長門有希の憂鬱IV 六章
六 章Illustration:どこここ
頼んでいたマリッジリングができたという連絡が入り、俺と長門は受け取りに行った。当然だが俺が長門のをもらい、長門が俺のを預かる。こっそり蓋を開けてみたがポツリと埋め込まれた小粒のダイヤがなかなかにかわいい。リングの裏側には長門デザインの宇宙文字の半分が刻まれている。これが俺たちの絆になるんだよなあ。 招待客のピックアップだけして、会場と衣装の用意はハルヒが一式任せろというので放っておいた。長門の招待客リストを見ると俺とほとんど被っていて、うちの社員とハカセくん、機関の顔見知り、トータルで二十人にも満たない。 「俺たちの知り合いって、数えてみると意外に少ないんだな」「……そう」「じゃあ高校のときの同級生なんかも呼ぶか」「……いい」頭数といっちゃ失礼かもしれないが、式場と披露宴会場を埋めるために阪中に頼んで同窓生名簿をFAXしてもらった。三年五組の卒業生全員と、あとはENOZのメンバーくらいか。ああ、岡部を忘れてた。ハルヒが披露宴の客を百人集めろと言っていたのだが、いくらかき集めてもそんなにいないよな。 「長門、大学院の先生とか同級生も呼んでくれ。人数が足りない」「……分かった」 もう“ご出席・ご欠席”の返事をもらうのがめんどくさくて、来たいやつは来い、来れないやつはメッセージでもよこせと一方的に招待状を送りつけた。いったい何パーセントの人間が集まるのか予測もつかんが、まあなんとかなるだろう。 俺たちの周辺はほとんどが学生の頃からの付き合いばかりで、SOS団の奇矯な活動ぶりを知らないやつはいないんだが、招待された客の中でハルヒを知らないやつらが初めてハルヒを見たらさぞかしぶったまげるに違いない。 そんなこんなしているうち、式もいよいよ翌日と迫り、なんだかやり残したことがまだありそうな気がして妙に不安にかられるんだが、思いつく限りの用意はしたはずであとは野となれ山となれって気持ちだ。 式の前日はなにもすることがなくひとりで自室にこもっていたのだが、どうも落ち着かなくて長門にこっそり電話をかけた。「な、なあ。今日お前んちに泊まろうと思うんだが」このひと言を言葉にしてノドから出すのにやたら緊張して目が泳いでいた。『……すまない。今日は、用事がある』意を決してお泊りを申請したのだがあっけなく却下された。ホッとしたというか、でも少し寂しいみたいな。「そうか。いやいいんだ。式が終わったらお前んちに引っ越すわけだし」にしても、俺が泊まれない用事ってなんだろ。『……涼宮ハルヒの部屋に呼ばれている』「あ、もしかしてあれか。花嫁の女友達を呼んで式の前日にやるとかいう、」バ、バチェラーパーティかよ!マッチョなストリッパーを呼んでテーブルの上で腰をクネクネ躍らせたり着てるもんを剥ぎ取ったりしねーだろな。俺はハルヒと長門が一万円札を筋肉隆々ストリッパーのパンツに挟んでいるところを妄想してしまい頭を振った。 長門曰く、今までハルヒの部屋に泊まったことがなかったので、これが最後だからと呼ばれたのらしい。最後というか結婚してもたぶん呼ばれると思うぞ。俺たちの新婚生活に探りを入れるためにな。 その日俺は自室のベットでまんじりともせず眠れない夜を過ごしていた。家の中は緊張感とも期待感とも惜別の思いとも言えない奇妙な雰囲気に包まれていた。妹も両親もやけに無口で、テレビの画面を意味もなく眺めるほかは思い出したように長門のことを聞いてくるくらいだった。俺もああとかうんとか曖昧に答えるだけで、どうもこの家から出て行くという実感がないことに戸惑っていた。シャミだけが変わらず俺の足元をぐるぐるとまわって甘えている。 「キョンくん、シャミはどうするの?連れて行くの?」「こいつはこの家が気に入ってるようだから置いてく。お前が面倒みてやれ」「うん、分かった。シャミ~明日からあたしと寝るんだよ」シャミセンはそんな我が家のイベントを知ってか知らずか、猫マフラーをしようとした妹の手から逃げた。猫ってのはそうあれこれかまってやることはないんだが。人形のように動物を扱う妹には犬のほうが合ってるかもしれん。 「ああそれからな、俺の部屋にあるテレビとかゲームとか全部やるわ」「ほんとう?わーい」貸していたハサミは結局俺のところには戻ってこなかったが。 ベットの上でじっと天井を見つめたままなんだか落ち着かない。不安とかそんなありきたりな感情ではなくて、ここから俺のなにが変わるんだろうかという一抹の……なんだろう。言葉にならない。生活のスタイルだけが変わって俺自身はなにも変わらないのだろうけれど。気持ちとしては長門と二人でうまくやっていけるかという迷い、あるいは長門が家族になることへの戸惑いか、俺なんかが長門を幸せにしてやれるのかという疑問か、たぶんそんなところだ。もう長門とは呼べなくなるよな。 「有希、有希、か」口に出して言ってみたがどうもしっくりこない。いっそのことのろけモードでユキリンと呼んでみようか。「なあユキリン」「……なに、ダーリン」などと周囲がブリザードに見舞われてしまいそうな二人の会話を想像して俺は枕をボスボスと叩いた。やたら恥ずかしいじゃないか。 にしてもあいつら今ごろなにしてんだろ。