──第4章──

 元の時代に戻ってきた俺は、さっそく長門の住んでいたマンションを訪ねた。
 しかし、長門はいなかった。708号室は空室になったままだ。管理人さんに話を聞いて
も、以前と状況は変わっていなかった。

 あれだけ苦労して時間移動までして、結局のところ何も変わってはいない。期待していた
だけにガッカリだった。
 朝倉の作ったこの絵文字はこのままじゃ意味がないのか?
 そう、俺は朝倉に大事なことを聞きそびれていたことに気がついた。この絵文字をいった
いどうやってつかうのかだ。どうしろというのだ?
 壁にでも掲げとけとでもいうのか? それともハルヒに見せるのか? あぶり出し?

 しばらく俺はノートの切れ端に描かれた絵文字をじっと眺めていた。何度見ても見事なサ
ナダムシだ。ハルヒの作ったサナダムシと違ってSOSの文字は無いが、どっちが幼稚園児
の作品かと問われてもわからないほど、実力が均衡している。
 よくみると七夕のとき、といっても今から5年前の七夕のときだが、ハルヒに手伝わされ
て、校庭に描かされたあの絵文字とどことなく雰囲気が似ているのだ。
 全く形は違うが、模様がほぼ曲線のみで作られている点と、一筆書きで描くことができる
という点が一致している。

 まさかハルヒがやったみたいにこれを校庭に描けというんじゃないだろうな。あんなこと
をしてなんになるというのだ?
 しかし、あれこれ俺の足りない脳みそで考えても一向にいい案など浮かびやしなかった。
 ……やっぱりそう考えるのが妥当なところか。
 やってみるしかない。これに賭けてみるしかないのだ。今のところは。
 校庭にこの絵文字を描いてみよう。それが駄目ならまた考えよう。


「もちろん協力させていただきますよ」
 さっそく古泉にこの話をしてみたところ、自ら手伝いを名乗り出てくれた。もちろん手伝
わないなんて言ったら、殴ってでも手伝わせるつもりだったが。
「『機関』にも協力を要請してみます。全面的には協力できないと思いますが、いくらか力
にはなってくれるでしょう。石灰やラインカーは僕たちのほうで夜までに用意しておきます。
あなたは今のうちに休んでいてください。夜9時に校庭に集合しましょう」
 俺は遠慮なく古泉の好意に甘えることにした。家に帰り、少しの間仮眠をとった。
 ここまでは俺が頑張ったんだからそれくらいはいいよな。

 そして夜、誰もいなくなった学校の校庭に来てみると、意外なことに古泉の他に、新川さ
ん、森さん、多丸氏兄弟も来ていて、なかなか賑やかなメンバーが揃った。
「ささやかながらわたし達もお手伝いさせていただきます」
 新川さんが一同を代表して深々とおじぎをした。
 長門、お前のためにこんなにたくさんの人が無償で集まってくれたんだぞ。感謝の言葉く
らい後で言っとけよ? 俺は夜空に向かって心の中で唱えてから、一世一代のイタズラに取
り掛かった。
 まず手元でペンライトをかざしながら、ああでもないこうでもないと、言い合いながら校
庭に絵文字を書き記す向きを決めた。そして目安になる位置に赤い三角コーンを置いて、だ
いたいの大きさを定める。

 遠目から新川さんが全体の指揮を取る。俺と古泉、多丸兄弟の2グループに分かれて線を
引き、ラインカーの石灰がなくなったらすぐさま次のラインカーを森さんから受け取り、そ
の間にまた森さんは石灰を補充しに行った。
 この単純作業の繰り返しで30分足らずで絵文字は完成した。思ったよりも早かった。
「これでおしまいですかね?」
 古泉が物足りなそうに尋ねてくる。
 一通り見て回ったが、だいたいあっている。初めてにしてはよく出来ている。俺はこうい
うのは二回目だが。
「ああ、これで終わりだ。で、何か変化を感じるか?」
「ふむ……」
 新川さんが顎に手を当てて考え込むような仕草をした。
「何も感じませんな。涼宮さんの精神状態にも変化はなしのようです」
「僕も同じです」
 ハルヒには変化なし……か。あとは長門がここに来るのかどうかだが……。
 そこまでは『機関』の人たちにもわからないだろう。

