「お待たせ。今日は買い物に行けなかったから残り物の材料だけどシチューにしてみたわ」
 皿に盛られたシチューにはじゃがいも、ブロッコリー
小さくもみじ型に切り取られたかわいいにんじんなどが入っており、
いかにもうまそうな匂いに彩られながら暖かい湯気がふわふわと顔の周りにまとわりついてきた。
「あ、ブロッコリーとかあまり好きじゃなかった?」
「いや……そんなことは」

俺は彼女が作ったシチューを食べている。
「キョンくん、おいしい?」
俺は何も答えず首を縦に振って反応してみせる。
まずいはずがない。
彼女は元々なんでもこなす万能タイプだ。
クラスでは人気者だし誰からも頼られ、誰からも愛される存在だ。
学校には彼女のファンクラブがいくつも存在し、
その一つにうちのクラスの山根も入っている。
俺の好みだって一度聞いたら忘れやしないだろう。

机の上の写真立てには遊園地で撮った俺と彼女のツーショットが入っていた。
二人とも嫉妬したくなるくらいに幸せそうな表情をしている。


「なあ朝倉、やっぱり俺たちって本当に付き合ってるのか?」
「ねえ、せっかく二人っきりなんだから少しくらい涼子って呼んでよ」

 

──勘弁してくれ



その日俺は朝倉涼子の部屋にいた。
しかも二人きりで──。


  ───『朝倉涼子の観測』───

話は2日ほど遡って桜咲き乱れるいつもの通学路。

何をとち狂ったのか去年の秋に花を満開にしていたこの並木道の桜も、
今年は無事に正しい季節の到来を告げることが出来たらしい。
そして俺も紆余曲折のあったあげく無事二年生になることができた。
この一年は本当にいろいろなことがありすぎて、
思い返すのもうんざりするほどであったが、
しかしこの一年がいつも以上にとても短く感じるのは、
それだけ俺が今この時間を楽しく感じながら過ごしているから他ならない。
いまさらこれは否定しないし、どうすればよかったなんて『たられば』を語ろうとも思わない。
過去に起きた出来事なんてものは過ぎ去ってみれば全部いい思い出にしか見えないわけで、
過去の俺からしたらこんな悠長なことを言っている今のこの俺のことなんてぶっとばしてやりたくもなるはずなんだが、
俺は俺としてここにいる現実を厳格に受け止め、
これからハルヒが起こす出来事も全て受け入れる覚悟が出来ていた。
自分の決めた未来に対して絶対後悔しないこと。
俺はこの一年で新たな方向へと成長を遂げていたのだ。

俺は新しいクラス割りを見ながら
やっぱりというべきか。運命とはついて回るものなのだろうか。
「また同じクラスね! キョン!」
特上の笑顔を作ったハルヒがVサインしているのを横目でみながら、
俺はクラス割からもう一人の無言のSOS団員の名前を探していた。

───いた。
なんと俺たちと同じ割り振りの中にいた。
なんてこった。偶然だと思いたい。
「でもまさか有希まで同じクラスになるなんてねぇ~。
 今年は去年よりももっと面白い一年間になるに違いないわ!」
ハルヒはこれからの一年間に誓いを立てるかのごとく得意げに腕を振り上げて空のかなた遠くを見あげていた。
このわざとらしいまでのクラス編成はハルヒのしわざなのだろうか。
だとしたら国木田と谷口までもが同じクラスになったことだけはハルヒに感謝しておく。
よく知る友人と別々のクラスになることはあまりうれしいことではないからな。

新クラスになっての自己紹介。
自己紹介ってえやつは新しく出会ったクラスメイトに対して第一印象を与えるという、
ある意味とても大事な重要イベントともいえる。
この第一印象で失敗したやつがその後の学生生活にどのような影響を及ぼすかは俺が言うまでもないだろう。
しかし俺はその場で作った適当な言葉で茶を濁す程度のことしかしなかった。
どうせこのあと、後ろの席のヤツの自己紹介のおかげで俺の名前なんてだーれも覚えちゃくれないんだからな。
「SOS団団長涼宮ハルヒ。ただの人間には興味ありません。宇宙人、未来人、超能力者……」
やはりというべきかハルヒの恒例の挨拶はどんな教師の説教よりも教室に静寂を訪れさせる。
静まり返った教室は数秒間、時間の流れを忘れたかのごとく全ての機能が停止していたが、
やがて次の谷口が自己紹介を始めたときに再び動き出した。
ハルヒはこの一年で学校全体に知れ渡る存在になっていたが
現物を生で見る人たちにとってそれはやはり衝撃的なものだったに違いない。
ハルヒはこの一発でこれからも触らぬ神に認定されるとともに
その取り巻きどもも要注意人物として敬遠されることだろう。

ハルヒはやっぱりいつものハルヒだし、
長門の自己紹介は誰の記憶にも残らないほどのそっけなさであったし、
クラス替えがあったにも関わらず去年となんら変わらない一日が過ぎていこうとしていた。
思い起こせば一年前の今日、
ハルヒの自己紹介のときから俺の運命の列車は本来のレールを外れ、
スイッチバック方式を経て遠く銀河の彼方まで連れ去られていった。
あれからちょうど一年経つのか。
あのとき俺がハルヒに声をかけなかったらどんな世界が広がっていたかなどと、
もはや取り返しのつかない過去に思いを耽てみたりもした。

そんなことを考えたのがいけなかったのだろうか。
俺はついさっき封印した後悔の念を再び何度も呼び起こすことになる。
ハルヒの引き起こした出来事を我慢するとは言ったが、
まさか別のハルヒがこんなことを引き起こすとは考えもしなかった。

次の日の朝、
俺は布団の中で目を覚ますと体がいやに重いということに気づいた。
頭がふらふらするのは決して目覚めが悪いからというものではなく、
目の前の物がダブって見えるくらいの眩暈がしていた。
幻覚まで見えそうなくらい世界がゆがんで見えた。
額に手を当てるとかなり熱もあるらく熱い。
試しに体温計を脇に差し込むと、目盛りがゆうに38℃を超えて39℃に迫ろうとしていた。
どうやら俺は風邪でも引いてしまったらしい。

