309.五代の人は多く「彦」を名にもちいる

  彦はもとは美名であり、むかしの人は多くこれを名としたが、五代のときほど多かったことはない。
  唐末に宰相の徐彦若がおり、左拾遺の徐彦枢、供奉官の史彦瓊、宦官の支彦勲、魏博の楽彦禎、東川の顧彦朗および弟の顧彦暉、顧彦瑤がいた。
  これ多いのは後梁で、鉄槍の王彦章は、人みな知るところである。しかし同時に兵を率いた大将に謝彦章がいた。このほかに滄州の盧廷彦、同州の寇彦卿、鄜州の李彦容、静勝軍の李彦韜(本名は温昭図)、宣義軍の霍彦威がいた。また滄州の盧彦威、左龍武統軍の李彦威(すなわち朱友恭)、都指揮使の楊彦洪、蔡州刺史の王彦温、大将の李彦柔、左天武使の劉彦圭、左僕射押牙の王彦洪、楊劉の守将の安彦之、幽州騎将の高彦章、蔡州軍校の張彦珂、雷満の子の雷彦恭、雷彦雄、雷彦威がいた。
  後唐から後晋のあいだには、中書の焦彦賓、供奉官の劉彦瑤、宦官の馬彦珪、伶官の史彦瓊、右監門衛上将軍の王彦璘、兵馬都監の夏彦朗、皇城使の李彦紳、宮苑使の史彦容、遊奕将の李彦暉、龍驤指揮使の姚彦温、馬歩軍使の馬彦超、枢密の李虔徽の客の辺彦温、歩軍指揮使の薬彦稠、戸部尚書の韓彦暉(旧史は暉とし、新史は惲とする)、河中の安彦威、義成の李彦舜、安国の楊彦珣、彰義の張彦沢、昭順の姚彦章、鎮州副使の李彦珂、興元副使の符彦琳、鄚州刺史の白彦球、天平軍副使の李彦贇、河陽行軍司馬の李彦珣、霊州の将の王彦忠、東川の董璋の将の李彦釗、安重栄の将の趙彦之、杜重威の子の杜彦超がいた。
  後晋から後漢のあいだには、泰寧の慕容彦超、保大軍の張彦超、徐州の王彦超、同州の張彦贇、知安陽州の苻彦倫、丹州指揮使の高彦珣、如京使の甄彦琦、監軍の楊彦朗、何彦超、先鋒指揮使の史彦超、歩軍指揮使の宋彦筠、河東行軍司馬の張彦威、沂州刺史の房彦儒、汾州刺史の武彦弘、慶州刺史の郭彦欽、登州刺史の郭彦威、鎮州副使の李彦琦、元従都押牙の蘇彦存、後宮都押牙の李彦弼、虢州刺史の常彦卿、徐州守禦使の康彦環、西京判官の時彦澄、保寧軍都頭の劉彦章、安州軍校の武彦和、彰義の張万進の子の張彦球、同州指揮使の成殷の子の成彦璋がいた。
  後漢から後周のあいだには、符彦図、符彦超、符彦卿、符彦饒、符彦能がおり、みな符存審の子である。また尚輦奉御の金彦英(もとは高麗人)、監軍の李彦従、内客省使の李彦頵、左衛上将軍の扈彦珂、金吾衛上将軍の張彦成、水部員外郎の韓彦卿、鎮州副使の趙彦鐸がいた。これらはみな新旧五代史にみられる。
  このほかに劉守光に将の史彦璋がいた。楊行密に寿州の将の王彦威、軍使の彭彦章がいた。南唐に寿州の大将の劉彦貞、楚州の将の張彦卿、袁州刺史の袁彦章がいた。徐知訓に行酒吏の刁彦能がいた。南漢に大将の伍彦儔、指揮使の曁彦贇、宦者の許彦貞がいた。北漢に遼州刺史の傅廷彦、石州刺史の安彦進がいた。蜀に先鋒使の尚彦暉、招討使の高彦儔、副使の呂彦珂、使介の趙彦韜、客将の王彦球、袁彦超がいた。閩に学士の廖彦若がいた。楚の馬殷のもとに左相の姚彦章、大将の姚彦暉、劉彦韜がおり、朗州に帥の雷彦恭、彦雄がおり、虔州に将の李彦図がいた。さらに遼に鄚州刺史の王彦徽、寰州刺史の趙彦辛、武州刺史の王彦符、牙校の許彦欽がいた。党項にまた拓跋彦昭がおり、威州に拓跋彦昭がいた。回鶻に首領の楊彦詢がいた。南寧蛮に首長の莫彦珠がいた。これまた新旧の五代史に見られる。
  宋初にいたっても続いていた。陳橋の兵変のとき、軍校の羅彦、王彦昇というのがいた。のちに龍捷指揮使の趙彦徽、武信軍節度使の崔彦進、歩軍指揮使の靳彦朗、後晋陽巡検の穆彦璋がいた。北漢を征討したとき、防禦使の張彦進がいた。南漢を討ったとき、部将の冉彦袞がいた。蜀を討ったとき、部将の高彦容、折彦贇がいた。また杜太后の兄の子に杜彦超、杜彦珪、杜彦遵、杜彦鈞、杜彦彬がいた。太宗のときに、供奉官の陳彦詢、崇化副使の閻彦進がいた。并州を討ったときに、尚食使の石彦贇がいた。契丹を討ったときに、沙州観察使の杜彦圭がいた。これまた宋史に見られる。
  五代から宋にいたるまで集計すると、名を彦章という者が七人、彦超という者が十一人、彦威という者が七人、彦卿という者が七人、彦進という者が四人、彦温、彦韜という者がおのおの三人、競って模倣しあい、それぞれ彦を名とするのが、一時の流行となった。


