~第一章 朝比奈みくるの暴走~



「このアホキョンが! あんたはなんでいつもいつも遅刻してくるのよ。今日なんか集合時間を過ぎてるじゃない!」
「すまん、だが、いつもいつもというのは言い過ぎじゃないか。いつもは時間どおりにきてるじゃないか」
「何言ってんのよ、いつも一番最後に来るじゃない! 一度でもあたし達より先に来たことがある?」
いつもの喫茶店での、いつもの風景。あたしがキョンを怒鳴りつけて、キョンがあたしに弁明する。本当は本心からキョンのことを怒ってるわけではないの。
ただ、キョンがあたしの想いに気づいてくれなくて、そのことがもどかしくていつもこうなってしまう。
素直になれないあたしも悪いんだけど、キョンがあまりにも鈍感すぎるのよね。
でも、今日のこの日はいつもと事情が違い、日常の反復を覆す予想外の出来事が起こった。突然、みくるちゃんがあたしとキョンの間に割って入って、キョンを庇いだしたのだ。
「ちょ、ちょっと涼宮さん、その言い方はあまりにもキョンくんが可哀想です。もっと優しく言ってあげてもいいのでは………」
突然のみくるちゃんの物言いに、あたしは一瞬唖然としたが、気を取り直していつもの調子でみくるちゃんに矛先を変える。
「何、みくるちゃん、あたしに逆らう気なの」
「い、い、いえ、そんなつもりじゃ………」
「ちょ、ちょっと待て、ハルヒ。朝比奈さんは関係ないだろ。悪いのは俺だ。だから朝比奈さんに当たるのは止めてくれ」
すかさずキョンがみくるちゃんを庇いだした。そのキョンの行動を見て、あたしの脳裏にある光景が蘇る。
実は数日前に、あたしはキョンの中学の同級生だった佐々木という娘に、学校からの帰宅途中に、偶然街中で出会ったのだ。いつもはSOS団の誰かといっしょに帰るのだが、この日は珍しく一人だった。
この時、あたしは彼女に気づかなかったが、彼女のほうからあたしに声をかけてきた。そしてしばらく他愛ない話をした後、彼女は思いがけないことをあたしに言ってきた。
「涼宮さん、どうやら僕達はライバルのようだね」
「え!?」
「涼宮さんがキョンのことを好きだということは、キョンに対する話し方や話の内容、行動、仕草を見ていれば、すぐわかるよ。
僕も彼に好意を持っているんだ。だから僕達はキョンを巡るライバルということになる」
「あ、あたしは別に……」
佐々木さんの言葉を聞いて、あたしが咄嗟に否定すると、彼女はわざとらしく驚いた仕草をしてあたしに尋ねた。
「おや、じゃあ、僕がキョンをもらってもいいのかい」
「そ、それは………困る……」
彼女はあたしの困惑する様子を見ると、少しハニカミながら、右手を差し出した。
「じゃあ、ライバルということだね」
「そ、そうね、これは宣戦布告ということかしら」
あたしの言葉を聞いて、彼女はふふふと笑った。その後、また他愛ない会話を交わした後、彼女は別れ際にあたしにこう告げた。
「キョンは鈍感だから、涼宮さんも苦労しているんじゃないかな。でも、僕の中学時代の経験から言わせてもらえば、キョンの好みは涼宮さんといつもいっしょにいる朝比奈さんという娘みたいだね。もしかしたら、彼女こそが僕達にとって最大のライバルなのかもしれないね」
最後の言葉「彼女こそが僕達にとって最大のライバルかもしれないね」というフレーズがあたしの脳裏にこだまする。
そ、そんなことがあるわけないわ。例えキョンがみくるちゃんに憧れていたとしても、みくるちゃんほど器量のいい女の子がキョンなんかを選ぶとは思えないし……
それにキョンだって自分がみくるちゃんと釣り合わないことぐらい承知しているはずよ。だから大丈夫なはず。
あたしはふたりをジトッと睨みつけて、なるべく嫌味に聞こえるようにキョンに文句を言った。
「ふーん、ふたりとも仲がいいのね。だったらふたりとも交際宣言でもすればいいのに」
あたしがこう言うと、思わぬところから声がかけられた。
「涼宮さん、今の発言はおふたりの交際を団長としてお認めになるということですか?」
古泉くんが予想外のことをあたしに尋ねてくる。いつのまにか有希までがあたしの方をじっと凝視していた。
「うっ」
一瞬言葉に詰まったが、こういう状況になってしまったからには後には引けない。性格的にも、雰囲気的にも。
少し躊躇いながらも、あたしは腕組みをしてそっぽを向きながら、古泉くんの言葉を肯定する。
「そ、そうね、どうしてもふたりがつきあいたいと言うのであれば、認めてあげなくもないわ」
「そうですか、安心しました。実は僕もおふたりの仲が単なるSOS団の仲間以上のものがあると常々思っていたのですよ。
ですから、それを涼宮さんにどう伝えようかと苦慮していたのです。偶然とはいえ涼宮さんに認めていただいて、僕も肩の荷が下りるというものです」
「そ、そう、あたしだって何が何でも恋愛を認めないというわけじゃないわ。もし、どうしてもふたりがつきあいたいと言うのなら、好きにすればいいと思うわ。どうなのみくるちゃん?」
動揺を隠しつつ、みくるちゃんに尋ねると、みくるちゃんは少しおどおどとしながら、
