○第四章

その姿はいつぞやの雪山での光景を思い出させた。
俺のいたベンチは突如騒然となった。俺は誰が何を言っているのかも聞かずに席を飛び出した。
ハルヒや喜緑さんが駆け寄っている。守備についていた他のメンバーも二塁に集まり、気付くのが遅れた谷口が傍らで怪訝そうにしている。
俺は五秒で長門のいるベースに駆け寄ると、輪をくぐって中に入った。
長門は力なく倒れており、古泉が抱える形で呼びかけていた。
「長門さん! 長門さん!」
かがんでいた俺はちらと上を見る。喜緑さんが蒼白な表情で口元に手を当てている。……何てことだ。
「新川、すぐに車の準備を!」
「かしこまりました」
新川さんと森さんの声が聞こえたが何を言っているのか頭が回らない。
「長門、長門っ!」
「有希! どうしたの! 有希っ!」
俺とハルヒの声。さっきまでベンチにいた会長チームの面々が走ってきた音が聞こえる。
「……! すごい熱だわ。あの時と同じ……?」
ハルヒが長門の額に触れつつそう言った。長門は頬を紅潮させていて、胸で微かに息をしていた。
「圭一さん、しばし長門さんをお願いできますか」
古泉が言い、田丸兄が請け負った。
「ちょっといいですか」
古泉が鋭い眼差しを俺に向けた。俺は黙って頷いて輪から出た。
「長門さぁん!」「有希ちゃん!」「長門っち!」
妹や鶴屋さんの声が背後から届いてくる。俺と古泉はベンチ脇まで歩いた。
「どういうことですか。分かるなら説明していただきたいのですが」
俺は頷いてさっき喜緑さんから聞いた話を古泉にした。ずいぶん早口になったが古泉はしっかりと把握したらしく、
「……なるほど。ということは彼女の負荷が許容量を超えたと」
「たぶんな……」
俺は続く言葉を言えなかった。見ると、田丸裕さんのほうが長門を背負ってグランド出口へ歩き、それにハルヒや朝比奈さん、妹、鶴屋さんに阪中が連れ立っていた。元いた場所には谷口、国木田、喜緑さん、会長、コンピ研部長にミヨキチが残っていた。


残っていたメンバーのうち喜緑さん以外には今日の礼と謝りの言葉を言って帰宅してもらった。
会長こそ無表情だったが、全員が心配しているように思えた。何だか後味の悪い野球大会になっちまったな……。
「長門さんは例の病院に搬送しました。原因が普通の医師に分からないものだった場合でも、うまく対処してくれるはずです」
古泉は最初にそう言った。俺もハルヒと共にそのまま病院に向かいたかったが、喜緑さんに話を聞く必要がある。
「わたしの責任です」
彼女は言った。本当に申し訳なさそうにしている姿に胸を痛める。
「長門さんが統合思念体に性格改変の申請を出したのは五日前のことです。申請には長門さんを監督する役割を課せられているわたし
の承認も必要でした」
俺はいつだったか、長門が同期を凍結したと言ったことを思い出した。あの時、解除は自分ひとりの力では不可能とも言っていた。喜緑さんは、あの朝倉に代わって長門のサポート役を任せられているのだろうか。
「長門さんは性格改変を望む理由を言いませんでした。同期をしなくなってから、彼女はわたしから見ても変化しています」
「その改変申請とかっていうのは、簡単に通るものなんですか?」
俺の質問に喜緑さんは首を横に振る。
「基本的には、元々与えられている性格から逸脱することは許されていません。今回の申請が通ったことに、わたしも驚いています」
確かに。長門の親玉はバグによって暴走した長門を一度処分しようとした。どうにも頭のカタそうなイメージがある。
古泉は腕組みをして神妙な面持ちになり、ずっと話に聞き入っている。
「長門さんは、どうしても申請を通したかったみたい。どうしてでしょう……」
喜緑さんはそう言うと押し黙った。俺はこの数日の長門の行動を思い返していた。
……わたしはキョンくんのことが本当に好きだから。それが言いたくてこの性格になったんだよ。
長門……。俺は後ろめたい気持ちになった。俺は、あいつを一度裏切っている。
あの時、長門がエラーを解放して世界を変えちまった時、俺はこちらの世界に戻ることを望んだ。
それは、結果的に長門の行為をむげにすることとなった。
気付いていないフリをしていたのを、あいつはとっくに見透かしていたのかもしれない。
長門。お前は、この日常が続くだけじゃだめなのか? 俺は答えを出さなきゃいけないのか?
俺はふと思い当たって、喜緑さんに尋ねる。
「あいつも、長門もこうなることは予想できていたんですよね?」
「えぇ、そうです。長門さんは自分の元人格から、今の人格が離れていることを自覚していたはずです。
負荷の量は彼女にも予測できます」
そうまでして変わりたかったのか? そんなことをしなくても、お前は自分の意思を表現できるようになってきていたじゃないか。
「……そろそろ我々も病院へ向かいましょう。長門さんが意識を取り戻していればいいのですが」
それまで黙っていた古泉が言った。太陽は、西に傾き始めていた。


