れば問題ないしね。キョン! ……変なこと考えるんじゃないわよ?」
ハルヒはずびしっと俺に人差し指を突きつける。するかっての! というか、そんなことすれば俺はお前に今期絶望の刑に処されるんだろうが。
「よく分かってるじゃない。ならいいのよ。あと言っとくけど、あんたも家事を手伝いなさいよ。料理はあたしたちがやるけど、掃除とか、ゴミ捨てとか、そんなのよ。分かった?」
今日から四人で暮らしていくかのような口ぶりだが一泊だけだろ。まぁ、俺も何もしないでいるよりはそのほうが気が紛れるだろうから、いいけどさ。




――15――
さて夜である。
この間にもてんやわんやのドタバタがもはや避けては通れない関所のようにあったのだが、まぁそれもそれとして。
俺はようやくもってうとうとと眠りに就こうとしていた。部屋はさっき解凍された和室である。掃除した限りでは、ここより広い部屋はなかったと思うのだが、さてハルヒたちはどうやって三人で寝る場所を確保したのだろう。それを確認しに女子の領地に足を踏み出せば、ハルヒ特別法により何らかの裁きが俺に下ること請け合いなので率先して自粛しておく。
俺は大人版朝比奈さんのメッセージの意味するところについて考えていて、だがあの短いセンテンスを俺のちっぽけな脳味噌だけで解読できようはずもなく、そんな逡巡を繰り返すうちに俺は眠りに落ちていた。


「……」

目が覚めた――。

なぜだろう。トイレに行きたいわけでもない。
長門のマンションの一室は暗く、気配からしておそらくまだ深夜だ。
まぁ、いつもの自分のベッドじゃないし、きっと寝が浅かったのだろう。そう思って寝返りを打って、たちまち俺は絶句と同時に飛び起きた。

この時叫ばず黙ってしまったのは幸いである。ハルヒが起きちまったらちょっとしたコトだっただろうからな。

「長門……!?」

そこにいたのは眼鏡つきの長門だった。
無謬なる表情を変えもせず、俺がさっき目覚めた時と同じ場所にひっそりとたたずんでいた。
長門は俺が気がつくと、二秒ほど視線を交わしてから、
「お客さん」
と言った。……誰だ? と思った直後に答えは明らかとなった。
「こんばんは。夜遅くにごめんなさいね」
大人版朝比奈さんである。薄明かりの中でもその黄金比のようなプロポーションの輪郭が見て取れる。それに彼女の声を俺が間違えようはずもない。
俺は咄嗟に声を出せず、ぎこちない会釈で挨拶をした。
起き抜けでまだぼわんとしている俺の隣に来て、朝比奈さん(大)は正座した。いつもと同じ女教師風のブラウスとスカート。近くにいるだけで周囲の空気が一度ほど上昇するような、また桃色に変わるような感じがする。
「お話があります」
これまで用もないのに彼女が来ることなど100%なかったので、この言葉には驚かないが。
しかし長門の家に泊まれってのはひょっとしてこのためか? だとすれば、何としても今の俺に伝えておきたいことがあるということだろうか。眠り込んでる俺を起こしてまで会いに来るというやりかたは、これまでの朝比奈さん(大)にしてはスマートじゃない気がする……。

「長門さんのことです」
俺がどんな表情で考え事をしていたのか、朝比奈さん(大)もシリアスな口調を崩さず続ける。
「長門というと、この――」
俺は壁に寄りかかったままの長門を指先で示して、
「長門じゃなく」
俺の言葉を朝比奈さんが引き受ける。
「えぇ。あなたたちを守るために、元の時間に残った長門さんよ」