「え、ええと、じゃ、じゃあ、キョンくんとの交際を認めてください」
と言い出した。その言葉を聞いて、あたしは愕然として体中の力が抜けていくような感じがした。
まさか、みくるちゃんがキョンに好意を持っていたなんて思っていなかったからだ。てっきりキョンが勝手に憧れているだけだと思っていたのに……
でも、問題はキョンがそれを受けるかどうかだ。キョンが自分の身の丈を考えて拒否するかもしれない。
それに……これはあたしの希望的観測だけど、もしかしたらキョンはあたしに好意をもってるかもって思うこともあるし……
あたしは儚い期待を込めてキョンに尋ねる。
「キョ、キョンはどうなの?」
キョンはあたしの言葉を聞き、みくるちゃんと古泉くんを順番にチラッと見た後、少し考えるような素振りをして、あたしの質問に答えた。
「ああ、俺にも異論はない」
脆くもあたしの期待は打ち破られることになった。確かにキョンはみくるちゃんのことを天使だの何だのと褒めちぎっていたからこうなることは予想できたはずなのに……
キョンの言葉を聞いて、あたしは自分の軽率な発言を心の底から悔いることになった。だが、いまさらどうしようもない。
「そ、そう、じゃあふたりが交際することを認めるわ。で、でも、団の活動に支障をきたさない程度にしなさい」
あたしは流石に動揺を隠し切れず、裏返った声でそういうのが精一杯だった。
その後、いつものようにくじ引きが行われ、ふたつのグループに別れて、不思議探索へと出かけた。
しかしあたしは、この後のことは、ほとんど何も覚えていない。キョンとみくるちゃんがつきあいだしたということで頭が一杯だったからだ。
そして翌日からあたしは憂鬱な日々を過ごすことになる。




翌日、あたしが、昨日あった出来事に頭を悩ませながら、学校へ行くと、キョンは普段と何も変わらない様子で、あたしの前の席に座っていた。
その、いつもとまるで変わらないキョンの態度を見ると、昨日の出来事が嘘のように思える。もしかしたら、昨日のことは夢の出来事だったのかとさえ思えた。
しかし、放課後になると、昨日あたしがとった行動がいかに浅はかであったかと言うことを痛感させられた。
いつものようにSOS団の本拠地である文芸部室に行き、そのドアを開くと、室内には有希と古泉くんがいた。
「あれ、キョンとみくるちゃんは?」
あたしは、なるべく平静を装いながら、古泉くんにそう尋ねると、古泉くんは、部室内を見回すような仕草をしながら、気にする風でもなく、こう言った。
「おや、そういえばおふたりはまだ来ていませんねえ。どうしたのでしょうか」
「昨日、ふたりは交際宣言をした。野暮な詮索は慎むべき」
すかさず有希が、いつものように本を読みながら、あたしと古泉くんの会話に割り込んできた。
「確かにあたしはふたりの交際を認めたけど、それはSOS団の活動に支障が出ない範囲でという条件付よ」
あたしがふたりにそう言うと、有希は顔をあげてあたしに反論する。
「この時間に全員が揃っていないことはよくあること。いまのところ、ふたりの行動が支障をきたしたとは言い難い」
「長門さんの仰るとおりだと思いますよ。それに折角おふたりの交際を認められたのですから、もっと大きな心で見守ってあげてもいいのではないでしょうか」
ふたりの奇妙な連携による反論を受けて、あたしは言い返すこともできずに、団長席に座った。しばらくすると、ふたりが揃って文芸部室へとやって来た。
「キョン! あんたいったい何処で何をしていたのよ!」
あたしが机を叩いて立ち上がり、そうキョンに詰問すると、キョンは驚いたような表情で答えた。
「な、なにを言ってるんだハルヒ、俺は今日、掃除当番だから遅れると言ったじゃないか」
「じゃ、じゃあ、なんでみくるちゃんといっしょなのよ」
「なんでと言われても……偶然そこで会っただけだ。他意はない」
「そ、そうですよ涼宮さん、別にわたしはキョンくんと何もしてないです」
みくるちゃんが咄嗟にキョンを庇った。有希と古泉くんが無言でじっとあたしの方を見つめている。その様子を見て、あたしはそれ以上何も言うことができず、椅子に座った。
言いようのない孤独感があたしを襲う。普段から目にしているはずのキョンとみくるちゃんのやりとりのひとつひとつがあたしの心を掻き乱す。
しばらく団長席に座っていたが、あたしはいたたまれなくなって、何も言わずに文芸部室から飛び出すと、そのまま一目散に帰宅の途についた。
なぜ、なぜあんなことを言ってしまったのだろう。本当はあたしもキョンのことが好きなのに……
あたしは家までたどり着くと、着替えることもなく、そのままベッドに突っ伏した。後悔の念が後から後から沸き起こり、涙が溢れてくる。
その日以来、あたしはキョンとみくるちゃんがいっしょにいることについて、何も文句をいうことができなくなった。
それから数日して、あたしがいつものように食堂で昼食を食べていると、キョンとみくるちゃんが、手を繋いで、食堂に入って来た。ふたりはあたしに気づいていないようだった。
ふたりはあたしの近くの席に向かい合う格好で座り、楽しそうに会話を始めた。思わずあたしは聞き耳を立てる。