ハルヒと長門がその夜なにをしているか俺の知るところではないのだが、── これもまた後になって聞いた話だ。 ハルヒが電灯のヒモをパチリと引いて消した。そのままスヤスヤと寝息が聞こえてくるのかと待っていたがそうでもなかった。長門はじっと息を潜めてハルヒが眠りにつくのを待っていたのだが、どうやらハルヒも長門が眠るのを待っているらしいのである。 「有希、どうしたの?」「……眠れない」「そうよね。あたしもなんだか頭に血が登っちゃって眠れないのよね。遠足の前の日とか、旅行に行った先の宿とかね」「……一種の興奮状態」「そうそう、アドレナリンが漏れ出してる感じね」 ハルヒが唐突に切り出した。「ねえ有希」「……なに」「前から思ってたんだけど」長門には、どこかでギクという音が聞こえたそうだ。「キョンってふつうじゃないわよね」「……ふつう、とは」「はっきり言うけど笑わないでよね。キョンってもしかしてふつうの人間じゃないんじゃないかしら」「……それは、わたしも疑っていた」「でしょでしょ、有希もそう思うでしょ。あいつはほかのやつとはどこか違うって、会ったときから思ってたんだけどね。もしかしたら宇宙人とか」暗闇の中で、長門はどう答えようかと何パターンもの会話のやりとりを計算した。「なんでそう思ったかというとね、あのね、秘密だけど、古泉くんは実は未来人だったのよ」「……」「実を言うと十年前に一度古泉くんに会ったことがあるの」ハルヒは誰にも教えてない秘密を打ち明けるように目をキラキラと輝かせて言った。まずい、これはまずい。ハルヒが危険エリアに近づきすぎている。といっても明後日の方角だが。 「……そう」長門はどう反応したものかずいぶんと迷ったそうだ。ハルヒと古泉が遭遇したいつかの七月七日、その場に居合わせていたがために、話を合わせるのも知らぬ存ぜぬとごまかすのも困難を極めた。 こういうときは相手に話をさせるに限る。「……詳しく」「聞きたい?聞きたいでしょ。あたしもまさかあそこで未来人と遭遇するとは夢にも思ってなかったわ」ハルヒがモノローグを延々続けるどっかの主人公のようにもったいぶって言うと、長門もしょうがなしに釣られたふりをした。自分も古泉を未来人に仕立て上げた一味なのだが。 「……かなり、興味がある」「あたしが中学生のころなんだけどね。夏だったかな、夜中に中学校の運動場に地上絵を描いたことがあったのよ」「……どんな絵」「なんていうかね、あたしが勝手に作った宇宙文字なんだけどね。この広い宇宙にもし人類以外の知的生命体がいるなら、あたしのところに来なさい、みたいな意味のね」 「……それは、新聞で見たことがある」「そうそう、地方欄に出たのよあれが。謎の地上絵出現とかタイトルがふってあってもう笑っちゃったわ」「……」「でね、運動場に忍び込もうとしたとき古泉くんにバッタリ会ったの。そのときは近所のおっさんだと思ってたんだけど、よくよく見るとこっれがまたいい男なのよ」「……」俺だったらハルヒのノロケ話なんかまともに聞いていられなかっただろうが。長門はコクコクとうなずいて真剣に聞き入っていた。 「絵を描いたあと二人で少し話してたんだけど、宇宙人も未来人も超能力者もいるって言うじゃない。思ったわ、これこそあたしの求めていた人だ、ってね」「……それで、好意を持った」「ううん、そのときはまだそういう気分じゃなかったの。あたしはもうどっかにいる宇宙人に送るメッセージのことで頭がいっぱいでね。それから二三日してからだったわ、古泉くんのことをもっと聞いておけばよかったと思ったのは」 「……そう。四字熟語を用いるなら、一期一会」「まさにそれよ。チャンスはそうそう訪れるもんじゃないわ。人生で一度あるかないかってこともある。それを逃したらもう後は後悔の日々よ。思ったわ、どうしてあのとき古泉くんの電話番号を聞かなかったのかって」 「……」「あんたも、幸せになるチャンスは絶対逃しちゃだめよ。乗り損なったら、それからはつらいだけだからね」「……分かった」しみじみとうなずいてみせる長門だった。 「でさあ、古泉くんが未来人ってことはよ?もしかしたらキョンは宇宙人で、みくるちゃんは超能力者かもしれないじゃない」「……そう、かもしれない」そこで話を合わせるにはかなり無理があるが。「で、思ったわけよ。あんたも実はなにかしら特殊な能力があるんじゃないかって」話はそこにたどり着くわけか。さて、長門がどう答えたか。「……」「あたしの勝手な妄想だけどね。そうだったら楽しいじゃない」「……実は」「え?」「……わたしは、魔法が使える」ま、まじか。いよいよ正体が明かされるのか。「どんな魔法?」「……見て」長門は寝たままの姿勢で、なにかを包むように両手を合わせ、ゆっくりと手を開いた。真っ暗な部屋のまんなかで、黄緑色のぼんやりとしたホタルのような光が手のひらの上にともった。 「すごいすごい、きれい」ハルヒは闇の中にともるその光を呆然と見つめた。 「どうやってやってんのこれ」「……ただの、手品」「タネは?」「……内緒。教えると価値が下がる」「そ、そうね」それは手品じゃなくて長門の本当の魔法だったのだが、ハルヒにとってはどっちでもよかった。「きれいね。