「俺は……もうしばらくここで待ってみます。もしかしたら少し時間が掛かるのかもしれま
せんから。皆さんはもう結構です。今日はわざわざどうもありがとうございました」
「僕も残りますよ。同じSOS団ですから」
 そういって古泉が話し相手として残ってくれた。
 正直なところ、一人でいるのは寂しすぎると感じていたので古泉の存在はとてもありがた
かった。

「今日はすまないな……」
「いえいえ、当然のことですよ。あなたさえ嫌でなければこの程度のことは、いつでも協力
させていただきます」
 そういいながら古泉がどこからか買ってきた缶コーヒーを手渡してくれた。寒空の下、カ
チカチに冷えた手が一気に温まる。
「正直、あなたがうらやましいですよ。今回もいろいろと時間移動されたりしたそうですね。
いつも事件の当事者はあなたです。たまには僕が主人公になってもよさそうなんですが」
 なんなら変わってやりたいよ。俺は前からお前のポジションに憧れてんだぞ。第三者視点
だったらどんだけ楽だったことか。
「一度くらい僕も連れてってくれるように、朝比奈さんにお願いしてもらえませんかね」
「やってみればわかるが、決して気持ちのいいものではないことを断言しておく。それに時
間移動した先でやらされることはいつも命がけなことばかりだった」
「それでも行ってみたいです」
「お前は過去に朝比奈さんを呼び捨てにしたから駄目だ」
「それを言うならあなただって涼宮さんをいつも呼び捨てです。僕らの『機関』の人間にと
ってはそれがどれだけ無礼なことか」
「知るかよ!」
 こいつとこんな冗談を飛ばせる日が来るとはな。夜の校庭で若い男が二人で談笑してい

る。こんな光景を知らない人が見たらなんて思うだろうかね。
「ところでこの魔法陣、どうなるんでしょうか。中学時代の涼宮さんのときはどうだったん
ですか? 急に魔法陣が薄く光りだしたりとかしなかったんですか?」
「まさか。何にも起こらなかったよ。そのときはな」
 俺は校庭に自分達で描いた絵文字を改めて眺めてみる。
 暗くてよく見えないが、広い校庭の全体にうっすらと白い線で大きな絵が描かれているの
が見える。
『魔法陣』か。そういやハルヒはそういう想いでアレを作っていたんだっけ。俺は単なる絵
文字だと思っていたが、これは長門という宇宙人を呼び出すための、魔法陣なのかもしれな
い。
 結局宇宙人も、未来人も、超能力者も、ハルヒの元に集まったし、あの時間に俺が二回も
呼び出されたんだから、ハルヒの魔法陣の召喚能力はすさまじい効果だったな。

 そうやってずっと古泉と長話を続けていたが、とうとう空が白みがかってきた。
「もういいよ、古泉。今日はどうやら無理みたいだ。絵が微妙に間違ってるのかもしれない。
もう少し様子を見る意味でも、明日また書き直してみるよ」
「一日分といわず何日分でも協力させてもらいますよ」
「いや、いいよ。お前は自分のことをしててくれ。『機関』でやらなきゃいけないこともあ
るんだろ。俺は明日からいろんなパターンを試してみたい。自分一人で描いたらまた変わる
かもしれないから、石灰だけ用意してくれればいいよ」
「そうですか……。ではこの魔法陣の事で騒ぎが起きるでしょうが、できるだけあなたに足
がつかないように根回ししておきます」
 今日はやけに古泉が頼もしく身近に感じた。こいつに貸しを作るのは余りしたくないのだ
が、今回は世話になっておくしかない。