「キョンくん、実は鶴屋さんが来年から東京に転校してしまうそうなんですよ。そうなったらわたし、頼れる人がいなくなってしまうんっじゃないかって、毎日不安で一杯なんです」
みくるちゃんが、そう言いながら、上目づかいでキョンに甘えると、キョンは満更ではないという様子で、
「心配ありませんよ、朝比奈さん。SOS団のみんながいるじゃないですか。それに、鶴屋さんのかわりにはなれないかもしれませんが、俺にできることなら何でもします。だから心配しないでください」
などとほざきだした。あたしにはそんな優しい言葉を一度もかけてくれたことはないくせに……
ふたりの会話を聞いていて、あたしは、それを盗み聞きしている自分が、あまりにも惨めで情けなく思えてきて、昼食が残っているにもかかわらず、食堂から逃げ出した。
その日から、あたしはふたりに会うのではないかと思い、食堂にすらいけなくなってしまった。
あたしは、できるだけふたりに会わないように気をつけていたが、それでも学内のいたるところでふたりの姿を目にする機会に遭遇した。
ふたりを目にする度に、ふたりの関係が進展し、距離が少しずつ縮まっていく様子が手にとるようにわかった。
この頃になると、キョンとみくるちゃんの関係は学校中の噂となり、谷口なんかが
「キョン、お前いつから朝比奈さんとそういう関係になったんだ。俺はてっきり、お前は涼宮とつきあうものだとばかり思っていたのに……」
などと言って、あたしの神経を逆なでしてくる。
あたしはついに我慢できなくなり、SOS団のメンバー全員が揃っている前で、机を叩いて立ち上がると、大声でこう宣言した。
「キョン! みくるちゃん! やっぱりあんた達の交際は認められないわ!!」
一同の視線があたしに集中する。
「それはいったいどういうことですか? 一度は交際を認められたはずでは……」
古泉くんが大仰にリアクションをとりながら、あたしにそう問い掛ける。
「た、確かに一度は認めたけど、やっぱり駄目だとわかったの!」
「おいハルヒ、それはあまりにも身勝手じゃないか。せめて理由を言ってくれ。じゃないと俺達は納得できない」
「それは……」
あたしは、キョンの言葉を聞いて一瞬視線を逸らしたが、意を決してキョン視線を移すと、自分の思いをキョンにぶちまけた。
「それは……あたしがあんたのことが好きだからよ!」
あたしは羞恥心で顔が真っ赤になり、俯いてそれ以上喋ることができなかった。みんなの前でキョンへの好意を告白したことも恥ずかしかったが、何より自分がいかに勝手なことを言っているかを十分理解していたからだ。
おそらくみんなは、白い目であたしを見ているだろう。時間にしてほんの数秒程度であろうが、あたしにとって、気の遠くなるような長い時間が過た後、古泉くんがあたしに声をかけた。
「涼宮さん、顔をあげてください」
その声は、あたしの予想に反して、優しく感じられた。あたしが顔をあげると、有希と古泉くんがあたしのほうを見ていた。
だが、それは自分勝手なことを言い出したあたしを責めようとする視線でないことは一目でわかった。
「安心してください、涼宮さん。いままでのおふたりのことは全て演技です」
「え、どういうこと?」
あたしがわけのわからないまま尋ねると、古泉くんはこれまでの事情をあたしに解説し始めた。
「実は、涼宮さんと彼がお互いに好意を持っていながら素直になれない状況を、僕達は、時にはあきれながらも、ずっと見守ってきました。
しかし、このまま高校生活が終わってしまえば、おふたりとも離れ離れになり後悔なさるのではないかと思い、ある方の助言をもらって、僕が一計を案じたのです。
すなわち、朝比奈さんが彼とつきあうことにより、涼宮さんに自分の気持ちに素直になってもらおうとしたわけです。
僕と涼宮さんがつきあって、彼に告白してもらうという方法もあったのですが、彼は意外に頑固な面もありますから、失敗する可能性を鑑み、却下しました。
それに、魅力的な涼宮さん相手では演技ですまない可能性もありますしね」
そう言いながら、古泉くんはあたしに微笑んでみせた。
「じゃ、じゃあ……いままでのは全部……」
古泉くんは、少し申し訳なさそうに頷いた。
あたしは、ふたりの仲が演技だったということを知った嬉しさや、騙されたことに対する怒り、みんなの前でキョンに対する想いを暴露させられた恥ずかしさで、頭がこんがらがって、咄嗟に言葉が出なかった。
「まあ、そういうわけだハルヒ。ひとりだけ仲間外れにしたのは申し訳なかったが、これからもよろしくな」
キョンがハニカミながらそう声をかけてくれたことで、あたしは、騙されていたことなどどうでもよくなり、嬉しさがこみ上げてきた。
「キョン……」
あたしがキョンのもとに駈け寄ろうとしたとき、
「嫌!」
みくるちゃんが俯いたまま、そう叫んだ。一同の視線がみくるちゃんに集中する中、みくるちゃんは顔を上げると、涙目をして、あたし達に訴えるように、自分の気持ちを吐露し始めた。
「わたしもキョンくんのことが好きなの。だから、だから、いまさらキョンくんと別れるなんてできない!」
