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高三の夏、ハルヒの能力は消失した。

そう思って、俺は消失という表現は適切ではないことに気付く。
使い切ったとでも言っておこうか。
俺達SOS団の活躍によって、過去や未来、宇宙まで巻き込んだ大騒動は、
ハルヒが自覚することなしに一応の終結を見た。
それに伴って、ハルヒを拠り所にしていた様々なものが変化した。
長門は能力を失い、普通の内気で寡黙な少女になった。
つまり、あの時、長門が望んだ『長門』になったわけだ。
それでも、長門はSOS団に残ってくれた。その理由が俺には分かる。
長門自身の口から小さく、不透明に語られたからだ。
朝比奈さんは一年前にこの高校を卒業して、近くの私大に通っていた。
それでも週末になるとSOS団の活動に参加して、俺の心を癒してくれていた。
そして、あの夏。ひどく蒸しかえり、セミが単調に鳴いていたあの夏。
朝比奈さんは未来へと帰っていった。
時間の壁は取り除かれ、時間振動も検出されなくなったからだ。
朝比奈さんとの永遠の別離は俺に絶望をもたらした。

しかし、俺には、現在には、ハルヒがいた。
俺とハルヒは部内恋愛禁止という鉄則に則り、正式に付き合っているわけではなかった。
だが、そんなものは口実に過ぎず、実質付き合っているようなものだった。
お互いの家に行き来したり、単純なデートを重ねたり、俺の家で身体を重ねたりもした。
それでもSOS団は活動を止めなかった。

陰の功労者古泉についても語っておこう。
長門や朝比奈さんと違い能力制限が厳しく、活躍の場は限られていた。
『神人』なんて物騒なものを死に物狂いで殺していく日々。
感情を捨て、自己を放棄する覚悟は並大抵のことではなかっただろう。
一番苦しかったのは古泉に違いない。そう思わせる事件もあった。
高二の夏、古泉が家出をしたことがきっかけだった。
もちろん、SOS団は総力を挙げて古泉の捜索に乗り出した。
しかし、長門の全宇宙版GPSでも見つからなかった。
なぜなら古泉は閉鎖空間に取り込まれていたからだ。
ハルヒをわざと憂鬱にさせ、俺は長門ともに救出に向かった。
『神人』対長門なんてハリウッドも真っ青の超スペクタルバトルもあった。
結局、古泉は学校の屋上で柵に寄りかかり、泣いていた。
初めて見た古泉の本当の感情だった。

でも、これは今回の話とは別のものだ。俺が思い出を語るには早すぎる。
現在進行形の今が目の前で我が物顔で待っているんでね。
そんなごたごたを抜けると、いつの間にか高校は終わりを告げていた。
そして、卒業式を迎え、予定されていた通り、SOS団解散パーティーが催された。
当然の如く買出しを言い付けられる俺。
今回語る話はこの解散パーティーにまつわる少しだけ悲しくて、少しだけ楽しい、そんな話だ。

卒業式の後に行われたので既に時刻は七時を過ぎていて、
刻一刻と深まっていく夜とともに帰ってきたところから始まる。
SOS団としてのラストエピソードだ。

   *

俺とハルヒが大量の食料を抱え部室に入ると、既に鍋パーティーの準備は整っていた。
担当したのは長門と古泉だ。
長机の真ん中に巨大な鍋が置かれ、横には包丁とまな板が几帳面に並べられていた。
「準備万端ね! ところで、古泉君の姿がないけど、どこに行ったか分かる?」
ハルヒは水色のエプロンを着た長門に尋ねた。
長門は読んでいた本から目を上げ、首を横に振る。
「そう。それじゃあキョン、探してきて頂戴」
「なんで俺が」
「あんた料理の準備したいの?」
「いいや」
「それなら文句言わずに探してきなさいよ! 鍋っていっても準備するのは時間かかるのよ。
食べられるように用意しといてあげるから、古泉君を呼んできて」
「分かった」
料理をするのは嫌だったし、
ハルヒが作ったほうがうまいのは明白だったのでその注文の乗ることにした。
「といっても、学校中を探すのは時間かかるわね。あんたどこにいるかアテはあるの?」
「あるさ」
こういう時に古泉が行く場所は一つだ。
それに、いつも掛かっていたSOS団専用の鍵がないからな。
「ふーん。まあ、いいからちゃっちゃと探してきなさい」
「へいへい」
俺は手を振って答えながら、部室を後にした。古泉が行く場所、それは屋上だ。
本棟の階段を上るのは億劫なのだが。どうしてそんなところを気に入るかね。

