柔らかな空が、行けども行けども満ちている、桜の向こうに見えていた。
それが永遠であるかのように花びらは、止むことなく降り注ぎ、春の園の空気を淡くその色彩で彩る。
時折立っている露店では、カップルが楽しそうに賑々しくしている。
それを微笑ましそうに横目で通り過ぎながら、肌色の濃い、大柄で人の良さそうな若者が歩いていた。
手の中には大事そうに抱えられた風呂敷がある。

光景には、どこか美しさだけではない、胸をはっと打つような、そんな儚さがあった。
桜色に染め上げられた空気を、陽射しは無造作に縫って大地を照らしている。
その、光の水底に、その少女は眠そうな目をして佇んでいた。

桜の海に、呆れるほど大きな猫を抱えながら佇んでいる、黒髪、小柄な日本人の少女。
幻想的な光景とは裏腹に、どこまでも凛々しい顔立ちをしている。
現実をどこまでも諦めることを知らない顔。ずっと昔に憧れた、その凛々しさは、こうして出会うたびにもまったく変わらない。

散歩に誘うと彼女はそれを肯定した。腕の中で、赤いはんてんを羽織った大猫が、やはり重々しくうなずく。

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歩き始めると、彼女はゆっくりと後ろをついてきていた。
腕の中の猫が重いのだろうか。それとも、風景を楽しんでいるのだろうか。
あるいはただ単に眠くて足取りが重いのか、親しからぬ相手と歩く時の習慣か。
気にかけることもなく、一緒に歩き続ける。

「桜、綺麗ですねぇ」

そうだな、と短い応えが返った。
端的なのは彼女の特徴だ。
花見をしながらお菓子でもつまみませんかと誘ったら、うなずかれた。
以前にはなかった反応である。

桜の木の下にハンカチを三つ敷いて、その上に座るよう、大猫と少女に勧めた。
風呂敷から出てきた手製のクッキーを見て、彼女は、器用なのだな、と評価を述べた。
猫に差し出したクッキーを、手の上でさりさりとざらついた舌が掬い取っていく感触がくすぐったかった。
少女は紅茶をすすっていた。

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穏やかな時間が流れている。
いや、流れているというよりは、止まっている。
錯覚ではなしに、季節を問わず咲き狂う桜の中では、時は確かに止まっていたのだろう。
その桜の満開に沈む春の園は、どこまでも、どこまでも、柔らかな花弁の色に染め上げられていて、時というものを感じさせない。
常春の陽気が時間の経過を感じさせることもなく、際限なく居心地の良い時間を経過させている。

日本人なら、そうそう嫌いではあるまい。
そう質問に答えた少女の気持ちが、彼にも良くわかった。
けれども彼女は不思議と眠そうな目をしている。
同じ風景をまなざしながら、考えるともなく、ただ、感じる。

「ここの桜はどうなっているんだ?いつも春なのか?」
「どうなんでしょう?春の園、というくらいですから年中春なのかもしれません」

ふと投げられた問い掛けに、なんとはなし、答える。
それはすぐに否定された。
桜の花は、積分で咲くものだ。永遠の春ではまともに咲くまい……。
ほかならぬ博識な彼女の言葉である。
けれどもそれを聞いて、悲しいな、と、何故だかそんな思いが胸を衝いた。

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大猫は、丸くなりながら二人の会話を聞いている。
思うところの、あるや、なしや。それは人にはわからない。
はらり、上に桜の花びらが乗った。
のけることも面倒なのか、積もるままに任せている。

紅茶を注いだカップから、湯気が立っていた。
桜の匂いよりはずっと強い香りがする。クッキーの香ばしい濃厚な甘みに良く合う、薫り高い清々しさが、口に運ぶたびに体の中に広がって、舌を洗った。

うららかな光景。

自分がやると、材料がもったいない。
そう、クッキー作りを断られていた。
一緒にやれば楽しいのにな、どんなものでも食べてみせるのに。
そう、思った。

「おそらくはこの園の設計者は日本人か日系人だろう」

彼女が言うには、遺伝子に手を入れない限り、こんな桜はありえないらしい。

桜は特別な花だ。
一年の始まりを告げる春そのものであり、一年の終わりを告げる春そのものである。
出会いと別れ、両方が、その五つの花弁の上には込められている。
そういう不思議な時節に咲き、日本中を瞬く間に駆け抜けて、そして散っていく。

だから、桜は綺麗だからというだけではなく、昔から人々の関心を引き、研究の対象となっていた。

「でも、なんだか淋しい感じがしますね」

思うところをそうやって述べたら、何故だ?と、彼女は不思議そうに聞き返してきた。

「桜が綺麗だと思うのは、人の感性で、桜は生きていく中の一つの動作として花を咲かせる訳じゃないですか。
その人の思いの為に停滞する事を桜は望んでいるのかなぁ…とか思いまして」

そなたは優しいのだな、と言われた。
自分の未熟を思い、否定しながら、苦笑する。
力の足りない感情だけの感情は、人から評価されるべきものではないと、そう信じていたからだ。
だが彼女はそんな彼の思いをよそにして、遠いまなざしで、眠たそうに桜を見ながら語り続ける。

「品種改良するのは歴史的には珍しくない」

その言葉を肯定しながら、ようやっと気付く。
最初から彼女がずっと眠たそうな目をしていたのは、眠たかったからではなく――――
桜が、その事を思い出させていたからなのだ、と。

「人ですらもいじるのが人間だ」

芝村舞は、物憂げなまなざしをしていた。

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出会った頃から何一つ変わらない、少女の凛々しい立ち姿。
その彼女が、光きらめく桜の海の水底で、まなざしをどこか遠くに向けている。
遥かな歳月を生きてきた猫神は立ち上がり、その足元で桜の花弁を振り払った。

「また、ご一緒してもよろしいですか?」
「ああ」

別れ際、交わした言葉の中に、微笑みはない。
元から感情表現が豊かではない少女なので、まだ心の距離が詰まらぬ今、それは仕方がなかった。

「では、さらばだ」

ブータを抱き上げて去っていく、ポニーテイルのその後ろ姿を見送った。

桜の点々と咲き誇る道を行く、颯爽として毅然とした、迷わぬその足取り。
時の永遠に止まったかのように、いつまでも降り注ぐ桜、花びら、繚乱に。
夢幻の向こう、出会ったあの頃と、少しも変わらぬ姿をしたあの少女。

降り積もる、歳月が、己だけを変えていた。

長く伸びた道の先に、遠くなる後ろ姿。
あれから俺はどこまで来れただろうか。
答えるものは、何もない。

吹き抜ける風は暖かく、舞い上がった桜吹雪のその向こう、
どこまでも青空は柔らかで――――――――

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署名:城 華一郎

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最終更新:2008年04月02日 09:36