ユキのえほん 第3章
──第3章── 長門がいなくなった。 今までいるのが当たり前で、普段は意識していないとそこにいることすら忘れてしまいがちなほど存在感の薄い長門が、実際にいなくなるとここまで喪失感に襲われるとは思わなかった。 ましてや、俺は目の前で長門のいなくなった様子を見ていただけに、どうしても俺は長門を助けてやらなきゃいけない使命を負っているような気がした。 まず最初に俺は長門のマンションに向かった。ところがもうそこはもぬけの空で、引越し屋が来た形跡もないのにいつのまにか荷物も何もかもなくなっていて度肝を抜かれたわ、と管理人のおじいさんはいつかのように語ってくれた。 わかっていたことだが、実際いなくなるということがこういうことだと目の前で示されると、強いショックとなって俺の精神に突き刺さった。 長門のいた形跡としては一応ここに住んでいた形跡だけは残されていたようだ。この辺りは朝倉のときと一緒だ。 次に探したのは、昔、長門に読めと渡され、ページの間に挟まった栞を見つけたあの本だった。『午後七時。光陽園駅前にて待つ』 あの言葉を俺は今でもそらんじることが出来る。 長門は最後に『あの本を』と言った。だからきっとあの本だ。あの本を探せばいいんだ。前のときみたいに栞にしてキーワードを残しておいてくれたのだろうか。 ……が、いくら探しても部室にはそんな本がなかった。以前置いてあった場所には違う本が並んでいた。その本のどこでもいいから栞が挟まっていないかと調べてみても、栞もゴミクズも出てはこなかった。 じゃあ、あの本はもしかして長門がこの文芸部に持ち込んだ本だったのか? だから長門のいた形跡が消されたときに、持ち込まれた本もなくなったということか。 よく見ると、部室に置いてある本の数が明らかに減っていることに気づいた。長門の持ってきた本の多さに今更ながらに驚かされる。 それから市立図書館まで行き、ようやくあの栞が挟まっていたのと同じ本を見つけた。だが、やはりというべきかその本には何も挟まっていなかった。 たしかにこれは同じ種類の本ではあるが、長門が持っていた本とは別のものだ。 なぜなら俺が長門に図書館の存在を教えるのは、あの本を借りた後だったからである。あれがここで借りた本であるはずがない。そして現在部室にないということは長門はあの本を自分で購入した可能性が高い。 じゃあ、長門のマンションの部屋にに置いてあるのか? いや……マンションには何一つないんだ。管理人にもぬけの空だと言われたんだった。 とりあえずこれを借りて、家で読んでみることにした。何かに気づくかもしれない。 一度読んだ文章なので、適当な斜め読みだ。 しかし、当然のように何も起こらなかった。 本を読んだくらいで何か起こるなら、長門の周りは毎日ハプニングの嵐だ。時間の無駄だったか。 となるとさすがに長門が買ったあの本の現物を今見つけるのは困難だろう。 長門が購入したのはおそらく今から二年近く前。それから今まで本屋の棚に並んでいると考える方がおかしい。そんなに売れてなければその前に返本されてしまう。 ためしに駅前の本屋にいってみても、並んでいるのは版の新しい新刊ばかり。 いくらなんでも砂漠の真ん中でコンタクトレンズを探せみたいな、意地悪な宝探しを長門が要求してくるとは考えにくい。 もし栞を挟むなら他の本に挟むはずだ。 ヒントを仕込むならもっと別の方法を考える。そうであってほしい。 だが長門は『あの本を』といった。どの本のことなんだ? それでその本を……どうすりゃいいんだ? 最後まで言ってくれよ。読めば何かがわかるのか、間に栞を挟んだのか、振れば何か出てくるのか。 俺はわけもわからず途方にくれてしまった。 年が明け、新年を迎えても俺は長門の形跡探しを続けた。その間、ハルヒに初詣に誘われたりしたが、冬期講習があるからと嘘をついて断った。 俺はそれどころじゃなかったからだ。「もしかしたらあなたとの思い出深いところや物に鍵が隠されているかもしれませんよ。あくまで推測ですが……。僕にも全くわかりません。長門さんのことはあなたの方が詳しいでしょうから」 古泉に相談してみたがやはり決定的なヒントを見出すことは出来なかった。 思い出といえば……そうだ、パソコンはどうなんだ? ハルヒと二人だけの閉鎖空間の中でも、改変された世界でも俺を助けてくれた大きな鍵。あのときのように長門が何かプログラムを残していてくれているかもしれない。 ……電源を入れる。ダメ。普通に起動する。ノートパソコンも4台あるからそれも全部繋いでみる。……やっぱりダメ。普通に起ちあがってしまう。別にパソコンが悪いわけではないのだがなぁ……。 他に長門と俺を繋ぐもの……。読書……。俺はそんなに読書好きではない。 眼鏡属性……。いやこれは関係ないか。 改変された世界……。ん……? そういえば……図書カードだ。図書カードだけは共通のキーワードだったんじゃないか? 世界がおかしくなったときも、記憶は異なっていたものの、あの図書カードが俺と長門を繋いでいた。俺が長門の図書カードを作ってやったのは、改変された世界でも唯一共通する過去の出来事だった。 俺は急いでもう一度、あの図書館へ向かった。 あのとき初めて借りたのは、たしか分厚い哲学書だったはずだ。この壁際あたりで立ち読みしてたから……。あの日の長門の姿を思い出しながら哲学書のコーナーを探す。ちょうど今誰かに貸し出されてたりするなよ……。 …………あった! たぶんこの本だ。 棚から取り出し、上にかぶった埃をはたくと、白い粉がパラパラと散った。それにしても重いな。こんな本をよく立ち読みしてたもんだ。 背表紙をめくり、貸し出しカードを確認し、俺はまたも愕然とした。 そもそも貸し出しカードの欄に長門の名前など微塵もなかったである。 試しにペラペラとページをめくってみたが、特にどこも変わった様子はなく、普通の本であった。もちろん外国語の本なので、細かい内容までは読めるはずはない。 ためしに受付の人に長門のカードが作られていないか訊いてみる。「長門……有希さんですか? 長いという字に門……はい……ええと、長門さんという方は一度もこちらには登録されてませんね」 やっぱりそうか。長門が存在したという形跡はこの世界にはないのか。なら長門の図書カードがなくても当たり前だし、栞を挟むなんてこともできるはずがない。 ……つまり、あの改変された世界よりも長門のキーワードが少ないということだ。 そもそも長門に関するものは全て消去するといわれた。なんとかさん……えーっと……長門の隣にいた少女がそういっていたはずだ。 だから長門が影響をもたらしたものはむしろ探すだけ無駄なんじゃないか? 無駄なことだと……、だったらなんで長門の記憶が残ってるんだよ。覚えているだけに余計辛いじゃないか。いっそのこと忘れさせてくれたらどんだけ諦めがつくことか……。 俺はこうして冬休みの二週間を、全て長門を探すために費やした。 時間だけはあっという間にすぎ、とうとう冬休みが終わってしまって新学期になっても長門は学校に姿を現すことはなかった。 クラスの担任に聞いてみると、両親の転勤の都合で、どうしても海外に引っ越さなければならなくなったという、とってつけたような理由がついていた。 このクラスにいたという事と長門の住んでいたマンションの空室だけが長門の残した唯一の形跡であった。 文芸部には長門有希という人物がそもそも在籍していた形跡もなく、よく通っていただろう図書館にも通っていた形跡はなくなっていた。 もう俺はどこを探したらいいものか、すっかりわからなくなっていた。とにかくなんでもいいから長門に関する情報が欲しかった。 インターネットで検索しているうちにふと見つけた、長門市立図書館にも行ってみようかと検討した。 だがそれは山口県だったから諦めたが、今の俺は藁にもすがるどざえもんであった。その水に浮いた藁ですらもうどんどん少なくなっている。 もしかして今回は本当にどこにも解決法が用意されていないのか? 解なし、というのが正解になる数学の問題じゃないんだぞ……。解決方法がなかったらこれから俺はどうなるんだ。 ……どうにもならないのか? 諦める、という選択肢が俺の頭の中でちらつき始めた。俺にももうそれほど時間がない。だが、俺が諦めたらそこで長門の復活の可能性は0になる。「長門……もうお前には会えないのかもしれない。悪いが俺の頭ではお前のヒントが解けそうにないよ」 ……最後に何か見落としがなかったかもう一度だけ振り返ってみよう。それで駄目だったら……それで駄目だったらもう……。 諦めたくはない。だが、俺の人生はいつまでも待っていてはくれない。いつまでも感傷に浸ってるわけにはいかないのだ。 もう一度、初心に返り、部室の本棚に栞が挟まっていないか確認する。 全ての本を再度念入りにチェックし、どこかのページに何でもいいから栞か何かが挟まっていないか、栞じゃなくてもいい。なんでもいいから長門の残した形跡がないか、俺は血眼になって本を洗いなおした。 そうしているうちに、ふと一冊の本が手に止まった。 そういえばこの本、どこかで見たことあるぞ……。この古くて分厚い学術書……。そして赤い表紙にかすれた文字……。 そうか! 長門が最後に読んでいた本だ! 前にもチェックしてはいたはずだが、なんでタイトルにまでは目が行かなかったんだろう。 かなり古く汚れた表紙に、かすかに『認知言語学の考察』という字が読める。言語学の論文だったのか。 もしかすると、この本を読めという可能性もあるのか? だが本を開いてみて5秒で後悔した。書いてあることはたしかに日本語だが、ほとんど俺には理解できない内容であることが即座にわかった。こんな本読んでいられるか。思わず放り出しそうになりながらも咄嗟にそれを中止した。 ……いや待て。こんな難しい本が文芸部の部室に置いてあるのは不自然じゃないか? 長門じゃなければ誰がこんな本を読むというのだ? こんな本に用がある人間なんてそうはいないだろう。 ページをペラペラとめくっても栞などは挟まってないことは確かだ。だが、長門が最後に読んでいた本はこの本だ。この本を読んでいたときに長門がおかしくなったのだから、何かあるのかもしれない。 全てを読み解いたとき、長門を呼び戻す呪文が思いつくのかもしれない。 わずかの可能性にかけた俺は、家に持ち帰り読んでみることにした。 その本は認知言語学の論文が主な内容であった。 心的領域間のマッピングがどうの、メタファーがどうの、プロトタイプ的カテゴリーがどうのと、必死になって文字の一つ一つの意味をなんとか拾い上げながら辞書で調べていくものの、決してその内容が俺の頭の中で組み立てられることはない。 あー、こりゃ無理だ。難しすぎる。さっぱり内容が理解できない。この本を読むためにはもっと基礎的な物から言語学を学ばないといけないだろう。今の俺には到底手に負える本ではない。 こんな本を読んだところでなんになる? 少しは文字が読めなくなった長門の手助けになったかもしれないな。もう手遅れだが。 俺は途中で真剣に読むのを諦め、何かゴミでも挟まっていないかと、ペラペラーとページを進めた。 すると、途中のページに何かとてつもない違和感を感じた。 アヒルの群れの中に一羽だけ汚いアヒルがいたときのような、ちょっと気をつければすぐにわかるような違和感だった。 ページを遡り、今の違和感を確認する。 俺は鳥肌が立った。 この本は全て日本語で書いてあるはずだ。それがなぜこの298ページの一部に、こんなわけのわからない文字が踊っているのだ? そこには幾何学模様がページの一面にびっしりと並んでいた。それも前後の文につながりは全くなく、文章が途中で途切れたまま、明らかにここに書いてあった文字を押しのけてこの一部分だけ改変されているのだ。 ついに何かのきっかけを掴んだような気がして、俺は興奮せずにはいられなかった。 単なる誤植か? それにしては、この字とも模様ともとれない不思議な幾何学模様は、なんらかの規則性を持って並んでいる。意味のない羅列ではないだろう。 しかし、文字だとするなら明らかに地球上のあらゆる文明の文字ではない。不思議な文字だ。横に読むのか縦に読むのか、はたまた左から読むのかもわからなかった。 もしかすると全体を一つとしてQRコードのように読むのか。 なんにしても、この学術書がおかしいのはたしかだ。何か、宇宙的な要素を感じる。そういわざるを得ない改変が加えられているのであった。 他のページにこのような文字がないかと、丁寧に1ページずつ探したものの、おかしくなっている箇所は298ページの一部だけ。他はあくまで言語学に関する論文であった。 ようやく掴んだヒントだ。