俺の名は谷口。当年とって25歳の好青年であり、国道沿いのネオンが輝く繁華街から追い出された辛気臭さがいっぺんに集まったような、うらぶれた旧道沿いのアパートに事務所を構える私立探偵だ。
自分で言うのもなんだが、俺はけっこうこの界隈じゃ名の知れた探偵なんだ。
だがしかし、悲しいかな、名が知れているのと生活向きが良いのとはイコールじゃないのが世の中だ。これでもけっこう現実問題苦労しているんだぜ。
この物語は、そんなハードボイルド快男児・谷口がお送りする、愛と波乱と一大スペクタクルに溢れるハートウォーミング物語である。
なんてね。SFチックな小説の紹介コメント風に決めてみたい気分の時って誰にでもあるじゃん? 今の俺がちょうど、そういう気分だったわけさ。

 

 

~~~~~

 

 

俺はちゃぶ台の前にあぐらをかいて座り、粛々とした気持ちで茶をすすりながら腕を組んだ。座卓をはさんだ俺の対面には、うちの押し掛け助手、長門有希が無表情にちょこんと座っていた。
と言ってもこやつは年中、無表情マスクをかぶった宇宙戦士のような無愛想ヒューマンなので、これがフォーマット状態なのであると言っても差し障りない。
むしろ付き合いの長い俺から見れば、今の長門には淡々とした中にもキラリと光る意志の強さと頑固な意地が、ありありと見て取れる。
「………この券は、兄貴には渡せない」
目からビームを発射しそうなくらいすごみのある目線で、長門有希が俺ににらみを利かせてきた。ちなみにこやつは俺の舎弟だからして、俺のことを兄貴と呼んでいる。
だがしかし。俺とて数々の修羅場をくぐり抜けてきた勇者、谷口探偵である。こんな小生意気なクソガキにメンチ切られたからって、しっぽ巻いて引き下がるわけにはいかないのだ。

 

俺と長門の間には、一枚の宝くじ当選券がテーブルにピタリと貼り付いたように置かれている。
これは先日、長門に買い物をつきあってもらったささやかなお礼だと言って、朝倉涼子が俺に手渡した1枚の宝くじだ。
宝くじ1枚きりなわけだから、別に大した意味があるわけじゃない。感謝のオプション程度の物だ。
だから朝倉さんも俺も最初は300円当たればいい方だと思っていた宝くじ券だったのだが、そんな俺たちのごくごく一般的な中流階級者的予想を大きく裏切り、なんとも恐ろしいことにこの宝くじは、大当たりしてしまったのだ。
上位賞金額の何千万円や一億円と比べれば微々たる額でしかないが、当選金50万円は俺のような小市民にとってはうなるほどの大金だ。
だから、実際うなってしまったわけである。

 

朝倉さんに話しても 「それはあなたたちにあげた物だから、賞金はあなたたちの物よ」 と涙が出るほど寛大なお言葉をいただいたわけなのだが……しかし。ここで一つ問題になる点がある。
『賞金はあなたたちの物よ』 というくだり。そう。この賞金50万円は朝倉さんに言わせれば、俺、谷口と長門有希、両名の物だと言うのである。
これは当然の見解であろう。長門が朝倉さんの買い物につきあい、その報酬という名目で朝倉さんが俺に券をくれたのだ。チケットの前所有者の朝倉さんに言わせれば、この券は特定の個人にあげた物ではなく、谷口探偵事務所という団体に寄贈した物なのだ。

しかし、意志の齟齬といいましょうか。ここで朝倉涼子の言葉のとらえ方に、俺と長門の間で相違が発生したから事態がややこしくなってしまった。
いや、相違というよりも自分で相違だと思いたいだけなのかもしれない。

実は俺も長門も、この券が団体扱いでプレゼントされた物だなんて思っていない。この賞金は俺の物だ、いやいや私の物だと、俺たち2人は、照明弾の光にさらされたかのように、互いに賞金に目がくらんでしまったわけである。
こうして我が谷口探偵事務所内には、職員2名が50万円の権利を主張する、まさに金銭をめぐる骨肉の対立が発生してしまったわけである。
そう。このにらみ合いは、互いに一歩も引かないハードコア1本勝負場外乱闘24時なのだ。

 

 

「………これは、私が朝倉涼子の買い物を手伝ったことに対し、彼女が表明した感謝の形。この宝くじの所有権は私にある」
ゆるぎない信念を持っているのか、胸をはってそう言う長門。
だが経緯はどうあれ、これを直接受け取ったのは俺なんだ。俺経由でお前に渡して欲しいとは、朝倉さんは言わなかったぜ。 確かに、長門が朝倉さんの買い物につきあったから朝倉さんがこの宝くじを俺に手渡したわけだから、この当選券がここにある要因はお前にある。そこは認めよう。しかしだな。それとこれとは別問題なんだよ。
「………そんなことはない」
なぜなら、朝倉さんはこの宝くじを俺に渡す時にこう言ったんだよ。「長門さんが手伝ってくれたからとても楽しかったわ、ありがとう。それからこの宝くじ、あなたたちにあげるわ」 と。 長門への感謝はありがとう、の謝辞で伝え終えているんだよ。宝くじはそのオプション的な意味合いでくれた物なんだ。あくまで朝倉さんは 「あなたたち」 にあげると言ったんだからな。
あなたたちという言い回しは詰まるところ、俺たち谷口探偵事務所の2人にくれたということだろ? なら、事務所の代表者である俺が受け取って当然ではないか。

「………それはどう考えても詭弁。朝倉涼子は私への感謝の気持ちとしてこの券をくれた。なら、それは私個人が受け取るべき。 あなたたちという言い方をしたのは、券の受け渡しにあなたを介したからというだけであって、それ以上の意味はないはず。朝倉涼子の気持ちと宝くじの譲渡を切り離して考えようとする行為自体が兄貴の浅はかで卑劣な策略」