 次の日、学校は校庭の落書き事件のことで持ちきりになった。
 当然のように真っ先に生徒の間で疑われたのはハルヒであった。
「何よ! みんなあたしにばっかり訊いてきて! なんであたしが真っ先に容疑者にならな
きゃいけないわけ? あたしが聞きたいわよ! 誰がこんなことやったのかしら! 腹立つ
わぁー……、犯人見つけたら取っちめてやるんだから!」
 ハルヒには中学時代に前科があるので仕方ないといえば仕方ないものの、当事者の俺とし
ては、申し訳ない気分でいっぱいだった。
 どうか、犯人を捕まえて取っちめるのだけは勘弁してほしい。
「それにしてもあの魔法陣、あたしの描いたのになんとなく似てるわね……。形は全然違う
んだけど雰囲気が似てるわ。知り合いの犯行かしら……」
 ええ、そりゃあもう。身近にいますよ。
「谷口が怪しいわね! ちょっと問い詰めてくるわ!」
 それにしてもお前から見てもあれは魔法陣に見えるのか。俺はそんなつもりはなかったん
だがな……。

 古泉の根回しが効いたのか、俺もハルヒも学校側からの事情聴取もなく、その日は無事に
一日を終えることが出来た。

 その夜、俺が一人で学校に行くと、今度は校門の前に意外な人影があった。
「キョンくん、わたしにも手伝わせてください」
「あ、朝比奈さん!?」
 もこもこした白いコートを着た朝比奈さんは、まるで地上に降り立った天使だった。
「でも……受験勉強はいいんですか?」
「はい、キョンくんが頑張っているのに、わたしが何もしないなんて出来ません。それに今
回、過去に行ったのにわたし何にもお手伝いできなかったですから……」
「そんなことないですよ。過去に行けたのも朝比奈さんのおかげですから」
「いいえ、わたしはそれでもお手伝いしたいんです。させてください。ね?」
 まさに天使だ、この人は。受験勉強で自分が忙しいはずなのに、手伝わせてくれと頭を下
げる人間は普通はいない。
 残り少なくなった朝比奈さんとの時間をこうして過ごせるのなら悪くないかな、そう思っ
た俺は少しだけという条件で朝比奈さんの力を借りることにした。
 ……だが、天界の天使に地上の工作をさせるのは無茶があったようだ。
「はりゃりゃ~ん、線が曲がっちゃいましたぁ……ごめんなさいぃ~」
「あー……隣の線とくっついちゃってますね」
「ごめんなさい……、わたしこういうの苦手で……」
 たしかあなたは書道部に在籍してたはずなんですが……。なぜこんなことができないんで
しょうか。
「えーっと、じゃあ、石灰の交換お願いできますか?」
「あ、は~い。それなら~……」
 言った直後に後悔した。
 ガシャン!
「ふみゃ!」
 ボフン!
 あたりに大量の白い粉が舞った。これまたド派手にこぼしてくれた。
 どうやったらこけただけでこんな風に石灰をこぼせるのか、朝比奈さんは頭のてっぺんか
ら靴の先までまっ白になってしまった。
 動く雪だるま状態だ。少し怖い。
「うぅぅ……、ぺっぺっ……。気持ち悪ぃー……。ご、ごめんなさい。余計足手まといに
なっちゃって……」
「いいですよ、気にしないでください。気持ちだけでも本当に嬉しかったから。」
「明日こそ頑張りますから、許してください!」
 明日も!? それはさすがに遠慮した。
 その日は結局魔法陣を完成させることなく終わった。やれやれ……。