喜緑さんとはここで別れた。彼女は長門と交信する手段を他に持っているらしい。
病室に着くと、そこにはハルヒと朝比奈さん、俺の妹しかいなかった。
「軽い貧血だって言うから、他の人には事情を言って帰ってもらったわ」
ハルヒが言った。貧血ね。俺は長門を見る。
「キョンくん、ごめんね。心配かけちゃって」
さっきまでと変わりない笑顔だ。だが、俺はそれに笑顔を返すことができなかった。
「調子はどうだ」
「もう平気だよ? さっきのはちょっと……そう、ふらっと来ただけ」
病室内の空気も予想していたよりずっと穏やかだった。
「無理すんなよ。何かあったら……誰にでもいいから言うんだぞ」
「うん」
今この場で長門とできる会話はそんなにない。同席するのが古泉だけならまだしも、朝比奈さんやハルヒまでいるとなると、普通の見舞いの言葉しかかけられない。


そこから二時間ほど俺たちはバカ話をし、大事を取って一晩泊まることになった長門を残してこの日は解散する。朝比奈さんと妹、ハルヒはすっかり落ち着いたようで、三人仲良く話し込んでいた。
「長門さん、どうするんでしょうね」
古泉が帰途の途中で言った。
「このままでは、遠からず元の人格に戻る日が来ると思うのですが」
俺も同感だ。あのままでいたら今よりもっとひどい事になるかもしれない。長門も分かっているはずだ。
「あなたは長門さんがどうして急に人格を変えたのか、分かっているのではないですか?」
胸に突き刺さることを軽々と言いやがる。俺は思わず顔をしかめる。
「僕が思うに、あなたはもう少し今の長門さんと話す必要があります。最終的に、今回の自体の解決はあなたに懸かっていると言ってもいいのではないでしょうかね」
「そうだな」
俺はぶっきらぼうにそう言った。分かってる。事態は止める間もなく起きてしまった。今まで俺が放置してきた大事なことが、今になって返ってきているのだ。
「昼食の時に僕が言ったことは覚えていますよね」
「あぁ、忌々しいことにお前の言葉は記憶に定着しやすくなってきてるらしい」
「僕は心配していませんよ。何か困ったことがあれば、いつでも言ってください。力になります」
まるで親しい友人に向ける笑みだな。いや、まぁ……もはやそう呼べるだけの仲になってしまっているのかもな。


