第三幕

岩倉右大臣家の奧庭に面したる茶室がかりの離れ家《や》。茅葺きの二室ばかりの瀟洒《せうしゃ》たる家にて、落葉の中に懸樋《かけひ》の水音幽かなる築山のほとりにある。母屋《おもや》との通ひは廊下にてつゞき、苔さびたる鉢前《はちまへ》の石などあり、小柴垣にてしきる。
一室は四疊半ばかりの小座敷にて、床の間あり、一行ものの細き勦をかけ、冬椿一輪をさす。次の間六疉の部屋には『涵養亭』と彫りたる埋木《うもれぎ》の掛額《かけがく》をかけ、瓦燈口《ぐわとうぐち》の横に、古雅なる狩野風の繪屏風を置く。三方は廻り縁にて、奧庭に向ってゐる。

大久保利通紫緞子の厚き座蒲團に、顏を埋めて、六疊の間と四疊半の間に倒れゐる。その姿勢より見れば、聲は立てねど、身を伏せてすゝり泣きでもしてゐるやうにも見える。枕もとには白銀《しろがね》づくりの脇差を置き、また手紙など書きかけたるさまにて、科紙、硯箱などを、その砂に取り散らかしてある。縁側には大久保の脱ぎ捨てたる藤巴《ふぢどもゑ》の紋付羽織が投げ出されてゐる、そのかたちより云へば、彼が癇癪《かんしゃく》のあまり、力をきはめて縁側に叩きつけたもののやうにも見える。
桐野利秋は、謹嚴をもって聞ゆる大久保の、いつになく興奮せる態度を見て呆れゐるさまにて、遠く離れて縁側の柱のそばに、四角に膝を揃へて畏《かしこま》ってゐる。
遠き客間のオルゴール時計の音《ね》、緩やかに、フランス國歌マルセーユの曲を奏す。

やゝありて大久保は『あゝ』と低きうめき聲を洩らして、さも苦しげに寢返りする。兩手を後頭部の下に組んで、凝ツと天井《てんじゃう》を睨らめて、何やら思案に耽ける。
奥庭一面の虫の聲の中に、龍《たつ》の口《くち》に奔謄する水音、折々際立ちて瀑布の音のやうに聞え来る。
桐野 (瓦燈口の方に、桐野を呼ぶ侍女の聲をきゝつけたる心持にて立つ)え、何んか——何ですか?(と襖を明け) あ、菓子か、給仕はおいどんがします。それに置いてツてたもし。
侍女一 (銀盆に載せし伊萬里燒《いまりやき》の大鉢に、カステーラを山と盛りしものを渡しながら) あの、奥方さまよりの仰せにございますが……
桐野 は、は、奥方さまから。何んとごわすかーー?
侍女一 あの、今日は別にお酒の御用意など——
桐野 酒? そら可《い》きもはん。止《よ》しときませう。(菓子鉢を大久保の前に運びながら)今日は酒など絶對にいきもはん、止しときませう〳〵。今日は酒など出して、とんだことごわす。
侍女の二、何やら云ひながら、茶臺にのせし茶を捧げ出す。
桐野 あ、お茶、よろし。わしが給仕する。よか〳〵。どうか今日は、一向お構ひ下さらんやう、奥方さまへ申し上げてたもし。
侍女等、去る。
桐野 (無恰好なる手つきにて、大久保の枕もとに茶菓を選び)大久保|様《さア》。さア、お茶ぢゃ。
利通 (うめく如く)えゝ、うるさいな。構はんとおけ、
桐野 (前場の桐野とはまるで別人の如き穩かなる態度にて)大久保さア、さう短氣|云《ゆ》ちゃ——どもならん、おいどんな、もう何事《ないごて》も云はんちうとる。もうそれでよからうが。
利通 考へ事をしてるのだ。邪魔をせんでくれ。
桐野 だからおいどんな、おとなしう此處に控へとる、
利通 ちょツ(舌打ち。やゝ輕蔑の語調)いつもの通り、匕首《あひくち》でも出して振りまはさんか。
桐野 (笑って)おいどんとて、それほどの氣狂ひぢゃごわはん。匕首を振りまはして好《よ》か時と、振りまはさんで好か時と、その時の見分けぐらゐは、知っとり申《も》す。はゝはゝゝ。
利通 ちょッ! (舌打ちするのみ)
桐野 お前《まん》さアは、いツこくで、わしの云ふことをよう聞いてくれんから困るが……朝鮮國の國防は、さまで怖るゝものぢゃごわはん。お前《まん》さアも一通りは、北村重兵術や別府晋介の報告書をお讀みだらうが、俺《おい》もまた、あい等二人の観察だけでは滿足ならんで、別に軍事密偵を三四方に巡遣《じゆんけん》して、彼れらの軍備及び國内事情は、充分に研究し盡してをりもす。(二本指を出して見せて)これだけあれば澤山ぢゃ、二大隊の鎭臺兵《ちんだいへい》があれば、俺や一擧にして、朝鮮京城まで、まツしぐらに攻め入って見せもす。