あのさっぱりした性格の朝倉さんが俺を介したからだけの理由であなたたち、だなんて言い方をするとは思えないね。本当にこの券を長門に渡したいと思っていたら、遠回しに言わずきっちり長門有希に渡してくれと言うはずだ。
あなたたちと言ったのは、その真意に谷口さんにも権利を半分あげるわねという思いが含まれていたからに他ならない。だからして、この券は2人のうち代表者である俺が受け取っておくという形に収めるのがベストなのだよ。
2人でこの宝くじを半分づつに切り取って均等配分、だなんてできないだろ?
「………待って。そもそも兄貴が代表者という論理がおかしい。確かにこの探偵事務所では兄貴が権利者だけれど、この件は事務所とは何の関係もない出来事。朝倉涼子が私に宝くじの券を渡そうとしたが、私が留守だったため便宜上、兄貴が一時的に預かっていたというだけの話。 これは私と朝倉涼子の、個人間の問題。それに変な言いがかりをつけて宝くじを横取りしようなんて、見苦しいにもほどがある。ヤクザ屋じゃあるまいし」
言いがかりとは人聞きが悪い。俺はなにも間違ったことは言っちゃいないぜ。
50万が当選した時に朝倉さんに連絡したときのことを思い出してみろ。彼女はなんて言った? 賞金はあなたたちの物よ、と言っただろう。あなたたち、とは誰のことだ? 複数形である以上、お前一人じゃないだろう。
便宜上だろうが何だろうが、そこに俺も含まれているのなら、やはり俺にも券を受け取る権利があるじゃないか。
「………それは兄貴の推論にすぎない。根拠のない論理を笠に乱暴な物言いをするのは感心しない」

 

 

2人に宝くじをくれたのなら、なぜ俺と長門は2人で山分けしないのか。朝倉涼子が2人に宝くじをくれたのなら、等分するのが一番良い方法じゃないか。と疑問に思っている人もいることだろう。
一言で言えば、つまりイヤなのだ。俺も長門も自分の手に、まるまる50万円をつかみ取りたいのだ。

 


だいたいだな。長門お前、実家が金持ちじゃないか。お前にとって50万なんて屁の一発でふっとぶような端下金だろ? でもな。俺みたいな困窮世帯の人間にとっちゃ、50万はそりゃもう血の出るような金額なわけよ。そこはホラ。あれだよ。
券をもらった過程がどうの権利がどうこう言ってないで、大きな心で日頃お世話になっている谷口さんにポンと一括ニコニコ現金払いで明け渡すくらいの気概があってもいいんじゃないか?
「………私は普段から兄貴の世話になっているつもりはない。家事から小間使いまでしてあげているのに、今までバイト料すら満足に支払ってもらった記憶がない。これはどう考えても労働基準法違反」
だから俺はお前を雇った覚えはないっての。そりゃ家事を手伝ってくれるのはありがたいが、勝手に住み込むように居着いたくせにバイト代払えなんて図々しい。ブルジョワ世帯の方々のセレブ思考は理解できませんな。
第一お前、将来探偵になりたいんだろ? だったら普段から師匠であり兄貴分である俺の立ち居振る舞い、一挙手一投足にいたるまでの動きを見て探偵のなんたるかを学び、習得し、技を盗みとっているはずだ。それはバイト代よりもずっと価値のあるものなんじゃないか?
「………私は兄貴が探偵らしいことをしている場面についぞ出くわしたことはない。だから探偵としての技なんて、一切合切勉強させてもらっていない。見せられるものといえば、海で船を壊して交番で土下座したり、 阪中のパンツを夜な夜な観察したりしているシーン等、実に反社会的な面ばかり」
そりゃお前がたまたま変なとこばかり見ているからだろう! だいたいさ、お前、ここに何をしにきてるわけ? 本読むだけなら家か図書館かトイレにでも籠もってろよ。


「………それと誤解があるようだからこの機会に言っておく。確かに私の父は上位所得者だけれど、それにイコールで私もたくさん資本をもっていると考えるのは大きな間違い。私個人は、平均的な一般高校生と同じくらいの額のお小遣いしかもらっていない」
だったらそのお小遣い内でやりくりしてなさい。キミは小遣いを全て使い果たしても家にいれば着る物食う物に困ることはないだろうが、俺は貯金がなくなったらたちまち路頭に迷って長門家に執事として雇われるしか道はなくなる身なんだぜ。
「………執事を雇うのはいいけど、兄貴だけはイヤだな……」

だからだな。お前が探偵の勉強を続けられるよう、この50万は俺が路頭に迷わないための生活資本として谷口さんに提供しておけよ。な? 将来のためだと思えば安いもんだし夢もある。ボランティアだということにしておけば、面接の時にも有利だぞ。
それに、ほら。あの目障りなキムチ大好き韓国人野郎がいなくなればまた客足も増えるから。そしたらお前のバイト代の件も考えてやるからさ。悪い話じゃないだろ?
「………やだ」
やだってお前……。これだけ条理を尽くして説得しても無駄なのか。
「………不条理この上ない」
不機嫌そうにそっぽ向いて頬をふくらませる長門有希。兄貴分の俺が投げやりになるのを我慢して話をしているというのに、この舎弟は……。

なにが不条理なものか。だいたいだな、お前50万も何に遣うんだ? 貯金するのか? 金融機関に貯金するくらいなら、身近で安心、谷口口座にしとけって。カードも通帳も印鑑も必要なし。いつでもどこでもお手軽な、谷口口座をよろしく!
「………そんなリスキーな投資は誰もしない」

 

 