みくるちゃんの言葉を聞いて、普段は表情の変化を見せない古泉くんが、驚愕の表情で、みくるちゃんを見た。いつも無表情の有希さえも、少し驚いた顔で、みくるちゃんを見ている。
「キョンくんだって、わたしといて楽しかったはずだわ。だから、だから、わたしからキョンくんを奪わないで!!」
「朝比奈さん、いきなり何を言い出すんですか。彼のことは最初から諦めると言う約束じゃないですか」
咄嗟に古泉くんがみくるちゃんに反論する。しかし、みくるちゃんは引き下がらなかった。
「そうよ、わたしも最初はそのつもりで納得していたわ! でも、理屈じゃないの。もうキョンくんのことを諦めるなんてできないわ!」
「いまのあなたの判断は合理的であるとは言い難い。時間をおいて冷静に判断することを推奨する」
有希もみくるちゃんを説得しようと試みるが、みくるちゃんは諦めきれないといった表情で、よろよろとキョンのほうに近づいていく。
その姿がとても痛々しく思えた。好きな人に振り向いてもらえない哀しさを、あたしはよく知っていたからだ。
みくるちゃんの姿がこの数日間のあたしの姿とだぶって見える。だからあたしはついついみくるちゃんに助け舟を出してしまった。
「ちょ、ちょっとみんな落ち着きなさい。も、もし、みくるちゃんがキョンのことを好きなのなら、正々堂々としょ、勝負すればいいじゃない。あ、あたしは負ける気はないけど……」
あたしはそう言いながら、もしキョンがみくるちゃんを選んだらどうしようと、不安になったが、みくるちゃんは、恨めしそうにあたしの方を向くと、震える声で感情を露にした。
「そ、そんなことできるわけないじゃないですか。涼宮さんは卑怯だわ。キョンくんの一番近くにいながら、わたしにそんなことを言うなんて………」
正直、このときはみくるちゃんの言っていることを理解できなかった。
あたしがみくるちゃんの言動の意図を探ろうとしていたとき、突然、有希が何かに気づいたように立ち上がり、厳しい口調で叫んだ。
「朝比奈みくる! それ以上彼に近づくべきではない! それ以上近づくようなら、わたしはあなたを敵性と判断せざるを得ない!」
みくるちゃんは、有希の言葉を聞いて、一瞬ビクッとなったが、意を決したようにキョンに向かって走り出した。
「朝比奈みくるの情報結合を解―――――」
有希が奇妙なことを言い終わる前に、みくるちゃんはキョンの腕を掴むと、あたしの目の前からキョンといっしょに姿を消した。
あたしが目の前で起こった出来事に、驚愕のあまり言葉を失っていると、有希と古泉くんが小さくつぶやいた。
「迂闊」
「しまった」
そのつぶやきを聞き、あたしはふたりのほうに視線を向けると、古泉くんが、あたしの視線に気づき、ちょっと気まずそうな表情をした。
「ど、どういうことなのか説明してくれる。ふたりは……キョンはどこにいったの」
「涼宮さん、まず落ち着いてください。いまからすべて説明します。だから、落ち着いて最後まで聞いてください」
そう前置きした後、古泉くんはあたしの能力のことやSOS団三人の正体、いままでSOS団で起こったことの真相などを説明してくれた。
通常であればとても信じられるような話ではなかったが、有希が目の前で見せてくれた情報操作やキョンとみくるちゃんが消えたことで、あたしは信じざるを得なかった。
「で、どうすればキョンを助けることができるの? あたしの能力を使えばできるの?」
あたしが尋ねると、古泉くんは首を横に振りながら、あたしの提案を否定した。
「残念ながら、僕や涼宮さんは未来の世界や時間移動の方法を詳しく知っているわけではありません。
ですから下手にその能力を使えば、まったく無から彼を創造してしまうことになりかねません。そのようなことは涼宮さんも望んでいないのではないですか」
「じゃ、じゃあいったいどうすればいいのよ! このまま打つ手なしなんていうのは認めないから!!」
あたしがそう叫ぶと、古泉くんは、ちょっと躊躇しながら、困惑した表情で、解決方法を提案した。
「ひとつだけ方法があります」
「そ、それは、いったいどうすればいいの」
「彼の中学時代の友人の佐々木さんという方を覚えていらっしゃいますか。彼女の取り巻きのひとりに藤原という未来人がいます。
彼に頼めばなんとかなるかもしれません。しかし……」
「そ、そうなの。じゃあ、いまからさっそく頼んでみてくれないかしら」
「しかし、先ほども説明したように、彼らは我々とは敵対している存在なのです」
「でもそれしか方法はないんでしょ! だったら駄目でも頼んでみるしかないじゃない!」
あたしが少し感情的に口調を荒げると、古泉くんは仕方がないといった様子であたしの提案を受け入れた。
「わかりました。ではいまから彼らに連絡をとってみます」
そう言って、古泉くんは部室から出て行った。あたしが有希の方に視線を向けると、有希は申し訳なさそうにこうつぶやいた。
「今回の責任の一端はわたしにある」
「有希が責任を感じる必要はないわ。大丈夫、きっとうまくいくわ」