昨日まではなんともなかったのに突然の高熱とはなんともひどい風邪ではあるが、
とにかくこんな状態では学校に行くわけにはいかない。
どうせまだ新学期は始まったばかりであるし、
いきなり授業についていけなくなるようなこともあるまい。

親に事情を話し、学校に連絡をしておくように告げてから俺は再び暖かい布団の中へと舞い戻った。
たとえ病気の最中であっても今日は学校に行かなくてもいいという気持ちは快感だ。

しかし、その快感を邪魔するがごとくさっきからピロピロと携帯が鳴っているような気がするが
俺の眠りを妨げるものはいったい誰だ。

いや、どうせハルヒだろうが、俺は病気のときほどハルヒの声を聞きたくないと思うことは無い。
あいつの甲高くどこまでも元気に満ち溢れた声は病人には毒である。
布団を頭からかぶり、完全に無視する。
明日何を言ってきたとしてもそのときはそのときだ。

「キョーンくーん、お姉ちゃんがお見舞いが来たよ~」
さっき学校から帰ってきた妹がカン高い声で俺の眠りを妨げてきた。
時計を見るともう4時を過ぎている。
さっき計ったときに熱は幾分引いて楽になっていたとはいえ、小学生の声は頭に響く。
「誰が見舞いに来たって?」
「えへへぇ、キョンくんの大好きな人だよ~」
はぁ?
誰が大好きな人だよ。
ん? もしかして……朝比奈さんのことか!?
長門がお見舞いに来るという可能性はあまり考えられないし、
それともまさかハルヒのことだったりしないよな?
パジャマのままでは失礼かと思ったがどうせ今日は風邪で休むと伝えてある。
ずる休みをしているわけではないんだからこのままでいいだろ。
朝比奈さんか長門かハルヒか。
はたまた大穴を狙ってそれ以外の美女か。
病気になって一日中布団の中にいなくてはいけなかった日であるからこそ、
どんな人でもお見舞いに来てくれたということ自体が嬉しい。


玄関を開けてそこに立っていた人物を見て俺は驚愕した。

見てはいけないものを見た。

それ以外の美女が正解ってなんだよ。

俺はすぐにその扉を閉めた。
心臓が口から出てきそうな勢いで鼓動している。

「ちょっとー、急に何の冗談?
 これがせっかくお見舞いに来てあげた人に対する仕打ちなわけ?」
「なんでお前がここにいる……」
「なんでってお見舞いでしょ?」
「お前は転校したことになっていたんじゃないのか?」

──朝倉涼子。
なんでお前がここにいる。

「わたしが転校?」
「カナダだ。お前はカナダへ転校したことになってる」
本当はそんなもん嘘っぱちだ。
朝倉はこの世に存在しない。消滅した。
じゃあ、こいつは誰なんだ?
朝倉の亡霊か?
宇宙人のアンドロイドとやらの幽霊なんて出るのか?
「ふふっ、変な冗談言わないでよ。
 わたしが転校する夢でも見たの?
 そうだとしてもわたしはカナダからの一時帰国中とは考えられないわけ?」
「もういい。そんなことは。それで何をしに来た」
また俺を殺しにきたのか。
「だからお見舞いって言ってるじゃない……。
 ねえ、せっかくお見舞いに来てあげてる人に対してそれは失礼なんじゃない?」
「やめてくれ……やめてくれ……またあの世界の繰り返しか?
 今度は何だ? また長門か? それともハルヒか?」
「本当に大丈夫? 病院行ったほうがいいんじゃ……」
「帰ってくれ!!」
「んもう! ホントに知らないんだからね!」
本当に怒ったのかどうかは知らないが、
朝倉の足音が遠くなっていく。

それでもしばらく俺は玄関前でじっとしていた。
朝倉が本気を出したらこんな玄関扉なんて空気よりも頼りない存在だ。

一時間くらい経過したであろうか。
妹が「キョンくん何してるのー?」としつこく聞いてきてようやくわれに返った。
お前ふざけんなよ。
さっきなんであいつを俺の大好きな人なんて言ったんだよ。
あいつとは一度も会ったことが無いはずだろうが。

こっそりと玄関を開けた。
玄関前にはもう朝倉はいなくなっていた。
ドアの横のところに新鮮な苺がワンパック置いてあった。
朝倉が置いていったのだろうか。
お見舞いに来たのは本当だったのか。
妹にそれを与えると大喜びでリビングに持っていった。

長門に電話だ!
急いで階段を駆け上がり携帯を取り出した。

だがそこで目にしたのはまたもあのときと同じような恐怖であった。

携帯の電話帳を見てもハルヒの名前もなければ長門も古泉も朝比奈さんの名前もない。
国木田や谷口などの名前はあるのにSOS団のメンバーの名前や電話番号は履歴にも残っていなかったのだ。

俺はつい昨日だって古泉やハルヒに電話をかけたというのに、
昨日の通話履歴にはまったく別の人間の名前しかなかった。
そして数日にわたる着信履歴や通話履歴に
びっしりと連なる名前がほとんど同じ人物の名前だったのだ。
俺はほとんどこいつにしか電話してないというのだろうか。
今日の朝の携帯を鳴らした人物もこいつであった。

『着信01 AM 8:40 朝倉涼子』

この世界には朝倉涼子がいる。
それだけで俺はあまりの恐怖に身震いがした。

一瞬長門のマンションに行こうかとも考えたが、
あのマンションには朝倉涼子も住んでいる。
どう考えてもそっちのほうが怖かった。

そして何より朝倉がいるというだけではない。
あの朝倉を妹が知っている。
携帯のデータも狂っている。

おそらくこの世界全体が確実に狂っているということだ。
長門が俺の知る長門である保障はどこにもない。
またかよ長門……いや、今回はハルヒかもしれないが、
長門がいれば世界改変などという超常現象はもう起きないものだと思っていた。
今度も俺の知る長門がうまく元に戻してくれればいいが果たしてうまくいくのだろうか。

ハルヒや古泉や朝比奈さんにも電話をかけようと思ったが、
携帯の番号は今の混乱した俺の記憶ではかすかに最初の4桁くらいを残して全て紛失している。
もうこのまま布団の中でずっと隠れていたい。
学校へ行ったら朝倉がいてやあおはようなんて生活は絶対にいやだ。

