エピローグ

 

205号室
病室の扉付近に「涼宮ハルヒ」と名前があるのを確認してから、コンコンと申し訳程度にノックをし、ハルヒの返事を待たずに、俺は部屋の中へと入った。
「はい、どうぞ、ってキョン!」
俺の顔を見るや否や、ハルヒはプイッと俺から顔を背けた。
窓の外には花が満開の桜の木が見え、差し込む穏やかな陽光が季節が春であることを物語っていた。
俺がベッドの横の椅子に座ると、ハルヒはいままで読んでいた雑誌を脇にしまい、顔を背けたまま、ちょっと不機嫌そうに問い質す。
「有希や古泉くんはすぐに来てくれたのに、あんたはいったい何処で何をしてたのよ。あたしをあの暴走車から庇ってくれたことは感謝してるわ。
でも、あたしのことが心配なら、あたしといっしょに救急車に乗ってくれるべきじゃないの?」
どうやらハルヒの中では暴走車からハルヒを救ったのは俺ということになっているらしい。
「スマン、ちょっとあの後、俺のほうも検査を……」
咄嗟に考えついた嘘で誤魔化すと、ハルヒはびっくりしたように俺のほうを振り返り、心配そうな表情で尋ねてくる。
「え、まさか何か異常があったとかいうんじゃないでしょうね! 古泉くんは何も問題ないって言ってたのに……」
「いや、念のために検査しただけだ。特に問題なかったよ」
ハルヒは、俺の言葉を聞いて、ほっと胸を撫で下ろす。
「もう、心配させるんじゃないわよ!」
そう言いながら、またプイッと俺から顔をそらした。
そんなハルヒの様子を見て、少しだけ嬉しく感じた。俺のよく知っているハルヒが目の前にいる。この何でもない日常がかけがえのない幸せであることにようやく気がついた。
そのために支払った対価はあまりにも大きく、その悲しみに俺は押し潰されそうだった。だが、ハルヒの笑顔だけが俺をそんな悲しみから救ってくれような気がした。
椅子から立ち上がり、ハルヒに背を向けて、外の風景を見ながら窓を開けると、春の暖かな風が桜の花びらを部屋の中へと運んできた。
目の前で咲き誇る桜を見ながら、ふと思いついたことを口にする。
「なあ、ハルヒ、SOS団で花見でもしないか」
俺が振り返ると、ハルヒは少し悲しそうな表情で俺を見ていた。
「キョン……」
「なんだ?」
「何か……悲しいことでもあったの?」
あらためてハルヒの勘のよさに感心した。できればハルヒに聞いてもらいたかった。朝比奈さんのことを、そして俺の悲しみを。だが、それはできない。
「ん、別に何もないぞ。あえて言うなら、お前が交通事故に遭った事ぐらいだ」
「そう……」
ハルヒは少し寂しげな表情でうつむいた。
少しの時間、俺とハルヒの間に会話が途切れた後、ハルヒは意を決したように顔を上げる。
「あ、あのね、笑わないで聞いてくれる」
椅子に座ろうとしている俺を見ながら、ハルヒは少し躊躇いがちにこう言った。
「何だ、お前らしくもない。いいぜ、聞いてやるよ」
ハルヒは一度大きく深呼吸をした後、今回の事件の核心ともいうべき事実を語り始めた。
「じ、実はね、あたし、交通事故に遭うかもしれないって予感はあったんだ」
「え、ど、どういう意味だ」
「あたし、キョンに振り向いてもらいたかったから……彼女になったはずなのに、あんた有希や他の女の子のことばっかり見てたような気がしたから……
だから、あたし思ったの。あたしが交通事故とかに遭って、死ぬかもしれないって状況になったら、あんたもあたしだけを見てくれるかもしれないって。
だから……予感っていうんじゃなくって願望っていうのかな。そんなことを考えてたんだ。馬鹿みたいだよね、あたし」
言葉がでなかった。身動きひとつ取れなかった。それほどにハルヒの言葉は俺の虚をつくものだった。
「今回のこと、あたしすっごく後悔してるの。あんたがあの暴走車からあたしを庇ってくれた時、あたしなんて馬鹿なことを考えてたんだろうって。
だって、一歩間違えれば、あんたが死んじゃうことだってあるわけじゃない。そうなったら、あたしきっと一生後悔してたと思うわ。こんなことを考えてたことを」
ハルヒは俺から目をそらして、窓の外に視線を移す。窓の外では桜の花びらが春の風に吹かれて舞っていた。
「今回のことは、きっと神様があたしに忠告したんだと思うの。馬鹿なことを考えるんじゃないってね。
でもね、あたし嬉しかった。あの時、あんたあたしをぎゅって抱き締めてくれた。あたしのために泣いてくれた。初めてあんたの愛の深さを知ったよ。つきあって以来、一番あんたを近くに感じた気がしたわ」