 次の夜。
 今日こそは1人で完成させなくては。
 俺は今日の放課後までに書かれた校庭の白い線を、足で消していった。そして、全ての線
をきれいに消し去り、その上に俺が新たな線を書き込もうとして、ラインカーを持ち上げた
とき、後ろから大声で俺の名前が叫ばれた。
「何やってるのよ! キョン!」
 突然の大声にギョッとして振り向くと、今度は暗闇の中にダウンジャケットを着た女が、
右手に懐中電灯を持って腕組をした状態で立っていた。
「げっ、ハルヒ……」
 やっぱり見つかっちまったか……。
 ハルヒがこんな不思議なことやってる奴を見逃すはずがないんだからな。今日も校庭の魔
法陣を見てものすごい興奮していたし、二日連続でこんなことがあったら今日も来ると予想
するのも当然といえば当然だ。
「昨日も今日もうちの学校の校庭に、意味のわからない変な絵を描く不届きなヤツがいたか
ら、あたしが懲らしめてやろうと思ったのに、なんであんたがここにいるのよ」
 不届きならお前もそうだろ。夜の校庭に不法侵入してる時点でお前も同罪だ。
「で、あんたはここで何をしてるわけ? まさか魔法陣で宇宙人でも召喚しようっていうん
じゃないでしょうね」
 そのものズバリだ。さすがは経験者。
 魔法陣を使って長門という宇宙人を召喚するんだからな。無茶な話だと思うが、俺にはも
うこの方法しかないんだよ。
「お前が昔、校庭にこんなふうに魔法陣を描いてたって谷口から聞いてな。俺も似たような
ことで願掛けしてみようかと思ったんだ。ま、単なる思い付きだな」
「ふん、無駄よ、無駄。あたしのときだって宇宙人とかに信号送ってみたんだけど、宇宙人
やら超能力者やらは結局こなかったんだし。そもそもこういう物はどっかの人間が何の根拠
もなく適当に考えた物なんだから、効果があるわけないの。いつまでも幼稚なことしてんじ
ゃないわよ」
 いいや、お前の魔法陣は完璧だったぞ。『わたしはここにいる』だっけ? 長門にはきち
んと意味が通じていたし、実際そのおかげかどうかは知らないが、宇宙人だけでなく未来人
や超能力者までお前に会いに来たわけだし、そのうえたくさんの人が『お前がそこにいる』
ってことを気にかけているんだぞ?
 出来ることならお前に習いたいくらいだ。その宇宙人が召喚できる魔法陣とやらをな。
「お前らしくないな」
「な、なによ」
 俺はハルヒを無視して白線を引き始めた。ハルヒが少し小走りで俺の後に続く。
「前のハルヒはそんな現実を知った大人のようなことを言わなかったぞ。やっても無駄?
なんでやる前からそんなことがわかるんだ。それにもう宇宙人や超能力者や未来人の存在は
諦めたのか?」
 俺たちSOS団は不思議な存在の集まりだ。俺を除いてな。
 いまだにハルヒだけがそのことに気づいていない。自分がその中心にいるにも関わらずに、
だ。
 かんじんなことは目に見えない。『星の王子さま』のワンフレーズだ。ここでの意味は少
し異なるが。