形があるわけじゃないのね」長門の手の中で光るホタルのようなものに触れようとして、そこには形も熱すらもないことを不思議そうに見ていた。「……そ」長門は手を握り、光を消した。もう一度開くと何もなかった。「へー、こういうのやれるんだ。またいつかやってみせてね」「……分かった」「ねえ」「……なに」「手、握ってていい?」「……」ハルヒはやっと落ち着いたらしく、スヤスヤと寝息を立てて眠りについた。長門もその寝息を聞きながらうとうとと眠りに落ちた。 と思っていたらハルヒが突然話し掛けた。「ねえねえ」寝るのか話があるのかどっちかにしろと。「あんた、自分がちっぽけな存在だって気づかされたことってある?」「……これまでに二度、ある」ハルヒは別に質問しているわけではなくて、自分にはそういうことがあったんだという問わず語りだった。「小学生のときだったと思うけど、親父に連れられて野球を見に行ったのよ。そのとき球場には五万人くらいいたんだけど、帰って計算してみたら日本の人口の二千分の一でしかなかった。あんなにたくさん人がいるなかで、あたしの存在はそのまた五万分の一に過ぎなかった。驚愕だったわ」 「……そう。わたしの場合は、」と言いよどんで、「……自分の能力で動かせると思っていても、実際には大きな渦の中を泳ぐ一点の泡にしかすぎないということに気が付いたとき」「難しいわね」「……自分の力を過信していたのかもしれない」「自分の力で生きていると思ってても、実は何か別の力に背中を押されてたってこと?」「……そう。近い」自らの能力を意のままに操る長門と、まったく知らずに能力を使っているハルヒがこういう話をするのは実に面白い。「あたしもね、たまにだけど誰かに人生をいじられてるような気がすることがあるのよね」「……」長門は返事をしなかった。ハルヒを、あるいは世界を守るためとはいえハルヒ個人の人生に意図的な影響を与えている俺たちの存在にうすうすながら気が付いているのかもしれない。 「でもま、別に誰が干渉しようといいわ。今はシアワセだから」「……そう」長門はわざと寝息を立てて寝たふりをした。目を閉じたまま物思いにふけっていた。しばらくしてハルヒもスゥスゥと寝息を立てた。 「キョンく~ん、いつまで寝てるの、起きないと遅刻しちゃうよ」「いやだ。まだ目覚ましは鳴ってないだろ」「今日が最後だっていうのに、やーっぱりあたしが起こさないとだめなんだよねえ」やけにリアルな結婚式の夢を見ていてやっと終わったなぁなどと布団の中で温かい安堵感に包まれていたのだが、妹の声を聞いて俺はガバと飛び起きた。「おい、今何時だ」「もうすぐお昼だよ」やっべ、完璧に遅刻だ。またハルヒにどやされる。「キョンくん、朝ごはんは?」「こんな緊張する日に飯を食う余裕なんてない」「だめだよ~、せめて牛乳だけでも飲んでいかないと。式の途中で倒れちゃうよ」妹だけがいつもどおりうるさくて、親父とおふくろは自分達の衣装で手一杯で俺にかまけてる余裕はないようだ。吐きそうになりながら牛乳をガブ飲みして家を出た。 長門はハルヒと会場へ直行、うちの家族はタクシーで時間までに来ることになっている。俺はひとりで自転車に乗って中央図書館まで全速力で飛ばした。 今日は休館日で正面玄関はまだ開いておらず、地下の通用口から入ると古泉が待ち受けていた。「おはようございます」「おおう、おはよう。なんだ、顔が疲れてるぞ」「式と披露宴の用意で徹夜でしたからね」古泉は頭を掻き掻き一階のドアを開けた。フロアに足を踏み入れると、ここが図書館だとは思えないほど立派に飾り付けられていた。すべてのガラス窓のカーテンを取り外し、外から光が射すようになっている。西側の壁に花のアーチがあり、その前にミニ教卓みたいな演壇が置いてある。洋式にすると言ってたからたぶんここに牧師か神父様が立つんだろう。その演壇の前から東に向かって白い布が敷いてあり、階段口まで伸びている。これが花嫁と付き添いが歩いてくるバージンロードだ。そのバージンロードの両側にフラワースタンドが立ててあった。ここに招待客の椅子が並ぶのだろう。 確かこの場所には一般書籍の棚があったはずなんだが、本棚を全部動かしたらしい。カウンタも一部なくなっている。肉体労働ご苦労だったろうに。「よく使用許可が下りたな」「それはもう、機関の仕事ですから。市議会にもコネはあります」俺の知らないところでかなり予算を使わせたようだな。 招待客は普段と同じ正面玄関から入る。入り口の両脇に大きなフラワースタンドが飾ってあった。通路に並んだ小さなフラワースタンド同士はリボンで結んであり、花でデコレーションされた道に沿って進むと、自然光で白く浮かび上がる式場を目にするという演出だ。 「よくできてるな」「そうでしょう。今回は自信作みたいですよ」まじでブライダルプランナーとして食っていけそうだぞ。「なにやってたのよキョン!」「すまん、昼飯おごるわ」「そんなこと言ってる場合じゃないわよ、ほら手伝いなさい」青いつなぎを着て頭にはタオルを巻いて走り回っている。徹夜明けだとはとても思えんバイタリティだな。「キョン!ぼーっとしてないで照明取り付けるの手伝いなさい、あんたの挙式でしょうが」「分かった分かった。おい古泉、時間まで寝てていいぞ」「じゃあお言葉に甘えます」 俺はジャケットを脱いで腕まくりした。