結局次の日、やはり俺は学校に行かなければならなくなった。
昨日の熱は嘘のように下がり、頭の痛さもまるでなかったかのごとく快調である。
学校を休みたいなどといっても俺の母親はそんなことをおかまいなしに俺を家から追い出した。

一昨日俺が編成されたはずのクラスはここだ。
ここのはずだ。
何度教室の入り口ところにあるプレートを確認してもこの二年のクラスであってるはずだ。
じゃあなぜハルヒがいない?
いくら昨日病気で頭が痛かったからって、
一昨日の自己紹介のことまで忘れちゃいないぜ。
長門もいない。
谷口も国木田もいない。
知っているのは去年同じクラスだった山根くらいか。

そしてまたこのパターンか。
「おはよう」
朝倉がクラスメイトとして登場した。
彼女がクラスに現れると同時にクラス全体の空気が変わったような気がする。
女子が朝倉の元に集まり朝の挨拶を交わしている。
しかし、ひとしきり挨拶を終えると自分の席にかばんを掛けてまっすぐに俺の元へと歩み寄ってくる。
「おはよう、キョンくん。風邪はもう大丈夫?」
キョンくんだって?
なんだこいつ異常に馴れ馴れしい。
俺はじっと朝倉の方を睨みつけたが朝倉は不思議そうな顔でこちらを見ていた。

やっとわかる。
そう、これはやはり改変された世界なのだと。
この朝倉も世界の改変によって再構築された存在なのだろう。

「なんだよ、キョン。
 さっきから自分の彼女が挨拶してるのにずっと無視かよ~」
山根が拗ねたように口を尖らせながら言った。
お前って俺のことをあだ名で呼ぶほど親しい仲だったか?
ほとんど話をしたことも無かったと思うが。
それよりなんだって?
彼女? はぁ?
誰が誰の彼女だって!?
「え……? お前ら去年からずっと付き合ってたじゃん。
 ……もしかして別れちゃったのか?」
山根の表情が一瞬だけ嬉しそうな顔になったのを俺は見逃さなかった。

クラス中がシーンと静まり返った。
みんなが俺たちのことをずっと見ていた。
朝倉は少し困ったような表情をしている。
なんだかケンカ中のカップルがクラスの空気をぶち壊しているような雰囲気だ。

俺は大事なことを思い出し、ようやく朝倉に話しかける。
「朝倉……長門有希は知っているよな?
 たぶんお前と同じマンションに住んでると思うんだが。
 眼鏡かけた読書好きの女の子だ。あいつはいまどこにいるか知ってるか?」
「なんで急にそんな話になるわけ?」
「いいからそれだけ教えてくれ」
「長門さんを知らないわけ無いでしょ。
 あなたも何度も会ってるじゃない。
 あの子ならもう隣のクラスに来てるでしょ」

俺は急いで時計を確認した。
まだ朝のホームルームまではまだ少し時間がある。
隣のクラスが右か左か、どちらを差しているのかはわからなかったが、
一発目で正解の方を引いたらしい。

朝倉の言ったことは嘘ではなかった。
隣のクラスに長門がいた。

だがこの世界の長門はやはりというべきか眼鏡を掛けていた。
なぜ眼鏡をかけているかといえばあの朝倉がいるからなのだろう。
俺の知る長門は朝倉を倒したときに眼鏡を失い、それ以来眼鏡を再生させていなかったからだ。
こいつにあのいつもの通りの宇宙人的パワーが宿っていれば話は早いんだが、
いつかのあのときみたいに普通の一少女になっていたらどうすればいいんだ。
また俺は団員集めをしなければならないのか?

「長門。俺のことを知っているか?」
「……知っている」
長門の目が眼鏡越しにこちらを見つめてくる。
「世界がまたおかしくなっちまった。
 世界改変とでもいうんだろうか。
 あの朝倉がいるんだよ。
 俺の言ってることの意味はわかるか?
 前のときみたいにお前の仕業か?
 いや、もしそうだとしたら自覚はないのかもしれんが」
長門は何も答えずじっとうつむいて考え事をしているような表情をしている。

「コラーー!!」
突然俺は首根っこを掴んで体ごと後ろに引っ張られた。
後ろの壁に激突した俺は少しの間だけあるはずのない星を見た。
「あんた有希に何してるわけ?」

ハルヒだ。
肩までおろした髪をカチューシャで止めた、
あのいつのもの姿のままのハルヒがそこにいた。
おお、この世界はハルヒがきちんとここにいるではないか。
隣のクラスにハルヒと長門がまるまる移っただけか?
俺はもう別の学校まで捜しに行くことまで覚悟していたんだぜ。

「……ってキョンじゃない。
 わたしのSOS団の団員を脅すとはいい度胸してるじゃないの」
ここにはSOS団はあるのか。
それに俺はハルヒときちんと知り合っている。
前ほどヤバイ状況ではないのかもしれんな。
でも俺はSOS団の団員ではないのか?
ハルヒはそんな口ぶりである。
まあ、いい。
こいつにあのことを話せば早いはずだ。
いきなりだが本題行くぜ。
「お前はあの七夕の日を覚えているか?」
「何よ急に。もしかして4年前のこと? ふん、東中のヤツに聞いたの?
 谷口かしら。まったく!」
じろっと睨んだ先に谷口がマヌケ面で座っていた。
「あのとき忍び込んだのはお前だけじゃないはずだ。
 眠った少女を抱えた男が一緒にいて……」
「はぁ?なにそれ」
へ?
「あれはあたしがあの日一人でやったのよ」
「え……? え?
 あ、いや、でも書くときに『ここにいるぞ!』って意思を込めて……」
「え……。
 その話もしかして……古泉くんに聞いたの?
 ねえ、ちょっと古泉くん! なんでキョンにこの話をするわけ?
 あなたにしか話してないのにどうしてキョンにこの話が伝わっているのよ!
 絶対に人に話さないって言ってたのに! 恥ずかしいからやめてよね!」

おお、古泉。なんだお前ハルヒの前の席にいたのか。気づかなかったぜ。
ってことはなんだ?
このクラスには長門とハルヒと古泉までいるのか。
あれ? お前特進クラスじゃなかったっけ? ここでは違うのか?