利通 うゝむ……。(うるささうに寢返へる)
桐野 また木戸公なんか、ひどくロシアの陸軍力を怖れて居られるが、これとて決して怖るゝに足りもはん。ロシアは懸軍《けんぐん》千里、これを攻めるには遉く、境域《きゃうゐき》もまた廣しなどと怖れちょる文官どももあるが、なアにお前《まん》さア、こっちから攻めるのに遠いほどなら、あっちからこっちを攻めて來るのにも遠い筈だ。なア大久保さア、さうぢゃらう。一里行けば一里の忠義、二里行けば二里の忠義になるとぢゃ。取るところあって、失ふところのない戰爭といふのはこれなのぢゃ。なア大久保さア。俺《おい》に十大隊、八千の兵隊を貸して下され。わしゃな、一里に一人の人柱《ひとばしら》をたてても、浦鹽《ウラヂポ》からロシアの首府モスコビヤまで、見事押し寄せて見せもす。お前《まん》さア長州の文官どもなどに、クリミヤ戰爭の話などきいて、驚いてはなりもはんぞ。兵《へい》家の語に、目には恐れても、耳には恐れなちうとりもす。
利通 誰も、戰さの話をきいてゐない。わしゃ今、西郷のことを考へてゐるんだ。 (また寢返へりする)
桐野 西郷先生——?
利通 彼と俺とは、遂に相戰ふべき宿命が來てゐるのかも知れない。(間を置いて、嘆息)あ、……、貴公らには何故《なぜ》、これほど判り切ったことが、判らんのぢゃらうなア……。
桐野 そらこツちで云ふこツちゃなかか。あんた達には何故これほど判り切った面白い戰爭が、恐ろしうてならんのぢゃらう。
利通 もうよい、去んでくれ。
桐野 いや、そりゃいかん。大久保さア、お前《まん》さアもう一つ考へ直してみて……
利通 えゝ、煩《うる》さい!
此の時、瓦燈口の襖を開きて、西郷隆盛ノッソリ入り來る。
隆盛 市藏どん、此處にゐなさるか。
利通 おゝ、西郷どんか。(思はす半身を起し、肘《ひぢ》にて身を支へて、凝ツと西郷を見詰める)
隆盛 東京は寒いなう。朝晩めツきり寒うなった。
利通 (穩和なる語調に復りて)それでもお前《まん》さア、ちと痩せたかなう。
隆盛 うゝむ。扛秤《ちぎり》の上ぢゃ二貫目ほど違うとるさうぢゃが、自分の身としては、やツぱい同じ事《こつ》ぢゃ。
利通 (笑って)すゐぶん酷か目に逢うとるとなう。
隆盛 はゝはゝゝ藥も藥ぢゃが、三度々々お飯《めし》を制限されるには閉口しとる。朝はの、鳩麥《はとむぎ》とか云ふやつのお粥《かゆ》をたった二杯ぢゃ。
利通 わは、はゝゝ。
隆盛 そいでゐて醫者は、運動せい〳〵云うて、馬に乘ったり、相撲とったり、一日中そこらを駈け廻らにゃならん。晩になると、身體中へと〳〵ぢゃ。
利通 わはゝはゝゝ。そら酷《ひど》か折檻ぢゃなう。まア横になって、ゆっくりさんせ。ほら敷かんせ。(枕もとの座布團を一枚とって投げる)
隆盛 (横になりながら) ついでにもう一枚。腹が冷えちゃないもはん。
利通 ほおら。(また一枚投げて)うむ、さう〳〵、忘れとった。此の間は駒場野《こまばの》の信吾どん屋敷から獲物の兎をわざ〳〵ありがたう。
隆盛 ありゃ些と、まだ早かったやうぢゃ。血臭《ちくさ》うて困ったらう。おゝ、あん時は、おうつりに貰うた西洋|林檎《りんご》、あいにはびツくらし申した。(兩手の指にて輪をつくりながら)大きいのは、これほどもあったらうかなう。
利通 はゝはゝゝ。あら、おいどん自慢の唐林檎《たうりんご》ぢゃ。三年前に、こッそり札幌《さっぽろ》開拓所のケプロン博士に頼んで、北海道で秘密に試作さしたのぢゃ。どや、どや、相當驚いたでござんそ。(大久保には産業殖琵の話になると、小見の如く得意になって自慢する癖がある)
隆盛 おゝ、あの林檎にはスツカリたまげてしまった。
利通 苗で取り寄せては、せツかちのおはん逹が待ちきれんち思うての、黒田どんにも内證《ないしょ》で、面倒して生木《せいぼく》のまゝで、亜米利加《アメリカ》カナダ州から取り寄せて試植してみたのだ。日本の土でも西洋の木が立派に育つといふところを、おはん逹頑固黨に見せたかったのだ。おいどんな、おはん逹に反對されるか知らんが、何が何でも、西洋の眞似は出來るだけ眞似てみるがよかと思ふ。今の時代は何よりも先づ、西洋の眞似をやってみる時ぢゃと思ふ.