ハルヒは静かな声で、あの時の状況をそう回想する。
「だから、もう二度とあんな馬鹿なことは考えないわ。だって、あたしはあんたの愛がどれだけ深いかを知ることができたんだから」
ハルヒの言葉に俺は驚愕した。いや、そんな生易しいものではない。驚愕とか絶望とかいった言葉では言い表せないほどの、償いきれない罪を背負ったような感じがした。
まさか、まさかこんな結末が待ち受けていようとは、その片鱗すらも俺には想像できなかった。だが、ハルヒの言葉が真実だとするなら、朝比奈さんを死に追いやった根本の原因は……
「キョン? だ、大丈夫? 顔が真っ青よ」
「ハ、ハルヒ……」
身体が罪悪感や後悔、恐怖、絶望といった感情で震えているのがわかった。目から後悔の涙が溢れてくるのが自覚できた。
さすがにハルヒも俺の様子がおかしいことに気づき、少し戸惑ったような様子で心配そうに俺に声をかける。
「ちょ、ちょっと、キョン、いったいどうしたのよ。まずは落ち着いて話しなさい。あたしにできることなら何でも協力するから」
俺はハルヒの身体を引き寄せると、すがりつくようにハルヒを抱き締めた。
「ハ、ハ、ハルヒ、お、俺、と、と、とんでもないことをしてしまった。とりかえしのつかないことをしてしまった」
「な、何よ、詳しく話してみなさい」
「い、言えないんだ。言ってはいけない事なんだ。だが、俺は償いきれないほどの罪を背負ってしまった。俺は……俺は……」
救われることなどありえないと思っていた。ただ、ハルヒにすがりついて泣く以外、俺になす術は何もなかった。ハルヒはそんな俺の様子を見ながら、何かを考え込んでいる様子だった。
「あたしには……言えないことなのね」
しばらくそうしていた後、ハルヒがおもむろに尋ねてくる。
「あ、ああ、そうなんだ」
「でも、あんたは罪を犯してしまった。決して許されない罪を。そういう事ね」
「そうなんだ、俺は……お、お、俺は……」
「わかったわ! じゃあ、あたしがあんたを許してあげるわ!」
「え!?」
俺は、ハルヒの胸にうずめていた顔をあげて、ハルヒの顔を見る。
「あんたがどんな罪を犯したか、あえてあたしは問わない。でも、たとえ世界中の人が、有希や古泉くんさえもが、あんたを非難しても、あたしはあんたを許すわ。
だからもう泣き止みなさい。世界中のすべてがあんたを非難しても、あたしがあんたの盾となって、あんたを守ってみせるから」
ハルヒの目には強い信念が宿っていた。そんなハルヒを見て、俺は心の底から自分が救われたと、許されたと信じることができた。そう信じるに足りるだけの力強さがハルヒの言葉にはこもっていた。
「ハ、ハ、ハルヒ、あ、あり、ありがと、あああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「もう、しょうがないわねえ」
俺はもう一度ハルヒの胸に顔をうずめて泣いた。ハルヒは、俺が落ち着くまで、優しく俺を抱き締めてくれた。ハルヒがそうしてくれているだけで、安らぎを感じることができた。
俺の傍にハルヒがいてくれてよかった。俺の彼女がハルヒで救われた。心の底からそう思う。もし、このときハルヒが許してくれなければ、俺は絶望のどん底から這いあがれた自信はない。
ハルヒは何も知らない。知る必要がない。自分の能力のことも、長門や古泉のことも、朝比奈さんのことも、ハルヒが幸せになるためには、知る必要のないことだから。
しかし、何も知らなくても、ハルヒがいてくれたおかげで、俺は立ち直ることができた。どれだけ感謝しても足りないぐらいだ。
しばらくして、俺が落ち着きを取り戻した後も、ハルヒは俺を抱き締めてくれていた。
春の陽光が俺達ふたりを優しく包み、時折吹く爽やかな風が、俺とハルヒの将来を祝福しているようにさえ思えた。きっと俺達は将来、幸せになれるという確信さえ感じたほどだ。
だが、どれだけ時が経とうとも、俺は決して忘れることはない。自分の犯した罪の深さを、ハルヒの愛の深さを、そして……
 
俺達の幸せが、天使のような愛らしい一人の少女によってもたらされたものであることを。
 
 
~終わり~

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最終更新:2008年01月14日 22:55