やっぱりそうか。
あいつは俺たちを朝倉から逃すためにあの場に残ったんだ。

……。

胸に熱いものが満ちてくる。
長門は無事なんだろうか。

「あの時間に介入の手が入っています」
朝比奈さん(大)はぴしっと言葉を切るように言った。俺は意味がよく分からず、オウム返しで訊き返す。
「介入……?」
「キョンくん。あなたがわたしと一緒に二月に会ったあの人。覚えていますか? 花壇の」
言われてオートリバースのように記憶が遡行を開始する。メモリースティック。あの記憶媒体を俺たちより先に来てかすめ取っていた、いけすかん野郎だ。朝比奈さん(みちる)を誘拐した車にも乗っていて、あれっきり姿を見ていない。
「あいつがどうしたんすか」
つい語調が強まってしまう。俺は布団の下でゲンコツを固めていた。朝比奈さん(大)は子どもの素行が心配な母親のような口調で、
「彼の属する勢力。わたしたちとは別の未来人が、朝倉涼子にあなたを襲わせるように仕向けたんです」
「……」
俺はまたも言葉を失う。フラッシュバックするのは夢か幻のような朝の映像。俺の部屋に制服姿で立っていた朝倉。耳元でささやかれる謎の呪文。これまでさっぱり忘れていたが、思えばあのせいで俺は変な幻覚を見せられていたんだ。ついでに凍らされもした。
朝比奈さんの面持ちは憂いの色を帯びているようだった。ずっと前に、白雪姫のヒントをくれた時のように。
「あいつが朝倉をそそのかしたんですか? 俺を襲撃するように」
「彼一人の力ではありません。たぶん、何人か関わっているんだと思います」
朝比奈さんは神妙に答えた。結果的に朝倉は長門と再対峙することになってしまった。
俺はちらりと長門を見たが、両目を閉じて立ったまま眠るように動かない。ほんとに寝てるのかもな。
「キョンくんが元いたあの時間は、たくさんの人たちが涼宮さんの力に気付いて動き出したおかげで、とても不安定になっている時期なんです」
朝比奈さん(大)は言葉を選ぶように言った。分岐点。そのうち片方が選ばれると、この朝比奈さんにとっては困る未来になるとか、確かそんな事を言っていた。

ここでしばしの沈黙があった。お互いに、何か考えているような。
数分後。朝比奈さん(大)は、大きな溜息を吐き出すようにして、驚くべきことを言った。


「わたしの記憶にあるあの時間では、こんなこと起こらなかったわ」


「……!」
もし第三者が俺のツラを見ていたのなら、さぞかし呆けた顔に見えたと思うぜ。今までこの朝比奈さんが言った言葉の中でもトップクラスの仰天発言だ。

何だって?

「それは一体……」
ろくに声も出せない俺。大人版朝比奈さんの心配顔は、今や俺の見間違いとかそんなレベルじゃなかった。
彼女はこの事態を本気で憂っている。どうしてだか原因が分からず、成すすべもないかのように。
伏目がちになる彼女は、それでも何とか言葉を続けようとする。
「わたしは一度消されてしまう。……あの時、わたしはそう言ったでしょう?」
あの時――。
俺の体感時間では三日以上前だ。そう。朝比奈さん(小)が消えてしまうから、一度(大)たるこの朝比奈さんは俺たちの時代に来れなくなる、って話だった。
俺は深く頷いた。
「本当なら、わたしも古泉くんと同じように突然にいなくなってしまうはずだったんです。そして、それに気がついた涼宮さんが……」
朝比奈さん(大)は自信が失せたかのごとく言葉をすぼませた。
「ごめんなさい。ここから先は……」
「禁則事項ですか?」
そう言った俺に対し、朝比奈さんは否定の仕草。

「わたしの記憶があやふやになってきていて。……詳しく思い出せないの」

俺はまたしても絶句する。今なら長門の物真似ができるかもしれない。
そんなことがありうるのだろうか?
それはつまり自分が通ってきたはずの過去がなくなってしまうということか?
介入……。あの未来人野郎たちはそんなことまでしてどうしようってんだ。

未来は一本筋かどうか疑わしい、ってのはこれまでの朝比奈さんの説明から何となく想像がついていたことだ。
『既定事項』とやらがどこまでを指すことなのか、同時に謎に思ってもいた。
突然に古泉が言っていたことを思い出す。

――未来に対する過去からの防衛手段です。

あれはいつのことだったか。あいつは朝比奈さんをどうとでもできるとか言っていた。未来人はあたかも過去人の上位に位置しているように見えるが、未来など実にあやふやなものなのだ……と。
「……」
つまり、俺が思うことはたったひとつだ。

過去と未来は、いくらでも変えられる――。

俺は打ちのめされたようだった。様々な出来事のうち、いくつかが頭をよぎる。
まずはループする夏休みだ。あの一万何千回もの繰り返しの中で、結果的にしたこととしなかったことがある。長門の話ではそうだった。

じゃぁ、例えばこういう話はどうだ?