隆盛 (澁々と)そらまア……、さうぢゃらうなア。
利通 西洋には博覽會ちふもんのあって、農夫も工人《こうじん》も商人も、みな銘々得意の産業製品を持ち寄って、お互ひにその品物の巧拙上下《かうせつじゃうげ》を批評し合うとる。おいどんな、今度の内務省建設が端緒についたら、早速この博覽會ちふもんを、上野公園あたりで開いてみたいと思うとる。
隆盛 (何か考へつゝ)そいもまア……よかことござんそ。
利通 われ〳〵封建思想に養はれた日本人の心では、博覧會に出して褒められる人はよかろが、褒められない人はつまるまい。わざ〳〵自分の拙劣《せつれつ》を博覽會にまで出して、世間に廣告しちょる如《ごつ》もんだが、西洋人は然うは考へとらんやうぢゃ。自分の出品はどこが悪しく、彼の出品はどこが勝れてゐるかちふ點を、根氣よく研究する習癖がある。此の批評精帥が文明進歩の第一だ。産業、工業ばかりぢゃなか。政治にもまた、批評精神が必要だ。固執《こしつ》はいかんぞ。獨斷はいかんぞ。なア、西郷どん。
隆盛 (幾分か相手の談話の目的を察しつゝ)さうだ、固執はいかん、獨斷はいかん,
利通 (しばらくして、もう一度いふ)さう、固執はいかん、獨斷はいかん。なア西郷どん。はゝはゝは。
隆盛 いかん〳〵、固執はいかんなア。はゝはゝゝ。
利通と隆盛、思はず視線を合せて、どツと大聲に笑ひ合せしが、その笑聲の後に、云ふべからざる一種の苦味殘りて、兩人淋しさうに口を閉ぢる。
此の時、侍女某、また西郷のために茶など運び來る。桐野、立ってそれを受けとり、恭しく西郷の前にすゝめることなどあり。
利通 (やゝ間を置き、仰両けの姿勢のまゝ、卒然として)云って見りゃ、なア西郷どん、今度の朝鮮問題なども、やッぱい然うぢゃが…
隆盛 (ギロリと眼を走らせ)何、朝鮮問題ー? (しばらく利通を睨らみしが、その答へなきを見て、まぎらすやうに)桐野どん、おはんも此方《こっち》へ來て横になんなされ。借りられた猫の如《ごつ》、恰好《かっかう》がつかん。
桐野 はア……。
隆盛 何うしなさった。今日は大層遠慮深かうごわすな。
桐野 は。(云ひにくさうに、モヂ〳〵しながら)先生、實はいま大久保どんから叱られたことでごわすが……、今日三條公が自邸に於て卒倒されたといふは、やツぱい本《ほん》のことごわすか。
隆盛 はア、わしも今なア……、岩倉さんから聞いた。
桐野 先生。虚病《きょびゃう》ごわせう。三條さんは今更ら軍配をどちらへも上げかねて、虚病をつかって、この場を逃れようとなさるんでごわせう。
隆盛 三條公は、嘘をつける人ぢゃごわはん。卒倒して、譫言《うはごと》を云ひなさるまでにゃ……、よくよく御苦勞をなさったもんと思ひもす。
桐野 然し、わしは、先刻|正院《せいゐん》の廊下でお目にかゝって——
隆盛 大久保どん、煙管《きせる》貸して下され。あまり急いで、煙草入れを忘れて來もした。
大久保、無言、袂落《たもとおと》しの煙草入を西郷の前に投げ出す。
桐野 さうでごわんそかな、おいどんな確かに虚病と思うたゆゑ……、さうかなア。
隆盛 (腹這ひになって、煙管の雁首にて煙草盆を引き寄せながら)どうしてな、おはん又何か、三條さんの屋敷で何か仕出來《しでか》したのぢゃごわはんか。(少し起き上って、煙草の火をつける)
桐野 いや、虚病だ。虚病でごわす。たしかに虚病だ。
隆盛 (坐り直して)虚病なら、お上《かみ》に於かれても、わざ〳〵この夜中《よなか》、三條邸への行幸はごわんすまい。
桐野 えー、(思はす叫ぶ)天皇陛下には、三條さんの御用屋敷に、今夜行幸遊ばされたとごわすか。