しばらくして古泉くんが部室に帰ってきた。連絡がつき、いまから会う準備ができたと告げたため、あたしたちは待ち合わせ場所となったいつもの喫茶店へと向かった。
学校を出たとき、最後尾を歩いていた有希が突然立ち止まり、振り返って北高の校舎を眺めた。その有希の様子に気づき、あたしは声をかける。
「有希、どうしたの、早く来ないとおいていくわよ」
あたしがそう声をかけると、有希は「気のせい」と一言つぶやいて、あたし達のほうへと駆け出した。





~第ニ章 SOS団 VS 佐々木団~



あたし達がいつもの喫茶店にたどり着くと、彼女達は既に喫茶店の一席に陣取っていた。
喫茶店に入り、キョンの中学時代の知り合いの佐々木さんの前の席に座る。
佐々木さんについては、たまにキョンのことについて他愛ない話をしていたので、面識があるものの、彼女の周りにいる連中についてはよく知らなかった。
女の子ふたりについては駅前で一度であった記憶があるが、はっきりとは覚えていないし、不機嫌そうにこちらを睨んでいる男についてはおそらく初対面だろう。
確か、髪の長い娘が周防九曜さんで、ツインテールの娘が橘京子さんだったと記憶している。
しかし、こんな突拍子もない話を佐々木さんや、他の娘達が信じてくれるだろうか。古泉くんの話では彼女達のひとりは未来人という事らしいが……
佐々木さんはそのことを知っているのだろうか。冗談だと一笑に付されるか、もしくは頭のおかしい人と思われるかもしれない。
あたしだって、目の前であんなことが起こっていなければ、こんな突拍子もない話を信じたりしないだろう。
そんな心配をしながら、あたしがどういう風に話を切り出そうかと迷っていると、古泉くんがあたしの代わりに部室での状況を話し始めた。
「…………と言うわけで、そちらの藤原さんにご協力をお願いしたいと思い伺ったわけです」
古泉くんの荒唐無稽ともいえる話を、目の前にいる四人はさも当然のように聞いていた。その様子を見て、驚くとともに、いままで自分ひとりだけが仲間外れにされていたような疎外感を感じた。
古泉くんの話を聞き終わった後、佐々木さんは藤原と呼ばれた男子におもむろに尋ねた。
「聞いてのとおりだ、僕は涼宮さんに協力してあげたいと思っているのだが……どうだろう君にキョンと朝比奈さんを連れ戻すことはできるかい?」
「難しいな。朝比奈みくるがどの時間平面に逃げたかがわからなければ、追いかけることすらできない」
ふたりの会話を聞いている限りでは、キョンを連れ戻すことは難しいことがわかった。あたしが途方にくれていると、橘さんが横からふたりの会話に割って入る。
「方法は無くはないですわ。涼宮さんの能力を一時的に借りれば、朝比奈さんを追いかけることは可能だと思いますよ」
橘さんは、そう言いながら、古泉くんの方に数秒だけチラッと視線を向けた。古泉くんはその視線に気づきながらも、ちょっと不機嫌そうな表情で三人のやりとりを見守っている。
「という訳だが、どうだい涼宮さん、僕達に協力してくれるかい?」
あたしが有希と古泉君の方を見ると、ふたりは小さく頷いた。
「わかったわ。どうすればいいかわからないけど、あたしにできることなら何でも協力するわ」
そう言うと、佐々木さんはあたしに右手を差し出してきて、微笑みながらこう告げた。
「じゃあ、交渉成立だね」
あたしは、ちょっと戸惑いながらも、その手を握って「ありがとう」とお礼を言った。
その後、あたし達は光陽園駅前の公園に場所を移して、あたしには全く理解できない儀式のようなことをする羽目になった。
あたしが佐々木さんの片方の手を握りしめ、佐々木さんはもう片方の手で藤原の手を掴んでいる。
「あなたの能力を佐々木さんを通じて藤原さんに移すイメージを頭の中で強く思い描いてください」
橘さんにそう言われたが、正直どうして良いかわからず戸惑っていると、後ろから古泉くんが小さな声であたしに耳打ちしてくれた。
「彼を助けたいと強く願ってください。そして、そのためにはあそこにいる藤原と呼ばれる未来人が万能な能力を持たねばならないと、自分に言い聞かせてください」
古泉くんの助言に従い、キョンを助けたいと一心に祈っていると、突然、藤原の姿が部室でのみくるちゃんとキョンのようにフッと消滅した。
そして次の瞬間、彼はキョンの腕を掴んで、キョンとともに姿を現した。あたしはキョンのもとに駆け寄り声をかける。
「キョン!!」
返事は無かった。どうやらキョンは気を失っているようだった。あたしは心配になり、古泉くんの方に視線を向ける。だが、古泉くんは橘さんの方を見ながら静かな声で言った。
「では、涼宮さんの能力を返していただきましょうか」
表情こそいつもの微笑を浮かべているが、敵意を剥き出しにして話しているのがわかる。それは傍から見ていても怖いくらいだった。
しかし、橘さんはそんな古泉くんの動じることなく余裕の笑みを見せつける。
「あら、古泉さん、あなたはいつからそんなにお人好しになったのですか。折角いただいたものを、そう易々と返すわけないじゃないですか。
これからは佐々木さんが涼宮さんの代わりとなって、この能力を継承するのですよ。ふふふふふ」
