神様に振り回されて。未来人がお茶を淹れてくれて。宇宙人が部屋の隅で本を読んでいて。超能力者がチェスの勝負を持ちかけてきて。
 日常と非日常の中に、俺はいた。
 俺は団長のわがままに、やれやれと頭を抱えながら付き合ってやっていた。
 そんな生活がどうしようもなく楽しかった。
 それは、夢のような時間だった。
 否。

 それは、夢だった。



            「リセット」



目を覚まし、最初に目に飛び込んできたのは、白い天井だった。
 ふと、口元に何か違和感を感じる。手を置いてみると、そこには何かが取り付けてあった。
 緑色の何か。
 なんだ、これは。
 そのまま、十数秒ほど見つめて、それが何かやっとわかった。
 酸素マスクだ。
 何故こんなものが……。
 外そうと思って、引っ張ってみるが、外れない。俺は諦めて、とりあえず辺りの様子を窺うために身体を起こした。
 俺はその光景に見覚えがあった。
 病室。
 以前、長門の暴走を止めた後に、入院していた病院だ。
 俺は、ぼーっとその光景を見つめた。脳に酸素が充分にいっていない気がする。

 しばらくそうしていて、ようやく俺は気がついた。
 何故、俺はこんなところにいるんだ?
 病室にいるということは、俺は入院しているのだろう。何故、俺は入院していたんだ? 俺の顔には酸素マスクが取り付けてあった。ということは、決して軽い怪我では無いはず。
 俺は、必死に自分の頭の中を探ってみた。そして、見つけたのは、最後の記憶。そう、俺はSOS団の部室にいた。そして、突然睡魔に襲われ……眠ってしまったのだ。それ以上は思い出せない。俺が寝ている間に、何が起こったのだろうか。
 ぱさり。
 何かが擦れる音がした。何だ? と思って、左右に首を降る。すると、その動きに合わせてまた、ぱさり、ぱさり、と音がした。何なんだ、これは?
 ふと、窓ガラスが視界に入った。ガラスに反射して、自分の姿が映し出されている。
 俺は、そこに映っている光景を見て驚愕した。
「何だよ、これ」
 俺の後ろ髪は、自分の肩にかかるほどに伸びきっていた。

 ・

 ・

 病室に入ってきた母親は、俺の姿をみるなり、目を丸くし、泣き出した。
 母親は俺が目覚めた事に感動しているようだが、そんなことより、今の自分がどういう状態なのか知りたい。
「なあ、俺に何が起こったんだ?」
 言ってみたが、母親は泣いてばかりで俺の問いかけに答えてくれない。
 しばらくして、部屋に医師らしき者が入ってきた。彼もまた、目を丸くして俺をみたが、俺の元にゆっくりと寄ると教えてくれた。
「目が覚めたか、良かった良かった。君はもう、二ヶ月も昏睡状態だったんだよ」
 昏睡状態? 二ヶ月?
 いきなりそんなことを言われて俺は混乱した。一旦、無理矢理頭を落ち着かせて、俺は医師に尋ねてみた。
「どうして俺は眠っていたんですか?」
「ん? 覚えていないのかい? まあ、無理も無いか。君ね、交通事故にあって。大した外傷は無かったんだけど、打ち所が悪かったんだろうね、脳が激しくショックを受けて。それで、昏睡状態に、ね。」
 交通事故?

「俺、何処で事故にあったんですか?」
「えーっと、何処だったっけ。何処でしたっけね」
 医師は母親に問いかける。見ると、母親はようやく泣き止んだらしく、ゆっくりとした口調で
「学校から帰る道よ。調子に乗って自転車のスピードを上げすぎるから」
 帰り道? 俺の記憶の中で最後に残っているものは、部室の風景だけだ。帰り道の記憶なんて残っていない。
「先生、脳ってショックを与えられると記憶が飛んでしまうことってあるんですか?」
「ん、まあ、あるだろうね。どうしたの? 何か思い出せない事でもある?」
「はあ、いえ、その事故にあった日の、帰り道のことが思い出せないんですけど」
「そっか。まあ、忘れてても身体に異常は出ないだろうし、ゆっくりしたら思いだすと思うから心配しなくていいと思うよ」
 医師はそう言って、肩を叩いた。
 しかし、二ヶ月も眠っていたのか。ハルヒが「団長を心配させる団員は罰金よ!」とか言い出しそうだな。二ヶ月。確か、事故にあう前が三月だったから……もう五月になるのか。
 俺は、そこまで考えて、ある事に気が付いた。
 げ、もう二年生になってるではないか。

「先生、ということは、俺、もう二年生なんですよね。やばいな、授業に遅れてる」
 俺が言うと、医師は何故か眉を顰めた。
 そして、こう言った。
「何を言ってるんだ、君はまだ一年生だよ」
 は?
「どういうことですか?」
「だから、君が事故に会ったのが、四月。そのまま二ヶ月眠っていたから、今は六月だよ。つまり、君はまだ、今高校一年生」
 何を言っているのかわからない。
「先生、俺が事故にあったのは、高校一年生の終わりの三月だったはずですが……」
 言うと、医師の眉間の皺がますます深くなる。
「まだ記憶が混乱しているのかな。えっと、彼はまだ高校一年生で間違いないはずですよね、お母さん」
 医師の問いかけに、
「ええ、そうです」
 と、母親は頷く。

 俺はまだ高校一年生? 記憶が混乱している? そんな馬鹿な。そんなはずは無い。確かに俺は高校一年生の時を過ごした。そう、SOS団と……。
 SOS団?
 ……まてよ。
 医師が言うには、俺は一年生の四月から眠っていたということになる。四月。まだ、SOS団は結成されていない。その四月に俺が昏睡状態に陥ったとすれば。
 SOS団は……。
 そんな馬鹿な。
 いや、ありえない。
 そうだ、ドッキリか何かだ。大方ハルヒに言われてやっているのだろう。そして、ハルヒ達は何処かに隠れて俺のリアクションを窺っているんだ。
 医師まで巻き込むなよ、あの馬鹿団長が。
「先生、嘘をつくのは止めてください。どうせ、ドッキリか何かでしょう?」
 言うと、医師は「何言ってんだこいつ?」と言いたげな表情を浮べて言った。
「何言ってるんだい。嘘なんかつかないよ、私は医者だからね」
 まだドッキリを貫くのか。