俺は階段をテンポ良く駆け上った。踊り場にある大きなガラス窓からは月明かりが漏れていた。
夜中の学校に忍び込んでいる手前、蛍光灯に明かりを灯すわけにもいかず、
ぼんやりとした月明かりだけが段差を明確にしていた。
その明るくなった部分を踏んでいくのだ。
受験勉強のせいで低下した体力はそう簡単に戻るはずもなく、
息は上がり、足はパンパンに張っていた。
なぜ、階段を早く上がる必要があったのかは分からなかったが、
気分が良かったということにしておいた。誰もいない学校は空気がよどんでいないからかもな。

屋上へと出るガラス張りのドアはやはり鍵が開いていた。
いつでも使えるようにと、ハルヒが以前に職員室から盗んでコピーを作ってあった。
それを古泉は持ち出したのだ。その鍵はいつも部室の壁に掛かっていた。
それが無くなっていたら、行く場所なんてすぐに分かるだろ?
それに、今日で俺達は高校生を終える。
センチメンタルな気分になったって不思議じゃない。例に漏れず、俺もそんな気分だった。
誰もいない校舎の屋上で夜風にあたって思い出に耽ってもいいだろ?
それぐらいの思い出は持っているつもりだ。

ガラス張りのドアを開けると、柵に寄りかかった古泉の姿があった。
屋上は風が予想より強くて、三月の夜に肌寒さを感じた。
「古泉」
俺は呼びかけた。古泉はこちらを振り返り、笑顔を見せる。
「よく分かりましたね」
「バレバレだ。鍵がないし、お前がいる場所はここって決まってるだろ?」
俺は古泉に近づき、隣で古泉に倣って柵に腕を乗せた。
「あれから、一年以上経ちますね」
古泉もセンチメンタルモードのようだ。
「そうだな」
「あの時、あなたは僕を助けに来てくれた。救われましたよ。
あのまま僕は死んでいたかもしれない」
「今さら感謝なんていらねえよ。それより、ハルヒが呼んでる。
早く行かないと殴られるのは俺のほうだ。速やかに移動してくれ」
「少し話しませんか?」
「肉もいっぱい買ってきたぞ。いつもハルヒと長門のやつに貪られるから、
俺らはほとんど食えないからな。今日のは特別だって。国産のだ」
「少し話しませんか?」
「……ま、お前は肉じゃ釣られないか。なんだ、話してみろ。できるだけ手短に済ませろよ?
お前はいいかもしれんが、俺はハルヒに何されるか分からん。
その前に先に鍋を喰われてるかもしれん」
古泉はゆっくりと空を見上げた。空には何があるのだろうか?
ロマンチストなのは昔から変わらない。
「涼宮さんとはうまくいってるんですか?」
「ぼちぼちな。おかげさまで」
「僕はこの屋上から、買出しを終えて帰ってくるあなたたちを見てたんです。
あなたと並んで歩く涼宮さんは楽しそうでした」
「荷物を全て俺に持たせるハルヒがか?」
「ぼんやりと眺めていて、僕は思ったんです。
どうして涼宮さんの隣いるのが僕ではなく、あなたなのかと」
「ハルヒが変わってるからじゃないか?
俺が女だったら、俺みたいなひねくれものより、
表面上素直で優しい古泉と付き合いたいと思うし。一般の女子の反応を見れば一目瞭然だ」
「でも、僕が好きになってしまったのは、その変わっている涼宮さんでした」
「………お前、今でもハルヒのことが好きなのか?」
ハルヒと付き合っている俺が訊いてはいけないことなのかもしれない。
でも、古泉の気持ちは――
「好き、……ですか。分かりませんね」
「そうか」
「僕の好きだったのはあなたといる涼宮さんだったのかもしれません」
「……嘘だな。お前はハルヒが本当に好きだった。俺よりもずっとな」
そうだ、お前は本当にハルヒを好きだった。
立場上付き合うなんて事はできなかっただろうし、
ハルヒの好きな人が俺だったことも古泉は知っていたのだ。
それでも、古泉はハルヒのことを好きだった。
古泉はその上で、俺とハルヒをくっつけてくれたのだ。
最初からこうなることは分かっていたみたいに。
「………」
「このまま終わって良いのか?」
古泉は俯き、ゆっくりと目を閉じた。少しだけ風が強くなった気がした。
古泉の長い髪がそよいでいた。
「気持ち、伝えたほうがいいんじゃないのか?」
俺にこんなことを言う資格はないのかもしれない。でも、古泉にはその権利があるはずだ。
告白すること、気持ちを伝えること、そんなことぐらい望んでもいいはずだろ?