これを読み解けば何かの手がかりになるかもしれない。 こういう文字を使う人物が俺の周りに長門以外でもう1人いなかったか? 宇宙人でそういう知り合いがいたような気がするが……思い出せない。長門の仲間だったはずだが……。顔も名前も思い出せない。思い出そうとしてもその記憶だけがスッポリと抜け落ちているような感じだ。 待てよ、落ち着け。他にもいたはずだ。 考えろ、思い出すんだ。 俺は熱を上げ始めている自分の脳に必死に石炭をくべていた。……どこかで……そう、もっと身近なところに……いた。朝比奈さんだ! 朝比奈さん(大)がこんな感じの文字を書いて、俺の下駄箱に入れていたことがあった。その暗号を朝比奈さん(小)が読むと上層部からの命令だといっていた。これがもしそういう暗号なら、これから過去に行くことができるかもしれない。「朝比奈さん!」 俺は三年生の教室まで行き、自分の机で勉強中の朝比奈さんを捕まえて連行した。 俺もいつかのハルヒと同じようなことをしてるな。「受験で忙しいあなたにこんなことは大変申し訳ないのですが、ぜひあなたの力をお貸しください! この文字の意味を教えてください!」 俺は学術書の298ページを開いてみせた。朝比奈さんが少しかがみこんで文字をじーっと見つめた後、残念そうな顔で答えた。「えっとぉ……これは読めません……。少なくともわたし達の時代のコード(暗号)ではありません。わたし達が使うコードとは全く種類が異なります。おそらく長門さん達が個別に使っているコードだと思います」 そう……でした、か……。ははは、違うのか……。俺には全然区別がつかないや。読めないんじゃしょうがないですよね。「ええ、ごめんなさい。力になれなくて……」 しかし次の瞬間、俺はハッとひらめき、朝比奈さんの肩を掴んでもう一度呼び止めた。「ま、待ってください! そうだ! じゃあ、こういうことはできませんか? 長門のいる時間、少し前の時間でいいですから、俺をそこまで飛ばしてください。そしたらこれを長門に見せられるんです!」「で、出来ません……。未来からの指示では長門さんは諦めろと言われているんです……。それにもうこちらからの指示でキョンくんと過去に遡行することはないと……」「片道でも構いませんから! 元の時代に戻さなくてもいいです。数週間そのまま待ちますから! こっそり俺だけでも!」 俺はどうしても長門に会いたかった。たとえ今の時間に呼び戻すことが出来なくとも、最後に一言くらい別れの挨拶がしたかった。「む、無理です~。今通信してみましたけど、やっぱりダメっていう返事が来ました……。ごめんなさい。わたしの権限ではそんなことまでは出来ないんです……」 ……終わった。 たった今詰んだ。チェックメイトだ。 過去に遡れたら長門に聞くことも出来るだろうに、未来人からは許可が下りない。ということは過去にいけないのはやはり既定事項ではないということなのだろうか? 未来は変えられないという意味なのか。 俺はそれからもできる限りのことをしてみた。その本を振ってみたり、叩いてみたり、変な文字を、無理矢理何かの文字に当てはめて読んでみたり。 きっと他人が見たら頭がおかしくなったようにしか見えないだろう。 もちろん、そんなことが何かの結果を生み出すにはいたらないのは当然であった。 じゃあ、この文字は単なる誤植だったのか?「なあ、やっぱりお前もこの文字の意味はわからないんだよな」「ええ、残念ながら僕らの『機関』でもこのような文字を使ったことはありません」 こうして古泉に相談するのも嫌になってきた。何を言っても誰も正解を教えてくれないのでだんだん人間不信に陥りそうになる。「他にTFEIの知り合いってのはいないのか?」「ええ、残念ながらそれも全く心当たりがありません」 おかしい……TFEIという名前はあいつらが長門の仲間達を呼ぶためにつけた呼称なのに、長門一人しかそれに該当しないはずはないのだが。「ええ、そうなんですけど……もしかしたら記憶操作を受けているのかもしれません。だとしたらなおさらそこを探るのは難しいでしょう」 そうするとこの文字は誰にも解けない暗号ということになる。いったい何のための暗号なのか。「じゃあハルヒに全部バラしてしまうのはどうだろうか。ハルヒの力なら情報統合思念体を消すことも可能だったんじゃないのか?」 俺はもう半分ヤケになっていた。俺がジョン・スミスだってバラすことはハルヒになんらかの影響を与えることは確かなんだ。それが長門の復活に繋がるかどうかは別として。「残念ながらそれは推奨できません。もし涼宮さんがまた前のような能力を使うことがるようになったとしても、その際、世界がどれだけデタラメになってしまうのか保障できないからです。また去年の、いえ、もう二年前になりますが、あの映画撮影のときのように、桜を秋に咲かせたり、猫をしゃべらせたりする世界になって困るのは僕たちの方でしょう。彼女に自分の能力を自覚させたら、あの程度では済みません。太陽が西から昇っても不思議ではなくなります。世界の法則が無茶苦茶になることは間違いありません。それでも情報統合思念体にとってはさほど困らないでしょうが、地球上で生活しなくてはならない僕たちにとっては大問題です。彼らははもはや、どのような形であれ新たな変化を望んでいるようです。主流派が急進的な思考になっているのです。それにもし全部をバラしてしまえば、僕たちはずっと涼宮さんを騙していたことになります。なんせ彼女は24時間監視されていて、その心理状況まで詳しく人に見透かされていたんですから。どんなにポジティブな考えの涼宮さんでも、さすがにそれは傷つくと思いますよ」 でもこの閉塞状態を打破するには他に方法がないのではないか。長門の消滅をみすみす見逃しておけとでもいうのだろうか。「僕ら『機関』の考え方はだいたい一致しています。このまま涼宮さんの能力がなくなっていくことを支持しています。ですからTFEIたちの部分撤退は喜ばしいことだとい考えています」「そうか、お前らは長門がいなくなるのはそんなに困らないって言いたいんだな……」「しかし、僕個人としてはこのまま終わって欲しいとは思っていません」 古泉の顔が急に真剣な表情に変わった。なぜそんなに顔を近づける。「朝比奈さんに協力を願えば状況は変わるかもしれません」 俺は大急ぎで再度、朝比奈さんを捕まえに走った。