気のおけない友達
◆◇Just Good Friends◇◆
わたしは彼より先に、少し淫らな気分で目をさましたが、それをどうすることもできないことを知っていた。
目ばたきをすると、たちまち薄暗がりに目が慣れた。
頭を上げて、かたわらに横たわったまま微動だにしない白い肌の拡がりを眺めた。
わたしと同じくらい運動をすれば、おなかにスペア・タイヤがつくこともないのにと、冷ややかに考えた。
キョンはごそごそ動いて、わたしと向きあう格好に寝返りまでうったが、どうせ枕もとの目ざましが鳴りだすまではすっかり目をさまさないことを、私は知っていた。
もう一度眠ろうか、それとも起きだして彼が目をさます前に朝食にありつこうかと、しばしのあいだ考えた。
結局じっと横になったまま夢想を続けることにした。
ただし彼の眠りを邪魔しないように気をつけようと思った。
やがて彼がついに目をさましたときは、こっちはまだ眠っているふりをしよう――そうすれば彼は仕方なくわたしの朝食を作ってくれるだろう。
わたしが家にいて出迎えるかぎり、昼間はなにをしようと彼は気にしていないようだった。
ベッドの彼の側から低い鼾が聞えてきた。
キョンの鼾は全然気にならなかった。
彼へのわたしの愛情は泉のように尽きることがなく、そのことを彼に伝える言葉を知らないことが残念でならなかった。
事実、わたしが心から感謝の念を抱いた男は彼がはじめてだった。
彼のひげ面をじっとみつめているうちに、あの晩例のパブでわたしを惹きつけたのは、彼の容貌ではなかったことを思い出した。
わたしがキョンとはじめて会った場所は、この家を少しはなれた通りの角にあるパブ、《Cat and Whistle》だった。
そこはいわばわたしたちの地元の飲み屋だった。
彼はいつも八時ごろにやってきて、一パイントの苦味の少ないビールを注文し、それを受けとって店の一隅の、ダーツボードの奥の小さなテーブルに腰をおろすのだった。
たいていはテーブルに独りで坐って、ダブル・トップを狙って投げられるダーツを眺めていた。
ダーツはボードに刺さったとしても、ダブル・トップからそれて左右の1と5に入ることのほうが多かった。
彼自身は一度もダーツをやらなかったので、わたしはカウンターの内側という見通しのきく場所で、お気に入りのテーブルを人にとられるのがいやだからなのか、それともダーツにまったく興味がないからなのかと、しばしば考えたものだった。
やがて早春のある晩、髪をブロンドに染めたひとりの女が、イミテーションの毛皮のコートを着て、ジンとイタリアン・ヴェルモットのカクテルをダブルでやりながら、キョンの隣のスツールに腰をおろしたとき、彼にとって状況は一変した――おそらく彼にしてみればこれで自分にも運が向いてきたと思ったことだろう。
わたしはそれまで店で彼女を見かけたことがなかったが、彼女は明らかにその界隈では知られた顔で、酒場の噂話から判断してわたしはこの関係が長くは続かないだろうと思った。
というのは、彼女は《Cat and Whistle》の外まで地平線が拡がった男を捜しているという噂だったからである。
事実この情事は――果たして情事といえるかどうかもわからなかったが――たった二十日間しか続かなかった。
わたしは一日一日指折りかぞえていたからよく知っている。
ある晩激しくいい争う声がして、人々がそっちを向くと、彼女が現れたときと同じようにだしぬけに小さなスツールからおりた。
彼の疲れたような目が、カウンターの一角の空いた席へ歩いてゆく彼女の姿を追ったが、彼女が席を蹴ったときも彼は驚かなかったし、あとを追おうともしなかった。
彼女の退場はわたしの登場の合図だった。
わたしはカウンターの内側からほとんど跳びださんばかりにして、はしたなくない程度にできるだけ急ぎ、数秒後には彼の隣の空いたスツールに坐っていた。
彼は一言も話しかけなかったし、もちろん一杯どうだとすすめてもくれなかったが、ちらとわたしのほうに向けた視線は、後釜として不愉快なやつだとは思っていないことを示していた。
わたしは周囲を見まわして、ほかにだれかわたしの地位を奪おうとする者がいるかどうかをうかがった。
ダーツボードのまわりに立っている男たちは気にもとめていないようだった。
17のトリプル、12のトリプル、それに5のシングルが、彼らにとってはより大きな関心事だった。
カウンターにちらと視線を向けて、わたしがいなくなったことにボスが気づいているかようすをうかがったが、彼は注文を受けるのに忙しかった。
ふと見ると、ブロンドの女は早くも店に一本しかないボトルのシャンペンを飲んでいた。