「いえいえ、もういいですよ、ハルヒに言われてやってるんでしょう?」
「ハル……? ええと、そのような人は知らないけど」
 まだ折れない。しつこい。
「だから! もういいですって! 本当の事言ってくださいよ!」
 思わず声が強くなる。しかし、医師は顔を顰めたまま、
「う、嘘なんかついていないって。……きっと今は記憶が混乱しているだけだよ。しばらくしてれば大丈夫」
 ふざけるな。ここまでしつこいと、ドッキリにしてももう笑えない。
「ちょ、ちょっと、あんた。お医者様に向かって失礼じゃないの」
 母親が言う。母親もまだドッキリを続ける気らしい。なんとしつこい事だ。
「ハルヒ! どっかに隠れてるんだろ! もういいって、バレてるぞ!」
 俺は姿が見えない仕掛け人に直接呼びかけた。しかし、返答は無い。ハルヒまでも、まだ嘘を貫くつもりらしい。どいつも、こいつも……。
「だから、もういいって言ってるだろ、ハルヒ! さっさと出て来い!」
 しかし、返答は無い。

 俺がイライラしながら、辺りを見回していると、母親が一言。
「ねぇ、あんた。さっきから、ハルヒハルヒって言ってるけど、それって誰のことを言ってるの?」
 思わず、はぁ? と声を出しそうになった。母親には何度かハルヒの事を話したことがあるし、ハルヒが家に来たとき、何度か顔も見ているはずだ。忘れるわけがないだろう。
 しかし、母親はハルヒなど最初から知らなかった、というような口ぶりなのだ。
「ハルヒだよ、ハルヒ。ほら、何度も話しただろ。その、SOS団って奴の団長だよ」
「SOS団?」
 母親は首を傾げる。まさかSOS団のことまで忘れたのか?
「もしかして、昏睡状態の時に、何か夢でも見ていたんじゃないのかい?」
 医師が言った。
 夢?
 夢って、何だ?
 SOS団が、夢?
 SOS団と過ごした日々が、夢?
 ハルヒが、夢?
 あれらは、全部無かった事だって言うのか?
 ありえない。

「ハルヒ! おい、ハルヒ! いるんだろ! 出て来いよ!」
 叫ぶ。が、返答は無い。
「ハルヒ、もういいって! 出て来い! 本気で怒るぞ!」
 返答は無い。
「何やってんだよハルヒ! 出て来いって!」
「やめなさい!」
 母親に一喝され、俺は押し黙った。気付くと、息が荒くなっていた。
 どうしてハルヒは出てこないんだ?
 まさか、この医者が言うように、あのハルヒは本当に……。
 夢?
 ハルヒと過ごした日々は全部夢だったっていうのか?
 あれは全部、嘘だっていうのか?
 ありえない。
「まあ、しばらく安静にしておけば、記憶も元に戻って落ち着くでしょう」
 ありえない!

 ・

 ・

 何も考えられなかった。
 医師の言った言葉は全て信じられなかった。
 ただ、その言葉に秘められた、絶望の可能性に震えていた。
 食事はちゃんと採った。
 リハビリも受けた。
 言われるままに。
 何も考えずに、ただ言われた通りにした。
 何も表情をつくらないようにしていた。
 ただ、心の震えは、痛いほど感じていた。
 俺は、ベッドの上で、毛布に包まりながら、医師が言った言葉を思い出した。
 ――何か夢でも見ていたんじゃないのかい?――
 夢? SOS団が? あいつらと過ごした日々は全部夢? 全部嘘?
 ありえない。
 ハルヒは確かにそこにいた。
 楽しそう笑っているハルヒはそこにいた。
 高校入学時の、無愛想な姿からは考えられないほど、楽しそうな笑顔。
 あれが夢?
 あれが嘘?
 ありえない。
 何かの間違いだ。

 なぁハルヒ、俺はもう目覚めたからさ。早く連れに来いよ。いつもみたいに、俺の手首掴んでさ。団長が団員をほったらかしでいいのかよ。

 ・

 ・


 次の日、俺は、横に点滴を連れて病院の庭を歩いていた。母親に、「たまには散歩でもしてみたら?」と言われたからである。
 本当は、散歩なんて行きたくなかった。一日中、ベッドの上で寝ていたかった。しかし、嫌だ、と言うのも面倒臭かったので、言われた通りにした。今は何も、一言も口にしたくなかったのである。
 毎日リハビリをしていただけあって、もう楽に歩けるようになった。
 足の裏が大地の感触を伝えてくる。しかし、俺の脳はそれを拒み、その信号をことごとく打ち消す。
 まるで、ふわふわと浮いているようだ。いや、ふらふら、と言った方が良いのだろうか。それは、今の俺の心を表しているようだった。

 ふと、病院の門が目に入る。門の外、人が流れて行く。流れて行く人々の、その服装に俺は見覚えがあった。北高の制服である。そういえば、そろそろ学校が終わる時間帯だ。
 目に入る生徒達は、楽しそうに笑いあいながら道を歩いていた。
 何がそんなに楽しいんだよ。
 くだらない話で笑いあって、何が楽しいんだ。
 俺なんか、宇宙人や未来人や超能力者や神様と一緒なんだぜ。
 お前等みたいな一般人とは格が違うんだよ。
 なのに。
 なんでそんなに楽しそうに笑えるんだよ。
 なあ。
 気付けば、目頭が熱くなっていた。どうして泣きそうになってるんだ、俺。わかんねぇ。
 俺は、右目の端を人さし指で押さえながら、流れて行く人を見た。涙を堪えて、ただ眺めた。何故か、目を逸らしてはいけないと思ったのだ。

 次の瞬間。
 求めていたものが目に飛び込んできた。
 今度こそ、泣きそうになった。
 しかし、なんとかそれを堪えて、俺はその方向に走った。患者は病院から出てはならないことになっているが、そんなことは今どうでも良かった。
 そこにいたのは間違い無く。
 涼宮ハルヒだった。
「ハルヒ!」
 俺は叫んだ。
 俺の呼びかけに、ハルヒは反応し、俺の方を見た。ああ、ハルヒだ。あの顔は間違いなくハルヒだ。
 俺は、ハルヒの元に駆け寄ると、その肩を掴んだ。
「よお、ハルヒ! 久しぶりじゃないか!」

 すると、何故かハルヒは怪訝そうな顔をした。そして、信じられないような言葉を吐いた。
「誰よ、あんた」
 俺は凍りついた。誰? 何を言っている。あれだけ時間を共にしたじゃないか。団員の顔を忘れたのか、この団長は?
 ふと、自分の髪が肩に触れる。ああ、そうか。
「ああ、俺の髪が伸びてるから気付かないのか。俺だよ、キョンだよ」
 これで俺のことがわかってくれるはずだった。しかし、ハルヒは何故か眉間に皺を寄せる。
「キョン? 誰? ああ、そういえば四月らへんにそんなのもいたわね。で、何よ。あたし呼び捨てにされるほどあんたと親しかったっけ? っていうか、肩離しなさいよ」
 ……………は?
「聞こえなかったの? 肩、離せって言ってるのよ」
 よく見ると、ハルヒの顔は怒りに染まっていた。俺を拒否するような瞳で睨んでくる。何だよ、その顔。まるで、入学した時と同じじゃないか。
「はぁ? 何言ってんのあんた。顔が同じなのは当たり前でしょ」
 鋭い声を発する。俺はかまわず、今一番気になっている事を聞く。
「そうだ、ハルヒ。SOS団はどうだ、ちゃんと活動をやってるか?」
 言うと、ハルヒは、「はぁ?」という顔を浮かべ、
「SOS団? 何それ?」
 まるで、最初からそんなものなど存在しなかったように言う。