でもお前のことも忘れてたわけじゃないぜ。
俺はすごく嬉しいんだ。
前にあんなに苦労した鍵集めがこんなに簡単に出来たからだ。
この調子なら朝比奈さんだってすぐに見つかるだろう。

古泉が俺の肩をポンポンと叩いて話しかけてくる。
「ちょっとお話が……」
待て。まだ俺はハルヒへの話が終わっていない。
「ジョン・スミス! ジョン・スミスだよ!
 わかんねえか!? あの七夕のときにあったジョン・スミスだって!」
ハルヒは何の興味も無さそうに俺を冷たい視線で睨んだ。
「誰よそれ。ばっかみたい。」
ジョン・スミスを知らない?
忘れているだけじゃないのか?
それとも遠くから声を掛けたからちゃんと聞こえなかったのか。

さっきから俺の肩に置いた古泉の手がどんどん握力を込めているのがわかる。
「ああ、わかったぜ。ハルヒ。
 放課後また詳しく部室で話す」
古泉の手がミシミシと俺の肩を破壊しそうになっていた。
このハルヒは俺のハルヒと少し違うようだ。予想はしていたが仕方ない。
でも古泉。お前にもいっぱい聞きたいことがある。

俺は古泉に連れられてクラスを出た。
何も言ってもいないのに長門も後から一緒についてきていた。

階段の踊り場で誰もいないことを確認してから古泉が話し出した。
「どうしてその七夕の話を知ってるんですか?
 おかしいですね。
 僕は誰にもその話はしていないはずだったんですが、
 朝倉さんですか? その事を言い出したのは」
ここではこいつの情報も少しおかしくなっているようだ。
「なあ、古泉。お前超能力を持っていたりしないか?
 ハルヒのイライラが頂点になったとき限定ではあるだろうが」
古泉の表情が一瞬曇った。
何かヤバイことでも知られたかのような表情だ。
別に俺が知っていて何がおかしいというのだ。
すぐにいつもの古泉スマイルに立ち戻りまた芝居じみた笑いをする。
「僕が超能力者? ふふ、あーっはっはっはっは。
 やめてくださいよそんなおかしな話は」
「いや、待て。隠さないでいい。
 本当にないのか確認したかったんだ。
 前にもこんなことがあったんだ。
 頼む。本当の話が聞きたいだけなんだ。
 お前はその超能力者の集まりの『機関』とか呼ばれる組織にも入ってないのか?」
また古泉の目が曇った。
今度はもう芝居じみた表情をしていない。
「もしも。もしも仮にですよ?
 僕が超能力者だとしてその『機関』とやらも存在していたとしましょう。
 そのことを知られたら僕は困るんじゃないですか?
 『機関』とやらがどのような組織か知りませんが、超能力者を抱えているような集団であれば、
 秘密を知ったものには何をしてくるかわかったものではないと思いませんか?
 あいにく僕は超能力者でもなければその『機関』とやらの人間でもありません。
 だからあなたは無事でしょう。
 でも今度ハルヒに近づいたら……どうなるかは保障しませんよ」
古泉は肩を怒らせながら帰っていった。

古泉ぃ……顔がマジだったぜ?
初めて見る表情だった。正直言ってかなりびびった。
その上、ハルヒとか呼び捨てかよ。
ひでえ世界の狂い方だな。
でもその反応ではお前が超能力者であることを認めてるようなもんだぜ?
本当に超能力者ではない普通人のお前は『キカン』とはどんな字ですか。と聞いてきたからな。

長門がその横で眼鏡ごしにじいっと俺たちの様子を見ていた。
「長門、お前の力を貸して欲しい。
 世界がまたおかしくなっているんだ。
 お前は宇宙人の長門だろ?
 そうじゃない長門も知っているが今度は違うんだろ?」
「知らない。 わたしは宇宙人などではない。
 あなたは何か勘違いしている。
 昨日病気になったときに変な夢でも見たのでは」
長門まで否定しやがった。
でもしゃべり方は俺の知っている長門だ。
それに普通の人間は宇宙人とか言われて、宇宙人ではないなんて答え方はしないぜ。
普通ならそんなことを言う人間にまともな返答をしようとするもんか。

長門はぷいっと振り返りそのまま古泉を追うように自分のクラスへ帰っていった。
まあ、たしかに俺の状況を説明してなかったのが悪い。
この世界の長門には長門なりの事情があるのだろう。

授業中、俺はずっと考えていた。
以前にも同じようなことがあっただけに今回はあのときほどまでには絶望していなかったが、
今回もかなりヤバイ状況であることには変わり無い。

休み時間中何度も俺の席に来て話しかけてくる朝倉を全て完全に無視し、
放課後の時間が訪れるのをただひたすらに待ち続けた。
もし世界が改変されていてこの朝倉が安全無害なものへと変貌していたとしても、
朝倉とはあまり付き合いたいとは思えない。
こいつに刺された腹の痛みは一生忘れることができないからだ。

放課後、いつものように部室棟に行く。
ハルヒにまた会いに行くためだ。
まだ絶望するのは早い。
長門と古泉はどうやら俺の知る宇宙人製アンドロイドと超能力者だと思われる。
ハルヒもいるし、SOS団もきちんと存在する。
ということはハルヒにもあの妙な能力もきっと健在なはずだ。
そうじゃなきゃあいつらが集まる理由は無いわけだからな。

もうこの際体面など繕っている場合ではない。
場合によってはハルヒに今までのことを全部吐いてあいつの能力を自覚させるのだ。
世界がこのままおかしくなってるより絶対にそのほうがいい。
俺は中庭を駆け抜け、部室棟の階段を駆け上がった。

部室の扉を見て俺は涙が出てきたね。
『SOS団本日はお休み!』
と書かれているのかね? この紙は。おいおい。

いや、泣いてる場合じゃないぞ。涙を拭け。
ハルヒのクラスもさっき授業が終わったばっかりだ。
今から追いかければまだ間に合う。
あいつの家はどこにあるかは詳しい場所は知らないが、
途中の道のりまでなら知っているからな。
走ればきっと間に合うはずだ。