隆盛 はい。誠に……恐れ入ったことでごわす。
桐野 先生、ちょツと行って來もす。(狼狽して立ち)ちょツと一走り行って來もす。先生も、大久保|樣《さア》も、どうか何處へも行かず、此處に待ってゐてたもし。直ぐ歸りもす。直ぐ帰りもす。
桐野、周章せるさまにて出で去る。
西郷、強ひて心を沈着けんとして、煙管に火をうつさんとして、ふとその一點の火先を見詰めるうちに、本能的にこみあげる憤怒に、われにもあらす煙管もつ手ワナ〳〵と顫へて、思はず力まかせに、パン〳〵と煙管を吐月峯《はひふき》に叩く。
利通 (反射的にむっくり起きて) 何だ! (一喝、蒼白なる顏色にて、屹ッと西郷を睨む)
隆盛 えゝ、煙管が塞《つま》ツとる! (怒聲鋭く、大久保の前に、叩きつけるやうに煙管を投げる)
利通 西郷!
隆盛 何《ない》か!
兩人、肩で呼吸《いき》しながら、互ひに凝ツと睨らみ合ひしが、大久保は先づ冷静に返りて、一種冷笑の如きものを洩らして、又ゴロリと横になり、兩手を後頭部の下に組み、兩足をグツと踏みはりて、天井を睨みゐる。
西郷もまた、ゴロリと横になる。
薄き月の光、地におちて、龍の口に溢るゝ落ち水の音、急に雨ふるやうに耳に立つ。
利通 (長き間の後、不圖思ひ出したるやうに、靜かに)吉之助どん。
隆盛 あゝん?
利通 時候はまるで違ふが……、あの龍の目のお堀にあふるゝ水の音を聽き、この中空《なかそら》にたゆたふ此の薄月《うすづき》の光を眺めると……、俺や妙に……、文久二年の四、月,宇治の萬碧樓《ばんべきろう》からおはんを無理に連れ出して、兵庫の濱の、あの黒い松原の濱邊で、おはんと抱き合って泣いた……あの晩のさまが眼に見える。
隆盛 さう云や、あれも、こんな静かな、晩ぢゃったかな……。
利通 おはんは京都に諸國の勤王浪人を集めて、一擧に倒幕の義戰を起さうとする。藩知事久光公は又、あくまで公武合體論を捨てず、西郷の暴擧は徒らに天下を亂すものだ、西郷を縛れ、最後の決心を以て吉之助を處分して來いと、心の底から御立腹で、何とも致し方がない……そいでも俺や、あの松原へおはんを誘ひ出す時までは、たとひ俺の落度になっても、おはんの生命《いのち》だけは助けんにゃならん。薩摩の寳玉だ、西郷を殺してはならん。たとへわが一命に換へても、おはんだけは、いづくの果《はて》なと隱れ蹲《かゞ》んで、やがては來る勤王の御代を、おはんの眼に、たゞ一目でも見せたいと思うた。たとへ君命でも、おはんを殺してなるものかと思うた。が——松原の松の根にかゞんで、お互ひに言葉なく……ゆるやかな波の音を聞きながら、おはんのその牛の首のやうに太い頸筋《くびすち》からかけて肩のあたりに、落ちて流れる月の光を凝ツと眺めてゐるうち、おれは不圖、こりゃいかん、こいつは可かんと思うた。
隆盛 うゝむ。あん時おはんはいきなり俺の首を抱いて、西郷、一緒に死んでくれ云《ち》うた……。
利通 (強ひて感情を抑へて、靜かなる声、一種の微笑すら帶びて)實に……實に恐ろしい經驗だった。おいどんの一生を通じて、あげん恐ろしか一瞬間を經驗した記憶は、ほかにない。今なら云ふが、やツぱいあの時も、こいつ俺が殺さんで、こいつを誰が殺すだらうと、心の底から憎かったのだ。
隆盛 然う云や、筑前の平野《ひらの》次郎がなア、始終口癖に云ひよった、大事に際して、不可んと云うたら、本當にいかんのは大久保どん一人ぢゃ、大久保だきゃ、とても俺らの手にいけさうがない。西郷どん、そん時アあんただぜ、あんただぜ、と笑ひをった。
利通 それぢゃ……(思はす笑ひを起して)お互ひの間は、憎むための親友だったのか。