作業着でも着てくるべきだったか。「長門は来てるのか」「有希は二階の会議室でメイクと衣装合わせしてるわ。花嫁は人前に出ちゃいけないのよ」「リハやんないのか」「リハーサルなんてやらなくていいわよ。すべてあたしの予定通りよ」なにをやらかすか予測すらつかんお前だから余計に心配なのだが。「みんな、残り三時間を切ったわ。一気に攻め落とすわよ!」なにと戦ってるのかよくわからんのだが、走り回っているのはハルヒだけではなくて、うちの社員全員と、それからハカセくんと、機関の人やら鶴屋さん経営の花屋さんまで借り出されているようだ。 場所を借りることができたのは今日一日だけで、十時にカギを開けてもらってから一階の本と雑誌の三分の二を書庫に移し、椅子と本棚を上の階にある展示室まで動かしたとのことだ。終わったらまたこれを元に戻さなければいけないのだが、そのときには俺も動員されるわけだな。やれやれ今から腰が痛いぜ。 「おいハカセくん、あんまり無理すんなよ」「あ、おはようございます先輩。それからおめでとうございます」「ありがとよ。適当なところで休んでいいからな」やせっぽっちのハカセくんは足元もふらつく危うい様子で、教会にあるような五人掛けくらいの横長椅子を抱えて運んでいる。「日ごろ運動してないんで、やっぱりきついですね」「研究室に筋トレのベンチプレスでも置いてやろうか」ハカセくんは肩にかかったタオルで汗を拭いながら苦笑していた。 「みなさん、お昼ごはんにしませんか~」メイド姿の朝比奈さんが現れるやいなや作業していた人たち全員の目がそっちに動いた。それまで動いていたハンマーやら曲尺やら電動ドライバやら園芸用ハサミなんかがぴたりと止まった。 「おはようございます朝比奈さん」「いよいよ今日ね」「そのメイド衣装もひさしぶりですね。ハルヒの命令ですか」「いいえ、今日くらいは自分で着てみようかと思ったの。キョンくん、この衣装好きでしょう?」俺のために大サービスですか、感涙です!「なんというかその、この雰囲気にすごく似合ってますよ」メイドといえば朝比奈さん、朝比奈さんといえばメイドというくらいに俺の中では代名詞化しているこの姿が若かりし頃を彷彿とさせる。 夏向けメイドスタイルの袖も裾も短めなドレスに白エプロンを鑑賞しているとドヤドヤと飢えた作業員が押しかけ、テーブルに盛られたおにぎりやらお菓子やらサンドイッチなんかをむさぼりはじめた。むさぼりながら朝比奈さんのメイド姿をうんうんとうなずいて眺めていた。 「キョンくんも今のうちに食べておいたほうがいいわ。披露宴じゃ二人とも食べてる時間ほとんどないから」「そうなんですか、いただきます」「じゃ、また後でね」朝比奈さんは大盛のサンドイッチを半分ほど取り分けて長門のために持っていった。俺と長門はハルヒにいったい何をさせられるんだろう。 ホールの掛け時計が一時を回った頃、ハルヒに呼ばれた。「キョン、そろそろメイクするから控え室に来なさい」ハルヒの大声にビクリと振り返った。「メイクっておしろいでも塗るつもりか」「はぁやくぅ、メイクさんスタンバってるから来なさい、顔剃って髪の毛もセットしないといけないでしょ」いちおう髭は剃って髪の毛も整えては来たんだがそれだけじゃ満足できないらしい。その辺にいる機関の人に、そいじゃ後頼みますと工具を渡して作業から抜け出した。 市民がイベントなんかで使う二階の集会室を控え室にしているらしい。ドアを開けると鶴屋さんと朝比奈さんの笑い声が聞こえた。盛り上がってるようだな。「キョン、間仕切りからこっちは女子ルームだから、絶対覗いちゃだめよ」「そんなマネしねーよ」「式の前に花嫁に会っちゃ縁起が悪いんだからね」昔から言われてることだろ、分かってるって。でもちょっとくらいいいよなーなんて隙間から覗こうとしたらハルヒに耳をひっぱられた。「さっさと髭剃るから耳貸しなさい」イテテ俺の髭は耳には生えてません。 ハルヒと朝比奈さんが交互にカミソリを当てて顔をなでた。メイクさんって朝比奈さんだったのか。「なんで顔なんか剃るんです?」「お化粧のノリをよくするの」なるほどね。うぶ毛と一緒に顔の表面の脂を取ってるわけか。女の人はいつもこれをやってるわけだ。「なんなら眉毛も剃る?」「いえ、眉毛だけは自前で行きたいと思います」というより、朝顔洗うときに眉毛のない自分の顔を見て腹抱えて笑いそうだからな。最近は剃ってる野郎も多いらしいが。 とはいうものの、キョンくんは眉毛が薄いわねというので少し描いてもらった。鏡を見るとなんというかこう、舞台役者とまではいかないがモデルくらいにはキリリとした眉毛になっていた。アイブローペンシルってのは実に便利だな。鏡を前に眉毛を上げたり下げたり寄せたりしているとハルヒが顔を覗かせて多少はマシじゃないのと笑っていた。いつもは間抜け面で悪かったな。 ピシっとモーニングを着込んで髪にドライヤを当ててもらっているとドアを開けて国木田が入ってきた。娘らしき子供の手を引いている。「キョンおめでとう」「おう国木田か、すまんがまだ準備中だ。下で待ってろ」「ひどいなあ、僕はキョンの付き添いだろ」「え、俺聞いてねえぞ」「あたしが頼んだのよ」「てっきり古泉がやるもんだと思ってたんだが」「古泉くんは披露宴のほうが忙しいの。