今日も僕は、学校帰りに病院に向かう。
 毎日のことだからクラスメイトに呆れられたりするけれども、これは変わらない、変えられない僕の日課。
 見舞う相手が誰かと問われれば、僕は『恋人』と回答する。
 本当にその単語が相応しいかどうかは知らない。でも、僕は彼女のことを『友人』と定義することは出来そうに無かったから、対外的にはそういうことにさせてもらっている。
 彼女が僕のことをどう思っているのかは、僕には未だに良く分からない。
 ただ、僕が分かるのは、
「あ、古泉くん」
 僕を見た彼女が、笑顔を見せてくれること。
 この世界の全てを否定しかねなかった彼女に施された、唯一の防壁。
 それが、僕。
 それは彼女の意思でもなく、僕の意思でもなかった。
 強大な彼女の力に対して僅かながらの対抗手段を持つ一人の少女が用意してくれた、彼女と世界を救う唯一の方法。
 僕に、それを否定する術は無かった。
「今日は学校、楽しかった?」
「ええ、楽しかったですよ」
 同い年のはずなのに、今の彼女は、まるで子供みたいだ。
 それも仕方の無いことなのだろう。
 大切な人に関する遡れる限りの記憶を消去された上、僕という、ただ頼るべき存在だけを与えられた彼女に、以前と同じ姿を期待するのは無理というものだろう。
 確かに、彼女は元々子供っぽい人だったけれども。
「あのね、あたしね」
 彼女が話す取り留めの無い話を、僕は時折相槌をうちながら聞き続ける。
 以前とは少し違う笑顔、以前とは少し違う話し方。
 以前だったら、こんな、時折怯えたような目をすることも無かったのに。
「……ごめんね、古泉くん、あたしなんかにつき合わせちゃって」
「気にしないでください。僕は僕でこういう時間が好きなんですから」
 それは多分、嘘じゃない。
 確かにこれは、僕が望んでいた形とは全然違うけれども。
「古泉くん……」
 謝るべき誰かのことを思い出しながらも、僕は彼女を抱きしめる。
 だって僕には、そうすることしか出来ないから。


 歯車が狂ってしまった時が何時なのかなんてことは、僕には思い出せないことだった。
 いや、思い出せるようなことだったら、そもそも、こんなことにはなってなかっただろう。
 あの日、あの時。
 全てが終わり、全てが変わってしまった。
 二年目の夏合宿。僕達SOS団は、海外は無茶すぎるということで涼宮さんを何とか説得し、北海道の奥地に立つ、隣の家まで車で10分以上と言う鶴屋家の別荘を借りて、三度目の自作自演劇を行うことになった。
 劇自体は上手く進み、予定通り、涼宮さんと彼が犯人役の森さんを追い詰めるという場面まで辿り着くことが出来た。
「……見破られてしまいましたね」
 森さんが、涼宮さんに推理を披露され、ちょっと寂しげな微笑を浮かべていた。
「あたしにかかればこのくらいなんてこと無いのよ!」
 涼宮さんは満足そうだ。
 自分の推理が当たっていた事と、その推理を披露できたことが嬉しくて仕方ないんだろう。諸事情により全員の前でとはいかなかったけれども、このくらいは誤差の範囲だろう。
 胸をそらす涼宮さん、嬉しそうながらも溜息交じりの彼、胸をなでおろす僕。
 そしてそのまま、物事は何もなく進むはずだった。
 この後は全員でご飯を食べて、ネタばらしを兼ねた苦労話みたいなことを話して、遊んで、次のことを考えて……、でも、そうはならなかった。
 キラリ、と、何かが煌いた。
「危ない、ハルヒ!」
 僕がそれが何で有るかを理解する前に、彼が動いていた。