「………」
俺は黙り、古泉も黙った。俺らの間で春の夜風と静寂が戯れていた。
古泉は顔を上げると、また空を見上げた。それに倣って俺も見上げた。
上空は風が強いのだろうか、薄い雲がどこに向かうでもなく先を急いでいた。
それ以外に広がる春の星。
買出しの帰りに、ハルヒが指を差して付けられた名前を教えてくれたのはどれだろうか?
「この三年間。色々なことがありましたよね」
古泉がぼそりと、風音に紛れるほどの声で呟いた。
「………」
「最初はあの空間へあなたを招待したことでした」
「ああ、あれが悪夢の始まりだったな」
「野球をやりました」
「もういい。俺達には思い出がありすぎる。振り返ってたら一年はかかりそうだ」
俺は笑ってみせる。でも、古泉は憂鬱な表情を浮かべたままだった。
「でもそれは、涼宮さんが見た夢だったのかもしれません」
「どうしたんだ? 感傷的になって」
「たまに思うんですよ。僕は本当にこの三年間楽しく過ごしすぎた。
怖いぐらいにね。本当は夢だったんじゃないのかって」
「あいにくだが、俺は自分が体験したことを信じるようにしてるんだ。
これが夢だろうと現実だろうとどっちでもいい。
ようはどんな風にしてこの『現実』を楽しむかってことだ」
「やはりあなたは涼宮さんとお似合いですね」
「ああ、俺もそう思う」
そうなんだ。俺はこのことをハルヒに教わった。世界の一部になるんじゃない。
世界と対等の立場になるってことをな。
「やはり、僕ではあなたに敵わないようです」
「そんなことねえよ」
古泉を見ると、笑顔で涙を流していた。
なんだが見てはいけない気がして、俺は視線を遠く空へと泳がせた。
「ねえ、あなたもこの三年間楽しかったですか?」
「ああ、楽しかったさ。断言できる。これ以上はないってほどな」
「そうですか、よかった」
俺は古泉の髪をクシャッと撫でた。柔らかい髪の中に、ほんのりと熱がこもっていた。
「泣いちゃダメですよ」
古泉が自分自身も涙を見せながら俺に言ってみせる。そう、俺も泣いていた。
なぜだかは分からない。ただ、涙がとめどもなく溢れて、落ちた。
「バカやろ。お前も泣いてるじゃねえか」
俺も笑顔で強がって見せた。古泉が俺の髪をクシャッと撫でた。
「嬉しいです」
「俺もだ。楽しいのも苦しいのも一緒に味わえたのは男ではお前しかいないんだ」
「なんで、こんなに悲しいんですかね」
「分からん。ただな」
「ただ?」
「高校での俺の全てだったSOS団が解散して、お前とも今日でお別れだからな。
これから住む場所も違う」
お前は東京の国立、俺はこの高校に近い私立、会うことはないだろう。
「………」
「………」
「ねえ、僕達は親友なんですかね?」
「いいや」
「そうですか」
古泉は顔を俯かせる。
「俺達は親友なんかじゃない。もっと大事で、かけがえのないものなんだ。
親友なんて使い古された言葉じゃ表しきれないほどのな」
俺は古泉と並びあったまま、古泉の肩を抱いた。肩は広くて、とても筋肉質だった。
「あなたにしてはくさい台詞ですね」
「うるせえ!」
冗談半分で回してあった腕で首を絞めた。恥ずかしかった。
でも、今言わないともう言うことはないだろうと思った。
「冗談ですよ。嬉しいです。僕はやっぱりこの三年間で色々なものを手に入れたようですね」
古泉も俺に倣って肩を抱いてくる。傍から見たら異様な光景だろうな。
そのまま俺達は声を出して泣いた。なんだが心を許しあえた気がした。
隣で思い出に泣く「親友」に、俺は泣いていたのかもしれない。
「ありがとう」
古泉は言う。俺は古泉の過去を知っていた。
そんな何もかもをひっくるめて、こいつには幸せになって欲しかった。
幸せになる権利があるんだ。
「感謝を言うのこっちのほうだ」
ありがとう、幸せになれよ。お前は、これから自由なんだ。
東京に出て、大学で沢山勉強して、教授さんになる。物理だったな。
そして、ハルヒ以上の女と付き合って、幸せになれ。お前ならできるだろうよ。
そしたら、もう一度会おう。会って、思い出を話そう。
俺の女の方がすごいって、自慢しあおうぜ。でもきっと、俺達は成長してないんだろうな。
ハルヒに馬鹿とか罵られるんだ。
男はこんなんだから馬鹿なのよ、なんて言われても笑ってごまかそう。