急いで下駄箱へと靴を取りに向かう。

だが、俺の下駄箱の前でたたずむ少女を見て俺は思わず息を飲み込んだ。

「キョンくん。
 今までどこ行ってたの? 探したんだからね」
「……朝倉」
「一緒に帰りましょ」
朝倉がいつも周りの女子たちと話しているときよりも何倍も明るい笑顔で微笑んだ。
微かに無理をしているような気配が伺える。

「勘弁してくれ……俺に付きまわないでくれ」
「ねえ、キョンくん。おかしいよ……
 昨日からなんか様子がずっと変だよ」
「そんな芝居はいいんだ……
 俺は今からハルヒに会いに行かなきゃいけないんだ」
長門が宇宙人だとすれば、こいつも宇宙人だ。
前にハルヒたちがいなくなったあの世界の朝倉とは全く違う。

世界の改変者は何を考えてやがるんだ。
しかもこいつに俺の彼女の役なんか与えやがって。

「なんで……? どうして急にわたしをそんなに避けるの?
 もうわたしのこと嫌いになっちゃったの?
 それとも他に好きな子が出来たの?」
「やめてくれ朝倉。これ以上近づいたら俺は大声を出すぞ」
「ねえ、おかしいよ……。一昨日まで涼子って呼んでたのに」
ぐすっという鼻の鳴る音と同時に朝倉の目からは大粒の涙が零れ落ちていた。
朝倉はその場に座り込むような姿勢で動かなくなっていた。
下校中の周りの生徒達がこちらを見て同情のようなものを寄せている。
しかし、朝倉がそこをどいてくれないと俺は下履きをとることが出来ない。
「泣き真似しても無駄だ。
 俺の知っている朝倉はそんな感情というものを持っていないはずだ。
 ハルヒを観察するために情報統合思念体に造られた存在。
 対有機生命体ヒューマノイドなんとか。それが長門やお前の正体だからな」
「……!!!」
朝倉の表情が一変する。
さっきまでの泣き顔が嘘のようだ。
いや、実際完全な嘘泣きだった。
朝倉の顔からは涙の跡すら完全に消え去っていた。
そこにはいつかのあの殺意を持った表情の朝倉の姿があった。

「ねえ、なぜあなたがそれを知っているの?」
───しまった。
そう思ったときは遅かった。

見る見るうちに周りの空間が暗いねずみ色の世界になっていき、
下駄箱は宙に浮きながら形をグネグネと形を変え、俺の周りを取り囲んでいった。


やっぱりこの世界でも朝倉はこんなヤツだった。


朝倉と一対一で対面している状況は俺にとって一番危険な状況だったはずだ。
それなのに俺というヤツはペラペラと朝倉とおしゃべりをしていたのだ。
なんという失態。
またしてもあの朝倉に俺は消されようとしていた。
二度あることは三度ある。
どうやら今回は三度目の正直とはいかなかったようだ。
ことわざってのは都合よく出来てるもんだね。
後ずさりしながら距離を保とうとするがさっきまで何もなかったはずの空間が
分厚いコンクリートの塊でぬり固められていた。
周りにいたはずの下校中の生徒たちの姿もどこにもない。
そこはただの四角い壁に囲まれた立方体空間になっていた。
ああ、わかっていたよ。
ここまでは前と完全に同じだからな。

「この空間は、わたしの情報制御下にある。脱出路は全て封鎖した。
 簡単なこと。ちょっと分子の結合情報を操作してやればすぐに改変できる。
 この空間は完全に密室。出ることも入ることも出来ない」
わかってる。俺の力で逃げ出すことは不可能だ。
だが俺の体はその理解とは反対に少しでも逃げようと必死にもがいていた。
「ねえ、どうしてそんなに怯えるの? わたしが宇宙人製のアンドロイドだとなんで怖いの?」
朝倉はニッコリと微笑む。
「それはお前に二度も殺されそうに……」この言葉は出なかった。
もうすぐ三度目になりそうだからだ。

「な、長門! は、早く来てくれ! 助けてくれ! 頼む!」
なんとも情けないことに俺はこの状況の打開を一人の少女に託すしかなかった。
来るんだろ? 長門。
そろそろ右上の方の空間を破ってさ。
「長門さんが来る? 
 なぜあなたを助けに来なきゃいけないわけ?
 わたしが怖いのに長門さんは怖くないんだ。
 どういう理屈かしら。
 まさか長門さんがあなたの記憶をいじったとかそういうこと?」
俺の体はいつのまにか重力を感じなくなっていた。
指の先までぴくりとも動かない。
朝倉がゆっくりとこちらに詰め寄ってくる足音が聞こえた。
前は死ぬ前に目を閉じて置けばよかったと思ったが、今回は動けるうちに目を閉じていた。
あんな恐ろしい映像は二度と見たくはないからだ。
この一年間での成長とはこれのことだったのだろうか。
ああ、俺はとことん無力だ。

朝倉の詰め寄る足音が近づいてくる。
あと二歩……あと一歩!
長門! 長門!
朝倉はもう完全に目の前にいるというのに上空から天の助けが来るような音は何もしない。
「ねえ、誰から聞いたの? 教えてよ。
 ううん。あなたは誰からもこのことを聞いていないはずだわ。
 わたしは涼宮さんの周囲の人間のことも常に観察していたし、絶対にありえないもの。
 どうやってこのことを知りえたのか教えてくれないかな」
怖い。声が出ないのは朝倉の仕業なのかそれとも恐怖で筋肉が萎縮しているのか。
目を瞑らない方がよかったかもしれない。
何も見えないことの恐怖が俺をさらに怯えさせていた。
やがてゆっくりと自分の喉元に冷たいものが当たるのを感じた。
その冷たいものが何であるのかすぐにはわからなかったが、
金属類ではないらしい。
俺の顔を伝ってゆっくりと動いていた。
わかった。朝倉の手だ。
なんて冷たい手なんだ。
その手は俺の顔を撫でて頬に止まるとゆっくりと両手で俺の顔を持ち上げた。
唇に柔らかい何かが当たる感触が一瞬だけあってそこからいきなり体に重力が戻ってきた。
なんだ? 体が動くぞ。