 僕が気づいたときには、彼の背中に、一本のナイフが刺さっていた。
 森さんが持っていた、偽物のはずのナイフが。

 ナイフは、偽物じゃなかった。
 彼の背中からは、赤い血が溢れている。
「えっ……」
「ちょ、キョン、何……、」
 状況を理解しながらもそれを受け入れられず呆然とする僕、そして、状況が全く理解できていない様子の涼宮さん。
 倒れている彼、ナイフから手を離し緩やかな動作で立ち上がる森さん。
 彼は動かない。声を上げることも無い。だって、あの位置は……、
「あら、邪魔が入ってしまいましたね」
 森さんが笑っている。
 それは、残酷な、何もかもを見下すような笑顔だった。
「ちょ……、森さん、あなた、キョンに……」
 森さんは、間違いなく涼宮さんを狙っていた。……でも、何のために?
 機関の命令? そんなわけない。そうだとしたらもっと穏便、という言い方もおかしいけれども、もっと確実な方法をとるはずだ。もし、彼を狙っていたのだとしても、こんな、涼宮さんに衝撃を与えるような方法はとらないはずだ。
 じゃあ、何で……。
「もう、死んでますよ」
「えっ……、う、嘘よ嘘よ嘘よ! きょ、キョンが死ぬわけ、」
「だって、心臓に刺さってますもの、生きているわけ無いでしょう?」
「えっ……」
 涼宮さんの視線が、彼の背中に釘付けになる。
 どうにもならない事実が、彼女に突きつけられる。
「森さんっ。何で、何で、こんな……」
 僕の知らないところで森さんが何か別の命令を受けて動いている可能性は有るし、それが、僕にとっては残酷なことである可能性だって、充分有りえる。
 でも、とてもそうだとは思えなかった。
 狂気にさえ見える微笑は、命令を実行するときの彼女とは違っていた。
「あら……、あなたのためなのよ。あなたと、わたしの」
 森さんの口調が変わった。
 対外用じゃない、僕を含めた仕事仲間や、親しい人達と語るときの口調だ。
「……僕、の?」
 余りにも意外な一言に、僕はただ問い返すことしか出来なかった。
 僕のために、だなんて……、森さん、あなた、一体、
「ええ、そうよ。……だって、邪魔だったんだもの。あなたったら、わたしがいるのに、何時も何時も、涼宮さん涼宮さんって……、そんなの、嫌だったんだもの」
「それ、は……」
 その瞬間、僕は自分が何も気づいて無かったことを悟らされた。
 義務のような形で僕に寄り添っていた森さんが、本当は何を思っていたか。
 束縛するような立場に有りながら、僕に向けて微笑を向ける森さんが、一体どんな想いを抱いていたか。
 学校で有ったことを楽しげに語る僕を見て、森さんが何を考えていたか。
 ……僕は、馬鹿だ。
「だから、ね。……涼宮ハルヒを、消そうと思ったの。……失敗しちゃったけど」
「森さん……」
「ねえ、古泉。わたしだけを見て? わたしだけを……、あんな女、あんな女、たとえ世界の命運を握る存在だとしても、あんな女のことなんて、忘れて。ねえ、お願い」
 今まで聞いたことも無いような、森さんの甘い声。
 甘く甘く、そして、どこまでも痛い訴え。
「……無理ですよ」
 血の着いたままの腕ですがり付いて来た彼女の手を、僕はそっと着き返した。
 それは出来ない相談だから。
 僕は世界を守るヒーローになったつもりは無いけれども、そういうことを全部抜きにしても、僕にとって涼宮さんは切り離せない存在だった。
 森さんのことだって、そういう風に思っていたつもりだけれども。
「そう……、わたしじゃ、駄目なのね」
「……」
 駄目とか、そういう問題じゃない。
 でも僕には、それ以上言葉が見つからなかった。
 機関がどうのとかSOS団がどうのとか自分の能力がどうのだとかいうことを全部別にしても、こんなことをしてしまった森さんを、無条件で受け入れることなんて出来ない。
 これは、許されて良いことじゃない。
 こんなことは、許しちゃいけない。
 例えどんな事情が有ったとしても、彼女が起こしたことは、間違いでしかない。
「わたしじゃ、駄目……、わたしじゃ……。それなら、あなたの望みを、叶えてあげる」
 ……僕の、望み?
 考えてしまったその一瞬が、本当に命取りだった。
 森さんはあっという間に彼の背中に刺さっていたナイフを引き抜くと、それを自分の心臓の位置へと突き立てた。
「森さんっ」
「えっ」
 僕は思わずその場で崩れ落ちる森さんに駆け寄った。彼の背中を見て呆然としていた涼宮さんも、さすがに、続くこの事態には、目を奪われたようだ。
「森さん、何を……」
「ふふっ……、わたしじゃ、駄目なら……、あなたを……、彼女と、二人きりに、してあげる」
 違う、僕はそんなこと望んでなんか居ない!
 僕が見たいのは、みんなで一緒に楽しんでいるときに笑っている涼宮さんだ。
 こんな風に、泣き崩れて、呆然としている姿じゃない。
 これから先、彼女が今までと同じように笑ってくれるはずなんて無い。
 だって、彼が居ない……。
「少し、癪だけど……、でも、あなたには、幸せに……」
 森さんは、そう言って事切れてしまった。
 幸せ、って……。
 こんなの、僕は幸せじゃない。
 誰も、幸せじゃない。
 こんなのは……。

