目を覚まして一番に目にした光景は、見ようによってはあの見慣れた世界の空と似ているような気がして、僕の左胸は一瞬だけ強い戸惑いに襲われ、大きな鐘を打った。けれど次の瞬間には、僕は自分が一体どういった状況下に存在しているのかを思い出し、高鳴り始めた心音は、安堵とも落胆ともつかない奇妙な呆気によって沈静化された。今日も世界は変わっていない様だ。
僕が体を起こすのと同時に風が吹き、長い間冷たいコンクリートに押し付けられていた背中をダウンジャケット越しに撫でて行き、僕の頭から眠気と言う眠気の全てを、一瞬で取り払って行った。肌が粟立ち、洋服の裏地と擦れ、それがまた新たな鳥肌を呼ぶ。氷のように冷たい目覚めだ。
携帯電話をみると、時刻は午前五時三十分。念の為に仕掛けておいたアラームが鳴る予定の時間まで、あと三十分ほど余裕がある。しめて一時間の睡眠。寒かろうと、冷たかろうと意外と眠れるものなのだな。と、僕は思う。
目の前には、朝方の薄暗い光の中に浮かび上がる冬の海が広がっていた。灰色の空と海との境目が、風に吹かれ、時折ざわざわと波打つ。ちりばめられた白い粒が多く見える。今日は海が荒れるのかもしれない。
携帯電話を開き、ディスプレイを確かめる。昨晩、長門有希に送ったメールの返信は、まだ返ってきていない。まだ目を覚ましていないのだろうか。僕は彼女が眠っている姿を想像してみようとするけれど、それを上手く思い描くことは出来なかった。僕の思い描く彼女は、いつもと同じ制服姿で、膝の上に閉じた本を乗せ、冷たい瞳でどこか遠くを見つめている。やがてその視線は僕に向けられる。そして、喋りかけてくる。
「……逃げられると思っていた?」
「いえ」
僕が言葉を返すと、彼女は消えてしまう。彼女の声がもたらした僅かな余韻は、漣の音が上書きしてしまう。遠くでバイクの音がする。左の耳元で声がする。
「疲れないか?」
「正直、些か堪えますね。神人狩りとはまた違う辛さがあります」
「そうか。ご苦労な事だな」
彼はおそらく、薄ら笑いを浮かべながら、そのセリフを口にしているのだろう。僕はそ
の面を拝んでやろうと、左側を向く。けれどそこに彼の薄ら笑いは無い。
「ご苦労な事、ですか。言ってくれますね、誰のおかげだと思っているんです?」
「あたしの所為?」
今度は右の耳元。その声はどちらのものだっただろうか。
「それって、あたしが何かしたから?」
もう一度声がする。僕は僅かに安堵を覚えた。それはかつての涼宮ハルヒの声だ。僕が涼宮ハルヒと呼ぶべき、本来の相手のこ
危ない。僕は僕の感じている安心を慌てて振り払う。違う。それは涼宮ハルヒの声では無い。
「お前がもうちょっと大人しくしてりゃな。前からもっと、古泉はラク出来たんだぜ?」
「は? 何よそれ、あたしがそんなに古泉君に無理ばっかりさせてたっていうの?」
僕を挟んだ両側で、彼らが話している。それは彼らではない。何処が違うのだろう。僕の耳には、それはどう聴いても、正真正銘、ホンモノの彼らの会話のようにしか聞こえない。違うのだ。これをホンモノだと思ってしまえば、僕まで同じになってしまう。
「お前は知らないかもしれないけどな、古泉は……まあ、色々と、頑張ってたんだよ」
声が左側から聞こえる。
「分かってるわよ、古泉君には感謝してるわ。いつもご苦労様、ありがとね」
左の声は喋り続ける。右側の声が聞こえない。漣の音がしている。僕はいつのまにか目を閉じている。
「僕は何も」
その声が僕自分の喉から零れたものなのか、今ひとつ確信が持てない。
「勝手にやらせて頂いている事ですから」
そうだ。僕は今は、機関の命令とは無関係に、この場所に居る。冷たい空気を浴びながら、朝の海を見つめている。これは僕の望んだ事だ。本当に?
僕がこの場所に来る事を望んだのは、本当に僕なのだろうか。頭が痛い。漣の音。
僕は彼と同じ場所に行かなければならないのだろうか。その場所に行けば、この声は止むのだろうか。「古泉君、そこにはあたしがいるのよ?」彼の声。違うこの声は彼の声ではない僕は彼に会いたいと思うそうだこれは僕の望みで他の何でも
目を開く。そこはやはり、あの世界に似ている。空は灰色の雲で覆われている。声は止んでいて、周囲には誰も居ない。漣の音。
灰色の中に、僕は一人で座り込んでいる。誰かが来るのを待っている。