「じゃあ、あんたはこの絵文字に何を込めていたわけ? まさかあんたも宇宙人や超能力者
を呼ぶためにこんなことしだしたっていうの? 今までのあんたなら逆に、そんなバカなこ
とするなって言いそうなもんだけど」
 ハルヒが口を得意のアヒルにして俺をにらみつけた。
「長門が帰ってくるように、って願掛けしてたんだよ」
「だって有希は家庭の事情でしょ? しょうがないじゃない。有希が悪いわけじゃないんだ
し……」
「しょうがないで諦められるか。みんなに最後の挨拶もせずに突然いなくなったんだぞ?
お前はなんとも思わなかったのか? きっと長門の本意なんかじゃないはずだ。あいつだっ
てきっとSOS団に居続けたいって心のどこかで思っていたはずだ」
「でも、もう外国に行っちゃったみたいだし、日本にはいないみたいよ?」
「無理なことだから諦めるのか。そうじゃないだろ」
「何よ! 有希のことばっかり! 有希の事がそんなに好きなの? だったら無理矢理でも
引き止めておけばよかったじゃない!」
「ああ、好きだ」
 そうだ、好きじゃなかったらここまでするもんか。
「長門のことは好きだ」
 ハルヒが足を止めた。
「嘘……」
 悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか、やっぱり悲しいのだろうか。ハルヒ俺の発し
た言葉が信じられないかのような顔をして、大きな瞳に溜まった大粒の涙が今にも顔からこ
ぼれそうになっていた。
「でもそれは、友達としてだ。朝比奈さんや、古泉に対して抱く気持ちと同じなんだ。かけ
がえのない友達ってのはいるんだ。わかるか? 本当の友達っていうのはそういうもんなん
だ。それこそ命を張ってもいいくらい、長門は大事な友達だと俺は思うんだよ」
「そんなこと……わたしだってそうよ。有希は大事な友達だもん。でもキョンは……!」
「俺は長門に特別な恋愛感情はないよ」
 本当か?
 俺はそう自分に言い聞かせているだけなんじゃないのか?
 心の中では確信が持てない。
「同じようにハルヒがいなくなったら、俺はもっと盛大な魔法陣を描いてやる。こんなもん
じゃないぜ。街中全体を使ったイルミネーションでお前を探し求める。お前はもっと特別な
存在だからな」

 どこの国の口説き文句だ。こんな意味のわからないことで自分の気持ちを伝えることにな
るとは思わなかった。しかも俺にしては珍しく、全く照れも見せずにさらりと口から流れる
ようにセリフが出てきた。
 それでもハルヒには効果があったようだ。
 ハルヒの涙が違う種類の物に変わったのがわかる。
 二人の間に流れる沈黙、そして不思議な空気。
 俺はハルヒの前に立ち、ゆっくりと顔を近づけた。ハルヒはそれを拒否しない。二人の距
離が徐々に詰まる。
「……ま、待って」
 互いの顔が20センチくらいまで迫ったところで、ハルヒが俺の胸を両手でぐいっと押し
返した。
「やっぱり夢だったとかなったら嫌だからいいわ」
「きっと……あの時のは夢じゃないよ」
 え? とハルヒが口にする前にその唇を俺の唇が塞いだ。
 唇の温度が徐々に高まっていき、ハルヒの心臓の高鳴りが聞こえてくるようだった。
 ハルヒの顔がどうなっているかはわからない。俺だってどんな顔してるのか、わかったも
のではない。
 あのときのが夢でなかったら、もう二年ぶりになるのだろうか。
 前とは違い、そこで夢から目覚めることなく、二人の時間だけが俺たちの周りをゆっくり
と流れていった。

 それなのに……。
 弱ったな。
 こんなときにも長門の寂しそうな顔が頭に浮かんでくるなんて……。俺がさっき自分で言
ったことを疑いたくなる。
 長門がただの友達だなんて……。長門がこんなことを聞いたらどんな暴走をするかわかっ
たものではない。
 今だけはいなくてよかったと実感する。


 それから俺はハルヒに魔法陣を描くのを手伝ってもらうことにした。
「こっちはわたしが描くわ」
「ああ」
 ハルヒは俺の指示も聞かずに、ラインカーを縦横無尽に気の赴くままに走らせた。
「ねえ」
「なんだ」
「前にこういうのやったことない? 5年くらい前に……」
 思わずドキッとして線が曲がってしまう。相変わらず勘の鋭い女だ。
「い、いや……別に。なんで?」
「ん、なんとなくね……。少し昔を思い出しただけ。そんなわけないわよね……」
 ハルヒにとっては5年前になるあの七夕の白線引きも、俺には約一年前の出来事だ。

 こうして長門を呼ぶための魔法陣がまた完成した。
 ハルヒの参加によって俺のメモとはだいぶ違う絵になったが、むしろそれは悪くない。ハ
ルヒ作の魔法陣の方が効果が高いのは実証済みだ。