「……間に合わなかった」
 開かれたままの扉の向こうから、別室で連絡係を請け負っていたはずの長門さんがやって来た。
「長門さん……」
「世界の再編成が始まっている」
 言われなくても、時空の歪みなんて見えなくても、そのくらいの想像はつく。
「……彼と、森さんはどうなるんですか? 涼宮さんの記憶も……」
 でも、そこで何が起こるかは、僕にとっては完全に未知数だ。
 良い方向ではなさそうだということだけは、分かるけれども。
「現在の涼宮ハルヒの能力では、時間の回帰と有機生命体の再生は不可能」
「そんな……、じゃあ、情報統合思念体の、」
「無理。涼宮ハルヒが、この『現実』を受け入れようとしているから。……情報統合思念体の能力を持ってしても、完全な対抗は不可能」
 長門さんが、非常な現実を僕に突きつける。
 彼が死んだことは覆せない、森さんが死んだこともだ。
 涼宮さんの記憶自体はどうにかなるのかもしれないけれども、この改変自体を止めることが出来ない。
 既にこの部屋の内装の境界線すら曖昧になり始めているし、僕の視界の範囲には彼も涼宮さんも森さんも居ない。
 形容しがたい空間で、僕は長門さんと一対一で向かい合っている。
「古泉一樹。……全てを背負う覚悟はある?」
「え?」
「決めて。この世界が書き換わる前に。あなたにその覚悟があるというのなら、わたしは、情報統合思念体の力を借りて、世界の再編成を最小限に留めるようにする。……あなたには、その要になってもらう」
「要って……」
「早く決めて。説明している時間は無い」
「……分かり、ました。全てを、背負います」
 何時になく焦っている長門さんを前にして、僕はそう言うしかなかった。
 繰り返すことになってしまうけれども、僕にヒーロー願望は無い。
 でも、自分が見過ごしてしまったことから起きてしまった事態についての責任を背負いたかったし、何より、被害者である涼宮さんを守ってあげたかった。


 そして、世界は書き換わった。
 彼と森さんは最初からこの世界に居ない人と定義されてしまい、僕にだけその記憶が残っている。いや、これは長門さんが残してくれたと言うべきかな? 当の長門さんは、改変に巻き込まれたのか何も覚えてないようだけれども。
 涼宮さんは彼に関する記憶を完全に消去された上、精神薄弱で入院中という立場になった。これは彼女が望んだことと言うより、長門さん、いや、情報統合思念体の取った措置なんじゃないだろうか。
 実際、今の涼宮さんを人の中に交わらせるのは相当危ないと思うし。
 本当は、どこまでが彼女の望んだことで、どこからが長門さん達の干渉なのか、僕は知らない。
 確実なことが言えるとしたら、世界には最初から彼も森さんもいなくて、その二人の存在は僕の記憶の中だけにしか無くて、涼宮さんは、どういうわけか僕が居ないとどうしようも無いという存在になってしまった、ということくらいだ。
 改変された世界で、長門さんはこう言った。
 長門さんは、記憶を持っていないのに、世界が再編成されたことだけは知っていたし、僕にそれを伝える役割を背負っていたりもした。
 長門さんには、相変わらず迷惑をかけている気がする。
「あなたは涼宮ハルヒの要、あなたの存在が全てを決める。……それがあなたの役割」
 それが、長門さんから伝えられた言葉。
 どうやら僕は、居なくなった彼の代わりを背負わされたらしい。
 ……いや、それ以上かな。
 以前の涼宮さんは、彼のことは好きでは有っただろうけれども、それは、完全な依存ではなかったはずだから。

 僕は彼に謝りたいと思っている。でも、謝るべき彼はもうこの世界には存在しない。
 僕は森さんに謝りたいと思っている。でも、森さんももうこの世界には存在しない。
 だから僕は、僕の記憶の中だけに残っている二人に謝りながら、今このときを生きていく。
 涼宮ハルヒという、幼子のような少女をただひたすらに守りながら。
 天秤にかけることすら出来ない贖罪と親愛と憐憫を抱えたまま、僕は彼女を抱きしめる。


 だって僕には、そうすることしか出来ないから。


 終わり


|