長門有希の忘却 プロローグ
暑い。蒸し暑い。 去年もこんな感じだったが、終わらない夏休みやら何やら、ハルヒのゴタゴタ騒動のおかげで多少は暑さから目がそれていたような気がする。 そんなことを考えながら、俺はいつものように部室の扉を開くのだ。 俺が部室に入ると、既に他の団員は集まっていた。 朝比奈さんと長門はともかく、残り二人がすでにいるってのはちと珍しいな。 ハルヒはネットに夢中のようだ。 ……って、古泉、なにお前は朝比奈さんとオセロに興じてるんだ! 俺と変われ!「あなたが来るのが遅かったもので、待ちきれず彼女ともう始めてしまいました」 ハルヒもこういうときこそメイド家業を放棄しているメイドになんとか言ってやって欲しいね。お前のクリックの動作からして意味のないカウンタ回しをしているのは明らかだぜ。 「あの……変わりましょうか?」「あ、いいですよいいですよ! お気になさらず」 ふう…… いつも座っている席を今日ばかりはメイドさんに奪われていた俺は、横にあったパイプイスを一つ組んでテーブルの中央、ハルヒの向かいに腰掛けた。 そう、ここで俺はいつもの部室にはない重大な相違点に感づいてしまったのである。 長門…… そう、長門が眼鏡をかけているのだ。 あのとき以来、『あの騒動』を除いては拝めなくなっていたその顔である。 もっとも、ハルヒと朝比奈さんは余り気にもかけていないようだが……俺にとってはちと気にかかる。古泉は知らん。 何故眼鏡かけてるんだ? なんてことをここで面と向かっていうのもためらわれるので、 俺は視線をはずしてオセロの盤に目を向けた。 あぁ……古泉も朝比奈さんも弱いな……そこはそうするんじゃなくて……いや…… すると不意打ちのように「有希、今日眼鏡かけてるわよね。コンタクト無くしちゃったの?」「……」 長門が視線をハルヒに向けた。しかし、その表情には――俺しか分からなそうだが――少しクエスチョンマーク的要素が見え隠れしているような……「まあ前からあたしはそっちのほうが全然かわいいと思ってたからいいんだけどね! 有希は眼鏡似合うから!」 その意見には正直同意しかねるぞ、と思ったのもつかの間、長門の顔には長門にはありえない表情の変化がでていた。 長門の顔にちょっと朱が差し込んでいるような……照れてる、のか? 対有機生命体なんとかかんとかインターフェイスの長門が『照れ』? 俺は一瞬目を疑った。 そうそれは、『あのとき』に、別の長門が俺に見せた表情と酷似していた。っていうか同じじゃないか。 やはり今日の長門はおかしいぞ。またなんかのエラーだっていうのか? その表情を観察していたのは俺だけでは無かったようだ。 俺は古泉の一瞬の動作を見逃さなかった。 突然、「ああ、僕今日はバイトの時間でした。勝負も途中になって本当に申し訳ありませんが、この続きはまた今度。」 続き? んなもんは俺が断固阻止。……なんてことも頭によぎらず、部室を早々に出て行った美少年部員の後を追って俺も部室を出ようとした。 あいつは、絶対に何か知ってる。「ちょっと! キョン! どこ行く気よ!」「トイレだ! トイレ!」 ハルヒのかん高い声を振り切って部室を出た俺は、すぐに廊下を闊歩していた古泉に追いつき、 肩口を叩いてこちらに目を向かせ、問いただした。「お前……今日はなんのバイトなんだよ。」「あぁ、閉鎖空か」 俺は即遮った。「そんなわけないだろ。ハルヒはいつものように傲慢だが、特別不機嫌な感じでは無かったぞ!」「……」「お前が長門にちらりと目を向けたのを俺は見た。お前、今日の長門のこと、なんか知ってるんじゃないか?」「なんのことでし……」 とまで言いかけると、俺のかなりマジな形相に気づいたのか、古泉は口を閉じ、「そうです。僕が部室から出たのはそのため。長門さんの突然の変化を機関のお偉いさん方へ報告しなければならないのですよ。」 俺は黙って聞く。「SOS団の団員に何か重大な変化があるようなら、僕はそれを逐一報告しなければならないことになって。」「ちょっと待て、お前は長門の『変化』のことをどこまで知っているんだ?」「……今日の長門さんの変化の訳や影響は僕にも存じかねます。恐らくあなたと同じ程度の認識と思いますよ。」「それは眼鏡と、いつもの長門には見られない感情的な……」「そうです。それ以上のことは分かりません。僕も驚いていますよ。……何より……」「何より?」「今の長門さんには今までのような超人的な……いやそもそも「ヒト」ではありませんが、そういう能力が無くなっているように感じるのです。」「……」 どういうことだ?「まるで普通の、女子高生のような……というより、体の組成が根本的に変化して普通の人間にといいますか。」 なんてこった。それじゃあ、さっきの長門はまるっきり『あのとき』の長門と同じじゃないか。 あの長門が、今度は現実の世界の長門と入れ替わっているのか? でもどういうことだ? 今日の長門はSOS団のいつもの風景を別段変に思っているフシは無かった。 今日の長門の記憶はどうなっているんだ?「あのとき?」 まずい。口が滑ったか。「いいや、何でもないんだ。」「……そうですか。じゃあ僕はさっき申しましたことを実行しなければならないので。命令に逆らって機関のお偉い方の怒りを買うわけにはいきませんし。」「ああ。」「では。」 そう言うと古泉は珍しい早足で階段を下りていった。 部室に戻ると俺はすぐにカミナリ様の天誅を食らった「ずーーいぶん長いトイレね!」「あぁ、それは」「全くもう! アンタがいなくて女の子三人じゃ会話にアクセントが無くなるの!」 なんだそりゃ。さっきまでお前は会話も何もマウスをいじり倒してただけじゃねぇか。 ポン。 と、長門が本を閉じる音。いつものSOS団終了の合図である。「あ、もうこんな時間? じゃ、あたしは帰るから! 戸締まりはあんたが懲罰でよろしくね!」 そう言うとハルヒは真っ先に部室を出て行った。朝比奈さんも。 逆に都合がいい。俺は今日はいろいろあいつとはなしたいことが って! 長門も彗星のように部室から消えていた。 帰るの速すぎだろ……話は明日に持ち越しか。 前編へ
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