こういうイベントは全員に満遍なくキャスティングするのがいいのよ」ハルヒ流の配役か。なるほどね。「そいうことならまあ、頼むぜ国木田」「お任せ」国木田は自分の胸をドンと叩いてケホケホ咳をしていた。「その子、国木田の子か」「そうだよ」「こんにちはお嬢ちゃん、何歳かな」手を振ってみせたのだがはにかんで父親の後ろに隠れ、四本の指だけ立ててみせた。なるほどね。年齢的に言えば俺にもこれくらいの子がいてもおかしくないんだよな。 ドアが開いて作業服姿の部長氏が入ってきた。「社長はこっちかな?」「待ってたわよ部長、さっさとそれ脱いで」「ま、まさか僕を身包み剥ごうってのかい!?」「バカなこと言ってないで、さっさと鏡の前に座りなさい」部長氏は隣の椅子に座り、「ベストメンはふつう結婚式の仕切り全般をやるんだけどね」「部長氏、ベストメンってなんですか」「知らないのかい?新婦の付き添いがブライドメイド、新郎の付き添いがベストメンだよ」「ああ、部長氏もだったんですか。こっちは同じく付き添いの国木田です」「こんちわ。元コンピ研の部長さんだよね、涼宮さんの会社で働いてるんだって?」「これはこれはどうも、うちの社長がお世話になってるようだね。よろしければ名刺交換などはどうかな?」部長氏の丁寧語もなんだが変だが。こんなとこで営業モードか、やれやれ。 部長氏と国木田が揃いのタキシードを着込んでいるのを見ていて、なにか忘れているような気になった。とはいってもどうでもいいような、でも忘れると後々厄介なことになりそうな、でもやっぱり思い出せない。忘れ、わ、わわわ……。 「やべ、忘れてた」「どうしたの?」「谷口だ。あいつに招待状出してない」「あんなもの、結婚しましたのハガキ出しとけばいいわよ」「絶対に呼べと言われてたのに俺殺される」俺は携帯を開いて谷口に電話をかけた。「おい谷口」『なんだキョンか。今日暇ならお前のおごりで呑みに行くか』「それどころじゃねえ、今から結婚するからすぐに来い」『は?なに言ってんだお前』「もうスタンバってんだ、今すぐ式場に来い」『すまんがなキョン、俺にはそういう趣味は、』「自分で呼べって言ってただろうが」『もしかして今日が長門との結婚式だったのか』「そうだ」『バカ』着ていくものがないとかタクシーが捕まらないとか祝儀に包む金がないとかタクシー代払えとか、到着するまでアホの谷口に散々悪態をつかれた俺だったが今日だけは黙って聞き逃しておいた。長門の晴れ姿を一目見せないと一生恨まれそうだからな。まあ忘れていた俺が悪い。 「呼ばれて飛び出ました谷口です!」あまり歓迎されてもいないのにドアを勢いよく開けて飛び込んできた谷口は、目も覚めるような真っ白な衣装だった。「おい谷口、誰が白のタキシードで来いつったよ。漫才でもやるつもりか」「しょうがねえだろ、俺これしか持ってねえんだから」お前はタキシードで通勤してんのか。どんなエンターテナーだ。「ちょうどいいわ。谷口、あんたがその格好でベストマンをやんなさい」「ベストマンってなんだ?」「ベストメンの代表よ」「おう、アイアムベストオブザベストマン。まっかせなさい」俺もハルヒも国木田も、こいつはなにも分かってねえなという顔をしていた。新郎と一緒に並ぶのがベストメンで、その代表役がベストマンだ、覚えておけ。俺も今知った。 「涼宮、ブライドメイドは誰がやるんだ?」「それは始まってからのお楽しみよ」谷口は女性の声が聞こえてくる間仕切りの向こう側が気になるらしく、「そ、その声は麗しの朝比奈さんではありませんか」「勝手に覗くんじゃないっ、わよ」ハルヒにヘッドロックをかけられてマイッタを叩いている谷口だった。 式開始三十分前に新川さんが登場した。ノリの効いたピシっと決まったモーニングコートで、髪型も眉毛も髭もネクタイもまったく非の打ち所がないミスターダンディが現れた。 「皆様おはようございます。おかげさまで本日は好天に恵まれまして、有希の挙式にお越しいただきありがとう存じます」「こ、これは新川先生、長門……さんのお父さんだったんですか!」「ふつつかながら叔父でございます。有希がいつもお世話になっております」谷口の記憶じゃやっぱり先生らしく、やたらとペコペコしている。お前も見た目ばっかりかっこつけてないでこういう芯から渋い紳士を見習え。かっこいいってのはこういうのを言うんだ。 「新川先生かっこいいわ。メイクを入れるところがないわね」「お褒めいただきありがとう存じます。そろそろ招待客のほうも揃い始めたようです」「新川先生は女子ルームに入っていいわ。キョン、そろそろ出番よ」「お、おう。行ってくるぜ」助けてくれ膝が笑って立てない。「さあキョン、しっかりしてくれよ」国木田に肩を借りた。「おう、しっかりするぜ」恥ずかしいことにこれから死刑執行される囚人みたいにして、国木田と谷口に支えられながら一階に下りた。俺が姿を見せると妹とその隣にいるのはたぶんミヨキチだと思うのだが拍手が沸いた。いや、今日の主役は長門だから拍手はそっちに取っといてくれ。 うちは親類と呼べる近縁のやつらが少ない。式に呼んだのは田舎の爺さんと婆さん、俺の名付け親である叔母とその家族だけだった。あとは会社の連中とかつてのクラスメイトが一部。