「はぁ……はぁ……、キョンくん、いったい何の用ですかー? わたしちっともよくわからないですけど……」「とりあえず古泉の話を聞いてみてください」 古泉は朝比奈さんの正面に立ち、また真剣な顔を作って話しかけた。こらこら、どさくさで手を握るな。「朝比奈さん。僕達に協力してくれませんか。長門さんをここに連れ戻したいんです」「え? わ、わたしに出来ることなら……なんでもします。わたしも長門さんには帰ってきて欲しいと思っていますから」 本当かな?「ほ、本当ですよ! 長門さんは……一緒にいるのはちょっと苦手ですけど、すごく共感できるんです。自分の立場とか、役割とかが自由にならない気持ちはわたしもわかるんです。だからわたしは長門さんのことが嫌いじゃないです。戻ってきてくれたら嬉しいですし……」「では、未来を裏切ってもらえませんか? 一度だけでいいんです」「ええ!? 裏切り、ですか……何をすればいいんですか?」「あなたを誘拐します」 ちょっと待て。 急に何を言い出すんだお前は。ずっと前に朝比奈さんが誘拐されたとき助け出したのはお前らだろうが。「そして、もし未来側がこちらの要求を呑まないようでしたら、一生ここから開放しないと通告します」「こ、こここ! こ、困ります。で、ででも、そんなこと無理ですぅ、無理なんですよ~!わたし達は時間移動も空間移動も出来るんですから~。きっと先回りされてしまいますよ~」「いいえ、出来ます。未来人は何もあなた達だけではありません。あなた達とは別の勢力がありますよね? その者たちの協力を得ればいいのです。形だけで構いません。あなたさえ一言うんと言っていただけたら、僕が『機関』の中から協力者を募って全力であなたのことを誘拐し、監禁します。そしてあなたの未来から許可が下りたらすぐに開放します」 古泉は相変わらず、冗談なのか本気なのかわからないほど冷静な表情で朝比奈さんを見つめていた。「待て、古泉。それは朝比奈さんが危険すぎる。敵性未来人たちは誘拐した後、何を要求してくるのかわからないし、あいつらと手を組むのは後々に悪い影響を及ぼしそうだ」「ですが他に……」 俺は古泉をさえぎって朝比奈さんの手をとった。古泉にばかり握らせておくかよ。「朝比奈さん」「は、はい!?」 朝比奈さんはさっきから古泉や俺に迫られっぱなしで、困惑したウサギみたいな顔になっている。 それにしてもこういう状況のよく似合う人だ。「未来の上司に伝えてください。次の交信でもし過去への許可が下りないのであれば朝比奈さんに過去に知りえなかったはずのことを伝えると。それはあなたにとって現時点で知られてはまずいことのはず」「え? え? そ、それってどういうことなんですか? わたしの過去ってどういう……?」「いいからそのまま伝えてください」 これが俺の最後の切り札だった。つまり、朝比奈さんに朝比奈さん(大)の存在を伝えるのだ。 現時点でまだ朝比奈さんは自分がもう一度この時代に来ることを知らないし、知らされるようにはなっていないだろう。 これはあくまで憶測であるが、朝比奈さんの任務が最終的に終了するまではこのことはバラさないつもりなんだろう。どういう理由があるのかは知らないが、朝比奈さん(大)は直接過去の自分に会おうとしなかった。それに朝比奈さん(大)が眠らせた過去の自分にあって懐かしそうにしているところをみると、きっとこれからずっと先にならないと、このことに気づかないはずなんだ。 もちろんうまくいくかはわからなかった。実はここで朝比奈さんが初めて上司の正体を知るのがこの場面であったら、未来の朝比奈さんは今の状況を変えようとはしないだろう。 だからこれは賭けだった。 しかし、答えは意外にも早くきた。「う、嘘みたい……キョンくん! 許可が出ました! なぜか向こうから時間と場所が指定されました!」「よし、朝比奈さん、行こう」 俺は赤い表紙の学術書をしっかりと右手に握りしめた。「どうしてキョンくんがいうとこんなに簡単に……。それにわたしも知らない自分の秘密っていったい何なんですか?」「それはね、朝比奈さん……」 少し皮肉っぽく、「禁則事項です」 と言ってみた。一度これを言ってみたかった。 朝比奈さんの少しむっとした顔がたまらなくかわいかった。でも、これすごいヒントになってますよ?「んもう、いじわる! じゃあ、行きますよ! 古泉くん、ちょっとあっち向いててくださいね」 古泉が背中を向けた瞬間、朝比奈さんは時間移動を開始した。 あ、待って。目をとじ……。 ぐわん。最後の一瞬、目を閉じ損ねた俺はまともに時間酔いを食らってしまった。最初の衝撃が強すぎて、その後の時間の経過がわからなくなるほど強烈に酔ってしまった。「着きました」 朝比奈さんの声がして、ようやく俺は今が現実であることに気づいた。軽く気を失っていたらしい。右手に本がしっかりと握られているのを確認して少し安堵を得た。「……ここは?」「えっと、12月21日の午後12時30分です。場所は、えーっと、部室棟の屋上の前の踊り場ですね」 ってことはつまり……。ちゃんと長門がこの世界にいる日だ。たしかこの次の夜だな、長門が突然俺の家に来て一緒に絵本を読んだのは。「それでわたしはどうすればいいんでしょうか?」「えーっと……」 そうだ、たしかこの日、俺は朝比奈さんに呼び出されたんだった。場所は部室棟の屋上へ続く踊り場。そう、ここだ。あのときはなんで呼び出されたのかわからなかったが……それはこの俺が長門に会うためだったのか。おそらくあのとき俺を呼び出したのは未来の朝比奈さんだったんだ。 この時代の俺は未来から来た自分とは会っていない。だから自分に会わないようにうまく朝比奈さんに呼び出してもらわないといけない。 そして、適当に30分くらい時間を潰してもらって、その間に俺は長門に会わないといけない。「適当にって……どんなことをお話すればいいんでしょうか?」「適当に……適当です」 それしか思い浮かばなかった。そのとき話したことなどほとんど忘れてしまったが、それはたぶんあまり重要ではない。何せ俺はこのとき、ほとんど朝比奈さんと会話していなかったのだから、予定以上に会話を膨らまされても困るのだ。「とにかく俺をここに呼び出してください。そしてなんとか30分くらい、俺をここにいさせてください。何があってもここから俺を動かさないでください。