橘京子の分裂(中編)
「どうしたんですかキョンくん。キツネにつままれたタヌキみたいにぽかんとしちゃって」 だから豚もおだてりゃ木に登るを目の当たりにしたって言うほうが今の心境にドンピシャだって言ったろうが。 似たような会話をここ最近した気がする。と言うか昨日だ。あの時はあの時で驚いたが、今回も負けちゃいない。大統領候補選出のために躍起になる候補者同士のナンセンスな闘争にも匹敵する。 「ほんと、昨日から変ですよ。やっぱり精神科の病院にいった方がいいのです」 昨日はここで英語で答えた気がする。今日は何語がいいんだ? フランス語? ドイツ語? 奇を衒ってサンスクリット語やエスペラント語なんかで話した日にゃ驚くだろう。目の色変えて俺のネクタイをゆする橘(ハルヒ)の顔が目に浮かぶ。 だが生憎の勉強不足のためそのどの言語も未修得で話すことができないんだ。期待にこたえられなくて申し訳ない。 ――んなことはどうでもいい。 こいつは一体何者だ? 橘京子の姿をした『彼女』が、涼宮ハルヒを名乗りやがった。ここまでなら昨日と同じだ。 だが、こいつは昨日までの『ハルヒ』と一つ違う点がある。 それは喋り方だ。 昨日までの『ハルヒ』ならば体や髪型、それに声は橘のものであるが、唯一オリジナルの部分があった。それこそが同じ姿に分裂した皆を見分ける唯一の方法と言っても良かった。 しかし、この『ハルヒ』は俺からその唯一の方法までも奪い取りやがった。これでは本当に橘京子なのか涼宮ハルヒなのか区別がつかない。 もしかしたら本物の橘京子が嘘ついて涼宮ハルヒを名乗っていることもありうる。そう考えた方が手っ取り早いし、納得もできる。 しかし……「橘。お前こんなところで何をやっている?」 昨日と全く同じ質問を投げかけた。「へ?」 お惚け顔の『ハルヒ』……いや、『橘』でいいのか? ……が、本物そっくりの素っ頓狂な声を出した。「キョンくん、何を言ってるんですか。やっぱりお医者さんに行った方がいいのです。古泉さんに紹介してもらったあのお医者さん、あそこなら見てくれるかも」『古泉さん』か……一人称や俺の呼称だけでなく、三人称まで橘になってやがる。これでは本当に区別がつかん。「さあキョンくん、行きましょう!」「な……おい! 待て!」 そして橘は、俺の制服の裾を引っつかみ、強引に坂を下りだしていた。「授業はどうするんだ!」「昨日も言ったじゃないですか。後から幾らでも取り戻せばいいのです」「別に授業が終わってからでもいいだろうが!」「それはダメですぅ。団活の時間と重なっちゃう。昨日も言いましたけど、団活の時間は勉強と違って取り戻せないの。学校で授業を受けるよりもはるかに貴重な時間なの。だから今行くの」 「ああ……そうかいそうかい」 半分、いや、8割5分ほど投げやりになった俺は、サンタクロースが運んでいる大きな白い袋のようにもぐいぐいと引っ張られながら橘(ハルヒ)と共に他の北高生の逆方向を突き進んでいた。 何だが、事態は更にややこしいことになってきたみたいだ―― 途中で谷口と国木田に会った。 簡単な挨拶と欠席を担任に伝える旨をほんの二言三言交わしただけで、しかしそのままスルーされたことは伝えておこう。一応念のため。 確かに暴走した橘(ハルヒ)を止めるために体をはろうなんて奴はうちのクラス、いや、北高全生徒前教員を見渡してもいるとは思えないし、それならば110番や自衛隊などの応援を呼んでくれればそれだけで万事OK牧場だったのだがそんな俺の淡い期待はものの見事に肩透かしを食らい、例えではなく市中引き摺り回しの刑を言い渡され、その後打首獄門の刑にも似た懲罰を受けるかもしれない俺を見たらならば、いっそのこと関わりにならない方が良いんじゃないかと思って誠心誠意を尽くして力の限り無視する気持ちは存分に分かる。 だが、少しは俺の立場になって考えて欲しいものである。俺だって、やりたくてこんな子としてる訳じゃないんだぞ。 とまあ、俺の唯一無二……とまでは言わないが、そこそこ心を許せるクラスメイトですらこんな対応であるから、そこまで親しくも無いクラスメイトやその他同級生、果ては我が後輩たちが取る行動は唯一つ。それは即ち見てみぬ振りをし、知らぬ存ぜぬを決め込むことであり、当然と言いうべき事象にカテゴライズされる。 皆が皆、力の限り俺たちを空気や石ころのように扱って普段と同じように丘の上の学び舎を目指しててくてくと歩いているのである。 そんな風景をみてますます気が重くなるが、勿論俺の心境などわかる筈もなくひたすら坂を下り続けるツインテール。「やれやれだ……」 俺の一段と溜息が深くなった。 だが、一つ分かったことがある。 こいつはやっぱりハルヒだ。この突拍子も無く、見た目を気にしない行動は俺が知っている涼宮ハルヒと同じである。昨日俺に保健室に行くように命じた、あいつと同一人物であるのは間違いない。 何より、こいつは昨日の出来事を明確に覚えていた。もし本物の橘が入れ替わってハルヒを自称したのならばそこまで頭が回らないだろう。あいつは馬鹿だし。 同じ人物(橘の姿をした涼宮ハルヒ)が、更に変貌を遂げている。 昨日は姿のみ。今日はさらに喋り方が加わった。「つまり……」 そこから導き出される結論。それは―― ――ハルヒが橘へと変化している。「…………」 かなり重い議題のような気がする。 現状では性格そのものはハルヒのものをかろうじて残しているような印象を受けるが、もしかしたらこれは明日にも消えてなくなってしまうかもしれない。 もしそうなった場合、ハルヒという個人、個性は消えてしまうことになる。 それは涼宮ハルヒの存在が無くなること……死んだも同然である。 ――今までの世界が、消えてしまう―― 心の中で反芻した。 俺が望んでいた世界、俺が散々苦労して取り戻した、日常的で且つ非日常的な世界が全て消えてしまう。 入学式に電波発言をした涼宮ハルヒ。その力を重要視した宇宙人未来人超能力者。そして各勢力から派遣され、今や立派に涼宮ハルヒの愉快な仲間達となった、SOS団の面子。 強硬派の宇宙人端末に殺されかけた事もあった。麗しき部室専属メイドと一つ屋根の下で添い寝をしたこともあった。超党派のアクション劇にヒートアップした事もあった。 それら全ての出来事、そしてこれから起きる出来事。全てデリートされてしまうのだ。 ――それだけは避けなければ……―― 悠長に構えていたが、どうもそんなわけにも行かなくなった。元の世界に戻る方法を、なんとしてでも見つけなければいけない。 リミットは……わからないが、できれば今日中。「さあ、きりきり行くのです!」 細くて白い腕に似合わず、やたらと強い力でグイグイ袖を引っ張られ、ふと我に返った。 俺の右腕から伸びる袖の先を見る。空いた方の腕で携帯を取ってなにやら電話をしている橘(ハルヒ)の姿。聞くからに、古泉に連絡を取って医者にコンタクトを取ろうとしているらしい。 その光景は、姿や声、そして喋り方まで橘になってしまったハルヒが唯一ハルヒとしてアイデンティティを保持するために力を発揮しているようにも見えた。 ハルヒよ。お前もこんな姿になって不本意だろう。なるべく早く元の姿に戻してやる。頼むからあまり暴走しないでくれ。
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。