「ちょっと! なに男同士で肩組み合ってるのよ! 気持ち悪いわよ!」
俺と古泉はとっさに振り返った。
「しかも、なんで目を赤くしてんのよ!」
ハルヒが後ろに仁王立ちしていた。しかも、満面の笑みで。というか、恥ずいな俺達。
つーか、死にてえ。
「まったく! 遅いと思ったら、こんなところで何やってるのよ!
もう鍋の準備は終わったわよ!」
今度はやたらと不機嫌な顔でいってのける。俺と古泉は顔を真っ赤にしていた。
青い春と書いて、青春。つまりは俺たちのことだ。
「すみません」
古泉は苦笑いを浮かべて言った。
「あ、古泉君は良いのよ。それより、キョン! あんた何様なの?
人に料理作らせといてのんびり夜空観賞?」
やはりハルヒは俺に文句があるらしい。
「違うんですよ涼宮さん。彼が『涼宮さんのことが好きで好きで仕方ない』ってしつこいんです。
引き取ってもらえますか?」
古泉は笑顔を見せてそんなことをのたまう。
「お前! そんなこと俺は一言も!」
ハルヒはニヤリと嫌な笑みを浮かべると、
「引き取れないわよ、こんなやつ! それでなくても、
『ハルヒなしでは生きられないんだー』って馬鹿みたいなこと言ってくるのよ?
こっちが恥ずかしいっての」
ハルヒは古泉に向けて笑顔を見せた。
「俺はそんなこと言った記憶はない!」
「まあ、いいわ。とにかく部室に来なさい。そうじゃないと、有希に全部食べられちゃうわよ?」
ハルヒはキュッと踵を返すと、走ってドアをくぐり抜けて颯爽と消えてしまった。
『まったく! 男ってホント馬鹿なんだから!』
そんな捨て台詞を残したハルヒの顔は、微笑んでいた。優しく、緩やかな笑顔だった。
「古泉、いいのか? ハルヒに思いを伝えなくて」
「いいんです」
「どうして。今日で会うのは最後かもしれんのだぞ?」
「その分僕は大事なものを手に入れましたからね」
「なんだ?」
「秘密です」
「………」
きっと、俺も同じものを手に入れたよ。そうだったら、俺は嬉しい。
「それより早く行きましょう! 今日の肉は国産ですよ!」
お前、やっぱり肉好きだったんじゃねえか。
「お前に食べさせる肉はねえぞ! 全て俺が頂いてやる!」
走り出した古泉を追いかけた。涙で濡れた頬が冷たい。
校舎内に入り、古泉を追いかけるのをやめて屋上へと続くガラス張りのドアから空を眺めた。
雲の流れは変わらずに、やはりどこへいくわけでもなく、ただ先を急いでいた。
「キョン」
俺は振り返った。そこにはハルヒが立っていて、右目からは涙が流れていた。
ハルヒはそれを拭うために右手で、目を擦った。俺はその様子を呆然と眺めていた。
なぜ、ハルヒが泣いているのか分からなかったからだ。
「ハルヒ、どうしたんだ?」
「キョンと古泉くんの話、聞いてたの。
古泉くんは屋上にいるってのは有希が教えてくれて、それで追いかけてきたの。
そしたら、ドアが開いてて、二人の話が聞こえてきた。
最初から聞いてた、ドアに隠れながら」
「そうか」
ハルヒは涙を拭うのを諦めて、俺に抱きついてきた。
俺はハルヒの背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめた。
「古泉くんの気持ち伝わったよ」
ハルヒはくぐもった声で俺に必死に伝えた。
「うん」
「ごめんね、聞いちゃって」
「聞いていいんだ」
古泉も聞いて欲しかったに違いない。もう、伝えられない思いを。
「――古泉くん、真剣だった。あたし、本当に嬉しい。
一人の男の人が、真剣にあたしのことを好きになってくれたこと。
でも、あたし、……こういうことは本当にだめだなあ。昔は簡単に男を振ってきたのに」
「それは俺もだ」
恐らく、古泉も。みんな不器用すぎたんだ。
「あたし、SOS団を作って本当に良かった。
楽しかったし、こうやってみんなが思い出で泣いてくれる」
「そうだな」
「古泉くん、どれだけ苦しかったのかなあ?
あたしがキョンのことで悩んでたなんて、そんなのちっぽけなことだよね」
「古泉はその苦しみをハルヒには知られたくないと思うぞ」
「そうよね」
「そろそろ、帰ろうぜ。長門が食べ終わってるかもしれない」
「うん」
俺はゆっくりとハルヒと離れた。
「そんなめそめそ泣いてたら、古泉が困るぞ」
「めそめそなんてしてないわよ! ほら、行くわよ!」
ハルヒは俺の手を引っ張った。本当に辛くなった時、ハルヒは甘えるようになった。
それでも、普段はこんなんだがな。