「SOS団だよ! お前がつくった、世界を、大いに盛り上げる、涼宮ハルヒの団! 長門や朝比奈さんや古泉もいるだろ?」
「世界を………大いに盛り上げる……? ……とにかく、そんなもの知らないわ。あんたが言う長門さんやら朝比奈さんやら古泉さんやらも知らない」
「ふざけんな!」
 つい熱くなって声を張ってしまった。
 その時。
 あるものが目に留まった。それに気付き、心臓が止まりそうになる。
 そんな……馬鹿な。
 なんで……。
 どうして……。
 俺は、出ない声を何とか搾り出して言った。
「お前……その髪……」
「は? 髪が何よ」
 ハルヒは言って、髪を掻き揚げた。
 風に舞うその髪は。
 ハルヒの腰元まで伸びる長いものだった。

 ・

 ・

 ハルヒからの元から逃げ出した俺は、頭から毛布を被り、ベッドの上で蹲っていた。
 ――キョン? 誰?――
 ――SOS団? 何それ?――
 何だよ。
 何なんだよ。
 ――何か夢でも見ていたんじゃないのかい?――
 そんな馬鹿な話があるかよ。
 こんな馬鹿な話があるかよ。
 さっきのハルヒの顔を思い出す。
 あの目を俺は、知っていた。SOS団を作る前の、ハルヒの目だ。
 ――何か夢でも見ていたんじゃないのかい?――
「ふざけんな!」
 俺は、横に置いてあった花瓶を、思いっきり壁に向かって投げつけた。壁に当たった花瓶は音をたてて、一瞬にして形を崩し、床に散った。
 これが現実なのか?
 SOS団なんて無かった、この世界が、現実なのか?
 夢の中の世界の方が、俺にとって現実だった。
 SOS団がある世界の方が、俺にとって現実だった。
 こんなのが現実だなんて、信じられない。認めたくない。頭が受け入れない。
 その時だった。

 コンコン。
 何かが叩かれた音。その音がノックの音だとすぐにわかった。しかし、俺は反応せずに、そのままじっとしていた。今は、誰の顔も見たくない。
 がちゃり、とドアが開く音がした。鍵を閉めるのを忘れていた。だが、もうどうでも良い。
「ねぇ」
 突然声が発せられた。女の声だ。母親のものかと思ったが、もっと若々しい声だった。
「聞いてんの?」
 聞き覚えのある声。
「聞きなさい!」
 次の瞬間、目の前の毛布が消えた。見ると、ハルヒが俺の毛布を掴んでいる。剥がされたらしい。
「何で、お前がここにいるんだ」
「そこらへんにいた看護婦さんに聞いたの。あんたの部屋は何処かってね」
 どうやら、俺を追いかけてきたらしい。
「何で来たんだよ」
 ハルヒは、ベッドに腰掛けると、
「何かあんたさっきあたしに言ってたでしょ。何言おうとしたの? はっきり言いなさい」
 と、黒い瞳で俺を睨みながら言った。
「別に何でもねぇよ」
「何でも無くないでしょ。あんた、さっき泣きそうな顔してたわよ」
 お前のせいだよ。

「なぁ、ハルヒ」
「呼び捨てにしないで」
「涼宮」
「苗字も駄目」
「涼宮さん」
「何よ」
「本当にSOS団のこと覚えてないのか?」
 ハルヒはふんと鼻を鳴らし、
「だから、そんなの知らないって言ってるでしょ」
 と、冷たい言葉を吐いた。
「やっぱり知らないか。そうだよな。ただの夢の話だもんな」
 言い終わって、目頭が熱くなった。また、泣きそうになった。男なのに、情けねぇ。
「な、何? 大丈夫? えっと、キョンだっけ?」
 ハルヒは急に心配そうな顔になって俺を見た。こんな俺のことを心配してくれているらしい。
「大丈夫。涼宮は優しいな」
 言うと、ハルヒは顔を赤くした。
「な、何言ってんのよ。あんたがほら、泣きそうな顔してたから」
 ハルヒは焦った感じで言った。
 心配してくれているので、泣いてはいけないと思ったが、やはり耐え切れなくなって目から涙が零れた。このハルヒは、俺の知ってるハルヒじゃないのだ。

「あのさ。俺、夢見てたんだよな。どうしようもないぐらい馬鹿な夢。お前が変
な部活作ってさ。部員が、お前と、俺と、長門って奴と、朝比奈さんって人と、
古泉って奴。その、長門と朝比奈さんと古泉が、それぞれ宇宙人と未来人と
超能力者なんだよ。で、その部ってのがSOS団って言うんだけどな。活動内
容は、お前曰く”宇宙人や未来人や超能力者を探して一緒に遊ぶ事”なん
だってさ。おかしいよな。部員が宇宙人、未来人、超能力者なのに、お前はそ
れに気付かずに、わざわざ外に探しに行くんだぜ。ははは。おかしいよな。ほん
と、おかしな夢だよ……」
 ここまで言って、後悔した。こんなつまらない、頭が狂っていると思われるような話、本物の涼宮ハルヒに話すんじゃなかった。ハルヒが、変な目で俺を見ていないか恐れつつ、俺はハルヒの顔色を窺った。
 すると、予想に反して、なんだかハルヒは興味深げに俺を見ていた。何だ?
「面白いじゃないの、その話」
「は?」
 思わず間の抜けた声が出た。
「もっと詳しく聞かせなさい」

 ・

 ・

 ・
「そこで、お前が朝比奈さんに、ミクルビームを撃て、とか言い出してさ」
「うんうん」
「その時、いきなり長門が俺の目の前に飛び込んできて。で、朝比奈さんの目から本当にビームが発せられてるだとか」
「えっ、何でビームが出るの?」
「お前が望んだからなんだってさ。その時長門が守ってくれなかったら俺死んでたぜ」
「あははははは」
「笑い事じゃねーよ、お前のせいなんだぞ」
「いいじゃない、夢の話なんだから」
「まぁ、そりゃそうだけどさ」
 俺が話をしてやると、ハルヒは本当に面白そうに笑った。先程の無愛想な顔からは想像もできないほど、輝いた笑顔だった。それは俺の夢の中のハルヒの笑顔に似ていた。
 ハルヒに俺の夢の話をしてやるのは、それほど悪いものではなかった。むしろ、楽しいとさえ感じられた。ただ、目の前のハルヒが、俺の知るハルヒじゃないのかと思うと、やはり寂しくなる。

