わたしは今、先生に頼まれて、下級生の教室まで向かっています。
えっと、プリントを届けないと行けないんですよね。
一年九組、うん、ここですね。
「あのう……」
扉の外から呼びかけてみましたけど、返事はありません。
おかしいなあと思いながら、わたしは空いている方の手で扉を開きました。
そうしたら、教室には誰もいませんでした。
「あれ……」
ううん、何ででしょう。休み時間とはいえ午前中ですから、誰もいないなんてことは……、そう思って教室中を見渡したわたしは、黒板の横にかかっていた時間割を見てその理由に気づきました。ちょうど今、このクラスは、二時限連続での授業の途中みたいです。
そっかあ、だから誰も居なかったんですね。
「えっと、これで良いですよね」
プリントを置いて、わたしは教室を立ち去ろうとしました。
ちょうど、そのときのことです。
教室のどこからか、音楽が聞こえてきました。
えっと、これって、携帯の着信音ですよね?
ううん、放っておくべきでしょうか……。あれ、でもわたし、この音に聞き覚えが有るような……。なんて風に思いながら着信音がしてきた場所まで近づいてしまったわたしは、その机の上にあるノートを見て、その理由に気づきました。
「そっか、ここ……」
外見に似合わない乱暴な字で書かれた名前を見て、思わず笑みがこぼれてしまいます。
そう言えばここは、古泉くんのクラスでしたよね。多分、ここが古泉くんの席なんでしょう。
でも、携帯……、あ、ううん、ダメですよね。勝手に見たりしちゃ。
緊急の要件かもしれませんけど。だとしたら、それこそ、わたしが見ちゃ……。
「えへ……」
頭の中はぐるぐる回っているのに、わたしはどういうわけか、古泉くんの席に座ってしまいました。周囲には誰も居ないんですけど、思わず周りを見回してしまいました。
やっぱりちょっと、恥ずかしいですから……。
あ、そうそう、ちらりと垣間見た机の中から、見覚えのある携帯とストラップが少しだけ見えました。
うん、ここが古泉くんの席で間違いないようです。
古泉くんの席かあ……、座ったからと言って特に何かが有るというわけじゃないんですけど、何だか、不思議な感じです。あ、そうだ、学校にある机や椅子って少しずつ個人の体格に合わせて調節できるようになっていたりするんですけど、古泉くんが普段使っているらしいその椅子は、わたしにはやっぱりちょっと高すぎる感じがしました。
古泉くん、背が高いですからね。
席に座って、何をするっていうわけでもないんですけど、なんだか、ノートとか、机の中とか、見てみたくなっちゃいますよね。……そんなこと、しませんけど。
けど、古泉くんの持ち物かあ……、やっぱり、興味は沸くんですよね。
わたし、未来から来ている割に、古泉くんを含めたSOS団のみんなの背景のこととか、実は全然知らなかったりもするので……。
でも、やっぱりダメです。
そんなことをしちゃ……、ああ、だからほら、早く立ち上がらないと、休み時間が、
「……朝比奈さん?」
「ほへ……」
唐突に聞こえてきた、聴き慣れたその声に、わたしは思わず、間抜けな声を出してしまいました。
教室の入り口のところに、古泉くんが立っています。
何時もの爽やかなスマイルじゃなくて、何だかちょっと、不思議そうな顔で……、
「あの……」
「す、すみません……。え、あ、あの……、わ、わたし、何もしてないです! じゃ、じゃあ、また、部室で会いましょうねっ」
近づいてくる古泉くんに、合わせる顔がありません。
だって、わたし、わたし……、これじゃ、どう考えても、ただの、怪しい人です……。
わたしは一気にそう言い終えると、大急ぎで教室を出るために駆け出しました。慌てていたので転びそうになっちゃいましたけど、何とか転ぶ前に体勢を立て直して出て行くことが出来ました。
うう、穴が有ったら入りたいって、こういうときのことを言うんですよね、きっと……。
はあ、気が重いです。
こんな日でも、部室に行かないわけにはいかないですし……。うう、いっそ、古泉くんがアルバイトでお休みとかだったら、良いんですけど……、って、わたしがそんなこと思っちゃいけませんよね。悪いのはわたしなんですから。
「……こんにちは」
何時もより重いような気がする扉を、わたしはゆっくり開きます。
扉が開いているってことは、誰か居るってことですよね。
「こんにちは、朝比奈さん」
扉を開いたら、古泉くんだけが居ました。
……。
……何でですかあ!