俺はハルヒに引っ張られながら、朝比奈さんが言った言葉を思い出していた。
朝比奈さんが別れ際に言った言葉だ。

   *

「キョン君。わたし、嬉しかったです。キョン君やSOS団のみんなと過ごせて。
わたしはキョン君に一つ隠し事がありました。最初から最後まで、ずっと隠してきたんです」
そう言うと、朝比奈さんは俺に抱きついてきた。柔らかなものが俺にあたっていた。
それ以上に、俺は朝比奈さんの温かな唇に意識がいってしまっていた。
朝比奈さんは俺から、ゆっくりと離れると、
「ふふっ。伝わりましたか? 言葉ではいいません。言葉では消えてしまうから。
それに、わたしはずるいんです。
こうやって、キョン君の答えを聞かずに未来へ逃げてしまうから。
そうしたら、キョン君はわたしのことをずっと覚えていてくれるでしょう?」
「忘れませんよ。絶対」
「今の言葉、覚えておいてくださいね」
「絶対です。忘れられるわけがないです」
俺は確信を持って言った。
「ありがとう」

   *

俺はハルヒを大事にしようと思った。いろんな人の思いが、俺とハルヒを繋げたから。
階段の窓ガラスから空を見た。
どうしようもないほど月明かりが綺麗で、俺はハルヒにばれないように、涙をこらえた。
俺たちは、何度となく別れていくのだ。古泉も、朝比奈さんも、そして長門も。
それは悲しいことではないのだ。
いつだって、俺たちは本気で、馬鹿みたいで、
後になったら笑い話になるようなでたらめな日常。
そうだ、俺は思い出を語るには早すぎる。『今』が我が物顔で待っているんだ。
部室のドアをハルヒが勢いよく開ける。
「たっだいまー。キョン連れて来たわよ!」
「――おかえり」
水色エプロン姿の長門が、ぼそりといった。
「――おかえりなさい」
古泉が無駄の無い笑顔で言った。
俺は『ただいま』と言って、一つ溜息をついた。
溜息の音は屋上から見た薄い雲みたいにどこへ行くわけでもなく漂っていた。
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