「不思議ね。あなたは昨日までのキョンくんとは別人?
 記憶の改竄された跡もなければ、精神波形に異常もきたしていない。
 この状態のわたしをみてもまるで前にもこういう状況にあったかのような振る舞いだわ」
この朝倉は前にもこういうことがあったことを知らないのか。
「どこまで知ってるの? それだけでも教えて」
答えようがない。具体的に何を聞いてるのかがわからない。
「答えてくれたらこの空間から出してあげる」
ニッコリと天使のような微笑み見せる朝倉。
怖い。コイツは昨日もあんなふうにしながらやっぱりいつでも俺を殺せたんだ。
「長門さんやわたしが宇宙人製のアンドロイドだってどうしてわかったの?」
「それは長門が俺に直接教えた……そして実際に長門の能力は過去に何度も見ている。
 朝倉もそうだ。お前の能力はずっと前から知っている。俺が知らないとでも思ったのか?」
「あなたはわたしのこといつもみたいに涼子って呼んでくれないのね……」
誰が呼ぶかっ!
気色悪い。
「じゃあ、涼宮さんがどういう人かも知っているのね?」
「ハルヒはお前たちにとって進化の可能性なんだろ。
 朝比奈さんにとっては時空の歪み。
 古泉にとっては神だそうだ。
 こんなこと俺に聞かなくてもわかっているんだろ」
「あなたが知っているということがおかしいの。
 本当のあなたはこんなことを知らないはずだわ。
 わたしのことだけでなく、SOS団のみんなの秘密も知らないはず。
 だいいちあなたのような何も無い普通の人間がSOS団の機密を知るなんてことはありえないと思うの」

朝倉はじいっと俺の目を見つめて何かを読み取るような素振りをしてから首をかしげた。
「どうやらあなたは違う世界から来た人間みたいね。
 新たに全てを予見できる超能力が芽生えた形跡もないし、
 涼宮さんがあなたの記憶を改竄した形跡も無いわ。
 信じられないけどそうとしか考えられないわ」

朝倉の出した結論は俺が異世界人だということだった。
それならこの世界は元々正しい。
俺は別の世界から来ただけだという。
「いったいどうしてこんなことに……」
「考えられる原因の1つは一昨日の自己紹介のときね。
 涼宮さんが異世界人はここに来なさいって言ってきたからだと思うの。
 これは長門さんの定期報告でわかったことなんだけどね」
なんだって? それは去年も言ったはずだぞ?
「ううん、去年は宇宙人、未来人、超能力者までだったわ。
 同じクラスだったから聞いてたもの。
 やっぱりあなたとはどこか世界軸がずれているみたいね。
 それに加えて今年涼宮さんは異世界人を加えてきた。
 もしかしたら何かあるかもしれないと思っていた矢先にあなたがこうしてやってきた」
ハルヒに関わっているうちに俺はとうとう異世界人になっちまったのか。

いや、まだわからない。
この朝倉が嘘をついているのかもしれないじゃないか。
朝倉が世界改変を行った世界であれば考えられなくは無い。
ただ……俺の知る世界では朝倉はもう存在していないのだ。
じゃあ、誰がこんなに朝倉の都合にあわせた世界を構成するというのだ。

「どうしようっかな……ここまでやっちゃったらほんとは記憶を消去しないといけないんだけど」
周りを見回しながら朝倉は困ったような表情をしている。
ぬりかべが四方を埋め尽くしているような光景が広がっていた。
通常では起こりえない超常現象はまだ続いたままだ。

「あなたの記憶を消去するより、
 このままにしておいて涼宮ハルヒの出方を見たほうがいいと思う。
 ねえ、この案はどう思う? 結構いい案だと思わない?」
また朝倉がニッコリと微笑んだ。
俺は助かったのか?
気づくとあたりは普通の景色に戻っていた。
放課後の学校。
自分の下駄箱の前で俺はへたりこんでいた。

「今日は一人で帰るわ。
 キョンくんも気をつけて帰ってね」
そういい残すと朝倉はスタスタとこの場を去っていった。

やっと俺は恐怖から開放された。
気がつくとかなりの時間が経過していたらしく、
周りにいたはずの下校中の生徒達は誰もいなくなっていた。
朝倉がその場から完全にいなくなったのを確認してから俺はようやく下駄箱を開けた。
そこには意外なことに小さな封筒が入っていた。

俺は急いでそれに飛びついた。
朝比奈さん(大)からの助け舟か!?
この世界がおかしくなった地点まで時間を遡れというのだろうか。

その場封筒を開けて俺は少しガッカリした。
字が明らかに朝比奈さんのそれとは違っていたのだ。
その字は俺のよく知る人物の字で、
「放課後4時、教室にて待つ」
とだけ書かれていた。
時計の針はすでに4時はとっくに過ぎて5時に近い。
朝倉のせいだ。これでは今からハルヒを追っかけていっても到底間に合わないだろう。
俺は仕方なしにきびすを返し、教室に向かった。

今までの経験から言って待っているのは女の子だ。
そしてこれから受ける告白は愛の告白なんぞではないのだ。
むしろ俺の命が危険にさらされる可能性すらあった。
だが、俺はこの手紙をくれた人物を信頼していた。
「……遅い」
誰もいなくなった教室に立っていたのはやっぱり予想されたとおりの人物だった。
唯一俺の認識と違うのは眼鏡をかけているってことだ。
「長門……いったい何の用だ?
 さっき朝倉に襲われていたときは助けてくれなかったのにさ」
「結論から言う。
 これから情報の改変を行う」
またしても女の子からの告白なんぞではなかった。
期待してたわけではないが。
でも情報の改変ってことは世界を元に戻すっていうことか?
長門はさっきは自分が宇宙人だということを否定していたのに、
なんの説明も無くそのことはすでに俺との共通認識だと肯定していた。
「これから説明することはなるべくあなたにわかる様な言葉を選ぶが、
 完全に正しくは言語化できない。
 あなたの言語能力ではほぼ確実に情報の伝達に齟齬が発生する。
 それでもわたしがこのことを説明するのは、
 わたしがこれから改変を行うための義務。
 あなたには少しでも理解してもらわなくてはならないから。
 だから最後まで怒らないで聞いて」

