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411.金の中葉以後、宰相は軍事に関与しなかった


 金の初めの創業の時には,太祖の兄弟や子,甥たちはみんな,朝堂の外に出ては兵を
率い,朝堂の中に入っては國家の事を会議したため,宰相は多く元帥を兼ねた。
 その時の樞密院は主に軍事を司ったが,命令は尚書省が担当した。(白華傳による。)
 例えば宗翰が國論勃極烈兼都元帥,太保、尚書令,領三省事となったようにである。
 汴京には初め行臺を置いたが,宗弼が領行臺尚書省、都元帥となり,詔によって諸州
郡の軍事の事は元帥府が決定し,民衆の金錢、穀物に関する訴えは尚書省が担当し,宗
弼がこれらのことを共におさめた。
 後に朝廷に入って太師,領三省事となったが、都元帥は元のままであった。軍事は皆
宰相が決定すべきだとされていたからである。
 明昌年間以後には,軍事は樞密院が主に担当していたが,尚書省は初め関与していな
かった。これはきっと蒙古(モンゴル)が勃興し,北の辺境が騒がしくなっていた時で,
それが漏れて皆に伝わるのを恐れたため,樞密院を主に担当としたのだろうが,その後
遂に樞密院が(軍事)專門の職となったものの,(やはり)宰相は皆関与しなかった。
 貞祐四年,陳規が上奏した:「宰相や大臣は,社稷を(長く)生か(すように)し墓
所に関わ(り歴代の皇帝に責任があ)る者たちです。最近、詔で軍事を專ら樞密院にま
かせていますが,尚書省はただじっとそのことによる利害を見ているだけで,おおまか
なことも問わず,それでいて責任は自分には無いとしています。伏して望みますのは,
どこで戰いどこを守るかという大きな計画は,どうぞ尚書省も樞密院も同じく会議する
ようにしてくださいますように。」
 楊雲翼もまた上奏した:「尚書は政治だけを担当していますが,今は軍事という大き
な事にも,宰相は関与しないというのは,(薬の)効き目と病気の両方を一緒に(隠そう
として)隠せないようなものです。」
 時に軍事は樞密院の者たちが,專ら勝手に行い,そしてよく敗けたということで,世
の高い見識を持つ人は宰相と將軍の權眼を分けるべきではないと言っている。(白華傳
による。)
 天興元年に,始めて樞密院を尚書省に併せ,宰相に樞密院の官を兼ねさせたが,國はす
ぐに滅んだ。(宋の制度を調べてみると,辺境の事や軍事はまた(同じく)樞密院が主に
担当している。富弼が宰相に樞密院使を兼ねさせるよう上奏し,これに從った。このこと
は富弼傳に見える。)

411.金中葉以後宰相不與兵事

  金初創業,皆兄弟子姪,出則領兵,入則議國事,爲相者多兼元帥。其時樞密院雖主兵柄,而節制仍屬尚書省。(白華傳)如宗翰爲國論勃極烈兼都元帥,拜太保、尚書令,領三省事。汴京初置行臺,宗弼領行臺尚書省、都元帥,詔諸州郡軍旅之事決於帥府,民訟錢穀尚書省治之,宗弼兼統其事。後入朝爲太師,領三省事、都元帥如故。可見兵事皆宰相參決也。及明昌以後,則兵事惟樞密院主之,而尚書省初不與聞。蓋是時蒙古勃興,北鄙騷動,惟恐漏洩傳播,故惟令樞密主之,其後遂爲樞密院之專職,而宰相皆不得預。貞祐四年,陳規疏言:「宰相大臣,社稷生靈所係。近詔軍旅之事專委樞密,而尚書省坐視利害,泛然不問,以爲責不在己也。伏望戰守大計,須省院同議。」楊雲翼亦奏:「尚書出政之地,今軍旅大事,宰相不得與聞,欲使利病兩不相蔽得乎。」時軍事院官,獨任專見,往往敗事,言者多以爲將相權不當分。(白華傳)天興元年,始併樞密院歸尚書省,以宰相兼院官,而國旋亡矣。(按宋制,邊事兵事亦樞密院專主,富弼奏請令宰相兼樞密,乃從之,見弼傳)
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