あの切り取られた時間の中で、起きたことと起こらなかったことだ。
何でもいい、友人との再会、不慮の事故、検定試験の合否。……いくらでも挙げられるが、それらが起きた未来と、起こらなかった未来。当然先に延びる展開も異なってくるはずだ。なかったことにされている出来事が、あの時間にいくらでもあったのではないか?
三年前の七夕と昨年末の世界改変だってそうだ。あの時、俺がハルヒの手伝いをしなかったら? あの公園のベンチで見たもう一人の俺に、物陰にいた俺が出て行って無理矢理にでも会っていたら?
二月、俺は朝比奈さん(大)の手紙の指示のもと、自分でもよく知らないうちに朝比奈さん(みちる)と共にいくつかの未来を決定してしまった……らしい。
じゃぁ、それをしていなかったら? あのハカセくんも助かっていなかったら?

「……」

戦慄とは今の俺のような状態を指すのだろうと思う。考えに没頭するあまり、今自分がいる場所や話している相手さえ忘れかけてしまうほどだった。
「キョンくん……」
そんな俺を気遣うように、朝比奈さん(大)は俺の手を取った。その温かみに、俺は自分を呼び戻される。
「朝比奈さん。俺はどうしたらいいんでしょうか。……長門と、古泉を救うためには」
俺は布団の一点を見つめて言った。そして、あることを考えた。

ここにいる長門と俺たちが会うことは、果たして既定事項だったのだろうか?

答えはおそらくノーだ。
朝比奈さん(大)の話では、朝倉が俺に幻覚を見せることからして、既に彼女が知っている歴史とは違うのだ。だから、自らが危険を冒してまで俺たちをこの時間に退避させる必要があった。これは俺の推測に過ぎないが、あの一幕はひょっとして、子ども時代の朝比奈さんに指示していては間に合わないくらいに切迫した状況だったんじゃないだろうか。

「……もう一度、あの時間に戻ります」
朝比奈さんの言葉が耳に入ってきた。
俺は黙ったまま、布団を見つめたままで、続く言葉を待った。
やがて、
「まずは朝倉涼子を抑える必要があります……。わたしが知っている通りの歴史にすることは、たぶん、もう……できないけれど」
俺は彼女の話す内容に気を取られていた。だからまだ朝比奈さんの変化に気付けなかった。
「彼女を抑止した上で、元の時代の長門さんに協力してもらう必要があります。長門さん……いいえ。情報統合思念体そのものに……」
眼鏡つきの長門有希は先ほどからずっと眠っているようだ。しかし、本当に寝ているのか、はたまた寝た振りで俺たちの話を聞いているのかは分からなかった。

続く朝比奈さんの声を、俺はうまく聞きとれなかった。
「あなたが……れた日を、……書き……」
はっとして俺は朝比奈さん(大)に視線を戻した。

「……!」
たちまち心を鷲づかみにされたような感覚に陥る。

大人となった朝比奈さんが、泣いていた。
声を出さないように、押し殺して。

「……」
俺はどうすべきかまったく分からなくなる。
いつも部室でメイドさんをしてくれている俺の朝比奈さんなら、週二日のペースで半べそくらいにはなっている気がするが、この朝比奈さんが泣いている姿など初めて見る。
彼女はまだ俺の手を握ったまま、空いた手で口元を覆っている。
「……っ。ごめんね……キョンくん」
「一体どうしたんですか? あの、俺、何かまずいこと」
うろたえる俺に、朝比奈さんは顔を伏せがちに首を振って、
「違うの……。わたしは、これまで……。あなたや、あなたといるわたしを……。いいように動、動かして」