長門の通う研究室の先生などなど。ENOZの四人にはオーケストラを頼んだ。最前列の親父とおふくろは借りてきた猫みたいに座ったまま固まっている。この後の披露宴で親族代表の長いスピーチをやらされることになっていて、もうそればっかりが頭にあるようだ。 俺は右の列のいちばん前の席に座った。ビデオカメラを手にした古泉が隣に寄ってきた。「立派ですよ、その姿」「お前が付き添いをやるとばかり思ってたんだがな」「僕だけがおいしい役をもらうわけにもいきませんしね。みなで分け合わないと」ハルヒと同じことを言ってるが、こいつの受け売りだったのか。 三人のブライドメイドが進み出た。朝比奈さんに鶴屋さんに喜緑さん、三人とも豪華なシルクのメイドスタイルのドレスを着ていた。そりゃまあ花嫁のメイドだからメイド服なのは分かるが、似合いすぎている。朝比奈さんと鶴屋さんは前にもメイド姿を拝ませてもらったことがあるが、喜緑さんがこのかっこうをするのを見るのははじめてだ。これはいい目の保養になった。鶴屋さんが親指を立ててウインクしてくれた。 白いバラを襟元に挿したベストメンは黒いカラスの中に一羽だけ白いのが混じっていてなんともこっけいな姿だったが、俺のためにやってくれているわけで笑っちゃ悪いよな。 「もう時間だが牧師さんか神父さんはまだ来ないのか」「来てますよ、ほら」黒い祭服を着た司祭様がブンブンと玉ぐしを振り回しながら演壇の向こうに歩いてきた。「なんつーかっこしてんだハルヒ、いつからカソリックになったんだ、しかもそれ神式用だろ」「これは無宗派の結婚式よ。とりあえず祈っとけばどれかの神様が祝福してくれるに違いないわ。鰯の頭も信心からというでしょ」「そんなことわざ使ってバチ当たっても知らんぞ」「黙りなさい」ハルヒが演壇の前に立つと、さっきまで流れていたBGMがフェードアウトした。「これより、神聖にして厳粛なる儀式を執り行います」ハルヒの後ろのガラスから入ってくる光がまるで後光のように射しこんでいる。まあ祭服コスプレはこの場に似合わなくもないわけで、見えないジャンヌダルク並みの神通力でも宿ったのか客席はシンと静まり返った。 時計の針が三時を指すと同時に、両側の壁に据えてあるでかいスピーカーからパイプオルガンの音が流れてきた。ENOZの榎本さんのキーボード演奏らしい。俺も招待客も、全員が起立して後ろを振り返った。 席の後ろのほうがざわついた。階段ホールから新川さんに付き添われた長門が現れた。観衆はオオッとかホゥとか、それぞれ好きに感嘆の声を上げパチパチと写真を撮っている。撮影タイムが終わると二人は白い道の上を一歩踏み出した。 結婚行進曲が響き渡り、客が見守る中バージンロードの上をゆっくりと、一歩ずつ歩いてくる。照明の光の中にくっきりと浮かび上がったピュアホワイトのドレス。そりゃもう白を超える白というか、まぶしくて瞳孔を細くするだけじゃ足りずに何度も瞬きをした。 スポットライトが天井から二人を照らす。赤い口紅をさした長門の顔が少しだけ微笑んでいた。肩まで垂れたベールは頭の後ろでふわりと広がり、頭の上にハート型の小さなティアラがちょこんと乗っている。肩が露になったノースリーブで胸元には二重のフリルが縁取られていた。肌の上に雪の結晶をモチーフにしたネックレスをつけている。 腰まで滑らかにシルクの光沢が続き、腰から丸く広がるプリンセスラインのドレスだった。両腕は半透明な長いグローブに包まれ大きな白と緑のブーケが右手を隠している。 スカートの部分にはコサージュがぽちぽちとあつらえてあり、大きな巻きスカートのように片側でカーブを描いて止まっている。後ろの裾が長めに垂れていた。急遽付き添い娘に採用されたらしい国木田の娘がドレスの裾を持って後ろをついてくる。父親に似て目がぱっちりしていてかわいい。 古泉が小声で言った。「今日の長門さんはひときわ美しいですね」「ああ。極上の美しさだ」「知っていますか、このワーグナーの結婚行進曲はオペラ『ローエングリン』で使われている曲なんです」こんなときに豆知識を披露しなくてもいいって。古泉はクスクスと笑い、「素性を隠した王子と娘が結ばれ、王子である正体が明かされてしまい破局に陥るという物語なんです」「なにがおかしいんだ」「誰かの境遇によく似ているとは思いませんか」またそんなミステリーヲタクな話を持ち出しやがって、大昔のオペラの登場人物とひとつふたつ似てるところがあるからってどうってことないだろ。「いえまあ、こんなときに持ち出すのもなんですが、ひとつだけお願いがあります」「なんだ」「今日を境に、ジョンスミスの名前を封印してください」「久々だが顔が近いぞ、笑顔のまま深刻な話をするな」「あなたは人生の伴侶として長門有希を選びました。ジョンスミスはひとりしか存在を許されません」古泉に釘を刺されるのはこれがはじめてかもしれない。 そんなことはお前が心配しなくても俺自身の口から漏れることはないだろうよ。俺は自分の意思で鍵をこいつに渡しちまった。それを取り戻そうなんてことは思わんさ。 「よし、分かった。誓おう」古泉は黙ってうなずき、花嫁の歩いてくるほうを目で示した。新川さんにエスコートされた長門が目の前に近づいてきた。「がん、ばれ、よっ」古泉が俺の肩をポンポンポンと叩いた。