 気付くと、窓の外は夕日で赤く染まっていた。
「それじゃ、あたし、そろそろ帰るわね」
 ハルヒは立ち上がり、鞄を取った。
 ああ、これでハルヒとお別れか、と思うと少しだけ寂しくなった。
 ハルヒは部屋を出ようと歩き出したが、ドアの前でぴたりと立ち止まると、俺に顔を向けた。
「ねえ」
「何だ」
「明日もまた来ていい?」
 何を言われたかわからなかった。そして、明日もまたハルヒと会えるとわかり、
「あ、ああ! うん、大丈夫だ!」
 と答えた。
 すると、ハルヒはくすくすと笑った。ハルヒが今まで見せたことのない笑い方だ。夢の中のハルヒは、にやり、としか笑わなかったが、本物のハルヒはこういう笑い方も出来るんだな。
 ハルヒは、鼻歌を歌いながら上機嫌で部屋を出て行った。

 ・

 ・

 次の日現れたハルヒを見て、俺は驚愕した。
「す、涼宮、お前……」
「ふっふーん、どう? 似合う?」
 ハルヒは得意気に髪を掻き揚げる。昨日、腰あたりまであった髪が、肩あたりまでばっさり切り落とされていた。そう、俺の夢の中のハルヒの髪型だ。
「涼宮、お前その髪型にしたのか?」
「そうよ。何かあんたの夢の中のあたしにちょっと興味が沸いちゃって」
「そうなのか」
 見れば見るほどに、夢のハルヒそっくりである。本人だから当然ではあるが。
「あ、そうそうキョン」
 ハルヒは右手の人さし指を立てて言う。
「あたしのこと、”ハルヒ”でいいわ」
「え、何が?」
 ハルヒが何を言っているのかわからず聞き返す。
「だから、あんたあたしの事”涼宮”って呼んでるでしょ? それを”涼宮”じゃなくて”ハルヒ”って呼んでいい、って言ってるの」
 ああ、なるほど。
「でも本当にいいのか?」
「何よ、本当のあたしはその名で呼べないって言うの?」
「い、いや、そういうわけじゃねぇよ。……ハルヒ」
 言うと、ハルヒはにんまりと微笑んだ。

 ・

 ・

 その次の日は、ドアを蹴り破るように開いてハルヒは登場した。
「ニュースよ! ニュース! 大ニュース!」
 そして、興奮した様子でそう言った。
 ハルヒが言うニュースに良いニュースがあった覚えは無い。
 が、よく考えてみればそれは俺の夢の中のハルヒのことであり、目の前のハルヒは違うのかな、と思って俺は恐る恐る聞いてみた。
「何が、大ニュースなんだ」
「それがね!」
 ハルヒは顔をずいと近づけてきた。
「みくるちゃんと有希よ!」
 はぁ?
「だから、みくるちゃんと有希なのよ!」
 答えになっていない。っていうか日本語になっていない。もっと詳しく説明しろ。
「みくるちゃんと有希がいたの!」
 朝比奈さんと、長門が、いた?
 一瞬どういう意味か分からなかった。それで、十秒ほど考えてやっと気が付いた。
 そうだ、俺が昏睡状態になったのが四月。SOS団はまだ出来ておらず、その時点で朝比奈さんと長門には出会っていない。
 朝比奈さんと長門とは、SOS団結成と共に知り合ったので、つまり、朝比奈さんと長門は俺の夢の中だけの人物であるはずなのである。
 それが……この現実世界に……いた!?
「マ、マジでっ!?」
 驚きのあまり、声が裏返ってしまった。

「そうよ、マジなのよ! いや、ちょっと文芸部室通りかかってね。あんたの話の影響もあって、ちょっと覗いてみたのよ。
そしたら、あんたが言う特徴にぴったりの子が本読んでて。あまりに特徴がぴったりだから、思い切って聞いてみたの。
『あなた、名前は?』って。そしたらその子、言ったのよ。『長門有希』ってね」
 そ、そんな馬鹿な。
「それ、マジなのか?」
「マジよ、マジ! あたしが嘘つくような女だと思う? それで、有希がいるんなら、みくるちゃんもいるんじゃないか、って書道部行ってみたの。そしたら見事にいたわ。ロリ顔爆乳の『朝比奈みくる』ちゃんがね!」
 ハルヒは両手を広げて感動を表現する。
「……マジでか?」
 信じられずに、ついもう一度聞いてしまう。
「マジ、マジ! 大マジ!」
 と、ハルヒは深く頷いた。
「そうか、朝比奈さんと、長門が……」
 朝比奈さん、長門。
 俺の夢の中だけの、架空の人物である二人が、現実に存在した。
 もう二度と、会う事が出来ないと思っていた二人が。
「あんたって、すごいわね。予知夢って奴かしら。もしかして、あんた超能力者なんじゃないの?」
 ハルヒが俺の顔をまじまじと見つめてくる。
「流石に超能力者は、な」

 と、『超能力者』という言葉で、ある一人の男の顔が浮かんだ。
「そういえば、古泉はいなかったのか?」
 聞くと、ハルヒは、あー、と小さく呟いた後、
「残念だけど、古泉君はいなかったわ」
 ………そうか。
 あんなむかつく野郎でも、いないのなら寂しいものだ。
「もしかして、明日にでも転校してきたりしてな」
 冗談のつもりで言った。
「あはは、そうかもね」
 そう、冗談のつもりだった。
 だから次の日、ハルヒから、古泉が転校してきたというニュースを聞かされたときは本当に驚いた。

 ・

 ・

 今日は、朝から色々と検査があった。医師が言うには、昏睡状態に陥っていたにも関わらず、後遺症はほとんどみられなく、少し様子を見た後、退院できるらしい。
 その知らせを聞かされた時、俺は微妙な気持ちになった。
 この病院から出れば、俺はまた日常に戻っていく。そう、学校に。
 が、その学校には、俺の知っているSOS団はいない。神様も、宇宙人も、未来人も、超能力者もいない。
 俺の過ごした日常は、もうあの学校には無い。
 俺は、ほとんどゼロからまた学校生活をスタートしなければならないのだ。
 そりゃあ、いつまでもこの病院にいるわけにもいかないさ。
 でも、しかし………。
「なーに深刻そうな顔してんのよ」
 突然発せられた声。はっとしてその方向を見ると、ハルヒが半開きのドアから顔を覗かせていた。
「ハルヒ、お前いつの間に」
「今さっきよ」
 ハルヒは、体の半分をドアに隠したまま言う。そこで、俺はおかしい事に気がついた。普段のハルヒは、病院の中だろうと、お構いなく勢いよくドアを破って入ってくるはずである。なのに、何故身体をドアに隠しているんだろうか。
「なあ、ハルヒ、お前何やってんだ?」
「何って?」
「だから、そんなドアの前に突っ立ってないで部屋に入ってくればいいじゃないか」
 言うと、ハルヒはふっふーんと鼻を鳴らした。