隆盛 まアの、或は、お互ひに、親し過ぎたために憎むのか、そこは何とも云はれんよ。はゝはゝは。然しいろ〳〵考へると、お互ひに手をとり合って三十何年來の奔走苦勞、安政以來今日まで……長い〳〵經歴でごわしたなア……。
利通 長いと云へば、一所に手を携へて王事に奔走した舊友親友等は、いつの間にか……みな死んだ。あの元氣者の平野次郎は、六角《ろくかく》の牢屋で、この明治の新政府を見すに……斬られて死んだ。
隆盛 うむ、長州の久坂《くさか》義助どんなア……入江九一《いりえくいいち》どん、あれもこの御代を見すに死んだ。
利通 有村も死んだ……。橋口も死んだ……。
隆盛 田中|河内守《かはちのかみ》も喃……。吉村寅太郎も喃。
利通 (嘆息)ほんに、今日のこの日を待つ間の三十年……、考へりゃ長かった喃。
隆盛 (間をおいて)う㌻む、長かったなア……。
兩人、また無言に陷る。月光次第に明るし。
やゝ暫くして、何か急に思ひ出したるやうに、西郷はムックリ起き上りて、それに坐る。
隆盛 大久保どん、ちょツと起きてもらはうか。
利通 何んで——?
隆盛 何んでちふこともなかが……、ちょツと起きてたもし。
利通 まア好《よ》か。この儘で話さんせ。
隆盛 (膝前のはだかるのを掻き合せつゝ)利通どん。おはんはよく、日本の古い歴史を讀んでゐなさるなア。
利通 (突然の言葉に、ぷッと吹き出し)何をお云ひやツど。はゝはゝゝ。
隆盛 (案外真顏にて)あんたは日本歴史の古いところを讀んで、いつも厭やアな氣のするところはごわはんか。國史の汚鮎を見るやうで、心が重う苦しうなる個條《かでう》はごわはんか。
利通 さアー? が、おはんには、そげんものごわすか。
隆盛 はア、ごわす。
利通 ふむ……。(西郷を見る)
隆盛 わしゃなア、いつも六國史《りっこくし》を神代のくだりから讀んで來て、ある個條に來ると、思はず書物を土に投げつけたうなる條《くだり》があります。
利通 ほう、それは——?
隆盛 奈良朝以後の歴史でごわす。わが國の、滿洲大陸|抛棄《はうき》の個條でごわす。
利通 滿洲大陸——?
隆盛 遼束、滿洲、蒙古——この大陸を、われ〳〵祖先の日本人が、これを抛《なげう》って顧みぬに至った個條を讀むと、身體が自然に顫へて來て、どうにも耐らんほど厭やな氣がしてなり申はん。
利通 …………。(片肱を枕にして、熱心に西郷を見る)
隆盛 六國史の教へるところによれば、日本朝鮮兩國は、もと純然たる一國でごわした。遼東滿洲の大陸は、我等の御先組樣が親しく往來して、鐡材を求め、牛馬の輸入をうけた、大事な交換國でごわした。こっちにないものは彼地《あっち》に求め、彼地に無きものは此地《こっち》より送り、朝鮮と日本とは兩地相扶けて、東洋の一獨立國をなしてゐた事は、今更らおはんのやうな學者に云うまでもない事《こ》ツてごわせう、その後、情勢が幾度《いくたび》か變遷して、兩國は分立の形をとりましたが、然も國民は相往來して、綏急相援けてゐたのでごわす。
利通 西郷どん。學者の議論を眞似《まね》るんぢゃなかが、違うとるよ、違うとる。
隆盛 違うとるとは、そりゃ——?.
利通 歴史が違うとるのぢゃなか、おはんには、西洋現在の政治組織といふものがわからんのぢゃないかと思ふ。
隆盛 はア——?
利通 過去の歴史はどうでもよいのだ。現在通用の國際公法とは、現在あるがまゝの情勢を維持して、しかもその所有する権利を守り、持てる者はその持てるものを失ふまいとするが通則なのである。現在強國と云はれ、文明國と稱せらるゝ泰西の諸先進國は、歴史に遡《さかのぼ》って過去の眞實を再現しようなぞとは考へてもゐないのだ.