309.五代人多以彦爲名

  彦本美名,故人多以之爲名,然未有如五代時之多者。唐末本有宰相徐彦若、左拾遺徐彦樞、供奉官史彦瓊、宦官支彦勳、魏博樂彦禎(凡言州鎮者,皆其節度使)、東川顧彦朗及弟彦暉、彦瑤。其著於梁者:鐵槍王彦章,人所共知也。然同時統兵大將又有謝彦章,此外則滄州盧廷彦、同州寇彦卿、鄜州李彦容、靜勝軍李彦韜(本名温昭圖)、宣義軍霍彦威。又滄州盧彦威、左龍武統軍李彦威(即朱友恭)、都指揮使楊彦洪、蔡州刺史王彦温、大將李彦柔、左天武使劉彦圭、左僕射押牙王彦洪、楊劉守將安彦之、幽州騎將高彦章、蔡州軍校張彦珂、雷滿之子彦恭、彦雄、彦威。唐、晉間有中書焦彦賓、供奉官劉彦瑤、宦官馬彦珪、伶官史彦瓊、右監門衛上將軍王彦璘、兵馬都監夏彦朗、皇城使李彦紳、宮苑使史彦容、遊奕將李彦暉、龍驤指揮使姚彦温、馬歩軍使馬彦超、樞密李虔徽之客邊彦温、歩軍指揮使藥彦稠、戸部尚書韓彦暉(薛史作暉,歐史作惲)、河中安彦威、義成李彦舜、安國楊彦珣、彰義張彦澤、昭順姚彦章、鎮州副使李彦珂、興元副使符彦琳、鄚州刺史白彦球、天平軍副使李彦贇、河陽行軍司馬李彦珣、靈州將王彦忠、西川董璋有將李彦釗、安重榮有將趙彦之、杜重威之子名彦超。晉、漢間有泰寧慕容彦超、保大軍張彦超、徐州王彦超、同州張彦贇、知安陽州苻彦倫、丹州指揮使高彦珣、如京使甄彦琦、監軍楊彦朗、何彦超、先鋒指揮使史彦超、歩軍指揮使宋彦筠、河東行軍司馬張彦威、沂州刺史房彦儒、汾州刺史武彦弘、慶州刺史郭彦欽、登州刺史郭彦威、鎮州副使李彦琦、元從都押牙蘇彦存、後宮都押牙李彦弼、虢州刺史常彦卿、徐州守禦使康彦環、西京判官時彦澄、保寧軍都頭劉彦章、安州軍校武彦和、彰義張萬進之子名彦球、同州指揮使成殷之子名彦璋。漢、周間有苻彦圖、彦超、彦卿、彦饒、彦能,皆苻存審之子。又尚輦奉御金彦英(本高麗人)、監軍李彦從、内客省使李彦頵、左衛上將軍扈彦珂、金吾衛上將軍張彦成、水部員外郎韓彦卿、鎮州副使趙彦鐸。此皆見於薛、歐二史者。此外則劉守光有將史彦璋。楊行密有壽州將王彦威、軍使彭彦章。南唐有壽州大將劉彦貞、楚州將張彦卿、袁州刺史袁彦章。徐知訓有行酒吏刁彦能。南漢有大將伍彦儔、指揮使曁彦贇、宦者許彦貞。北漢有遼州刺史傅廷彦、石州刺史安彦進。蜀有先鋒使尚彦暉、招討使高彦儔、副使呂彦珂、使介趙彦韜、客將王彦球、袁彦超。閩有學士廖彦若。楚馬殷有左相姚彦章、大將姚彦暉、劉彦韜、朗州帥雷彦恭、彦雄、虔州將李彦圖。甚而遼有鄚州刺史王彦徽、寰州刺史趙彦辛、武州刺史王彦符、牙校許彦欽。黨項亦有拓跋彦昭、威州有拓跋彦昭。回鶻有首領楊彦詢。南寧蠻有酋長莫彦珠。亦見薛、歐二史。至宋初猶然。陳橋兵變,有軍校羅彦、王彦昇。後有龍捷指揮使趙彦徽、武信軍節度使崔彦進、歩軍指揮使靳彦朗、晉陽巡檢穆彦璋。伐北漢時,有防禦使張彦進。伐南漢時,有部將冉彦袞。伐蜀時,有部將高彦容、折彦贇。又杜太后之兄子彦超、彦珪、彦遵、彦鈞、彦彬。太宗時尚有供奉官陳彦詢、崇化副使閰彦進。征并州時,有尚食使石彦贇。征契丹時,有沙州觀察使杜彦圭。此又見於宋史者。統計五代至宋時,名彦章者七人、彦超者十一人、彦威者七人、彦卿者七人、彦進者四人、彦温、彦韜者各三人,競相倣傚,各以彦爲名,亦一時風尚也。

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最終更新:2007年02月11日 00:55