「見なさい!」
 ハルヒは叫び、半開きだったドアを思いっきり開いた。
 そこにいた人物達を見て、俺は驚愕した。
 本を片手にした少女。
 にやけ面を浮べた男。
 栗色の髪を肩まで垂らした少女。 
「長門……古泉……朝比奈さん……!」
 SOS団のメンバーだった。
「ど、どうしてここに……」
「あたしが連れてきたのよ!」
 ハルヒは胸を張って言う。
「ほら、入った入った!」
 ハルヒに押され、SOS団メンバー一行が部屋に入ってくる。
「連れてきたって、何て言って連れてきたんだよ」
「別に何も。有希は、着いて来て、って言ったら黙って着いて来てくれたし、古泉くんも病院の友達に会いに行くから着いて来て、って言ったら着いて来てくれたわ。みくるちゃんは……まあ、ね。うん」
 まあ、ね、じゃねぇよ。よく見ると、朝比奈さんは頭上にクエスチョンマークを沢山浮べている。大方、ハルヒにわけも分からずに連れて来られたのだろう、可哀想に。

「まあ、これで全員揃ったわね」
 言いながら、ハルヒは部屋のドアの鍵を閉める。がちゃり、という音と同時に、朝比奈さんが肩を飛び上がらせた。
「ここどこですか、何であたし連れてこられたんですか、何で、かか鍵を閉めるんですか? 一体何を」
「黙りなさい」
 ハルヒは不気味なほどのスマイルで言い放った。
 うーん、何処かで見たことあるような風景である。
「じゃあ、全員揃ったところで結成ね!」
 結成。何を結成するんだ? いや、大体予想はつくのだが、一応聞いてみた。
「何をだ」
「SOS団よ!」
 ハルヒは自信たっぷりに言い放った。
 俺は呆れのため息を吐き、他の三人は、なにがなんだかわからない様子でハルヒを見つめた。
「ところでみくるちゃん」
「な、何でしょう?」
 朝比奈さんが再び肩をびくっとさせる。

「あなた他に何かクラブ活動してる?」
「あの……書道部に……」
「じゃあ、そこ辞めて。我が部の活動の邪魔だから」
「え、ええ……」
 朝比奈さんはまるで銃を目の前に突きつけられたような顔をする。その顔が可哀想で、俺は待ったをかけた。
「おい、ハルヒ」
「何よ」
「あのな、この朝比奈さんは未来人じゃないわけ。お前を監視する必要も無い、ただの高校生なんだよ。未来人の方の朝比奈さんは、お前を監視するため、って理由でSOS団に入ってたけど、この朝比奈さんはSOS団に入る理由は無いだろ?」
 俺が言うと、ハルヒはむー、と低く唸り、
「だってだって、みくるちゃんがいないと面白くないじゃない!」
「面白くないじゃない、っつーの! それに、長門と古泉もどうするんだよ?」
 ハルヒは、肩を並べながらこちらの様子を窺っている古泉と長門の方に向き直り、
「あなた達は入るわよね!」
 と、あたかももう決定しているように聞いた。そんなハルヒに古泉が、
「えっと、涼宮さん。SOS団、とはどういう事をするんでしょうか?」

 聞かれてハルヒは俺の方をちらりと見たあと、言い放った。
「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶ事よ!」
 十秒ほど、部屋の空気が死んだように止まった。
 朝比奈さんの頭に浮かんでいたクエスチョンマークが更に三倍になる。
「それは、面白そうですね」
 古泉はにやけスマイルを崩さずに言った。おいおい、本気かよ。
「有希もいいでしょ!」
 長門は、本に視線を落としたまま、興味が無いといった様子で棒立ちしている。
 そんな長門の無言を賛成と捉えたらしいハルヒは、次は頭の上にどんどんクエスチョンマークを生産している朝比奈さんに、
「さあ、古泉くんと有希も入るって言ってるわよ! みくるちゃん、あんたも入っちゃいなさい!」
 と、促した。
 朝比奈さんは、部屋の中の人物を一人ひとり見渡したあと、
「ええ、でも、あたし、書道部が……」
 その言葉に、ハルヒは顔を顰めたあと、諦めたようにため息を吐いて言った。
「仕方ないわね、じゃあ、書道部とSOS団、どっちもやるってことで手を打ちましょう」
 この場合、手を打つ、という言葉は朝比奈さん側だけが使える言葉な気がするが、そんな事をハルヒに言っても仕方が無いので、あえてつっこまないでおく。

「て、ことで部員は揃ったわ!」
 揃ったのか、これ?
「部室はどうしましょう。有希、あなた文芸部員だったわよね。文芸室、使っていい?」
 やはり、長門は無言。
 ハルヒは輝くスマイルを俺に向け、
「使っていいって、キョン!」
 長門は使っていいなど一言も言ってないのだが。お前は長門の電波を受信する能力でも具えているのか?
「じゃあ、準備は全部できたわ! そんで、キョン! あんたいつ退院すんのよ」
「もうすぐだってさ。あと二、三日後、ぐらいかね」
「そ、さっさと戻ってきなさいよ。あ、あと髪切っときなさい」
 ハルヒは俺の髪を指さす。ああ、そういえばこれも伸びたまんまになってたな。
「って、ことで、今日は解散! みんなお疲れ様! 帰っていいわよ!」
 ハルヒは勝手に終わらせて、部員を部屋から追いやった。自分で呼んでおいてそれはねえだろうよ。


 ・

 ・

 医師が来て、告げた。今日中に、退院できる、と。
 退院。
 病院を出て、日常に戻っていく。
 その日常には、俺の知っていた風景は。
 …………。

 その時、
「やっほー!」
 ドアを音を立てて開き、ハルヒが登場した。
「あれ?」
 ハルヒは病室をきょろきょろと見回し
「なんかすっきりしたわね」
「ああ、今日退院できるからな」
「え! そうなの!」
 ハルヒがずいと顔を近づけてくる。
「良かったじゃない! これでいよいよSOS団の活動が出来るわね!」
 と、目を爛々と輝かせて言った。
「ああ」

 SOS団の活動が出来る……。
 だが、そのSOS団は、俺が知っていたSOS団じゃない。
 まだ、何もしていない、生まれたてのSOS団。
 俺と記憶を共有していないSOS団。
 それは、SOS団なのだろうか……?
 そこは、俺のあるべき場所なのだろか?
「ねえ、キョン」
 はっと我に返る。
「何だ」
「夢の話、もうないわけ?」
 夢の話、か。もうほとんど語り尽くしてしまった。まだ、話してない話があったっけな。もう、無かったような……。
 三十秒ほど考えて、ようやく思い出した。
 そう、最後にひとつだけ話してない話があった。
「七夕のことだ」
「七夕?」
 俺は、その日の事を語り始めた。