それはスマートなダブルのブレザーを着て、ストライプの蝶ネクタイをしめた見なれない男におごられたもので、彼女はもうキョンのことなど念頭にないようだった。
これで少なくとも二十日間はもつだろう。
わたしはキョンを見あげた――しばらく前から彼の名前は知っていたが、名前で呼びかけたことはなかったし――ましてやあだなでさえ――、向うがわたしの名前を知っているかどうかもわからなかった。
わたしはやや大袈裟にウィンクを送りはじめた。
少し滑稽な気がしないでもなかったが、少なくともそれで彼の優しい微笑を誘いだすことに成功した。
彼は手をのばしてわたしの頬に触れた。
その手は驚くほど優しかった。
どちらも話す必要を感じなかった。
どちらも孤独だったが、その理由を説明する必要もなさそうだった。
わたしたちは無言で坐っていた。
彼はときおりビールを口に運び、わたしは思いだしたように脚の位置を変えた。
わたしたちから数メートルはなれたところを、コースの定まらないダーツが飛んでいた。
パブの主人が「ラスト・オーダーです」と叫ぶと、キョンはビールの残りを飲みほし、ダーツ・プレーヤーたちは最後のゲームを終了した。
わたしたちが連れだって店を出たとき、だれもなにもいわなかったし、意外なことにわたしがキョンの二軒一棟の家までついて行ったときも、彼は抗議するでもなかった。
私はその前から彼がどこに住んでいるかを知っていた。
大通りのバス停で、黙々と並んでバスを待つ気の進まない朝の通勤客の列の中に、彼の姿を数回見かけていたからである。
一度など、近くの塀の上から彼の顔だちをしっかり観察したことさえあった。
これといった特徴のない平凡そのものの顔だったが、これほど温かみのある目と優しい笑顔を私はいまだかつて見たことがなかった。
ただ一つの気がかりは、彼がわたしの存在に気づいていないらしく、いつもなにかに気をとられていて、目は毎晩ブロンドの女の姿を捜し求め、心は毎日ブロンドの女のことばかり考えていることだった。
わたしはどんなにあの女が羨ましかったことか。
彼女はわたしが欲しがるものをすべて持っていた――母が残してくれた唯一の形見である、人に見られても恥ずかしくない毛皮のコートを除いては。
実際のところ、どこの馬の骨とも知れない経歴は彼女もわたしも五十歩百歩だろうから、わたしには彼女を悪くいう資格はなかった。
これらはすべて一年以上も前の出来事で、わたしはキョンへの限りない献身の証しとして、それ以来《Cat and
Whistle》には一歩も足を踏み入れていない。
彼がわたしの前ではあのブロンドの女性の名前を一度も口に出さないところを見ると、彼女のことはすっかり忘れてしまったらしい。
わたしの過去の男性関係をまったくたずねないのも、並の男にはないことである。
彼はそのことをたずねるべきだったかもしれない。
わたしは彼と知り合う前の自分のありのままの生き方を彼に知っておいてもらいたかったが、今ではもうそれもどうでもよいような気がする。
わたしは四人きょうだいの末っ子として生まれたので、何事につけてもいちばんあとまわしだった。
父親の顔は知らないし、ある晩家へ帰ってみると母親がほかの男と駆落ちしていた。
二番目の姉が、お母さんが帰ってくるなんて期待してはいけない、とわたしに警告した。
彼女の予想は的中し、わたしはそれ以来母親と一度も会っていない。
他人にはいわないまでも、自分の母親が野良猫のような女だと認めなければならないとは悲しいことである。
みなし児になったわたしは、放浪生活を送るようになって、しばしば法律すれすれの危ない橋を渡った。
寝るところさえいつもあるとは限らないのだから、決して楽な生活ではなかった。
どんないきさつであの男のところへ転げこんだのかさえ今では思いだせない。
多情な女ならひとたまりもなく参ってしまう浅黒い肉感的な容貌の持主であった彼は、それまで三年間商船に乗っていたとわたしに語った。
彼に抱かれたとき、わたしはどんなことでも信じる気になった。
わたしは温かい家庭と、三度三度の食事と、いずれ自分の子供たちさえ持つことができれば、あとはなんにもいらないと彼にいった。
彼は少なくともそのうちのひとつは願いが叶うだろうと保証した。
そして事実彼が去った数週間後に、わたしは女の子の双児を産んだ。
彼はついにわが子の顔を見ることがなかった。
わたしが妊娠したことを告げる前にまた海へ戻ってしまったからである。
彼はわたしになにも約束する必要がなかったのだ。
あれほどの男前なのだから、わたしなど一夜の浮気の相手にすぎないことを最初から知っていたに違いない。
わたしは娘二人をりっぱに育てるべく努力したが、今度は当局につかまって二人とも手放すはめになってしまった。
あの子たちは今ごろどこにいるのだろうか?