 しばらくハルヒと校庭の隅で話しながら待ってみたものの、特別な変化など現れることは
なく……結局、長門はその日も現れることはなかった。


「実は昨夜、久々に閉鎖空間が発生しました。それもこれまでにないほど超巨大なものでし
た」
 次の日、学校で会った古泉は意外なことを口にした。
 半年以上発生していなかったあの閉鎖空間がまた発生しただって?
 もう二度とそういうことはないと判断した情報統合思念体の考えは、間違っていたという
ことか?
「神人も新種の強固な物へとパワーアップしていて、とても苦戦をしいられました。全てを
退治するのに朝方までかかりましたよ」
「……俺、昨日は特にハルヒが不機嫌になるようなことをしていなかったはずだが。いや、
最初はそうだったかもしれないが、その後は機嫌をよくしたはずだと……」
「じゃあ、昨日あのとき、あなたはいったい何をしてたのですか?」
 俺は思わず沈黙してしまった。まさか校庭に魔法陣を描いた後にキスしてたなどとは言え
ないだろう。
 クスッと古泉はいやらしく笑みをこぼすと、またいつものニヤケスマイルを見せた。
「冗談です。わかってますよ。あなたは悪くはありません。昨日の涼宮さんは今までにない
ほど機嫌がよかったようですからね。おそらく今度は不機嫌なときではなく、機嫌が良過ぎ
るときに閉鎖空間を発生させるようになったみたいです。もしかしたら、世界をあなたと二
人だけの物へと変えてしまおうという願望からなのでしょうか。それとも、今が幸せの頂点
ではないかという不安でしょうか。真意は測りかねますが、これはかなり手ごわいです。『
機関』では新閉鎖空間と名づけ、対策を練り直しているところです。これからは単純な機嫌
取りばかりしてはいけなくなりましたからね」
 機嫌がよすぎるときたか……。
 そんなにもハルヒが嬉しがってると聞いて、俺はなんだか胸のうちに毛虫が入り込んだよ
うな、ムズ痒い気持ちにさせられた。
 何もそこまで気持ちを爆発させることはないだろうに。
 どこまでも感情の赴くままにハルヒの心は自由だということか。


 その夜も俺は校庭で白線を引いていた。
 ハルヒに変化が出てきたということはこれは無意味ではなかったということか。俺は一気
にやる気になっていた。
 今度はハルヒに秘密ではなく、ちゃんと告げてある。これからはあたしに隠し事はしない
事! ときつくハルヒに言い聞かせられたからだ。
 きっと魔法陣を描くのは反対されると思ったが、意外にもハルヒは
「ちゃんと暖かい格好しなさいよ。風邪でも引いたら死刑だからね!」
 と、俺のことを心配して、マフラーをくれた。
 ハルヒはきっと俺のことを信頼してくれているのだ。俺もその信頼に答えないといけない。
これは決して長門が異性として好きだからというわけではなく、純粋に1人の友人として、
または恩人として、同じSOS団のメンバーとして、長門に帰ってきて欲しいという俺の願
いなのだと。
 俺は何度も自分に言い聞かせていた。
 そう言い聞かせながらも俺は自分がわからなくなってきていた。なぜ、こんなにも長門の
ために一生懸命になれるのか。
 朝倉の脅威から何度も俺を救ってくれたから? 野球大会でホームランを打たせてくれた
から? どんなときも俺の味方になってくれていたから? ハルヒの暴走を影でフォローし
ていてくれたら?
 いつのときだって、長門がいるとそれだけで安心していたのは、長門が万能宇宙人だった
から?
 そんなことのために俺はここまでするのか? そんなことが長門の存在価値なのか?
 俺は長門のことをどう思っているんだ?
 長門は長門であって長門でしかない。そんなトートロジーで……、うん? どこかで聞い
たようなセリフだな。どちらにしても俺にとって長門はただの同じ部活の部員ではない。も
ちろん宇宙人でも、時空改変者でも、ましてや無口な飾り物でもない。
 白線を引きながら俺は何度も自分に問いかけた。決して一人では答えが出ることは無いと
知りながらも。