 ・

 ・

「ふーん」
 聞き終わって、ハルヒは小さくため息をついた。そして、もう一度、
「ふーん……」
 と言った。
「話は、これで、終わりだ」
「そう」
 ハルヒは床の一点をじっと見つめている。何か考えている様子に見えた。
 沈黙が流れる。
 いつもなら、話を聞き終わったあと、ハルヒは「面白かった」だとか感想を述べてくれるが、今日は何も言わずただ俯いている。
 しばらくして、ハルヒは口を開いた。
「ねえ」
 その目は床に向けられたままである。
「何だ」
「もしも、の話だけどね」
 言って、ようやくハルヒは顔を上げた。
「もしも、その世界に戻れるとしたら、戻りたい?」
 ……?
 ……戻れるとしたら?
 どうして、そんな質問をするんだ。
「いいから、はいかいいえで答えなさい」
 ハルヒは言う。

 戻れるとしたら、俺はどうする?
 長門が世界を改変したときにも同じような選択を迫られた。
 その時、俺は選んだ。元の世界に帰りたい、と。
 元の世界が、俺のあるべき世界だったからだ。
 だが、今はどうだ?
 俺のあるべき世界はどっちだ?
 俺の、夢の中の世界?
 この、現実?
 わからない。
「わからねぇよ」
 俺は答えた。
 はいか、いいえでなんか選べなかった。
「……そう」
 ハルヒは、俺を咎めることもなく、ただそう一言言った。
「それじゃあ、あたしは帰るわ。学校で待ってるわよ」
 笑顔で、ハルヒはそう言って、部屋を出て行った。
 俺は、出て行くハルヒの背中をただじっと見つめていた。

 ・

 ・

 俺は、伸びていた後ろ髪を切って学校に復帰した。
 俺の席は、ハルヒの前の席だった。
 二ヶ月も眠っていた、ということもあって、その日、俺はクラスで浮いていた。
 話しかけてくるのは、後ろのハルヒだけだった。
 夢の中の日常では、俺はもっと沢山の人と喋っていたはずだ。
 しかし、ここでは。
 ……ここは、俺のあるべき場所なのだろうか。
 わからない。
 俺は、疑問を喉の奥に飲み込み、その日一日を過ごすことにした。

 ・

 全ての授業が終了し、俺はハルヒに手首を掴まれて部室に連れて行かれた。
 部室。
 懐かしさと、新鮮さが入り混じった、妙な空気が流れていた。
 部室には、長門、古泉、朝比奈さんが既に揃っていた。
「やっほー!」
 ハルヒは部員達に向かって左手を挙げる。

 そして、団長席の椅子の上に立ち、
「ではこれより、第一回SOS団全体ミーティングを開始します!」
 と、耳が痛くなるほどの大声で叫んだ。
「えー、うぉっほん」
 親父臭い咳をこみ、
「果報は寝て待て、昔の人は言いました。でももうそんな時代じゃないのです。地面を掘り起こしてでも、果報は探し出すものなのです。だから探しに行きましょう!」
 いつか聞いたような台詞を言い放った。
 そのまま、ハルヒの一人スピーチは延々と続いていった。

 ・

 ・

 ハルヒのスピーチ終了後、古泉とボードゲームをしたりして時間を潰した。途中、――残念ながらメイド服は準備できていないため着用していない――朝比奈さんが、お茶を淹れたりしてくれた。ふと、横を見ると、長門はじっと本を読んでいた。
 SOS団の日常。
 夢の中と全く変わらない。
 夢の中の世界とは違うはずなのに。
 SOS団としての活動は初めてなはずなのに。
 全く同じだった。
 長門の本を閉じる音が、活動終了を告げるところまで。
「じゃあ、今日は解散! 明日は、第一回パトロールだから、遅れずに来なさいよ! 遅れたら罰金だからね!」
 ハルヒが全員に呼びかける。
 部員全員が、鞄を手に取って部室を出る。
 俺も部屋を出ようとした時、ハルヒに手首を掴まれた。

「何だよ」
「あんたは居残り」
「はい?」
 居残りって何でしょうか。
「居残りは居残りよ。あんたはまだ帰っちゃだめ」
 何故だ。
「何ででも、よ。ちょっとあたしに付き合ってもらうわ」
 どうして俺が。
「どうしても! 団長の命令は絶対なの! わかった!」
 ハルヒは俺の目先に人さし指を突き出した。
 全く、なんだっていうんだ。

 ・

 ・

「なぁ、ハルヒ」
「何よ」
「居残りって何するんだ?」
「もう少し待ってなさい。そしたら教えるわ」
「もう少しってどれぐらいだよ」
「もう少しはもう少しよ」
 ハルヒは、俺を無理矢理居残りにした癖に、何をする素振りもみせず、ただ団長席で雑誌を読んでいる。いくら、何をするんだ、と聞いても、後で教えるわ、の一点張りである。
 もう少しだっていうから、おとなしく待ってみたが、ハルヒは一行に行動せず、もう学校の中に響いていた部活動生の声も全く聞こえなくなるほど日が暮れてしまった。
「なぁ、ハルヒ」
「何よ、さっきからうるさいわね」
 ハルヒは雑誌に視線を落としたまま言う。
「そろそろ警備が来るんじゃないのか?」
「あら、もうそんな時間?」
 ハルヒはようやく顔を上げた。そして時計を見て時間を確認すると、席を立った。
 ようやく何か行動するのか、と思って見ていたら、何を思ったかこいつ、いきなり部室の電気を消しやがった。

「な、何してんだよハルヒ!」
「隠れるのよ、そろそろ警備が来るんでしょ?」
 隠れる? 何を言ってるんだ、こいつは?
 何故、警備から隠れる必要があるんだ?
「警備をやり過ごさないと、見つかったら帰らされるでしょ」
 帰らされるって……。何する気なんだ、ハルヒ。
「だから、それは後で説明するって。ほら、そろそろここらへんにも来るわよ」
 ハルヒが言った直後、廊下からコツコツと固い物を叩く音が聞こえてきた。警備が来たのである。
「やべぇ、どうするんだよ、ハルヒ」
 焦る俺と正反対に、ハルヒは余裕な雰囲気で、
「そうね、そこらへんでいいんじゃないかしら」
 と、ロッカーを指さした。
 ロッカー? そこらへんでいい、ってどういう意味だ、ハルヒ。
「だから隠れる場所よ」
 ハルヒロッカーのドアを開き、顎で俺に中に入るように促した。
 ……マジで?
「マジよ、マジ。さっさと入りなさい」