言われて気がつく。そうだ。俺は確かにそう思っていた。
大人となった朝比奈さんは、過去の彼女とは違ってできることも増え、あらゆる意味で立派になった。そして、その上で過去の自分や俺に対して指示を送っていた。

未来を、固定するために。

都合のいいように俺たちは操られているのではないかと、俺は訝っていた。事実、それでいくつかの重要な出来事を決定付けてしまったらしいからだ。穏やかな見た目と裏腹に着々と目的を達成する朝比奈さん(大)。次に会う時に、俺はいくつか質問するつもりでもいた。
あなたは、子どもだった頃の自分の心を忘れてしまったのですか? と……。

しかし、彼女も苦しんでいたのだ。

ただ温和な大人の笑顔で俺たちにあれやこれやの指示を与えてきたわけじゃない。思えば朝比奈さん(大)は、たまに俺には感情を読むことのできない複雑な面持ちになることがあった。俺の肩に額をつけて、しばらく動かなかった七夕の日を思い出す……。あの時も迷っていたのかもしれない。自分の指示によって、俺や、過去の自分の未来が決定付けられてしまうことと、それに伴う責任に。

俺は朝比奈さんを見た。
片手で顔を覆ったまま、肩が小刻みに震えている。

……。

彼女の涙だって、誰のせいでもない。
ただ、その役割をしていただけで。それだけで朝比奈さんは、今、この場で、泣いているのだ……。

「わたしが、しっかりしないと、いけないのに……っ、あの子、を……」
あの子とは朝比奈さん(小)のことだろう。
今、ハルヒの隣で寝ているであろう、過去の自分自身。

本当の年こそ知らないが、俺から見ればこの朝比奈さんも十分に大人だ。
大人が突然に涙する姿は、言い知れぬ不安というか、得体の知れない恐怖を子どもに運んでくる。
昔、オフクロが何かの拍子に急に泣いた時、幼かった俺はひどく動揺した。
自分が悪いことをしたわけではなくても、どこかから暗闇がやって来て丸ごと飲まれてしまうような、たちまち足許から世界の全てが崩れてしまうような、そんな不安。今の俺はまさにそういう状態だった。自分がどうにかなってしまいそうなのを気力で、唇を固く結んでこらえているのが……やっとだった。
俺にこの朝比奈さんをどうやって慰められるというのだろう。この朝比奈さんが、これまでどんな気持ちで俺たちと接して来たか分かるには、俺はまだまだ幼すぎた。

「あ、朝比奈さん」
自分の声が震えてしまうのを抑えられない。
俺は胸中で自分を鼓舞する。ちくしょう。しっかりしろ、俺。
握ったままの彼女の手が、やたら温かく感じられる。

「なっ、泣かないで……ください」
そう言うのが精一杯だった。……くそ、かっこわりぃ。
俺が何か言ったことは伝わったのか、朝比奈さんは震えた声のまま微かに言った。

「……ごめんね」

どうして謝るんだろう。あなたは、今まで頑張ってきたじゃないですか。懸命に使命をまっとうしてきたじゃないですか。何も悪くないですよ。……それに、向こうの部屋で眠っている子ども時代のあなただって、毎日努力を惜しみません。時間駐在員としても、SOS団専属のメイドさんとしても、いつだって精一杯です。そう、あなたはいつだって頑張り屋だから。

「もう、泣かないでくださいよ……」

「キョン、くん……?」
今度は俺が両目を拭う番だった。何て女々しいんだ俺よ。しゃっきっとしろ。まだ終わりじゃねぇんだ。
「はは、すいません。俺と来たら、だらしがなくって」

「……ふふ」
俺が朝比奈さんを見ると、彼女ははわずかに笑っていた。
「おあいこですね」
「そうですね……」

そうだ。そういうことにしちまおう。
俺たちにブルー色なんてのは似合わない。こんななよっとした俺を団長が見たら、蹴っ飛ばされて四方固めされた挙句校庭十周だ。他にも罰ゲーム目白押しだろう。怒ったまま口だけ笑ってるハルヒの顔が目に浮かぶようだ。

「ここからですよね、まだ。がんばりましょう……」

両目の端を拭った朝比奈さんは、もう泣かなかった。



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