115.騶虞幡

  晋制では最も騶虞幡が重んじられた。危険がやってきたときに、命令を伝えるため、あるいは軍事行動を止めさせるために用いられた。これを見た者はひれ伏して動かないというのが、晋朝の法令であった。『晋書』によると、楚王司馬瑋は兵を率いて汝南王司馬亮および宰相楊駿を殺害しようと、夜を徹して騒ぎ闘った。明け方になって張華が恵帝に奏上し、殿中将軍に騶虞幡を持たせて「楚王瑋は詔を偽った」と人々に言わせると、司馬瑋に従う人々はみな武器を捨てて逃走し、司馬瑋はついに捕らえられた(楚王瑋伝)。淮南王司馬允が趙王司馬倫を殺害するべく挙兵すると、辰の刻から申の刻にいたっても、戦闘が終わらなかった。陳淮が戦闘を終わらせるべく人に騶虞幡を持たせて派遣すると、司馬允の兵は解散して、司馬允は殺された(淮南忠壮王允伝)。司馬倫が簒奪して帝を称すると、王輿が兵を率いて司馬倫の仲間の孫秀を殺害し、司馬倫に退位の詔を書かせて、恵帝を迎えて復位させた。詔を伝える者に騶虞幡を持たせて将士に戦闘停止を命令させると、司馬倫に従っていた文武の官たちはみな逃げ散っていった(趙王倫伝)。長沙王司馬乂がまた兵を発して斉王司馬冏を攻撃すると、司馬冏は董艾に兵を率いさせて司馬乂の軍を阻ませた。司馬冏はひそかに人を派遣して騶虞幡を盗ませ、長沙王が詔を偽っていると触れ回らせた。司馬乂もまた斉王の謀反を言い立てると、司馬冏は戦い敗れて捕らえられた(斉王冏伝)。晋の南渡後には、桓玄の変のとき、会稽王司馬道子が司馬柔之に騶虞幡を持たせて荊州と江州の二州に宣告させた(斉王柔之伝)。王敦が反乱を起こすと、甘卓は襄陽で起兵して、王敦の背後を襲おうとした。王敦は恐れて、尚書台に要求して騶虞幡を入手し、甘卓の軍を止めさせた(甘卓伝)。桓温の兵が東下すると、殷浩は騶虞幡でその軍を止めさせようとした(桓温伝)。これらはみな騶虞幡の故事である。他の王朝では騶虞幡を用いた例を見出せない。


115.騶虞幡

  晉制最重騶虞幡,毎至危險時,或用以傳旨,或用以止兵。見之者,輒慴伏而不敢動,亦一朝之令甲也。晉書,楚王瑋率兵誅汝南王亮及宰相楊駿,徹夜喧鬥。天明,張華奏惠帝,使殿中將軍持騶虞幡麾衆曰:「楚王瑋矯詔。」衆皆釋仗而走,瑋遂被擒。(瑋傳)淮南王允擁兵誅趙王倫,自辰至申,鬥不解。陳淮遣騶虞幡解鬥,允兵散,被殺。(允傳)倫既簒,王輿率兵殺其黨孫秀,使倫爲手詔,迎惠帝復位,傳詔者以騶虞幡敕將士解兵,文武官皆散走。(倫傳)長沙王乂又發兵攻齊王冏,冏遣董艾率兵拒之,潛令人盜騶虞幡,呼云長沙王矯詔,乂又稱齊王謀反,冏戰敗被擒。(冏傳)南渡後,桓玄之變,會稽王道子遣司馬柔之以騶虞幡宣告荊、江二州。(柔之傳)王敦犯闕,甘卓在襄陽起兵,將襲其後。敦懼,求臺以騶虞幡止之。(卓傳)桓温兵東下,殷浩欲以騶虞幡止其軍。(温傳)此皆騶虞幡之故事也。他朝未見有用之者。


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清談用麈尾 115.騶虞幡 建業有三城

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最終更新:2020年07月18日 17:08