古泉くんは、橘さんの言葉を聞くと、呆れたように両手を広げて首を左右に振った。
「お人好しなのはあなたのほうではないですか、橘さん。あなたの隣にいる佐々木さんの方がよほど聡明なようだ」
「え!?」
橘さんは、不意をつかれたような表情で、佐々木さんの方を見ると、佐々木さんは、何でもない事のように、藤原の方をチラッと見てから、古泉くんに言った。
「つまり、誰が能力を継承するかは彼次第だと、あなたは言いたいんですね」
「そのとおりです」
「そんな、藤原はあたし達の味方です」
「そう思うのでしたら、直接彼に確認を取ってみればいかがですか」
橘さんは恐る恐る藤原に声をかける。
「あ、あなたは…あたし達を裏切ったりしないわよね」
その声を聞いて、藤原は不敵な笑みを浮かべながらこう言い放った。
「ああ、もちろんだ、僕はあんた達を裏切ったりはしないさ。仲間になった覚えはないからな。だから裏切ることなどできない」
「な……」
藤原の言葉を聞いて、橘さんの顔が絶望の色に染まっていく。それとは対照的に古泉くんと佐々木さんの表情は、まるで予めこういう事態を想定していたかのように冷静だった。
「僕は最初に言っておいたはずだ『力が存在するなら、それが誰にあろうと関係ない』とね。つまり僕が涼宮ハルヒの能力を継承してもいいわけだ。
すなわちそれは、僕がこの時間平面において神として君臨してもよいということだよ」
藤原がそういい終わるや否や、周囲の世界が一変した。空は灰色一色で覆われ、周囲の雑踏は消えうせ、静寂が辺りを包み込む。
閉鎖空間
一度キョンといっしょに迷い込んだあの世界が、いまあたしの周りに広がっている。
古泉くんの話を聞くまでは、あたしはあの出来事は夢だとしか思っていなかった。しかし、目の前に広がる異世界を見て、古泉くんの話が真実であるという確信をますます強めた。
「とりあえずお前達には消えてもらおうか」
藤原のその言葉を聞いて、あたしは自分の身体が動かないことに気づいた。どうしようこのままここで終ってしまうの。やっとキョンに会えたのに……
「藤原くんと言ったかな、あなたは未来人にの過去人に対する優位性は何だと考えているのですか?」
絶望的な状況にもかかわらず、古泉くんは淡々と藤原に質問を投げかけた。藤原が怪訝そうな表情で古泉くんを見る。
「未来人の過去人に対する優位性は唯ひとつ、これから起こる事を知っているということだけです。それを除けば過去人は圧倒的に未来人に対して優位性を保っている。
なぜなら、過去は未来を拘束するが、未来は過去に何らの影響も与えませんからね。そしていま、あなたは自ら自分の優位性を放棄したのですよ」
「何が言いたい」
藤原が睨みつけるのも構わず、古泉くんは淡々と解説を続ける。
「あなたは考えたことがありますか? あなたが未来の世界に生まれてくる確率がどれだけ低いかということを。もうすでに我々は手を打ってあるのです」
不敵な笑みを浮かべていた藤原の表情がだんだんと焦りの表情に変わっていく。
「ま、まさか!」
「そのまさかです。あなたは僕達を始末するよりも先に、未来の世界を確定させることにその能力を使うべきだった。一手、誤りましたね」
古泉くんがそういうのと同時に、藤原の姿が、さっき時間移動をしたときと同じように、スッと消え失せた。
それと同時に、周囲の世界に光が戻り、雑踏が帰ってくる。あたしは、目の前で起こる驚愕の出来事を、ただ茫然と眺める事しかできなかった。
この時になるまで、あたしは自分の周囲にこのような巨大な陰謀や権謀術数が渦巻いていることなど想像すらしていなかった。
不思議探索と称して、普段は非日常を追い求めていたにもかかわらず、現実にそれが目の前で繰り広げられるありさまを見て、あたしは穏やかだった日常が恋しいとさえ思えた。
「ううっ」
気を失っていたキョンが目を覚ます。
「キョン!!」
あたしがキョンのもとに駆け寄ると、キョンは怪訝そうな表情であたしの顔を眺めた。
「キョン?」
キョンはまるで知らない人を見るかのようにあたしの顔を見た後、辺りをきょろきょろと見回してから、佐々木さんに気づいて、彼女にこう尋ねた。
「佐々木、ここはいったい何処なんだ? 彼女は、いったい誰だ? お前の友達か」
「な……」
キョンの反応を見て、あたしは絶句した。にもかかわらず、キョンに声をかけられた佐々木さんは、まるでこうなることを知っていたかのように、驚いた様子も見せずにキョンに近づいた。
彼女はキョンに手を差し伸べて、キョンを立ち上がらせると、その胸に顔を埋めて、小さくつぶやくように、キョンの質問に答えた。
「キョン、彼女は涼宮さんと言って僕の旧い友人なんだ。君と彼女をちょっと面倒なことに巻き込んでしまった。
詳しいことは、いま教えることができないんだ。お願いだ、いまは何も聞かないでくれ。その時が来たら、君に全てを話すよ」
佐々木さんの言葉を聞いて、あたしは目の前で起こっていることが理解できなかった。彼女までが、あたしとキョンが関係ないことを前提とした会話をキョンと交わしだしたからだ。