「あ、あのあの、あの……、他の、みんなは……」
「買出しだそうですよ」
古泉くんが、涼しい顔でそう言いました。
そ、そんな、何も、こんな日に……、うう、悪いのがわたしだって言うのは分かっていますけど、幾らなんでも、間が悪すぎますよう。
けど、古泉くん……、昼間のこと、気にしてないんでしょうか。あんまり気にされているというのも嫌なんですけど、全然気にされていないというのも……。
ううん、わたし、随分我侭ですね。
悪いのはわたしなのに……。
「そ、そうですか……」
「ああ、そうそう、だから今日はもう帰って良いそうです」
「……ほえ?」
「今日中には戻れそうに無いから、だそうですよ」
「えっと、それは……」
「本当は張り紙を残すだけでも良かったんですが……、あなたと話したいこともありましたからね。こうして待たせてもらうことにしました」
「……」
ええっと、それって、それって、やっぱり、昼間の……。
ううん、わたしには、爽やかに笑う古泉くんの表情は、全然読めません。
怒っているというわけではないと思うんですけど……。
それから、わたし達は、二人で一緒に学校帰りの坂を下りました。
話したいことが有るって言っていたのに、古泉くんはまだ何も言ってきていません。
わたしが切り出すのを待っているんでしょうか……、ううん、沈黙が重いですよう。
「あの……、今日は、ごめんなさい!」
車の通らない細い道に入ったところで、わたしはさっと古泉くんの前に回りこみ、頭を下げました。だって、他に何を言えば良いか分からなかったから……。
「別に、謝っていただかなくても結構ですよ」
「でも……」
「あなたは、僕の持ち物の中身を見たわけではないのでしょう?」
顔をあげて見上げてみたら、古泉くんは、何だか少し寂しげな表情をしていました。
「……」
わたしは、無言で首を縦に振りました。
本当ははっきり声に出した方が良かったんでしょうけど、何だか今は、上手く言葉が出てきそうに無かったんです。
古泉くん……、怒っては、居ないんでしょうか。
でも、じゃあ、なんで、そんな、
「あなたがそういうことをしない人だということくらい、ちゃんと分かっているつもりです。……もっとも、人に見られて困るようなものを学校に持ち込んでいるわけでもありませんが」
「……」
それは、その、そうでしょうけど。
でも、それは、そういうことじゃ、なくて、
「……帰りましょうか」
「……」
わたしは、もう一度無言で頷きました。
それからわたし達は、さっきよりも重くなった空気を引きずったまま、再び坂を下り始めました。
どうしよう……、どうしたら、良いんでしょう。
古泉くんは、多分、言いたいことがいっぱいあって、でも、それを全然言葉に出来なくて。
わたしも、本当は、言わなきゃいけないことがたくさんあるのに、何にも言えなくて。
結局、二人して、そういうことを『仕方ない』なんて言葉で、片付けようとしていて……。
本当は、それじゃあ、ダメ、なのに、
「あの……」
漸く声が出せるようになったのは、坂道を殆ど下り終わった頃になってからでした。
「なんでしょう?」
「あの、話って、さっきの……」
「ええ、さっきのことだけですよ」
「どうして、」
「え?」
「どうして、……どうして、わたしが、あなたの席に座っていたのか……、そういうことは、訊かないんですね」
もし、わたし達が、普通の高校生同士だったなら。
ただの、部活の先輩と後輩だったなら。
最初に気にかけるのは、そういうことの、はずなんです。
そういう、当たり前な……、ほんの小さなきっかけから始まるかもしれない物語を、期待したり、その逆に、迷惑だと思ってみたり……、そういう、どこにでもあるような、高校生同士の……。
「……」
「どうして、」
「訊いて、どうするんですか」
返ってきたのは、殆ど予想通りの言葉でした。
分かっています。分かって、居ました。
だって、わたしは……。
だって、あなたは……。
「……」
「理由なんて知っても、僕には、」
「来て下さい」
わたしには「そんな顔しないで」とか「違うでしょう」なんてこと、言えません。
だって、わたしも……、分かっているんです。そんなこと。
どうして、古泉くんがそんな表情をしているかなんて……、だから、わたしは、古泉くんの顔を見ないで、ただ、その腕を引っ張りました。
それが、わたしの精一杯。
納得なんてしたくないわたしの、精一杯の抵抗。
「あの……」
「来て下さい」
「えっと、どこへ、」
「良いから……、お願い、です」
振り返らずに、わたしは言いました。
こんな言い方、ずるいですよね。
こういうときだけ女の子の武器を使うような素振りを見せるなんて……、わたし、本当に、ダメな子ですよね。
でも、今は……、古泉くんの方に全然抵抗する気がなさそうなのを、わたしなりに、わたしの都合の良い方に、解釈させてもらいますけど。
それくらい……、許して、もらえますよね。
「……分かりました」
古泉くんが、溜息を押し殺すようにしながら頷いてくれたのが、その雰囲気から伝わってきます。
ごめんね、古泉くん……。ううん、ごめんねじゃなくて、ありがとう、ですよね。
言えない、言わない。訊かない、訊けない。
伝えられない……、こたえられない。
だから、こうするしかないんですよね。わたし達は……。
そう……、ちゃんと、わたしも、分かっているんですよ。
わたしだって……。でも、わたしにだって、どうにも出来ないんです。
わたしだって、何も言えないんです。
だから、今は。
この、二人だけの時間を。
もう少しだけ、続けさせてください。
お願い……。
終わり