終わったらすぐにここに帰ってきますから」「どうしてキョンくんはやることがわかって、わたしがわからないんでしょう……」 よく意味が理解できず、うろたえる朝比奈さんを、無理矢理部室に向かわせ、俺は階段の下に隠れて、朝比奈さんがこの時代の俺を連れ出すのを確認してから部室に向かった。 部室の扉を開けると…… 長門がいた。 いつものように定位置の椅子に腰掛け、いつものように分厚い本を読みながら、いつものように無表情のままこちらに振り向いた。 いつもの当たり前が、そのことが俺にとっては奇跡であった。 2週間ぶりくらいだが、俺にはその時間が何年にも感じた。「長門……ちゃんといてくれたか」 長門がこちらの様子に気づいたのか、いつもなら話しかけたくらいでは本から目を離さないのに、珍しく本を閉じてこちらを向いた。「……何?」 長門が目に少し困惑の色を浮かべていた。その手に持っている本は、今俺が右手に抱えている本と同じもの。難解な日本語で書かれた言語学の学術書。ただし、一部が明らかに書き換えられている本だ。「あまり時間が無いから簡潔に話す。よく聞いてくれ」 そして俺は長門にこれまでのいきさつを説明した。 まず、俺が未来から来たということ。明日の夜までには長門は文字やコードを読めなくなってしまうということ。 そして、その2日後のクリスマスの夜に長門がいなくなってしまうこと。 俺は右手に持っていた本の298ページを開いて見せた。「この文字、身に覚えがあるか?」 首を横に振る。「お前がいなくなってからずいぶんいろんなところを探したが、結局おかしなところはこれくらいしか見つからなかった。これでよかったのか?」「この本にはそんなコードは書かれていなかった。これは後から何者かによって書き換えられた部分」 長門はさっきまで自分が読んでいた本を開いて見せた。298ページを見る……なるほど。たしかに文章がおかしくなっていない。 しかし、俺の持っている本とシワ、汚れの位置も全く同じ。おそらく異なる時間体に存在する同一の物で間違いない。「コードか……。やっぱりこれは何かの暗号なのか?」「……そう。これは緊急用情報解析制御システムの強制執行コード。たった今、わたしのコード解析機能はセーフモードへシフトした」「どういうことだ?」「コードに関する情報受信、発信が共に不可能になった。同じく意味を持つ情報伝達システムとして、音声による言語以外の情報伝達システムがほぼ全て制限された。間接的情報伝達も不可能。文字を読むこともできなくなった」 ってお前それじゃあ……。 お前が文字が読めなくなったのはこの本のせいだったのか。つまり……これ、罠だったってことか?「違う。おそらくもうすぐ情報統合思念体より送られてくるはずの、強制回収コードによって、これによりわたしの存在した記憶が、全てかき消されるのを防いでくれた。これがなければあなたはこの時代に来ることはなかった」 そうか、お前が字を読めなくなるのは必要な事だったんだな。「それにしてもヒントが少なすぎた。苦労したんだぞ、ここまで来るのに」 少しほっとして溜息をつく。「わたしは先ほどあなたに見せられた本によって、情報コードを作り出す能力が制限されてしまった。たとえあなたにヒントを残そうとしても、強制回収プログラムによって全てが消失すると予想される。また、未来のわたしがヒントを残さなかったとも限らない」「え? じゃあ、このコードを書いたのは……」「わたしではない」 なんだ、このヒントを出したのは長門じゃなかったのか……。 じゃあ、いったい誰なんだ。 そのとき、はっとして俺は気づく。ゆっくりとしている場合ではない。もうすぐ朝比奈さんと約束した30分が近づいてきた。 ゆっくり長門との再会を味わっている場合ではなかった。この時代の俺はもうここに戻りたがっているはずだ。「で、どうすりゃいい? どうすれば長門をまた呼び戻すことができる?」「わたしには出来ない。わたしを構成する情報体が未来において存在できない。どうやっても未来にわたしの情報を送ることが出来ない」 ……おいおい。 せっかくこの時代まで来たのにそりゃないぜ。「情報連結解除が本当なら、わたしは情報構成データも消去されているので再構成できない。情報統合思念体が元のデータを再構成しなければいけない。過去に時空改変を行ったわたしには現在、それを申請する権限も与えられていない」「じゃあ、もっと過去に遡ったお前なら」「それも出来ない。なぜならわたしは過去にそのようなことを行っていないから」 そうか……既定事項ではないんだな。長門に出来ることはここまでか……。「何かないのか? 俺はもうこの時代には長くいられないんだ。何も無しにこの時代から去ることは出来ない。またこうして時間移動が出来る保障はないんだ」 長門は少し考えるようにうつむいてから、「……これを」 と言ってさっきまで読んでいた本を開き、そこに挟んであった栞を俺に手渡した。「これは?」「それは今日この本に挟まっていた。おそらく朝比奈みくるに見せれば次の行き先が指定される」「こんなものがあったのか! 早くいってくれよ!」「でも、これはとても危険だから気をつけ……」「え? 何をだ?」 いきなり長門の声がか細くなり、思わず顔を近づける。こうして長門の顔を見ることができるのもあと少しだ。しっかりこの目に焼き付けておかないとな……。「何?」「離れて……」 と言いかけたところで、長門は急に顔を背けてしまった。 はっとして後ろを振り向くとそこに、五条大橋で待ち伏せる弁慶がごとく、男らしいまでの仁王立ちしたハルヒがいた。 ものすごい剣幕で俺を睨んでいる。「や、やあ。はるひ……」「あんた、そこで有希に何してるの?」「何もしてない、よ?」「あんた、無口萌えだったの?」 意味がわからん。それに長門はそんなに無口じゃないぞ。さっきまでかなりおしゃべりだったからな。俺の前ではよくしゃべるんだよ。「有希の顔見ればわかるわよ! 顔真っ赤になってるじゃない! あんた、有希が抵抗しないのをいいことに変なことをしようとしてたんでしょ!」 勘違いもほどほどにしてほしい。だが、言われてみればたしかに長門の頬が少し紅潮しているように見える。 SOS団のメンバーでなければ気づかないほどのわずかな変化だが、普段の長門からすればすごい表情の変わりようだ。長門も赤くなってる場合じゃねえだろ! ハルヒが指をポキポキと鳴らしながらこちらに近づいてくる。 