~~~~~

 


そこでいったん長門は席を外し、お茶をいれ直して台所から帰ってきた。急須の上に、ゆるゆると白い湯気が立ちのぼっている。
そうやってダメだダメだって言うけどな。じゃあお前は何か貯金以外に使用目的があるのかよ?
さっきも何に遣うのか訊いたけど、貯金しておくとかいう理由ならマジで俺に譲ってくれよ。俺には、生活費の足しにするという止むに止まれぬハングリーな事情があるんだから。
「………ティーンネイジャー相手になにムキになっているの?」
うるせぇ。仕舞には、つまんで窓から放り投げるぞこの野郎。

 

「………私はこの50万円でタスマニアへ、ウォンバットを見に行って来る」
うはん、タスマニア州ときたもんだ!? 豪州へ動物を見にいきたいだって? 何がウォンバットだこのバカ! ウォンバット見学よりもタニグチさんの生活だろう!? どういう教育受けてきたんだよ!?
もう理解できないやら情けないやらで憤慨する俺にかみつくような勢いで、長門は鼻息を荒くして控えめに反論してきた。かみつくような勢いで控えめに、というのが矛盾しているようだが、実際そうなのだから仕方ない。
「………この前アメリカへ行ってきたことで、私の貯金はほぼ尽きた。旅に出るためにはまたしばらくお金を貯めなければならないと思っていた。でももう限界。早くオーストラリアへ行きたい。
エアーズロックの頂上から遺灰をふりまくような迷惑でのぼせ上がった観光客ばかりが日本人でないことを世界に証明したい」
いや、お前が証明しなくても、そんなことするやついないから。