なぜだか今回は長門に説教されるようだ。

「まず、今回世界改変が一度も行われていないことを述べておく。
 全ての観測データに基づき、改変の事実は認められなかった。
 世界の改変を行ったときには情報が歪められたデータの異常を検出する。
 どのような方法を用いたとしても確実に痕跡を残す。
 改変そのものが痕跡と同じようなものであるから。
 それは宇宙法則の1つである。
 それなのにあなたは自分がもう一つの世界から来たと考えている。
 だがそれはありえない。
 世界は常にたった1つだけ。
 時間遡行をして世界を書き換えてもそれは世界の分岐にはならない。
 世界はその情報に上書きされていくだけ」
長門は眼鏡をくいっと持ち上げて、こちらを見上げながらゆっくりと話しを続けた。
平坦で小さな声が誰もいない教室に響く。

「世界がある地点から多重に分岐すると仮定したとき、
 その分岐の可能性には制限を設けることが出来ない。
 なぜなら宇宙には最小の単位というものは存在せず、
 また分岐の規定は観測者の規定のほかならず、
 一つ分岐を認めると時間の最小単位にも影響されずに世界が無限に増殖を繰り返してしまう。
 この場合の無限とは限りなく無限に近い数字ではなく本来の意味での無限。
 再現なく世界は分裂のみを繰り返し機能を果たさない。
 最初から世界は複数存在し、互いの世界は絶対に干渉をしないことを条件にしたとき、
 複数の世界は存在する可能性を持つと仮定することもできる。
 だがもし、互いの世界が干渉をわずかでも許した場合、
 無数に存在する世界からの無限の情報介入によりその世界は崩壊してしまう。
 この法則は宇宙法則よりも原則的な世界法則とも呼ぶべきものであり、
 涼宮ハルヒの能力を使って、もしこのような事が行われたと仮定した場合にも、
 影響を与えられた世界はその綻びから確実に崩壊へと導かれる。
 この場合影響を与えられた世界とはあなたが呼び寄せられたと思っているこの世界。
 この世界が崩壊していないということが、あなたが異世界間移行をしていない証拠に他ならない。
 よって世界が複数存在していようといまいとあなたが異世界から来たということはありえない。
 涼宮ハルヒはそのような能力を使用していないと推測される」

長門は単調なリズムで一気にまくしたててきた。
普段まったく口もきかないやつが、よくもまあこんなことばかり一度も噛まずに言えたもんだ。
下校時間も過ぎ、教室の外の音も一切聞こえなくなってくる。
窓に当たる風の音だけが教室の中に届いていた。
俺が異世界から来たのではないのならいったいどこから来たというのだ。

「今までの涼宮ハルヒの観測データによれば、
 彼女の願望の実現には最も無理の無い方法が取られている
 ゆえに、世界は最初からこのように巡航していた。
 だがあなただけがこの世界を正しく認識できずにいる。
 だからあなたの記憶こそが間違い。
 
 あなたの記憶を改竄し、異世界人として行動させる。
 それが涼宮ハルヒの考えた最も自然なシナリオ」

そんなバカな……
俺の考えや記憶が全て間違っていたというのか。
俺の知っているハルヒも長門も朝比奈さんも古泉だって、
そもそも存在していなかったというのか。
全てはハルヒの書いた小説のようなものだったというのか。
古泉の言う5分前に世界が作られた説よりもさらに信じがたいことだ。

今まで俺が一年間過ごしてきたあのSOS団での出来事や、
出会ってきた人物達の物語までも、
あれも何もかも全部俺の妄想だったっていうのか?
そんなはずはない。
断じて言う。
俺の頭は至って正常なんだ。 

「じゃあ、ハルヒが生み出している閉鎖空間はどうなるんだ。
 あれが膨張して行ったら別の世界になるんだろ?
 ならもう一つの世界は存在するじゃないか。
 それに現に一度そうなりそうになったんだろ?
 宇宙だって新しく誕生したり消滅したりするらしいじゃないか。
 同時にいくつかの世界が誕生しているとも考えられなくはないか?
 その中に偶然この世界と同じような進化を遂げた世界があってもおかしくはないんじゃないのか?」

「違う。
 あなたはこの場合で言う異世界というものを正しく認識していない。
 それに涼宮ハルヒが新しい世界を生み出したときにはこちらの世界はその新世界に上書きされる。
 世界は二つ同時に存在できないから。
 あなたの認識している異世界は異なる宇宙と考えられるもの。
 それならば確かに理論上存在しなくはない。
 だが、その異宇宙にしても同じこと。
 互いに干渉はできないからこそ互いの宇宙は存在を維持できる。
 だからこの宇宙から異宇宙を観測することは出来ない。
 たしかに宇宙には誕生と死が存在するため互いの宇宙が干渉する可能性はありうる。
 だが干渉したその瞬間にその宇宙は互いに死滅もしくは大きく変質する。
 宇宙は矛盾を起こしても存在し続けるが世界は矛盾と共存できない。
 そして世界には誕生も死も過去も未来も存在しない。
 最初からただ存在するだけのもの
 崩壊できないのに崩壊の法則を持ち込むことはできない」
難しい。わけがわからないよ長門。
こんな話は古泉に聞かせてやってくれ。
きっとものすごい勢いで食いついてくるから。

どうやらこの長門は俺を認めたくはないらしい。
異世界は存在しないとか言われても俺が存在するんだから存在するんだ。
それで何が悪い。
「だけど、ハルヒの能力はお前たちの親玉にもわからないものがあるんだろ?
 ハルヒの能力なら異世界超えしたっておかしくはないじゃないか。
 あいつが望めばそれは叶うんだし」

「そう。
 たしかにその可能性だけは否定できない。
 涼宮ハルヒのもたらす情報は常にこの宇宙に新たな宇宙法則を生み出してきた。
 それはもはや涼宮ハルヒ理論と呼ぶべき彼女のみに適用される法則。
 彼女の理論を用いれば異世界の干渉や観測までもをいつの日にか可能にしてしまうかもしれない。
 なぜなら涼宮ハルヒを伴った未来が常に不明な状態だから。
 そして異世界観測の法則を生み出すことが出来れば無限の情報を得ることが出来る。
 もし、それが可能になるのであれば我々の進化の可能性も大きく飛躍するであろう。
 そのとき世界が消滅していなければが前提になる。
 だがその可能性はきわめて低い。
 なぜならその涼宮ハルヒ理論も最初から存在した宇宙理論の一つだと考えられるから。
 宇宙の法則とはそもそも内包するその宇宙内での出来事に限られており、
 涼宮ハルヒによって生み出された新たな法則も全てその宇宙内に限定された法則であリ続けるからだ。