今ここで誤解を解いている暇は無い。もうすぐこの時間の俺がここに向かってくるのだ。 なんでもっとゆっくりしてないんだ、この時間の俺は! 仕方ない。俺は指でハルヒの後ろを指し、大声で叫んだ。「あ! UFOだ!」「はぁ!?」 さすがにこんな古典的な手に引っかかりはしなかった。だが、ハルヒが腰に手を当てて、呆れ顔を作ったその瞬間、左側に一瞬の隙が出来たのを見逃さなかった。 俺は猛ダッシュでハルヒの脇をすり抜けて廊下へと駆け出した。 急いで朝比奈さんのところへ走る。走りながら、心の中で長門に最後の別れの挨拶を言いかけてすぐやめた。 ……すぐにまた会える。きっとそうだ。じゃ、またな長門。すぐ迎えに行くぜ。「待てー!! 待ちなさい、コラー! なんで逃げるのよ! 逃げるなー!」 ハァ……! ハァ……! 俺の足ではすぐにハルヒに追いつかれるだろうが、逃げるのはあの廊下の角まででいい。そこまで逃げればあいつがいる。 そうか、そうだったのか。やっと過去の出来事と繋がったぜ。すっかりこのことを忘れていた。 もうすぐそいつはその角を曲がり、この廊下へやってくる。 そして予定通りそいつは──来た。まだこちらに気づいていない。加速した体でそいつにえいっと思いっきり体当たりをかました。「いってえ!」 普段ならどんな急いでいても一言くらい謝るところだが、俺はあえて振り返らずに階段を上へと駆け抜けた。 階段の踊り場で目をぱちくりさせている朝比奈さんに向かって、さっき長門にもらった栞を見せた。「早くこれを! 早く!」「え? あ、は、はい、これは最優先強制コードですね! 指定された時空座標へ移行しろといわれました!」 わけもわからず朝比奈さんはうろたえていた。 すいません、俺のわがままに付き合ってもらって。後で甘物でもおごります。 そしてすまない、過去の俺よ。お前の痛みは俺の痛みだ。 コードが書かれた本は長門に預けてきた。その本をどうしろとまでは言ってなかったが、おそらく大丈夫だろう。あの本はきちんと部室の本棚に入れられ数日後に俺に見つかるのが既定事項なのだから。 目を瞑って朝比奈さんの肩を握る。即座に眩暈が襲ってきた。頭の中がぐるぐると回ったかと思ったらあっという間に宙に浮いたような、あるいは高いところから落下し続けるような不思議な感覚に見舞われた。 何度目の時間移動だろうか。そろそろ俺も時間移動のベテランに入るだろう。なぜなら、おそらくこの時代の人間でこれほどたくさんの時間移動を経験している人類は、地球上いくら探しても俺くらいしかいないだろうからな。 それにしても相変わらず、この感覚には慣れない。頭の中だけでなく、内臓、血管、皮膚、骨に至るまで、全てがぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような気分だ。う、今回はさっきよりだいぶ長いぞ。まだか? 今までの経験から、今回の移動が数日前とかの短い時間ではないことがわかる。時間移動はその移動する時間が遠くなればなるほど、頭がぐらつく感じが長くなるからだ。今回は一年以上か? まだか……そろそろ辛い。「着きました」 頭の上から朝比奈さんの声がしたような気がして、ようやく自分の足に地上の感覚が戻ってきた。まだふらふらするがなんとか立てそうだ。 さて……今はいつだ? 前に長門の緊急脱出プログラムによって、あの七夕の日に飛ばされたときもものすごく暑く感じたが、今度も急に温度が変わったようだ。結構暖かい。急に10度以上気温が変わると人は蒸し暑く感じる。 場所は教室の中だ。ここが何組かはすぐにわかった。 なぜなら俺にとっては一年間もの時を過ごした、ものすごく馴染み深いクラスだったからだ。もちろん一年五組のことである。「あ、あ……あの人は……え? どうしてここに?」 朝比奈さんの声で、教卓の横に人影があるのに気づいた。「あら? いつからそこにいたの?」「なっ……!?」「1人で来るとばかり思っていたのに、そちらの方は彼女?」「え、い、いえそんな! そんなこと全然ないです! た、他人です! ほ、ほんと、なんでもないんです~!」 俺は朝比奈さんに思いっきり否定されてしまったことへの傷心よりも、そこにいる人物にまず驚いてしまって言葉が出なかった。 初めて黒船を見た江戸末期の人々よりも驚いただろう。なるほど長門がとても危険だといったわけがわかった。 同時に今がいつだったのかもだいたいわかった。こいつがいるってことは今日は……。「朝比奈さん、今日ってもしかして……一年前、いや今からだと二年前の5月の市内探索のすぐ後……」「ええ、そうです。SOS団の最初の市内探索から二日後になります」 そう、あの日俺は誰からかも知らぬ相手からラブレターらしき手紙をもらった。そして俺が平静を装いながらも、淡い期待を心に抱きながらこの教室にやってきた。 しかし、期待は見事に裏切られ、それどころか生命の危機に瀕し、ギリギリのところを知り合いの宇宙人に助けられたのである。 そんな人生最大のピンチの日、しかもどうやら現時刻は、あの手紙をもらって俺がここにくる直前の時間帯。夕刻前。 まさかその後ナイフで刺し殺されそうになるなんて夢にも思わなかった、その悪魔の手紙を書いた人物。──朝倉涼子。 その朝倉涼子が目の前にいた。 教室の掛け時計は俺がここに来る30分ほど前の時間を指している。 だとすればこの朝倉の気持ちは一つしかないはずだ。 もう俺を殺す気満々。冗談だと思う? 本気です。 なんてところに飛ばすんだ長門は! 俺に死ねとでもいうのか?「この空間はわたしの情報制御下にあるから、逃げようなんて思わないでね」 言うが早いか、教室が一瞬で情報封鎖されていた。もう朝倉は準備万端だ。ナイフを取り出してこちらを向く。「ひ、ひぇー!」 朝比奈さんが驚嘆の声を出して立ちすくむのを、朝倉はちらりと朝比奈さんを一瞥し、「悪いけどあなたには眠ってもらうわ。邪魔だから」 朝倉がそう言った途端、隣でドサリという音と共に朝比奈さんが倒れていた。展開早っ!いきなりかよ! 朝倉がナイフをしっかりと右手に握り締め、振りかぶった。「待ってくれ! 朝倉! お、お前に話があるんだ!」「話? わたしはあなたに話なんてないわ。さっそくだけどさっさと死んでほしいの。見ての通り、わたしは普通の人間じゃないから抵抗しても無駄よ」 目の前に立った朝倉が、ニッコリと微笑んだ。