293.三つ子が史書に書かれたのは

  一度に三人、四人の男の子が産まれた話が史書に書かれたのは『旧唐書』にはじまる。高宗紀に、嘉州の辛道譲の妻が一度に四男を産んだとあり、高苑県の呉文威の妻の魏氏が一度に四男を産んだとある。哀帝紀に、穎州汝陰県の彭文の妻が一度に三男を産んだとある。欧陽脩『新五代史』はこれをまねて、本紀に載せている。同光二年(924)に軍将趙暉の妻が一度に三男を産んだというようなのが、これである。
  これらがめでたいしるしとして記されたのか、珍しいというだけで記されたのか。後世の人はこれを善いしるしとみなしたようだが、乱世の記録に書かれるのは不自然である。唐の高宗の後には武氏の禍があり、哀帝はまさに国を失わんとするときである。
  『宋史』では、哲宗紹聖四年(1097)に宣州の民の妻が一度に四男を産んだとあり、元符二年に河中猗氏県の民の妻が一度に四男を産んだとある。徽宗重和元年(1118)に黄巌の民の妻が一度に四男を産んだとあり、まもなく金の侵攻の禍があった。一度に三人、四人の男の子が産まれるのは、変異であり、吉祥ではないのである。


293.一産三男入史

  一産三男、四男入史,自舊唐書始。高宗紀,嘉州辛道讓妻一産四男。高苑縣吳文威妻魏氏一産四男。哀帝紀:穎州汝陰縣彭文妻一産三男。歐陽五代史仿之,亦載於本紀。如同光二年,軍將趙暉妻一產三男是也。或以爲瑞而記之,不知此乃記異耳。徐無黨註云,此因變異而書,重人事,故謹之。後世以此爲善祥,故於亂世書之,以見其不然也。今案唐高宗後即有武氏之禍。哀帝正當失國時,尚有此事。又宋哲宗紹聖四年,宣州民妻一産四男。元符二年,河中猗氏縣民妻一産四男。徽宗重和元年,黃巖民妻一産四男。未幾,即有金人之禍。可知一産三男、四男,皆是變異,非吉祥也。

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最終更新:2007年02月10日 22:59