こいつ、はじめて俺にタメ口を利いたな。 新川さんが長門の右手を俺の左手に重ね、俺に向かってうなずいてみせた。二人でハルヒ扮する司祭様の前に立った。 すると、突然ハルヒが両手を上げて待ったをかけた。「ちょ、ちょっとストーップ!そのまま待って!」お前が待ったしてどうする。「なんだ、どうしたんだハルヒ」「あれがない、聖書を忘れたわ」「聖書なんかいらんだろ、無宗派なんだし」「だめよ、ちゃんと信条にのっとってやんなきゃ」さっきと言ってることが百七十九度くらい違う気がするんだが。「……これ、使って」長門が心得ているというふうに分厚い本を取り出した。って、どっから取り出したんですかそれハイペリオンですかそれ。そんなんで誓いを立てて大丈夫なのか、俺がトゲトゲの化けもんの生贄にされたりしないだろうな。などと突っ込もうとすると、長門の黒い瞳がお願いっという感じで俺を見つめたのでそれだけでもうなんというか反則というかなんでも許してしまえそうな勢いだった。いやまあ、その本が長門のバイブルだというんならそれはそれでいいさ。 ハルヒはまわりを見回して叫んだ。「さあっ、気を取り直していくわよ」ハルヒが座れという感じでゼスチャーをすると全員着席した。「おほん。本日、ここにキョンと有希の婚姻の契りの場に立ち会うという機会を得たことを、神様に深く感謝するものであります」どの神様か分からないが、厚手のSF小説にうやうやしく右手を置いてありがたい説教を始めるハルヒである。「はるか昔、アダムとイブの結婚式はたった二人でした。地球上にたった二人っきりで愛の誓いを立てたのです。そのとき相手と結ばれる確率は百パーセントだったかもしれないけど、今では三十億分の一の確率です。いえもう三十五億分の一かもしれません」 人類創世の話がしたいのか人口増加の話がしたいのかよく分からんのだが。「相手の候補が三十億もいるってことはよ、ボヤボヤしてると見失ってしまうかもしれないわ。昔の人は言いました。恋は気がつかないうちに訪れる。我々はただ、通り過ぎたその後姿を見るだけである」 ハルヒは一息ついて客を見回し、「つまり、好きな人がいるならさっさと結婚しちゃいなさいってことよ。世界は広くて人生は短くて、迷ってたら幸せなんか手に入らないんだからね」それが言いたかったのか。話にオチがついたところで皆は納得したようで笑い声が沸いた。恋愛なんて精神病の一種だと誰かが言ってたような気もしなくもないのだが、まあいいこと言ったんで許そう。 「では、誓いの言葉」俺は長門と向き合い、両手を握って見つめあった。「キョン、あなたは有希を、健やかなるときも病めるときも、つねにこれを愛し、これを敬い、これを慰め、生命の限り固く結ばれることを誓いますか?」「は、ハイ。誓いマス」声が裏声になっていたが後ろのほうまでちゃんと聞こえたか。「有希、あなたはキョンを、元気なときも具合の悪いときも、優柔不断なときもグズグズして待たされるときも女心に鈍くてどうしようもないときも、つねにこれを愛し、これを敬い、これを慰め、生命の限り固く結ばれることを誓いますか?」 「……誓う」「よろしい。では指輪の交換をしなさい」長門は朝比奈さんから、俺は谷口から結婚指輪を受け取った。俺はその銀色に輝くリングをケースから取り出し、きっと酸素が足りなくて頭がぼけていたのだろう、自らの薬指にはめようとしていた。は、はまらねえ。 「……こっち」長門が自分の手を差し出して促した。本番中にトチるなんてなにやってんだろね俺は。 長門の細い薬指にリングをはめてやると、ハルヒが、「人類とこの宇宙のすべての存在から与えられた権限により、キョンと有希が夫婦であることをここに認めます。さあっ誓いのキスよ」え、この衆人環視の前でやんのかよ、聞いてねえぞ。ふつうはここで音楽が鳴って拍手に包まれながら退場だろう。「キョンなに躊躇してんのよ、さっさとやるの。皆さん、神聖なるキスシーンの撮影はご遠慮ください」そうは言ったがハルヒはやおら古泉を指差し、「古泉くん、ちゃんと撮ってる?」こ、このバチ当たり神父が。 古泉のカメラのインジケータが赤く光ったままじっとこっちを見ていた。向き合ったままの長門はそのまま固まって俺を待っていた。しょうがない。これが生涯で二度目になるキスなのだが、俺は長門のあまりに真剣なまなざしに少し不安になり、チラと喜緑さんを見た。喜緑さんは微笑んでうなずいてくれた。 溜飲が下がる思いで俺は長門の肩を抱き寄せた。長門の左手が俺の腰を捉え、俺の右手はゆっくりと長門の左頬に触れた。その手で耳の後ろを支えて、目を閉じた長門の顔との距離が少しずつ狭まってゆく。乾いた唇を少しだけ濡らし、やわらかな、温かな、ぽってりと濡れた感触が唇の先に広がった。 視界がぼんやりと白い光に包まれてゆく。過去も未来も、そして現在までもがゆっくりと流れ、やがて音もなく止まった。 閉じた目を開けゆっくりと唇を離すとそこにはなにもなく、ただぼんやりとした白い風景だった。誰もいない、なにもない、無音。目の前にいるのは長門だけだった。 「ここは……どこだ?俺は夢でも見てるのか」「……閉鎖空間。あなた自身の」なんと、俺が作ってんのか。そういえば前にも来たことがあるような気がする。