 反論したかったが、何せいまは時間が無い。警備の人はすぐそこまで来ている。俺は文句はあとでつけることにして、今は大人しくハルヒに従うことにした。
 ロッカーの中に、身体を押し込む。入ってみると、予想外にその中は広かった。
 さあ、警備が通りすぎるまでにやりすごさないと……。
 俺は、そこで、ふと気付いた。
 あれ? ハルヒは何処に隠れるんだ?
 その答えを考えつくより早く、ハルヒは俺の入っているロッカーに身体をねじ込んできた。
「な……お前、何して……」
「うるさい、暴れるな。騒ぐとばれるでしょうが」
 言いながら、ハルヒはゆっくりとロッカーのドアを閉めた。
 広かったと感じられたロッカーは、ハルヒが加わったせいで、一気に狭く感じられた。
 ハルヒが近い。ハルヒは俺より背が低いので、ハルヒの顔は俺の肩あたりにあるということになる。
 耳を凝らすと、廊下から聞こえる、コツコツという音が、どんどん近くなってきているのがわかった。見つからないか、という不安から、心臓が刻むビートが速くなる。

 …………こつこつ。
 ……こつこつこつ。
 こつこつこつこつ。
 がちゃっ。
 ドアの開く音。
 俺は息を止めた。
 1秒…。
 2秒……。
 3秒………。
 ばたん。
 こつこつこつこつ。
 ……こつこつこつ。
 …………こつこつ。

 警備の足音が完全に消えたのを確認して、俺は溜まっていた息を吐き出した。
「ぶはぁ」
 ハルヒが右手でロッカーのドアを開ける。
「何とかやりすごせたみたいね」
 ハルヒは、しめしめ、と計画通りになった事を喜ぶ悪代官みたいな笑みを浮べる。
「それで、ハルヒ。警備をやりすごしたのはいいけど、これから何するんだよ。そろそろ教えてもいいだろ?」
「まだ、よ。警備が終了するのが、九時。今、八時半。だから、あと三十分待つわよ。同じところは二度は確認しないとおもうから、まあもう隠れなくていいでしょう」
 ……まだ三十分も待つのか……。

 ・

 ・

 今、俺はグラウンドにいる。
 何故、こんな夜遅くに、俺はハルヒと一緒にグラウンドにいるのかさっぱりわからない。
「じゃ、ちょっと準備があるから着いて来なさい」
 そう言って、ハルヒは歩き出した。その先にあるのは、確か……そう、体育館である。
 ハルヒは、体育館を周って、体育館裏に行く。俺は黙ってハルヒに着いていった。
 体育館裏に着くと、ハルヒは何故かがさがさと植木を掻き分け始めた。
 おい、何やってんだ?
「確か、ここらへんに……あったあった」
 ハルヒは、何かをぽいと宙に投げた。白い……? 何だ、これは。俺の方に飛んできたので、キャッチしてみると、それは何かが入った袋だった。暗くてよく見えないが、透明な袋に、白い粉が入っているようだ。
 月明かりに掲げてみる。すると、その袋になにやら文字が書いてあった。
 …………石灰?
 どうして石灰が、と思っていると、何かが頭を直撃した。俺の頭に当たったそれは、ぼてっと地面に落ちる。見ると、それもまた石灰だった。
 石灰? また?
 困惑している俺の頭に、またひとつ、ふたつ、みっつと石灰の袋が当たる。

「石灰はこれで全部ね」
 そう言って、立ち上がったハルヒの片手には、車輪付きの線引きが握られていた。
 石灰。線引き。
 この二つを使ってやること。
 それは線を引くこと以外に無い。
「なあ、ハルヒ、お前一体何を考えている?」
「キョン、今日は何月何日かわかる?」
 質問を質問で返された。俺は少しむっとしたが、反論しても無駄なので、俺はハルヒの質問を考えてみることにした。
 今日は……何月何日?
 先日確か七月に入った、ということは覚えている。が、しかし、入院していたこともあり、何日か、という細かいところまでは覚えていなかった。
 俺はわからないものは素直にわからないという主義なので、
「わからない」
 と、素直に答えてみた。

 すると、ハルヒは馬鹿にしたようなため息をつき、
「七月七日。七夕よ。たーなーばーた!」
 言われて、ハッとした。七夕。線引き。石灰。グラウンド。ハルヒ。それらが頭の何処かで繋がった。
 七夕。夢の中、俺が、過去にタイムスリップしたとき、ハルヒの手伝いをしてやった。
 その話をハルヒにも話してやったのだった。
「まさか、お前」
「そういう事」
 ハルヒは得意気に鼻を鳴らした。

 ・

 ・

 夢の中であっても、現実であっても、ハルヒが俺をこき使う事には変わりはないようだ。
 俺はいつかのように、ハルヒの監督の下、グラウンドを右往左往させられた。
「あっそこ歪んでるわよ! 何やってるのよ!」
 ハルヒはオリンピックの槍投げ選手のように、遠くで頑張る俺に鋭い言葉を突き刺す。
 くそ、何で俺が、こんなことを。と、ぼやきながら、心中少し嬉しくもあった。いや、エムとかじゃなくて。
 懐かしさを感じたのだ。
 夜の匂い。当たる風。差す月明かり。
 夢の中の世界と、現実の世界。決して重ならないはずの世界が、重なったように感じられた。
「それぐらいでいいでしょう」
 ハルヒはポンポンと手を叩いて、作業の終了を知らせた。俺はやっと終わったか、という安堵と共に、その場にへたり込んだ。
「なーに座ってんのよキョーン! さっさと来なさーい!」
 遠くからハルヒが叫んでいる。駆け寄って、お疲れ様、と一言言うぐらいの気遣いも無いらしい。仕方無しに俺は重い腰を上げてハルヒの元に歩み寄った。
「遅い! 走りなさい!」
 軽く殺意が芽生えた。

 俺は何とか理性でその殺意を胸のうちに収め、走った。まったく、こっちは病み上がりだっつーの。ちょっとは休ませてくれよな。
「なーに言ってんのよ。男でしょ? そんぐらいでへこたれててどうするのよ。まぁ、そうね。どうしてもっていうのなら、勲章を与えてあげてもいいわ。二階級特進で、副団長、ってのはどうかしら?」
 遠慮しとく。それは古泉に譲っとくよ。
「何よ、つれないわねー」
 ハルヒは口をアヒルのようにする。
「ま、いいわ。それじゃ、キョン。行くわよ」
 何処にだ。
「屋上に決まってるじゃない!」