バスで駅前に戻り、そこから妹を連れて家まで戻った。……疲れたな。夕食を済ませ風呂に入り、俺は自室のベットに寝転がってこの数日の長門のことを考えていた。
「キョンくん電話、有希ちゃんから……」
妹が持ってきたのは自宅電話の子機である。俺はがばと起き上がって妹を手振りで部屋から出し、通話ボタンを押した。何か妹が元気ないように見えたんだが、さてどうしてだ? さっきはハルヒや朝比奈さんと騒いでたのに。
「もしもし? 長門か?」
「キョンくん……。ひっく、うぅ……」
胸を鷲づかみにされたような感じがした。泣いてるのか!? どうして?
「えっ……うぅ、うっ……」
受話器に耳を当てていてもすすり泣く声しか聞こえてこない。そうか。だから妹の表情が曇ってたのか。
「どうしたんだ? 何があった?」
受話器越しに女性の泣き声を耳にしたのは、終わらなくなったあの夏休み終盤以来だ。
「わたし、えっ……うぅぅぅー」
「今からそっち行くから、待てるか?」
「うぅぅぅぅ……っく、うぇ」
長門は返事すらしない。何があったのだろう。
「できるだけ急ぐから、待ってろ!!」
俺は必要最低限の荷物を持つと、母親に出かけることを告げ、上着を羽織って玄関に向かう。
「キョンくん、有希ちゃんどうしたの……?」
「分からん。帰ってから話す!」
妹の言葉に振り向かず答えて家を出た。
移動は自転車とバスだが、片道に結構時間がかかる。長門……。
今までの長門は感情を閉じこめすぎて気にかかったが、今度は逆だ。
どんな性格であっても、やはり長門の考えていることは不明瞭だ。不明瞭……。
本当にそうか? また誤魔化しているんじゃないのか? お前が。
この長門の涙は俺のせいじゃないと言い切れるか? 今から長門のところに行ってお前は何を言うつもりだ?
あの再改変の時とは違う、長門は何もかも知っている。そして泣いている。それはなぜだ?
長門は苦しんでいる。何にだ?
分かっているはずだ。……気持ちにだ。長門はお前を好きだといった。
どうして何も言ってやれないんだ?
言えるわけないだろ。俺はあの団の誰と仲良くなってもいけないんだ。あの日、大人になった朝比奈さんは行っていただろう。
……あたしとあまり仲良くしないで。
そうだ。そしてそれは他の団員に対しても例外じゃない。ひとりひとりは大切でも、誰かひとりだけを好きになったりだとか、そんなんはSOS団ではタブーなのだ。無意識下で、俺は自分にそう言い聞かせていた。だからあの長門に入部届けを返すことができたのだ。長門はそれでもまた変わることを望んだんだ。……どうしてだろうな。
それも分かっているはずだ。長門は気持ちをはっきり口にしたかったんだ。あいつは俺にキスまでしてきた。
そんなこと、いつもの長門ならしてこないはずだ。そうすることでSOS団や自分に与える影響を、あいつは考えてしまうから。
だから……考えないように。性格を、変えた。
そのリスクが、さっきの卒倒だ。あの性格は長くは持たない。あれは言ってみれば、長門の強がりだ。
でなきゃそんな危険な領域にみすみす踏み込まないだろ。だって、あいつは……
……ハルヒちゃんの観測しないといけないじゃない? それがわたしのお仕事だもの。
そうだ。本当は自分の主張があってはならないはずなんだ。さもなくば、いつ統合思念体に結合解除されるかわからない。
俺はバスの中で顔を伏せた。
お前はどこに向かっているんだ? 分かってるのか?
……。
……長門。


バスはやがて病院前に到着し、俺は夜間用の受付口から中へ入った。
物音を立てないように静かに移動する。個室の名前の表示を念のため確認して、静かにドアをスライドさせる。
「キョンくん……」
直後に長門は俺に抱きついた。俺は、黙って長門を抱きしめ返した。
「ごめんね……」
俺が来るまでずっと泣いていたのだろうか。声が震えている。
長門ってこんなに細かったか。これまでこいつに触れたことなんか、そんなになかったからな……。
「どうしたんだ」
俺はそれだけ言った。まずは話を聞こう。それから、できるだけたくさん話してやろう。
「この性格は、やっぱりわたしにはムリだったみたい……。近いうちに元に戻さなきゃいけない」
「……そうか」
「そう……」
短い言葉はこの長門にしては珍しい。
「喜緑さんがね、戻さないと今後のエラーが増えすぎるって……」
「そうか」
俺は長門の肩をとんとんとたたきながら話を聞いた。
ドアこそ閉まっていたが、俺たちは入口に立ったままだった。
また何もできないのか、俺は。
こいつは気持ちをはっきりと伝えてきた。そりゃ、性格改変は反則という奴もいるかもしれない。
でも、こいつは相談する相手すらいないのだ。まして、最初から同じ年で、決まった性格なんだ。そんな状態で、人を好きになったらどうすればいいのかなんて分かるだろうか? こいつは自分なりに四苦八苦したんだろう。じゃなきゃ今泣いたりしないはずだ。
「ごめんね。わたし、性格を変えてから、キョンくんを困らせてばかりだね……」
それは俺の台詞だ。長門。今までお前を困らせたのはハルヒと、お前の気持ちに応えなかった俺だ。イエスとも、ノーとも言えず、見てみぬフリでお前を受け止めなかった、俺自身の甘えだ。
「長門。今までごめんな……。俺は、お前の気持ちに気付いてた」
「……キョンくん?」
長門は俺を透き通った目で見つめた。わずかな月明かりが横顔に反射する。
「それなのに気付いていないように振舞っていたんだ。……そうすることで、俺と、俺の日常を守ろうとしてたんだ。俺は安心してた。あの改変の日から、この日常のの大切さに気付いて、俺はSOS団を危機に陥れる奴に立ち向かう決意をした。……けどな、それを隠れみのにして団員そのものには、本当の意味では……目を向けていなかったんだ」
長門は複数の感情が混ざったような表情をしていた。笑いたいのに泣きたい、でも怒れはしない。そんな表情……。
「長門。俺はお前にはっきり言っておく必要がある。他でもない、俺自身の気持ちをだ」
「キョンくんの……気持ち?」
長門は不安げな表情になった。……こいつは怖れている。俺だって怖いさ。キズをつけないためと言うのなら、やはり言わないほうがいい。どう答えても、誰かが悲しむんだ。ならいっそ誰も傷つけない方がいいんだ。だがそれは逃げることに他ならない。いつか、回答を出さなければならない日が来る。俺はそれを知っていたはずだ。頭で思わずとも、どこかで感じていた。
「……俺はな、長門。やっぱり、お前に応えることは、できない」
「…………」
長門は時間が止まったような顔をした。俺も胸が凍りつきそうになる。
いつかは、言わなきゃいけないことだったんだ。
それが今日この時に来てしまったってだけで……。
「ごめんな……もっと早く伝えておくべきだった。あの時に……」
そう、あの日。眼鏡をした幻の長門に入部届けを返した時にはもう、今日の答えは、決まっていたんだ。
「……そう」
長門は俺をつかんでいた弱い力をゆるめ、半歩だけ後ずさった。
「……へへへ。そっか、……そうだよね」
長門は笑うようにいった。どう見たってこれも強がりだ。
けれど、俺には長門を抱きしめてやる資格はない。
たった今、返事をしたからだ。
……。
「ほんとはね、わたしも分かってたんだ。……こうなるんじゃ、ないかって」
長門は声を震わせたまま言った。
あの時と同じで顔を伏せているため、目もとがよく見えない。
「俺は今までお前に数え切れないほど助けてもらった。……なのに、本当にすまない」
「わたしの責任だったことも沢山あった」
「そうやって! ……ひとりで抱え込みすぎだ、お前は」
思わず声が大きくなってしまう。怒っているわけじゃないのに。
「へへへ……ごめんね」
だから、どうして謝るんだよ。俺もお前も、まるでどっちがたくさん謝れるか競争してるみたいだな。
「そうだね。ふふ……」
長門はやっぱり無理をしている。必死で変わろうとして、その反動に苦しんでいる。
いつだか、中河が俺を通して長門にラブレターをよこそうとした時。俺は何だか落ち着かなかった。
あれも、団員の心が他の場所へ向かってしまうのを、俺が勝手に気に入らないと思ったからだ。
傲慢だった。……俺はそんな人間になりたくないのに。