いったいあたしの目の前で何が起こっているの。どうして佐々木さんはこんな不思議な現象が目の前で起こっているのに平然としていられるの。
頭の中に次から次へと疑問が生じているあたしをよそに、佐々木さんとキョンの、まるで恋人同士のような会話は進んでいく。
「わかった、いまは聞かないことにするよ。だが、佐々木、なんでもひとりで背負い込むのはよくないぞ。
俺の力が必要なときは遠慮なく言ってくれ。俺では頼りないかもしれないが、お前への協力は惜しまないつもりだ」
「ああ、わかった。じゃあ僕は、涼宮さんと話があるから、ちょっと外してくれないか」
キョンは、少し心配そうに佐々木さんを見た後、あたし達から少し離れたベンチに腰をかけた。
あたしは目の前のふたりの様子を何も言えずに見守るしかなかった。古泉くんも目を見開いてふたりの様子を見ていた。キョンが離れた後、あたしは佐々木さんに詰め寄って詰問する。
「どういうことなのこれは!! 説明して! なんでキョンはあたしのことを覚えてないのよ!!」
佐々木さんは、顔を横に向けてあたしから視線を逸らすと、一言「ゴメン」と小さくつぶやいた。あたしは佐々木さんの胸倉を掴み、さらに詰問を続ける。
「な、なんであんた謝るのよ! ちゃんと説明しなさい!!」
佐々木さんは申し訳なさそうにあたしの方を向くと、重い口調でいまの状況の説明を始めた。
「実は、僕達は長門さんと古泉くんが朝比奈さんを使ってキョンと涼宮さんをくっつけようと計画していることを知っていたんだ。
そして、朝比奈さんが、おそらくは最後に、長門さんや古泉くんを裏切るであろうことも予想していた。
そのときには藤原を頼って僕達のもとにやって来るということもね。だからそのときに涼宮さんの能力を頂いてしまおうと、これが橘さんの計画だった」
佐々木さんの言葉に驚きを隠せなかった。あたしはここに来るとき、佐々木さんがあたしの話を信じてくれるかという心配をしていたのに、彼女はあたし達の考えや行動まで把握していたことになる。
あたしは震える声で佐々木さんに尋ねる。
「な、じゃあ、あんたはあたしたちが来ることを最初から知っていたってことなの?」
「ああ、そういうことになる。だが、僕はおそらく藤原が裏切るであろうことは予想していた。そして古泉くんがそのことに手を打ってくることもね。
だから僕は、藤原に前もってひとつだけお願いをしておいたんだよ。朝比奈さんを追って時間平面を移動したとき、キョンの記憶を改竄するようにって。
藤原は僕の提案を快く引き受けてくれたよ。彼はそういうことを深く考えるタイプの人間ではなかったからね。
僕を媒介にして涼宮さんの能力を移したのは、彼が僕の提案を無視しないための保険だったんだ。そして、涼宮さん達が学校を出た時、九曜さんに頼んで情報操作をしてもらった。
だから、いまこの世界では、僕とキョンは同じ高校に通っていることになっている。僕の唯一の懸念材料は長門さんに気づかれることだったけど、上手く切り抜けられたようだ。
なぜ彼女が情報操作に気づかなかったのかは、大体想像がつくけどね」
佐々木さんはチラッと有希の方を見た。有希は無表情であたし達のやりとりを見守っている。
「じゃ、じゃあ、あたしとキョンのことを話したのも、もしかしたらあんた達の……あたしはあんたのことを友達だと思っていたのに……それも演技だったって言うの?」
あたしの言葉を聞いて、佐々木さんはあたしから目を逸らして俯くと、小さく消え入りそうな声でつぶやいた。
「すまない……確かに、僕が涼宮さんに会ったのは偶然じゃない。古泉くんのフォローをして、僕達の計画を……」
あたしは佐々木さんの言葉を聞いて、自分の内に沸き起こる怒りの衝動を押さえ切れなくなった。
右腕を大きく振りかぶり、まさに佐々木さんを殴ろうとした瞬間、あたしの右腕は誰かに掴まれた。
振り向いて、あたしの腕を掴んだ人物を見ると、ベンチに座っていたはずのキョンがそこにいた。
「何があったのか知らないが、暴力はよせ。佐々木だって女の子なんだ。女性に暴力をふるうのはよくない。まあ、お前も女の子だが……」
「いや、いいんだキョン。僕は彼女に殴られるだけのことをしてしまったんだ」
「いやしかし……」
キョンが佐々木さんを庇う様子を見て、あたしはキョンが、もうあたしの手の届かないような遠い存在になってしまったような錯覚に陥った。
そのことを認めたくなくて、あたしはすがるような思いでキョンに訴える。
「ねえキョン! どうして、どうしてそんな女を庇うのよ! あたしのこと忘れちゃったの! あたしの名前を呼んでよ、いつものように!」
キョンはあたしの言葉を聞くと、少し困った顔をして、
「スマン、俺はあんたのことはよく知らない。俺の記憶に間違いがなければ、今日が初対面のはずだ。確か……涼宮さんだっけ」
と、困惑気味に答えた。
『涼宮さん』
キョンの言ったこの言葉が、あたしを絶望のどん底へと叩き落した。あたしはそのまま体中の力が抜けるようにその場に膝をついた。
「涼宮さ……」
古泉くんがあたしの方に近寄ってきたが、何と声をかけてよいかわからず、戸惑っているようだった。あたしはその場で俯いたまま泣いていた。後から後から涙が溢れてくる。