 一人で引くとやっぱり結構時間が掛かる。しかも途中で雪が降り始めた。それもかなりの
大粒の雪が、ボタボタと容赦なく俺の体の上に降り積もってきた。体が極限まで冷え込み、
足がガクガクと震えだした。寒くて手が縮こまり作業がなかなか進まない。
 昨日の倍の時間を使って、まだ半分にも達していない。もうやめてしまおうかとも思った
が、せっかくここまで描いたのだ。完成させてから帰りたい。
 明日はどうせこの雪で絵文字は描けないから、今日だけは終わらせておきたい。
 しかし白線がどんどん雪にまぎれて見えなくなってきた。俺は必死になって校庭を駆け回
った。もう自分でもどこまで描けたかわからなくなってきた。
 どのくらい終わったのかを確認しようと、全体を見渡すと校庭は一面綺麗な白に覆われて、
白線と銀世界の境界線がなくなり、ところどころ俺の作った足跡だけがなんとか俺の作った
作品の輪郭をなぞっていた。だがそれももうすぐ雪に埋まりそうだ。
「くそっ、賽の河原かよ!」
 容赦の無い見えない鬼達が俺の積み上げた石を平気で壊していく。今度は雪かきもしろっ
てのかよ。
 スコップか何か、雪をかく物がないか俺は辺りを見回した。そんなものを古泉が用意して
くれていればいいのだが。

 そのときだった。
 校門の脇に小さな人影が動くのが見えた。
 ヤバイ、誰かに見つかったか? 俺はとっさに近くの花壇に身を伏せた。もしこんなとこ
ろを学校関係者に見られたら言い訳のしようが無い。
 今のところ古泉達『機関』のおかげで俺のせいではないことになっているこの作業も、現
場を取り押さえられたらごまかしようがない。
 しかし、その影がどこかみたような歩き方をしている。ゆっくりと、そしてまっすぐ確実
にこちらへ一歩ずつ歩くその姿は、どこかで見たことのある均整のとれた動きだった。
 雪の反射光に照らされたその顔を見たとき、俺は長かった戦争が終わったことをラジオで
聞いた兵士のように、飛び上がってその影に向かって全力で駆け寄った。

 薄暗い明かりの中に浮かび上がるショートカット。制服にカーディガン姿のその少女は間
違いなく、あの無口な文芸部員、長門有希その人であった。

「長門──!!」
 駆け寄り一番、思わず両手でその小さな体を抱きしめた。
 長門の体が一瞬宙に浮く。
 両手に伝わる暖かさ。ほのかに香る甘いシャンプーの香り。
 ああ、確かに長門だ。ここにいる。あの長門有希が確かにここにいる。

「すまなかった」
「何言ってるんだ、長門。上の事情で勝手に消されたのはお前じゃないか。お前が謝ること
は何もないぞ。お前は一切悪くないんだからな。それよりまず帰ってきた挨拶、だろ?」
「……ただいま」
「おかえり」
 長門の小さな声を聞きながら、俺は長門をずっと強く抱きしめていた。あんまり強く抱き
しめると壊れてしまいそうなほど弱弱しく、長門は俺のなすがままに体を預けていた。