いつまでも変わらないことなんか、ねぇんだよ。
お前は、それを知るべきだ。
いつまで長門を苦しめるんだ。
子どもみたいに駄々をこねるのは、やめにしろよ。

「長門。お前は、元の性格に戻ったって、変わろうと思えばいくらでも変わっていけるんだ! 俺が保証する!
だから、何かつらいことがあったら、誰にでも相談しろ! 俺じゃなくったっていいんだ。古泉でも、朝比奈
さんでもいい。ハルヒだっていつもお前のことを気にかけてるんだ。雪山でのあいつを見ただろ? だから……」
……俺がそこで詰まってしまうと、長門が顔を上げて
「もういいから。わかったから。キョンくん……それじゃいつか、ハルヒちゃんにも逃げられちゃうよ」
長門は笑っていた。瞳が苦しくなるくらい綺麗だった。月色の瞳。
「わたしの役目は観測だもの。こんなこと、望んじゃいけな――」
気付けば俺は長門を抱き寄せていた。
「……!!」
「そうやって自分を責めるな。お前は何にも悪くない。誰が許さなくても俺が許した。だから……もう、やめろ」
長門はさっきより弱い力で俺の背に手を回した。胸が苦しいって、こういうことを言うんだな。やっと分かった。
「…………うん」


俺たちは何十分もそうしていた。他に俺ができることは何もなかった。
そこから先へも、手前へも行けない。それが俺と、長門の、距離だった。


「ありがとう。もう大丈夫。……わたしが元に戻っても、冷たくしないでよ?」
長門はにこりと笑った。
「あぁ。もちろんだ」
俺は笑っていただろうか。あの冬以降、俺は笑いたい時に素直に笑っていたはずだ。
なぁ、長門。お前がそんなに上手に笑ってるんだもんな。負けてられないよな。
「それじゃぁな」
「キョンくん?」
「……何だ?」


「すき」


「……」
「また、次の集合の時にね」
「……あぁ。またな」


帰り道。最終便となった客のいないバスで、俺は馬鹿みたいに泣いた。
謝るなと長門には言っておいたのに、俺は心の中で何度もあいつに謝った。
それは、あいつには届かない言葉。
「長門……ありがとうな」

そこからどうやって家まで戻ったのか、はっきり覚えていない。



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