だれにもわからない。
せめていい家に引きとられたことを願うだけである。
少なくとも彼女たちはあのひとの抵抗しがたいほど魅力的な美貌を受け継いでいるから、世の中を渡ってゆくうえでそれが役に立つだろう。
これもキョンが知らないことのひとつである。
彼の無条件の信頼はわたしをうしろめたい気持ちにさせる一方だが、今となっては彼に真実を打ちあける術もない。
彼が海へ戻っていったあと、わたしは一年近く独り暮らしをしてから、《Cat and Whistle》でパート・タイムの仕事にありついた。
パブの主人は性悪な男で、わたしが約束の仕事をしないと食べるものも飲むものもくれなかった。
キョンはみすぼらしい毛皮のコートを着た金髪のあの女と会う前から、週に一度か二度店に顔を出していた。
それ以後は彼女が急に彼のもとから去るまで、ひと晩も欠かさず通ってくるようになった。
わたしは彼が一パイントの苦味の少ないビールを注文するのをはじめて聞いたとき、これこそ自分にぴったりの相手だと感じた。
一パイントの苦味の少ないビール――わたしはキョンの人柄を説明するのにそれ以上に恰好のものを思いつかない。
はじめのうちはバーメイドたちが大っぴらに流し目を送ったが、彼は全然関心を示さなかった。
あのブロンドの女が彼の心をとりこにするまでは、女性には興味がないのではないかと思ったほどだった。
たぶんわたしの男女どちらともつかない見かけが彼の気に入ったのだろう。
その店では、より永続的な関係を求めていたのはきっとわたしだけだったと思う。
こうしてキョンはわたしがともに一夜をすごすことを許してくれた。
彼がバスルームに入って裸になるあいだ、わたしはベッドの半分に横たわっていたことをおぼえている。
それ以来彼は一度もわたしに出ていけとはいわなかったし、もちろんわたしを蹴りだすようなこともしていない。
それはおたがいに縛られることのない気楽な関係だった。
月並な表現を許してもらうなら、わたしにもやっと運が向いてきた。
リンリンリン。
いまいましい目ざまし時計の音。
できたら土の中に埋めてしまいたい。
その音はキョンがやっと起きだす決心をするまで鳴りつづける。
いつか彼の体の上に乗ってその耳ざわりな音を止めようとしたが、結局時計を床に落としただけで、うるさい音以上に彼を不機嫌にさせてしまったことがあった。
それ以来一度も止めようと試みたことはない。
ようやく毛布の下から長い腕がのびて、時計のてっぺんを掌がおさえると、やかましい音が鳴りやんだ。
わたしは眠りが浅いほうで、ほんのかすかな動きでも目がさめてしまう。
頼まれれば毎朝もっとずっと穏やかな方法で彼を起こしてあげる自信がある。
わたしの方法なら人間の作った道具に劣らず信頼がおけるのに。
キョンはねぼけ顔でわたしを軽く抱きしめてから背中を撫でた。
そうされるといつも自然に笑みがこぼれる。
それからあくびをして思いっきり手足をのばし、毎朝の決まり文句を呟く。
「さあ、急がないと会社に遅れるぞ」
わたしたちの判で捺したような朝の日課を不愉快に思う女性もいるかもしれない――でもわたしは違う。
ようやく念願かなって生き甲斐を見つけたと確信できるのは、こうした決まりきった生活のすべての部分のおかげなのである。
キョンは室内ばきの左右を間違えて足を突っ込んでから――間違える確率は五分五分である――バスルームに向かった。
いつものように十五分たってバスルームから出てきたが、入る前と比べてさほど変わりばえがしなかった。
わたしは彼の欠点とされるものに耐えられるようになっていたし、一方彼は彼でわたしの病的なまでの清潔好きと用心深さにも慣れていた。
「おい、起きろよ、この怠け者」と口では叱ったが、いうことをきかずに彼がいなくなったあとの暖かいベッドのくぼみにもぐりこんでも、微笑をうかべるだけだった。
「出勤前に朝ごはんを作ってもらえると思っているんだろう」と、彼は階下へおりながらいった。
わたしは返事もしなかった。
もうすぐ彼が玄関のドアを開けて、朝刊と、郵便物と、わたしたちの一パイントのミルクを取りこむことを知っていた。
いつも頼りになるキョンは、湯わかしを火にかけ、食器棚のほうへ行き、ボウルにわたしのお気に入りの朝食を入れてミルクを注ぎ、自分のためにコーヒー二杯分だけ残すだろう。
朝食の用意はわたしの予想と寸秒の狂いもなくできあがるだろう。
まず湯わかしが鳴りだし、そのすぐあとでミルクが注がれ、やがて椅子が引かれる音が聞える。
その音を合図に、私はベッドから抜けだして階下へおりてゆく。
わたしはゆっくり手足をのばしながら、爪の手入れをする必要があることに気づいた。
顔を洗うのは彼が会社へでかけてからにしようと決めていた。
キッチンの床のリノリウムに椅子がこすれる音がした。
あんまりしあわせな気分だったので、文字どおりベッドから跳びおりて開いているドアに向かった。
階下におりるまで何秒もかからなかった。
彼はコーンフレイクをひと口頬張っていたのに、わたしの姿を見たとたんに食べるのをやめた。
「ああ、きたか、きたか」と、彼はにこにこしながら話しかけた。
わたしは彼にすりよって期待にみちた目で見あげた。
彼はかがみこんでわたしのボウルを押してよこした。
わたしはしあわせそうに尻尾を振りながらミルクを舐めはじめた。
わたしたちが怒ったときだけ尻尾を振るというのは、人間の思いちがいである。