何を話したらいいかなんてわからない。長門からどうしろという指示もなかった。 だけどこの時間、この場所へ飛ばされたということは、必ず意味があるはずだ。つまり、朝倉に会って、何かを訊き出さなければいけないということなんだろう。 この状態で何を訊くんだ? 足が動かない、体も身じろぎできない。この朝倉はあの時と違っていきなり俺を動けなくしていた。 俺の知っている展開とはだいぶ違うストーリーだ。このままじゃあっさり殺されちまう。「ぐ、ちょ、ちょっと待て。理由もなくいきなりか!」「だって、これから死ぬのに理由なんか聞かなくていいでしょ? 有機生命体は死ねばみんな全てが無に帰すだけ。説明する時間の無駄よ。じゃあ、死んで!」 朝倉が右手の右手が一瞬ブレたように見えた。「未来から来たんだ!」 ナイフが俺の首に0、1ミリほど侵入した地点でピタリと静止していた。まさに首の皮一枚だった。「未来?」 余計なことを言っている暇は無い。少し間違えば俺の命が危ない。今の朝倉はもう暴走している。「俺は今から1年半以上先の未来から来たんだ。本当だ。俺はこの時間の人間じゃない。お前ならわかるはずだろ? よく昨日までの俺との違いを見てくれ」 朝倉はじっと俺を熟視して一瞬口元をすばやく動かした。ものの数秒で結論は出たらしい。ナイフをすっと後ろに隠すと、ニッコリと上品に笑顔を作った。「あら本当ね、あなたはキョンくんの異時間同位体。一年半以上先の未来から来たのね。ふふ、あなた未来じゃ相当おかしなことに巻き込まれてるの? やっぱり涼宮さんが選んだだけのことはあるわ。本当に何かの鍵なんでしょうね。それで、何の用かしら。何もなくここに来たわけじゃないでしょうから理由くらい教えてね」 朝倉がスッと一歩下がった。それと同時に体に自由が戻る。俺はまだ心臓の高鳴りが治まらない。「未来で長門が消されちまった。情報統合思念体の命令だかなんだかで存在ごと消滅させられたんだ。それで俺はどうしたら長門を元の世界に連れ戻せるか教えて欲しいんだ。どうしてここに来たのかは俺にもわからない。ここに来たのは何者かの仕組んだことなんだ。長門もわからないといってた。だけど朝倉ならなにかわかるんじゃないか? お前も長門と同じヒューマノイドなんとかなんだろ?」 俺はどうかしている。今まさに俺を殺そうとしている人物に対して、自分ではなく長門のを救って欲しいと言っているのだ。本当にどうかしている。「ねえ、その時代のわたしはどうなってるの? なんでこの時代に来たの? わたしに聞きたいだけなら別にこんなに過去まで遡らなくても、一週間前でもよかったんじゃない? そのわけは?」 朝倉は的確に俺の意図を見抜いてきた。そんなことを言えるわけがない。これからこの朝倉はこの時代の俺のことを殺そうとしてそれに失敗し、長門に消される予定なのだ。今日以降の時間では朝倉に接触するチャンスはない。朝倉には今日消滅してもらわなければ困るのだ。だがもし、このことを話したら歴史が変わってしまうかもしれない。「朝倉は……転校する。……両親の都合でカナダに転校するんだ」「そんなわけないでしょう。両親なんかいないもの」 そんなバレバレの嘘が通用するはずもなかった。「いや、俺にもわからないんだ。いきなり長門にこの時間に飛ばされただけで……」「正直に話したほうがいいわ。嘘をついても全部わかるんだからね」「ぐ、ま、待て……」 見えない手のような物で首が締め付けられ、体が宙に浮く。教室の机がみんな槍のような物に変わって、こちらに矛先を向けて朝倉の合図を待っている。 やっぱり言うしかないのか? これでいいのか? それとももうすぐここに長門が助けにくるのか? 過去の時代の出来事なのに答えがまるでわからない。俺にとっては現在進行形だからだ。しかし、おそらくここで殺されるのは正しい答えじゃないだろう。それにもしこの時代の長門がここで俺を助けに来るとまた歴史が変わってしまう。朝倉も長門も無事に生きてこの時代の俺を巡って闘ってもらわなければ困るのだ。「わかった! わかったから! 全部話す! 本当のことを話すから!」 仕方なく、俺は手短かにではあるが、このあとの朝倉の運命を話した。この後俺を殺そうとすること、しかしそれは長門の登場によって妨げられるということ。そして敗れた朝倉は消滅すること。「わたしがこれからあなたを殺そうとしても、結局失敗するのね。それでわたしは消されちゃうってわけ」「ああ、俺のいた世界ではそうだった。これからの時間ではどう変わるかは知らないが」 俺はとうとう話してしまった。これで本当にどうなるのかはわからなくなった。それとも俺と対峙したときもこのことを知った上での行動だったのか? 俺には既定事項とかのルールがよくわからん。「そっか、やっぱりわたし死んじゃうんだ」 朝倉はあっけらかんと言い切ると遠くを見て少しだけ目を細めた。どことなく寂しげな、そして諦観を含んだ優しい表情をしていた。 ふと周りを見渡すと、いつの間にか教室は元の空間に戻っていた。「俺を殺さないのか?」「だって、この時間のあなたじゃなければ意味が無いじゃない。あなた、わたしをただの殺人鬼だと思っていない? 涼宮さんの情報爆発が起きなければ意味がないわ。それにわたしがあなたを殺せないのはどうやら既定事項みたいだしね。あーあ、未来なんてやっぱり知るもんじゃないわ」 そういえばいつかの長門も同じ結論に達していたな。それで未来との同期をしなくなったんだっけ。「実は今日で自分が消えることは、ずっと前からわかってたの。だって今日より未来の自分に同期しようとしても、いつの時代にもわたしが存在しないことになっていたから。それを防ぐにはどうしたらいいのかわからなかった。だからあなたを殺して涼宮さんの情報爆発を起こせば状況は変化するんじゃないかって思っていたの。彼女の能力は未来へも干渉する力があるからね。でもどうやらそれは失敗するみたいね」「朝倉、実はそのあと続きがあってな。もう一度お前はその後復活するんだ。そうだ、そうだった。今思い出したぞ。俺はあの後もう一度お前に会うんだ」 俺はここでようやく自分がここに飛ばされた理由がわかったような気がした。「……そんなはずはないわ。このあとの時代にはわたしと同期できる存在はないはずよ」「いや、あるんだ。