 

 

宝くじを挟んで座り、そろそろ2時間が経とうとしていた。部屋の中は中秋とは思えないほど湿気をふくんだ空気がよどんでいた。外からは、窓をうつ雨音が間断なく聞こえてくる。
淡々としてしっとりとした雰囲気の中で、俺と長門は滔々として訥々と、延々話しあっていた。
最初のうちは互いに50万円を得んがためにそれらしい理屈をこねて相手を説得しようと静かな炎を燃やしていたが、長時間の討論を重ねた今、もはやそれは討論というよりも我慢対決の様相を呈していた。
お互い、相手が賞金を得ようという下心がありありなのを100%見抜いているのだ。どんなに相手がもっともらしい言い分をしようとも、それは詭弁屁理屈にしか聞こえない。ただただ相手の言葉のアヤや揚げ足をとり合う血眼の戦いである。

 


人間の人生は長い。病気や事故などで途中退場をしないかぎり、男も女も悠に80年以上生きる時代だ。
そんな長い長い道のりの視点からしてみれば、はっきり言って50万円なんて屁の一発でふっとぶほどの端下金だ。自動販売機の釣り銭受けに入っていた10円玉みたいなもんだ。
しょせんは50万。年下のガキ相手になにムキになっているんだ俺は。やれやれ。大人気ない。
冷静に考えると、そんな思考も念頭に浮かび上がってくる。しかし俺は、そんなネガティブな思いを一発でふきとばす。

 

しょせん50万! されど50万!

 

ああそうさ、俺は大人気ないさ。俺が小学校に進級した年にオギャーと生まれた長門有希相手に歯ぎしりして闘志を燃やす直情家さ!
だがな。50万ってのはそうしてでも手に入れるだけの価値のある金額なんだよ! 金持ちケンカせずなんて言うが、そんなのクソくらえだ。ケンカしてこそ手に入るってものも人生にゃたくさんあるんだよ!
ケンカしてプライド捨てて50万手に入るって言うんなら、俺は長門相手に土下座だってしてみせるね。
まあ土下座して50万譲ってくれる相手なら、最初から2時間もにらみ合いをすることもないのだが。

 

理不尽な取立て屋よろしく、「あんたの将来のために貯金しておくのよ!」 と子どものお年玉をとりあげる母親みたいなことを言いながらこの券を没収してもいっこうに構わないのだが、 それは確実に遺恨を残す。長門がそれで納得するわけないし、俺に対して悪い印象も与えてしまう。
金のためならプライドなんて道頓堀にでも平気で投げ捨てられる俺だが、やはり可能な限り年長者としての威厳というやつを失いたくはない。

金は得たいがなるべくプライドも捨てたくない。泥沼のジレンマ。
そう考えた末の作戦が、今の耐久スタンバイ対決なのである。

 

先に席を立った方が、負け。それが、この勝負のすべて。
別にどちらが先に言い出したわけではない。この空気は、沈黙する2人の間で自然と発生した暗黙の了解である。
短気を起こして先に立ち上がり、部屋を出た方が敗者。50万円の権利は相手に明け渡す。そういうルールだ。

いや、自然に発生した、というのは正しくないな。少なくともこの空気は、俺が計算して作り出したものなのだからな。
長門はおとなしく無口な性質だが、頑固な面がある。俺が不貞腐れたように黙り込んでいれば、こいつも同じく黙り込み、不貞腐れたように内心で俺に対して反発の怒りを燃やすに違いなかった。
だからこそ長門はムキになり、俺より先にこの場を離れるものかという子どもらしい妙な意固地さと負けん気を発揮し、俺の無言の挑発に乗ってきたのである。
なんという浅はかさ。なんという無謀。まさに悲しき子ども的思慮と言わざるをえない。

 

長門は自称探偵見習い。俺は本職の探偵。
押しかけ探偵見習いの長門は日々、我が家で寝転がって本を読んだり茶を飲んだりしている宿六的自称アルバイターである。一方、俺は必要とあらば1日でも2日でも張り込みをすることができるプロの探偵なのだ。
相手の行動をひたすら待つというこの勝負。どちらが有利なのかは改めて言うまでもないことだ。
だから俺は、この耐久勝負を長門に挑んだのである。無謀にも長門は、そうとも気づかず俺の術中にとびこんで来た。そこがチーズのぶら下がった鉄格子の中だとも知らずに。
俺は待つ。長門がしびれを切らして立席するのを、2日でも3日でも待ってやる。それで50万が手にはいるのなら安いもんだ。
俺は確信していた。この50万は、もうすでに俺の物なのだ。
長門ざまあwwww