隆盛 ぢゃが——
利通 まア聞かんせ。(起き上って)そら歴史上より見れば、日韓兩國は大昔一國であったに相違なか。日本と同國であるべき三韓が叛亂を企て、本國に反抗したればこそ、神功皇后の三韓御親征となったのぢゃらう。
隆盛 そいぢゃ聞いてもらはんにゃならん、(座を進めて)その時の御條約をもって、朝鮮の國はわが國に隷屬《れいそく》して、朝貢聘問《てうこうへいもん》の禮をとり、その後三百年の間、今の言葉で云うたら——、朝鮮はわが國の植民地でごわした、然うぢゃらう、然うでごわせうが。こりゃ歴史のわれ〳〵に示すところで、昭々乎《せう〳〵こ》として明らかなことでごわす。然るに奈良朝以降、我國の上層政治家は隋唐《ずゐたう》の文明に眩惑《げんわく》されて、支那人の文化を讃美する結果——
利通 西郷《せいご》どん、今それ云うても何にもならん。今の時は世界の現勢に應じて——
隆盛 まア聞かんせ、歴史が降《くだ》り、文化が進むほど、人間はたゞ支那文化の壓倒に負けて、國力萎縮し、兵氣|沮喪《そさう》して、自ら交端《かうたん》を避けるために、遂に殖民地の韓國を捨て、物資資源の大陸を抛棄し、わが日本國は、絶海の一孤島として、纔《わづ》かに自己の命脈を保つ、悲しい状態になり申した。わしゃ、日本歴史を讀んで、これらの個條に至る毎に、いつも、正直、潜然《さんぜん》として涙が下《くだ》ります。
大久保、さすがに西郷の眞摯の氣に打たれて、濛かに起き上り、傾聽の態度となる。
隆盛 日本の學者だちのうちには、太閤さんの朝鮮征伐を見て、無名《むめい》の師《し》ぢゃの、無謀の軍ぢゃのちうて嘲ける人もあります。また室町《むろまち》時代に、朝鮮邊海を侵した倭寇《わこう》の八幡船《ばはんせん》を、盜賊、不義の海賊のやうに攻撃する人もあるさうでごわす。が——おいどんな、さう思はん。三千年の日本歴史を讀む者は、誰しも朝鮮に對し大陸に對して、一種いふべからざる不快の觀念が無意識の間に起されてゐると思ふ。我等は、新しき獨立國の朝鮮を侵略する意味でなく、過去に於て我が國の植民地であった朝鮮を囘復する意味に於て、征韓の二字は、何人《なんぴと》の頭にも拂ひ去る事の出來ぬ烙印《やきいん》となって、殘ってゐると思、諏。利通どん、こりゃわし一人の頑迷なる、獨斷でごわせうか、舊弊《きうへい》なる固執《こしつ》でごわせうか喃《なう》。笑はれるならやめもす。
利通 (意外に熱心なる態度にて)あとを云はんせ、何うしたー?
隆盛 朝鮮は橋でごわす。我が日本國——大和《やまと》島根は、大陸につゞく一國であることを證明する、朝鮮國はその大事な橋でごわす。わしが先づ、明治新政の第一歩として、朝鮮問題を解決しようとするのは、我國歴史千年の宿題を解決し、同時に大陸問題にもその手を染めようとするのでごわす。利通どん、將來の問題は、此の大陸にごわすぞ。また此の大陸の問題を處置すべき使命を帶びてゐるのは、日本國民でごわすそ。朝鮮に問罪修交《もんざいしうかう》の使としてわしの行くのは、日本は決して大陸に對して無開心なるを得すとの、強烈なる意志を、世界各國に表明するためでごわす。
利通 …………。
隆盛 大久保どん。是非わしを朝鮮にやってくれ。頼む。いま此處でわしを大陸に派遣して置かぬと、日本は將來、大陸について發言の權利がなくなりもす。その時|悔《くや》んでも、間に合ひもはん。おいどんが朝鮮に行くのは、たゞ一意、わが天皇國の存在を世界各國に認めさせるにある。どうか遣っちくれ。頼む〳〵。
利通 おいどんの意見は、過日《くわじつ》木戸公と連署にて奉りたる七個條の建白書にて明らかだー、今さら何も云ふことはなか。
隆盛 そりゃ、知ツちょる。が、ありゃおはんの意見に過ぎ申《も》はん。掩《おい》の云ふのは根本《こんぽん》ぢゃ。
利通 根本——?(ジロリと西郷を見る)
隆盛 日が暮れては夜のことを思ひ、夜があけては昼のことを思はざなりもはん。日本は今、長き夜の眠りから覺めたのだ。目が覺めると同時に、今まで四海|懸絶《けんぜつ》の朿洋の一孤島とのみ思うてゐた日本が世界の日本であり、亜細亞大陸につゞく日本であることを知ったのでごわす。徳川時代の惰眠《ねむり》から覺めて、雨戸をあけてみて、初めて隣家あるを知ったのだ。なう利通どん。こゝで些《いさゝ》かの方寸を誤ると、將來の日本に取返しのつかぬ禍根《くわこん》を殘すことにない申《も》す。
利通 そいこそ、おはんの意見に過ぎない。おいどんな然うは思はん。
隆盛 大久保どん——。
利通 卑怯ぢゃ、貴公は。公明なる態度を取んなはれ!