それは長門の作った世界でなんだが、これから7ヵ月後、暴走した長門がハルヒの力を使って世界を改変する。お前はそのときの改変の際にもう一度出てくるんだ。けどその世界はまたすぐに修正されるし、そのときのお前は普通の人間になってるから今の時空からは観測できないだけだ。俺にはお前達なんとかインターフェイスっていう存在の概念が、よくわからないんだが、とにかく一度消えたはずのお前がまた復活してるんだ。だからお前ならできるはずだ。消えちまった長門をまた呼び戻すことだって」 そう言って俺はズボンのポケットから栞を取り出した。「これがさっき……といっても時系列的には今から一年半後になるが、長門からもらった文字だ。この時代に来るようにと書いてあるらしい。他に何をすべきか読めるか?」「このコードは……」 朝倉は俺の手から栞を受け取ると、しげしげとその文字を指でなぞりながら、しばらくの間、何度も目を上下させて文字を読み取っていた。「そっか……情報統合思念体は自律進化の可能性を見出せなかったのね。結局これからも涼宮ハルヒの能力は解析できずにその能力を見失ってしまった……か。だからわたしは無理にでも変革を進めるべきだって主張し続けていたのに。こうなることは目に見えていたのよ。彼女だって人間だから寿命があるんだし、能力がいつなくなってもおかしくはないはずだったのよ。おそらくこうなったらいくらこちらから仕掛けても彼女の能力は変化しないわ」 朝倉は栞を俺につっ返し、説明を続けた。「その時代の長門さんは暴走を起こした後で情報制御システムに特定のロックがかけられているのね。それでコードの強制解除方法がわからなくなってる。それは時代をいくら遡行しても二度と作用しないように特殊なプロテクトがかけられているわ。なるほど、だからわたしなのね」「はぁ? よくわからんのだが……。お前ならその強制解除方法がわかるっていうのか?」 朝倉は首を振って答えた。「どっちにしても直接その時代の長門さんを呼び出すことは不可能よ。情報連結の解除されたものを再生するには情報統合思念体の協力がないと出来ないもの。バックアップデータが保存されているのは統合思念体の中だけだから。この栞には特別な力はないわ。未来の状況が書かれているだけ。わたしにどうしろとまでは書かれていないわ。あとは長門さんがやったみたいに涼宮ハルヒの能力を使うか……。でもわたしはその時代に行くことも干渉することも出来ないし、長門さんもいない。それに情報統合思念体を消す必要があるから無理ね。わたしはそんなことできないし、したくないわ。できるとしたらそうね……。方法はいくつかあるけど……言葉ではうまく説明できないわ。一番わかりやすい方法は……。そうね、ちょっと待っててね。今すぐ作るから」 朝倉は自分の机に掛けてあった鞄からノートを取り出すと、ためらいもなくその中の一ページを持っていたナイフで綺麗に引き裂いた。「下手でうまく伝わらなかったらごめんね。ふふ、緊張するわ。わたしの書くコード一つで未来の運命が変わるなんてね」 といってペンを走らせると、目に見えぬ速さでノートの切れ端に不思議な模様を描きはじめた。それはまるで昔ハルヒがSOS団のサイトのトップページの絵を描いたときのような、酔っ払ってくだを巻いたサナダムシにしか見えないおかしな模様だった。 だがもしかするとこれには それこそハルヒのときみたいに何百ペタバイトの情報が詰め込まれているのかもしれない。 俺はものごとは見た目で判断してはいけないことを、今までの経験で認識していた。 ものの十数秒でサナダムシ絵を完成させた朝倉は、自分の作品を手で掲げて、その出来に満足したのか二回首肯し、その紙を大事そうに四つに折って俺に手渡した。「うん、これ持っていって」「ああ、すまんな」「ううん、いいの。それよりわたし嬉しいの。だってわたしがこうして初めて長門さんの役に立てたんだもの。バックアップとしての役割がきちんと果たせたから。わたしが生まれてきた意味がちゃんとあったもの」 自分の存在の意義。朝倉もきっと悩んでいたのだ。 そうだろう、今日が自分の寿命だと知ったら誰だって気がおかしくなるに違いない。それまでに少しでも自分の存在意義を計ろうとするのは、宇宙人に作られた情報端末のような存在だって考えることなのだ。「これで心置きなく消えられるわ。ありがとう」 まさか朝倉に礼を言われるとは思わなかった。礼を言うのはこっちだと思うのに。 消えるかどうかはわからないんだぜ? 朝比奈さんの理論では未来は固定化されていない。長門がどういう攻撃をしかけてくるのかも聞かなくていいのだろうか。それにもしこの後、朝倉が俺のことを襲わなかったとしたらかなり歴史は変わってしまう可能性がある。「あなたの肩に情報統合思念体の自律進化の可能性が掛かっている。頑張って」 朝倉、お前の書いたこの絵文字とこの後の行動にもきっと未来が掛かっている。初めて、俺と朝倉の利害が一致した瞬間だった。「朝倉、それと頼みがある」「なに?」「俺を襲うときは、その……少し手加減してやってくれないか。いきなり訳も言わずに襲うのは無しで」 朝倉はくすりと口角を上げたがそれには答えなかった。「もうすぐこの時間のあなたがここに来るわ。早く帰らないと、ね?」「そうしたいんだが朝比奈さんがこんな状態ではな……」「ふみゅ……あ、あれ? わたし、何を……えっと確か朝倉さんがいて……、ひ……ひ、ひぃぃ、キョ、キョンくん、た、たすけててて」 絶妙のタイミングでようやく目を覚ました朝比奈さんを抱き起こし、肩をゆすって目線を合わせた。「もう終わりました。大丈夫です。朝倉はもう何もしません。元の時間へ移動してください」「ふぇ? お、終わった? 終わったって何がですか? どうなってるんですか?わたし、何もしてませんけど……」「大丈夫です。後で詳しく話しますから、とりあえず今は早く元の時間へ」 朝比奈さんが仲間はずれにされた子供のような悲しい顔をして、溜息をついた。「はぁ……わかりました。じゃあ、行きます。しっかりつかまっててくださいね」 俺は最後に朝倉の方に軽く会釈してから目を閉じた。朝倉は教室の窓の外を見たまま、こちらへは振り向かなかった。 最後に見えた朝倉の姿は後姿だった。 それからまたいつもの眩暈がして───。
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