 


「………兄貴が今なにを考えているか。当ててあげようか?」
不意に、勝利を確信し内心でほくそ笑む俺に対し長門が挑戦的なセリフを吐いてきた。なんだ、ここにきて心理戦にでも持ち思うという腹か? 無駄無駄!
お前に俺の思考が分かるてんなら、ぜひとも拝聴しておきたいところだな。俺は一体、なにを考えていたのかな?
「………自分は本職の探偵だから、一般人に毛が生えた程度の長門有希になど負けるはずがない。そう思っていたんでしょ」
はて、そんなこと考えてたかな? どうだろうねえ。人間は刻々と変化をつづける生き物だからねえ。ひょっとしたらそう考えていた時期が、かつてあったかもしれないけれど忘れちゃったなあ。
「………ふっ」
俺のすっとぼけた返答に憮然とするかと思いきや、長門は予想に反して無表情のまま余裕ある鼻息をもらして俺に応じたのだった。
こいつ、なにを笑っているんだ。この勝負、俺の方が圧倒的に有利であると分かっているのなら、これほど余裕でいられるはずもないのに。ブラフをかましたってこの状況が一変するわけでもないから、俺を刺激したってなんの解決にもならないことは分かっているはずだ。
やけになって、最後の反抗に出たつもりなのか? ぬるい。あまりにもぬるすぎる。

 

その時だった。ほとんど不意打ちと言ってもいいだろう。それくらい絶妙のタイミングで、それはやってきた。やってきた、なんて生ぬるいもんじゃない。急襲をかけてきたとでも言うべきか。
俺の下腹部に鈍痛がはしる。こ、この猛烈な不快感は……便意?
「………ふふん」
小さく声をもらす長門。今の今になって、俺はようやく長門の強気の正体を知った。 その瞬間、頭からさっと血の気が引く。
机の上に茶の入った急須はあるが、湯飲みは俺の物だけしか無い。長門の前には湯飲みがない。つまりこの急須のお茶を飲んだのは俺だけということだ。
「………このお茶は、なつめぐ茶、番茶、どくだみ茶などを私が独自にブレンドした特性の茶。利尿効果は抜群。とても健康的」
ぬあああぁぁぁぁ、しまったあ!!
こここの谷口さまともあろうお方が、こんな初歩的なトラップにミートインするとは!! なんたるイージーミス!
「………兄貴がこういう勝負にもちこもうとすることは予想できていた。私の方が一歩先を読んでいただけのこと」
えひん! 猛烈な催しが、ボクのピストル部分をノックする!
「………あまり我慢しない方がいい。一度暴れだした尿意が容易に収まらないことは、長い人生経験で知っているでしょう」
うぅぐう! ふぬああぁぁぁ! おおれおれおれ、俺は、貴様のような、卑劣な地獄の番犬ごときには敗北せぬぞぉ!!
日常生活ではありえないほど股関節をパンプアップした俺に、長門は無慈悲な冷たい笑みを向けるのだった。
「………もう一度言う。無理はしない方がいい」

 

俺は自分がじっとりと額に脂汗を浮かべ、青い顔でぷるぷる震える姿が簡単に想像できた。こんな格好で意地をはってもみっともないだけだ。長門は俺が席を立つのをほくそ笑みながら待っていることだろう。
くそ、悔しいが状況判断を誤り、自分を過信しすぎた俺のミステイクだ。この勝負は俺の完敗だ。
だが、俺にもまだ切り札はある。秘中の秘の奥義だからして、できれば一生涯封印しておきたい大技だが、こうなってしまってはしかたあるまい。
長門はさらに畳み掛けるように、兄貴分である俺を小馬鹿にしたような様子でお茶をすすめてくる。
「………もう一杯どう?」