「もう大丈夫なのか? また消されたりするとかは……?」
「問題ない。情報統合思念体はこれからも、わたしによる直接の接触を持ったまま涼宮ハル
ヒの観測を続けることにした。もし、次に同じようなことがあっても能力が再発する可能性
を考慮すると言っていた。それとわたしにかけられていた情報解析制御も解除された。また
文字が読めるようになった」
「そうか、よかった。よかったなぁ……」
 俺は嬉しくて思わず長門の頭をグリグリと撫でた。長門の頭がなすがままに左右に振られ
た。こういう仕草が見れるのがとても嬉しい。思わずずっとこのまま撫でていたくなる。
「手が冷たくなっている」
 ふと、長門が俺の手を握って微かに心配そうな目で俺の顔を覗きこんだ。俺の視界は涙の
せいで輪郭がゆがみすぎて、長門がどんな顔をしているのかわからないほどだった。
「濡れてる……こっちは暖かい」
 長門は俺の顔に指を伸ばして不思議そうにその雫に触れた。
 俺が涙を拭ったその瞬間、不意に長門の顔がすっと近づき、俺の唇と重なった。
 俺は余りのことに一瞬頭の中がまっ白になった。長門の暖かくて柔らかい唇がじんわりと
俺の心を溶かしていく。気持ちいい。
 え? ちょっと待て。なんで今俺は長門にキスされてるんだ?

「……ぷはっ、ちょ、ちょっと待ってくれ」
 俺は慌てて長門から離れる。
「なぜ? あなたは昨日、ここで涼宮ハルヒに同じ事をしていた」
 ………。
 ……。
 長門さん?
 まさか……見てましたか……?
「あなたは昨日、わたしに対して特別な恋愛感情はないと言った。果たしてその言葉が本当
かどうかテストさせてもらった」
 見てやがった。
 まさかとは思うけど、昨日の閉鎖空間はお前が作ったとかじゃないよな?
 それとそのテストの結果がどうだったのか教えてくれないか?
「い、いやこんなことまずいだろ……ハルヒがなんて言うか。昨日の今日だし……」
「大丈夫」
 いや、全然大丈夫じゃないだろ。
「今この空間は情報封鎖した。例え誰がここに来ても見つからない」
 そっちかい!
 ハルヒ、許せ。ごめんなさい。
「わたしがここに来たことと直接的には関係ないが、この絵文字には隠された意味がある」
「隠された意味?」
 改めて朝倉からもらった紙切れをポケットから取り出して見つめる。
「そこにはこう書いてある『俺は長門のことが好きだ』」
「……う、嘘だろ?」
「本当」
 朝倉はいったい何を考えているのだ? それがどういう風に繋がってここに長門を呼び出
すきっかけに繋がったのかわからない。たしかにこれは言葉ではうまく説明できないな。
 こんなものをでかでかと校庭に描いてハルヒの前で見せ付けていたんだから今考えると恐
ろしい。意味が伝わらない文字でよかった。
「だからまださっきのキスは終わっていない。続きを」
「これ以上は駄目だ!」
 と退けた。
 これ以上すると今度は俺の理性が持たなくなる。
 ……そんな残念そうな顔をしてみせてもだめだ。
 もうお前の不可解な行動のせいで俺の気持ちはぐちゃぐちゃだ。再会できたら話そうと思
っていたことも何もかも吹っ飛んでしまった。
 そんな長門に少し困らされながらも、俺は長門の頭をずっと撫でていた。またいなくなら
ないように、ずっと長門に触れていたかったのだ。

 帰り際、俺は鞄から絵本を取り出して長門に渡した。
「これは?」
「ああ、これ……クリスマス用に買ったんだ。もうずいぶん遅くなっちまったな……。それ
にもう絵本とか必要ないか?」
 長門が珍しく首を大きく振って答えた。
「ありがとう」
『スノーマン』……この絵本は絵だけで構成されている。文字のない絵本だった。もし、俺
がいなくなっても一人で読めるようにとこの本を選んだ。だがもうその心配はないようだ。
 あのとき渡しそびれた絵本をこうしてようやく渡すことが出来た。
「今度一緒に読もうな」
「……ありがとう」
 長門がもう一度俺に向かってお礼をいった。
 この絵本に対するお礼か、それとも助けてもらったことへのお礼だろうか。
 暗くて表情の細かいところまでは見えなかったが、長門の顔がほんの少し微笑んだような
気がした。



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