 ・

 ・

 昼の時からは予想できないほど、夜の学校の中は静まり返っていた。
 廊下にある人影は、俺とハルヒだけである。
 一歩ごとに、こつーん、こつーんと、足音が廊下に響く。
 ハルヒは、俺の一歩前を歩いていた。
 顔は前に向けられているので、どういう表情をしているのかわからない。
 ハルヒは、何も喋らずに、ただ歩を進めている。
 なんだか話しかけてはいけないような気がして、俺も黙ってハルヒのあとに着いて行った。
 音の無い廊下を抜け、突き当りの階段を上る。
 途中途中に置かれた美術部の大道具達は、物音ひとつ立てずに眠ったように静まり返っている。
 とんとんと階段を上っていって、俺達は屋上の出入り口のドアまで辿りついた。ドアの窓から、月明かりが差し込んでいる。
 ハルヒはドアノブを掴むと、がちゃりと回して、ドアを引いた。しかし、ドアは勢い良くがたんと音を立てただけで開く事は無かった。
「あれ? おかしいわね」
 ハルヒはがちゃがちゃとドアノブを捻る。が、何度やってもドアは開かない。
 うちの学校の屋上へのドアは常時施錠されていて、開かないのだった。

「ハルヒ、どけ」
 ハルヒの肩を横にどかす。そして俺は、自分の右肩をドアの方に向けた。鍵が無いのなら無理矢理こじ開ければいい。
 ほとんど開け閉めされることのないこのドアの鍵は、ほとんど錆びついているので、衝撃を与えれば開くのではないか、と考えたのだった。
 右肩を思いっきりドアにぶつける。びりびり、とドアは振動するが、開かない。俺は肩を離し、もう一撃、もう二撃と、衝撃を加えていく。
 そのまま粘ること一、二分、ドアは金属の擦れるような鈍い音を立てて開いた。
 開いた瞬間、目の前に光の塊が飛び込んできた。
「これは…………」
 まるで、黒いキャンパスに光の雫を振りまいたようなそれは。
 天の川だった。
「すげぇ…………」
 感動のあまり、ため息が出た。
「すごいわね」
 遅れて出てきたハルヒも、その空を見上げて言った。
「じゃ、さっき描いたの見てみましょう」
 ハルヒはそう言って、屋上の柵のところまで駆けて行った。俺も後に続く。
 見下ろすと、そこには奇怪な、しかし鮮やかな模様が広がっていた。
 白いラインが、空から降る光に照らされてくっきりと青白く輝いている。

 ハルヒは柵に両腕でもたれかかり、ふう、と息を吐いた。
「ねえ、キョン」
「何だ」
 ハルヒは、天を仰ぐ。
「彦星と、織姫。出会えたんだと思う?」
 彦星と、織姫。
 一年に一度、七月七日しか会えない二人。
 それは所詮、人間による空想の話で、実際にはそんなもの存在しないのだが。
 俺に問いかけるハルヒの顔は、何処までも真剣なものだった。
 俺も、そんな雰囲気に飲まれたかもしれない。
「…………会えたさ、きっと、な」
 そう答えた。
「そうよね」
 ハルヒは言い、
「そうよ」
 宇宙の遠くを見つめながら、もう一度言った。
 その顔は、なんだかとても切なそうに見えた。
 沈黙が流れる。
 ハルヒは、空に向けていた顔を下ろすと、
「七夕の話、話してくれたわよね」
 七夕?
 確かに話したが、それが何だと言うのだろうか。

「あたしね、中学生の頃、今日と同じように学校に忍び込んで、学校のグラウンドにメッセージを書いたの」
 …………何だって?
 そんな馬鹿な。
 あれは俺の夢の中の話だったはずだ。
 困惑する俺に、ハルヒは更に驚くべきことを告げた。
「その時、手伝ってくれた奴がいたの。暗かったのもあって、顔はあんまり覚えてないんだけど。北高の一年生でね。ジョン・スミス、って名乗ってたわ」
 ジョン・スミス………。
 俺が、タイムスリップしたとき、ハルヒに名乗った名前。
 その、ジョン・スミスが、このハルヒを手伝った…………?
「そのジョン・スミスが、誰だったかなんてわからない。顔も覚えていない。でもね、私、思うのよ。夢の中から来たのか、未来から来た
のかは、わからないけど。手伝ってくれたジョン・スミスは、あんただってね」
 ハルヒは、俺の目を見つめて言った。
 しばらく、俺の目を見つめた後、
「ねえ、わかる?」
 ハルヒは、再びグラウンドに視線を落として、
「これ、何て書いてあるか」
 そう言った。
 ハルヒの視線が注がれる先、そこにあるのは、先程描いた模様だ。

「これの意味はね」
 ハルヒは目を伏せ、一息置いて言った。
「私は、ここにいる」
 俺はその言葉を聞いてハッとした。
 私は、ここにいる。
 ハルヒは、ここにいる。
 ハルヒは、今、ここに、俺の目の前にいる。
「ねえ、キョン。やっぱり夢の中の世界に帰りたい?」
 ハルヒははっきりとした口調で言った。しかし、その声の芯は、触れたら崩れてしまうほど弱々しく感じられた。
 この間のように、「わからない」とはいえない雰囲気だった。
 どうなんだろう、俺は。
 俺の、あるべき場所?
 それは、何処だ?
 その条件は?
 何があれば、俺は生きていける?
 俺に必要なものは何だ?
 何が…………。

 しばらく考えて、俺はやっと気がついた。
 目の前のこいつが、ぴったりそれに当てはまる事に。
『私は、ここにいる』
 ハルヒは、ここにいる。
 ハルヒは、今、ここに、俺の目の前にいる。
 そうだ。
 俺に必要なものはハルヒだ。
 俺はゆっくりと、しかしはっきりと、ハルヒに答えを告げた。
「……もう、大丈夫だ。この世界で生きていける」
 言うと、ハルヒは、笑い出しそうにも、泣き出しそうにも見える顔になった。
 顔を赤くして、
「そう」
 と、一言。

「ぷっ」
 そんなハルヒの様子がなんだか可笑しくて、俺はつい吹き出してしまった。
「な、何よぉ」
 ハルヒはますます顔を赤くする。
 俺は耐え切れずに、声を出して笑い出した。
「ははははは、いやさ、はは、お前の様子が何だか可笑しくてさ、はははは」
「な、何言ってんのよ!」
 ハルヒは怒った顔を赤く染めながら、俺の肩を殴り始めた。
 が、俺につられたのだろうか、その手を止め、ハルヒも一緒に笑い始めた。
「はははははは、どうしてお前まで、はははは」
「あははは、うるさいわね、ははははははは」

 しばらく俺達はそのまま笑っていた。
 そう、俺はまた笑うことができたんだ。
 俺の過ごした世界は確かに無くなった。
 でも、ハルヒはここにいる。
 それだけで充分じゃねえか。
 宇宙人や、未来人や、超能力者や、神様なんて、いなくても。
 SOS団さえあれば。
 ハルヒさえいれば。

 俺は何度世界がリセットされたって、やり直せる気がするよ。

 なあ、ハルヒ。



 fin

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