隆盛 (さすがにムッとして)では何うあっても、わしの説に應じてくれんとか。
利通 おぬしのやうな——、先づその卑劣卑怯な態度を置いて來なされ。他《ひと》の不在中に、小股《こまた》をすくふやうな眞似はやめたがよか。
隆盛 市藏どん、(屹ッとして、思はで脇差をとる)では、こげん云《ち》うても、おはん飽くまでも不同意なのか.
利通 絶對に反對する。
隆盛 何——?
利通 反對だ!
隆盛 うゝむ……。
大久保、ドタリと寢返る。
隆盛 えゝもう頼まん! (俄破《がば》として立ち上がる)
利通 (同時に撥ね起き、瓦燈口に立ち塞がりて)西郷、おはん、何處へ行く!
隆盛 わいの知ったことぢゃなか。放せ、邪魔をするな!
利通 (牙《きば》を噛むが如き憤怒に燃えつゝ)貴さま……、貴さま……。(一歩づつ進む)
隆盛 もう……頼まん。俺《おい》は俺《おい》の、本心を貫く。
利通 貴さま——。
隆盛 何
利通 ふうむ、ふうむ……。 (憎悪に燃ゆる眼を鋭く) 偖てはーわりゃ、大不敬罪を冒すつもりだな!
隆盛 (意外の言葉に面色を變じて)何、不敬罪だー?・
利通 わりゃ今となって……、非常最後の手段として、闕下《けっか》に膝まづき、直訴《ぢきそ》する心だらう、 (隆盛の肩を掴む)
隆盛 え——。
利通 吉之助! わりゃ、それほどに血迷ったか! 大不敬の罪を犯してまで、我意我儘《がいわがまゝ》を通したいのか! (聲は次第に低く、西郷をにらみ)犯して見ろ、犯して見ろ。おれも豫《か》.ねて、その用意はしておいた。犯されるものなら、犯してみろ! .馬鹿者!
利通、渾身の力をその腕にこめて、西郷の肩を衝く、不意を打たれて西郷は、よろ〳〵よろめき、その場に倒る。
利通 かゝる場合もあるだらうと察して、俺《おい》はさきほど侍從長徳大寺さんのもとまで書面を送り、暗夜《あんや》ひそかに西郷が、陛下に拜謁ねがふやうな事があっても、三職同列の上ならでは、決してお取次ぎ下さるなと、木戸さんと兩名にて、固くお願ひして置いた、參内《さんだい》して見ろ、拜謁を願うて見ろ!
隆盛 そら怪《け》しからん。おはんこそ君側《くんそく》を擁蔽《ようへい》して、君徳を損ふちふものだ。
利通 暴に當るに、暴を以てするのだ。公明正大を以て任する大久保に、この横暴を犯させたのは何者だ!
隆盛 うゝむ……。(肩を刻んで大久保を睨む)
利通 吉之助どん.、おいどんとておはんの至純充誠、國家百年の將來を思うて、身を殺して仁を爲さうとするその精榊を知らぬではない。又——尊敬せぬではない。然し、何を云うても今はその時ではなか。眞に國威の發揚、國權の伸張とは、徒らに武力をもって世界にわが存在を認めさせることではない。内に整へ、内に養うて、民を富まし國を富まして、世界の認識を改めさせるのが第一急務だ。五年待ってくれ、三年待ってくれ。俺《おい》は先づ内務省を確立し、産業を起し、憲法制定の基礎をつくり、卑屈なる外國條約を改正して、そこに初めて立憲帝國の面日を立て、あたらしき日本國の形態《けいたい》を作り上げてみせる。西郷、殘念ながら日本の現状は、弧ひて事を起すべき時ではない、何事も忍ぶべき時だ、我慢すべき時なのだ、
隆盛 いや不可《いか》ん。それこそ反對だ、順逆を誤っとる。今の時の大事は、何よりも先づ日本帝國の存在と、その意志とを世界に發表する時ぢゃ。
利通 ぢゃから、それは三年、五年……
隆盛 いや、一日も待たれぬ。 一日も待たぬ!