ふ、ふふふ。それで勝ったつもりか、長門……。本当にこれで終わったと思っているのなら、笑止千万だぜ。
お前はうまいこと俺をブービートラップにはめたつもりだろう。確かにいい手だったよ。さすがの俺もこの展開は予想できなかった。だがな。ふふふ。これで谷口探偵を凌いだと勘違いするなよ! 俺にはまだ最終手段が残されているのだ!
「………この期におよんで何を。おとなしく負けを認めれば、お土産にウォンバットの木彫り人形くらい買ってきてあげたのに。そこまで言うのなら、兄貴の奥の手とやらを見せてもらう」
いいだろう。ひっひっふー、ひっひっふー……。後になって後悔するなよ。
俺は左手で股間のマグナムをおさえつけた状態で、ふるえる右手を勇ましくも持ち上げ、人差し指で長門をさした。

 

お前に負けるくらいなら、俺はこの場で 【禁則事項です】 をもらす!!

 

長門の動きと空気が、一瞬にしてかたまった。

 

 

うっとうめき声を漏らし、怪しげでありつつも悩ましげに身をひねると、弾かれたように長門がおろおろと動きだした。
「………そ、それは、人としてやっちゃいけないこと」
人としてやっちゃいけないこと? 馬鹿野郎! そんな常識論をふりかざすだけで探偵がやっていけるものか! お前も探偵を目指す若きエリートなら、それくらいのことは理解しろ! ミッション完遂のためならば、我が身やプライドなどどこへでも捨てちまえ!
それが無理だというなら探偵見習いなんてやめちまえ!
俺の説法を受け、ショックを隠せない長門は息をつまらせて後ろへのけぞった。
いかん、だんだん自分がなにを言っているのかも分からなくなってきた……ここ、このままでは、はあはあ、本格的にやばい橋をわたってしまいかねないぜはあはあはあ。
そこで俺は、最後の手段として長門にネゴシエイトを敢行した。
この交渉が決裂すれば、俺は50万どころか人としての尊厳自体を失ってしまいかねない。しかしそれでも、俺は長門に戦いを挑んだのだった。
今の長門はそうとうメンタル面にダメージを受けているはず。ここでさらに追い討ちをかけては、開き直られる可能性があり危険だ。なら、今は妥協案を提出して両者引き分け条約締結を狙うのが上策にちがいない。
俺にも、もう、それほど余力はのこされていないわけで………

 

なあ、長門。ひとつお前に提案があるんだ。このままだと、俺もお前も、人としてなんだかとっても大切なものを失ってしまうような気がするだろう。俺だって本当は年甲斐もないことはしたくない。お前だってショッキングな衝撃シーンを目の当たりにしたいとは思わないだろう。
だから、ここらで手打ちといこうや。俺から提案がある。
今度の休みに、俺がお前を国内旅行に連れて行ってやる。オーストラリアのエアーズロックほどじゃないが、それでもなかなかに良い景観が臨める山にだ。
そこに行って、お前がまったくもって笑止なほどにつまらなかったと感じたなら、この50万はそっくりお前にくれてやる。だが、その旅行に満足したなら、この50万は俺の物。そういう取り決めでどうだ?
鬼気迫る形相でそう語る俺の気迫におされ、長門はしばらくの逡巡のあと、渋々という感じでうなづいた。
本当だな!? 本当にそれでいいんだな!? もし旅行が楽しかったのに、後になって 「つまらなかった」 とか嘘を言い出すんじゃないぞ、分かってるな!?
「………わかったから。わかったから、早くトイレに行ってきて。私は気が気でない」
絶対だな、絶対だぞ! としつこく念をおしながら、俺は前かがみで青い顔のままトイレに駆け込んだのだった。

 

~~~~~

 

 

トイレの中で至福のときを味わいつつ、俺は考えていた。
ふふふふふ。あの場は長門も焦っていて冷静な思考をたもっていられなかっただろうが、やはりこの勝負は俺の勝ちだな。
長門は天性の旅好きだ。あのワタリバッタ人間が、未知の土地への旅行をつまらないと感じるわけがない。
とにかく俺は、長門のご機嫌をとるように計らい続けるのだ。さすれば長門は上機嫌で旅を満喫し、しれっとあの50万円を俺に手渡すにちがいない。
完璧な作戦ではないか。ぐふふと笑い、俺は心の中でぺろっと赤い舌を出した。

 


しかし。ああなんてこった。俺は気づいていなかったのだ。
この旅行が、あんな悲劇の幕開けになろうとは……。

 


 ~つづく~

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最終更新:2007年11月01日 19:58