なぜか巫女衣装の朝比奈さんが思い浮かぶ。いや、長門の親父さんだったかな。異空間はハルヒの専売特許だとばかり思っていたが、それにしちゃハルヒのとは色も雰囲気もずいぶんと違うな。 「……そう。閉鎖空間は本人の精神世界を反映する。今のあなたの気持ちが、これ」真っ白ってのが俺のどんな気持ちを表すのか、フロイト先生を聞きかじった程度の俺にはちょっと分からんが、でも、今どんな気持ちかと聞かれたらちゃんと答えられる。そう、今こそが本当に幸せそのものだ。 「俺がここにいるってことは、どうやってここから出るんだ?」「……もう一度、キスして」長門は目を閉じ、頭を反らして小さな唇をちょんと突き出した。俺は最初のときと同じに両手で暖かい頬を包み、長門の後ろ髪の感触を指先に感じながら唇を近づけた。 ── 今まで、ちゃんと言えなくてごめんな。大好きだ…… やがて人の声、拍手と指笛、まぶしい光、足音、花の香り、長門の化粧の匂いが一気に戻ってきた。目を開けると頬を染めた長門がじっと俺を見つめていた。 次の瞬間、聞き覚えのあるもうひとつの結婚行進曲が鳴り響いた。メンデルスゾーンだっけな。 そのまま長門の手を引いてゆっくりとバージンロードを歩いた。招待客がバラの花びらを二人の上に放り投げ、派手なフラワーシャワーを浴びた。いやあなんというか、こういう演出は嬉しいね。 そういえばこの後の予定を聞いてなかった。古泉にこの後どうするんだという視線を送った。「車を用意していますので、そのまま披露宴の会場に行ってください」拍手の合間を古泉が大声で答えてきた。この会場誰が片付けるんだろうと不安になったのだが、まあ後のことはこいつらに任せておこう。 正面玄関まで来たところでなにか大事なことを忘れているような気がして、俺は振り返ってみんなを呼んだ。「あそうだ、皆さん、ブーケトスをやりますよ」「待ちなさい、ちょーっと待ちなさいキョン、あたしが行くまで投げちゃだめよ。ほらほらみくるちゃんも走って」言うが早いかハルヒ神父を先頭に、ブライドメイドの三人や、赤やピンクやパープルで着飾った女性陣がスカートを捲り上げて殺到した。独身女性がこんなにいたのか、こりゃあ争奪戦になるぞ。 長門が俺の耳元でボソボソ話した。「……ブーケトスってなに」「後ろを向いてその花を投げればいいんだ。まあアミダくじみたいなもんだな」「……ひとつしかない」「取り合いになったら困るから少し増やしてくれ」「……分かった」 長門が後ろを向いてふわりとブーケを投げた。全員がその行方を見つめる中、まるで計算されたかのような緩やかな放物線を描いた。小さな花束は空中でポンと分裂し、いくつものブーケになって舞い降りた。突然増殖したブーケに慌てた女どもはどれを捕まえればいいのか右往左往していたが、たぶん全員分はあるだろう。なに喜んでるんだ谷口、お前は男だろうが。 玄関を出ると黒塗りの個人タクシーが止まっていた。なんとなく見覚えはあるのだが後部シートがやたら長くて普通車の二台か三台分はある。ってこれリムジンとかいうやつじゃ。モーニングのままの新川さんが運転席のドアを開けて出てきた。 「お二人様、ご成婚おめでとうございます」「……ありがとう」「どうも新川さ、お義父さん。運転手までさせてしまってすいません」「いえいえ、わたくしはこれが本業でございますゆえ」新川さんがドアを開けて長門が乗り込むのを手伝った。スカートの重なったレースがふわふわと膨らんで花嫁が埋もれている。中に入るとほのかにライトがともり、テーブルの脇にはシャンペンとグラスが用意してあった。 ゆったりサイズのL型シートには軽く六人は座れそうなのだが、俺と長門は隅っこに身を寄せ合って座った。ふわふわの布張りの床、壁には液晶テレビと電話、サイドテーブルにはワインクーラーと冷蔵庫、乗るのも見るのもはじめてだがこいつは豪華だ。 「長門、シャンペン飲むか」「……うん」俺は冷えきった瓶の栓をポンと抜いてしゅわしゅわとグラスに注いだ。二人のグラスを合わせるとチリンと軽い音がした。 新川さんの演出らしく車内に洋楽ラブソングが流れはじめた。壁のインターホンが鳴った。「披露宴までまだ時間がありますから、少しドライブに出ましょう。到着までゆったりとおくつろぎください」おくつろぎくださいと申されましても、もうこの車のゴーシャスな内装に圧倒されて正座なんかしている俺なのでありますが。とりあえず新郎らしく長門の肩を引き寄せてみたりした。長門も首を傾けて俺の肩にもたれている。 車が走り出すと、突然後ろのほうでやかましい金属音が鳴り響き驚いて振り向いた。ああ、あれだ。空き缶のガラガラだ。今どきこんな派手なガラガラを引く新婚カップルもいないと思うが、でかい音を出して悪魔を追い払う魔除けなんだとか昔はひも靴を引っ張っていたんだとか、どれがほんとなのかは知らん由緒曖昧な古の習慣らしい。 道行く人がなにごとかとこっちを見て、空き缶を見て指差して微笑んでいる。若いあんちゃんが親指を立てているのを見て、俺たち結婚したんだぜと急に自慢したくなってきた。このまま突っ走って世界中を駆け巡ってみたい気分だ。
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