利通 (唇を噛んで、暫く間をおき)西郷! おはんな心の底に恃《たの》むところあって、此の横暴を敢てするのだな。
隆盛 (ギックリ)何——?
利通 われらの海外漫遊中、わりゃ、龍顏《りうがん》に咫尺《しせき》し奉って何かお耳に御入れ申したことがあるな、いつにないおはんの強情は、確かに何か御耳にお訴へ申してゐることがあるに相違ない、あると云へ、あると云へ! (脇差を引き寄せ、西郷に詰め寄せ)あると云へ! わりゃ深く心に恃《たの》む事あって、今日の強情を貫く氣なのだ、吉之助! わりゃ、何か、陛下のお耳にお入れ申した事がある! さ、云へ、云へ!
隆盛 …………。
利通 わりゃ、御年若《おとしわか》なる天子様に、國家非常の大責任を負はせ奉る心なのか! 天子樣を善悪兩道のなかに立たせられる御方《おんかた》と見奉るのか。我國は未だ専制政治の域を脱せず、やゝもすれば正邪の批判を陛下に願ひ奉る風があるが、それで果して我等|輔弼《ほひつ》の大任が盡されてゐると思ふか、もし不幸にして、今度の征韓の使節が日韓開戰の端緒となる時は何んとする、開戰の責任は果して何人《なんびと》に歸する、戰亂の責任は誰方《どなた》に歸すると思ふ。吉《きち》、わりゃ陛下を開戦の御責任者にお立たせ申し上ぐる心か。吉! 陛下は善悪の外《そと》に立たせ給ふ現人神《あらひとかみ》でましまさねばならぬ。その御膝をゆすりまつって陛下を責任の地に導き奉ることは、それが忠義か、それが正義か! 聞かう! さア云へ、さア云へ!
隆盛 …………。
利通 海外交明諸國には、かゝる場合に處する爲に、憲法を定めて輔弼の責任を確立して、陛下はいつ如何なる場合に於ても悪をなし給はす、また過《あやま》ちをなし給はぬやうな制度が完備してゐる。吉之助、わりゃそれともに、天子様に過ちを見たいのか。天子様を善悪の中にお立たせ申したいのか。
隆盛 (嗚咽して)わしが、わしが、終生の誤りぢゃった…-・なるほど、俺が誤りであった、
利通 (幾分言辭を柔らげて)外國には、このための制度あり、政治の責任は儿て輔弼の臣下に屬し、陛下に累《るゐ》を及ぼさざる事になってゐる、我等の、内に充ちて外に溢るゝと云ふは、其處だ。
隆盛 市蔵どん、謝まった、謝まった……。(と泣く)
桐野利秋、悄然として入り來り、廊下に坐る。
桐野 西郷先生。三條公の病氣はやはり實正《ほんと》でごわした。虚病と見て罵詈《ばり》を極めたのはわしの輕率でごわした。國事の大任にあたる人は、さすがに違ふところがごわす.
隆盛 おう、利秋どんか。歸らう。おいどんな薩摩にかへらう。
桐野 え——?
隆盛 大久保どん、後《あと》のところ、宜《よろ》しう頼ん申《も》す、日本は、これからが多事ぢゃ。御苦勞ながら、あとのこと、好《よ》かやうに頼みます、桐野どん、さア行かう、薩摩にかへらう。
桐野 先生、急に何《ど》うされたのでごわす。
隆盛 わしはな、陛下の聖明を發揮するつもりで、却って聖徳《せいとく》を煩はし奉ることに氣かつかなかった。歸ります〳〵、薩摩へ歸って、また百姓でもし申《も》さう。
利通 (思はずハラ〳〵と落涙しながら)西郷どん!
隆盛 大久保どん。もう止《と》めずと置いて下され、たゞなア大久保どん、滿洲大陸は日本國の癌腫《がんしゅ》のやうなものだ。五十年三十年と、年か経《た》つほど経營に骨が折れますぞ。どうかよろしう後は頼ん申《む》す、頼ん申《も》す……。
                                   (幕)

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2018年12月17日 17:22