 ──結論は出た。
 世界の改変が行われたわけでも無いのに、
 あなたの認識が異世界を観測しているように感じるのは、
 涼宮ハルヒが我々にも認識されない方法であなたの記憶を改竄したから。
 それを再度改竄し、元のあなたへと戻す」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。
 それは俺の記憶を消すということか」
長門はこちらを見たまま何も答えない。
それは肯定と捕らえるべきだろう。

記憶を消す。
それは同時に俺という個性が消滅するということになる。
俺の記憶がなくなればそこから先俺の体だけがあってもそれは俺ではない。
朝倉も言っていた。
あなたはこちらの世界のあなたとは別人だと。
俺が明日から別人の人格で生きるのであれば、
それはまるで他人の脳を移植されているようなもの。
俺はそこにはいない。
死ぬことと同じことだ。

ゆっくりと長門の足がこちらへ向かってくる。
俺はというと……とっくに動けなくなっていた。周りの空間も閉じられていた。
またかよ!
いったい何度この展開を繰り返せば気が済むのかね俺は。
バカだ……この世界の長門は俺の知る長門とは違う歴史を辿っていたのだ。
同じような信頼を寄せることなどできるはずがない。
もう残す希望は長門の良心だけだ。
そういうものがこの世界の長門に芽生えていればのことだが。

「やめてくれ長門……俺はまだ消えたくない。
 それは俺を殺すことと同じことだ。
 俺は死にたくない……」
「わたしには有機生命体の死の概念が理解できない」
ちがう! それは朝倉のセリフだろ! 勝手に奪うな!
「気に病むことは無い。この記憶も完全に無くなる。
 全てが元に戻るだけのこと。
 あの朝倉涼子と一緒の生活にあなたは幸福を感じていたはず」
長門は眼鏡を外し、投げ捨てるように上空に放り投げた。
何か呪文のようなものを唱えると眼鏡だったはずのものが、
空中で形を変え、長門の手に落ちたときには小さな注射器のような形になっていた。
その注射器を手に取り、俺の腕に突き刺そうとした、
その瞬間──。

突然空に亀裂が入り卵が割れるように大きなヒビを作ったと思った瞬間、
空間を塞いでいた壁が粉々に砕け散った。

あの閉鎖空間の終わる瞬間のスペクタクルの再現を思わせた。

この世界での俺の彼女、
朝倉涼子が現れた。

「待ってくれないかな。長門さん」
朝倉は長門の手にある注射器を素手で掴み取り、
反対の手で長門に巨大なナイフを突きつけていた。
長門はまさかここに朝倉が現れることなど予想もしていなかった様子である。
「なぜ? 彼を元に戻すことにはあなたも賛成のはず。
 それにこの状態の彼は涼宮ハルヒに何をもたらすかわからない。
 彼は涼宮ハルヒに自分の能力を自覚させようとまで企んでいた。
 これを統合思念体は深く危惧した」
俺の考えまでバレバレ愉快か。
やっぱり長門は仮にも宇宙人なんだな。
「でもね、そのことが逆に進化の可能性を見出すことにも繋がるんじゃないかな?
 わたしはあまりに変化しない観測対象にそろそろ飽き飽きしてきたところなんだけど」
「統合思念体は現状の維持を望んでいる。
 彼の行動が涼宮ハルヒにどんな影響を及ぼすのか予測できない」
「わかったわ。
 だけどちょっとだけ待って。
 彼を説得して涼宮ハルヒに何もしないようにすればいいんでしょ?
 彼が涼宮ハルヒの能力に何らかの影響を受けているのであれば、
 彼自身も重要な観測対象に他ならないわ。
 もしこのままの状態で観測を続けられるならわたしは彼の記憶操作は無いほうがいいと思うの」
なんだ? この状態は。
俺は長門に消されようとしているところを朝倉に助けられているのか?
俺の知っていた世界の歴史とまるで反対だ。

しばらくのあいだ長門が何も無いじっと空間を見つめていたが、
やがて小さくうなずき、
「朝倉涼子が彼を常時監視の下、共に行動することを条件に、
 彼を説得する許可が統合思念体より与えられた。
 24時間だけ猶予を与える。
 ただしそのときまでに彼の言動に変化が見られなかったり、
 彼があなたの元から離れて単独行動を取ろうとした場合は強制的に記憶の改竄を行う」
ようするに明日までに腹を決めろというのか。
俺が元の世界に戻るのを諦めるようにと。

……………。
………。
……。
…。

どっちにしても俺は元の世界に戻れないではないか。

「やっぱり今日はずっとお前と一緒にいないと駄目なのか」
「嫌ならいいけどそれじゃあすぐに長門さんに記憶を消されちゃうよ?
 さっきは長門さんが油断してたから情報閉鎖が甘かったけど、
 次はかばってあげられる保障はないよ」
嫌がる俺の態度に対し、怒ったような表情を見せる朝倉。
だがその表情はなぜか少し嬉しそうだった。

一緒に連れてこられたのは朝倉のマンション。
つまりは長門と同じあのマンションについた。
初めて案内されて見る505号室の中は、
やはり朝倉のイメージ通り綺麗に片付けられていた。
だが長門の部屋と違い、その部屋にはきちんと生活感のあるものがいくつも並べられていた。
リビングにはテレビもあるし、食器棚、タンス、洋服ダンスなどどこの家庭にでもある普通の物であり、
それらは毎日使用されている形跡もある。
ベランダには洗濯物が干してあるし、
台所にある調理器具なども今朝使ってそれを乾かした状態で置かれている。

「じゃあ、その辺に座ってて。すぐ晩御飯のしたくするから」
朝倉はエプロンを取り出し、髪を後ろで束ねた。
朝倉のポニーテールは始めて見たな。
結構似合っている。
「あれ、キョンくんってポニー好きだったっけ?
 じゃあ、次からそうしようかな」
いや、そういう気遣いは結構ですから。


そうしてようやく話は冒頭のシーンに戻るのだった。