そんなあたしの様子を見ていたキョンは、気まずそうにしながらも、古泉くんに「後のことは任せていいか」と尋ねた。
古泉くんは佐々木さんを睨みつけ、歯を食いしばるような仕草を見せた後、キョンに無言で首肯した。
キョンは古泉くんが首肯したことを確認すると、悲しそうな表情であたしを見つめている佐々木さんの肩を抱いて、あたしの前から離れていく。
いま、ここでキョンと別れてしまえばもう二度と会えなくなる。直感が、本能があたしにそう告げる。あたしは顔をあげると、必死に叫んだ。
「キョン! 待って! 行かないで!! あたしを置いて行かないで!!」
だが、キョンは振り返ってはくれなかった。
どうして、どうしてこんなことになってしまったの。これからキョンのいない日々を過ごすなんて、あたしには絶えられないわ。
どうしても、どうしてもキョンがあたしの前からいなくなるというのなら、
『みんな消えてしまえ!』
そう心に強く願った瞬間、周囲の景色が割れた窓ガラスのように崩れ落ち、あたしはベッドの上で目を覚ました。





~第三章 涼宮ハルヒの審判~



「夢………」
あたしが目を覚ましたとき、最初に思い浮かんだのは、いままでの出来事がすべて夢ではないかという、淡い期待だった。
確かに夢と考える要素はたくさんあった。キョンとみくるちゃんが突然目の前から消えたり、有希と古泉くんが自分達を宇宙人と超能力者だと言い出したり……
しかし夢だというのなら、いったい何処までが夢で何処からが現実なのだろうか。まさかキョンとみくるちゃんの交際を認めたあの日から夢だったということはないだろう。
いや、あたしはいままで目の前で起きた出来事が、すべて現実であると確信していた。なぜなら、いままでの出来事はすべて夢には無い現実感があったからだ。
では、いまこの現実の世界で、あたしの身に何が起こっているのだろうか。いや、それもあたしはよく知っているはずだ。
あたしは、夢と思われたあの出来事の最後の瞬間に、確かにこう願ったではないか。
『みんな消えてしまえ!』と
あたしは、自分の中にある確信めいた考えを誤魔化すかのように、頭を大きく左右に振り「あれは夢だった」と自分に言い聞かせながら、ベッドから這い出た。
いつものように朝食をとり、身支度を整えて、あたしは北高へと向かう。途中の坂道で、あたしは何度も何度も、自分に言い聞かせるように、小さな声でつぶやく。
「あれは夢、そう夢よ、あんなことが現実に起こるわけないわ」と。
坂道を登り終え、自分の教室に入ると、あたしの儚い希望は脆くも打ち砕かれた。あたしの前の席にキョンはいなかった。いや、キョンの席そのものが存在していなかった。
あたしはその光景を見て愕然となった。そして、いままでの出来事がすべて現実であると認めざるを得ない状況を、目の当たりにしてしまったことを知った。
茫然とその場に立ち尽くしていると、予鈴のチャイムがなり、岡部が教室へと入って来た。あたしはその場から逃げるように教室から飛び出した。
行く当ては何処にもなかったが、気がつくと、あたしは文芸部室のドアの前に立っていた。ゆっくりとドアを開け、中に入ると、団長席に誰かが座っていた。
「誰?」
パソコンのディスプレイに隠れて顔が見えないその人物に、あたしは恐る恐る声をかけた。彼女は立ち上がりあたしの方を見る。その姿はあたしそのものだった。
目の前にいるあたしは、後ろ手に手を組んで、微笑みながら、あたしの方へと歩み寄って来た。気がつくと周囲の風景は文芸部室ではなく、どこまでも何もない空間の広がる、異世界に変わっていた。
「あなたが望んだことがすべて現実になったはずのに、あなたは絶望に打ちひしがれているんですね」
彼女はあたしにそう告げた。
「あ、あんたはいったい誰?」
「あたしはあなたの影、そしてあなたそのものよ」
彼女は、あたしに無邪気な微笑をみせながら、そう答えた。
「キョンはどこ? 有希やみくるちゃんや古泉くんは、SOS団のみんなはいったいどこに消えたの?」
「彼らはみんな消えてしまったわ。あなたがそう望んだから。キョンも、有希も、みくるちゃんも、古泉くんも、鶴屋さんも、あの佐々木って娘も、その周りにいた人も。それがあなたの望んだことでしょ?」
「ち、違う、あれは一時的な気の迷いなの、あたしの本心ではないわ。だいたいあたしの能力はあの藤原とかいう奴に移ったはずじゃない。なのにどうしてこんなことになるの」
あたしが必死でそう叫ぶと、目の前のあたしは、優しくあたしに微笑みかけてこう言った。
「あなたの能力は誰にも移ってないわ。彼があなたの能力を使ってキョンを救ったのではなく、あなたが彼の願いを叶えることでキョンを救ったのよ。
あなたの能力は彼には使いこなせないわ。それに、あなた以外の誰かにあなたの能力が移ることを、あの人は望まなかったから」
そう言いながら、目の前のあたしは、ゆっくりとあたしに歩み寄り、吐息がかかるくらい近くに顔を寄せて、あたしに囁いた。
「あなたは知っているはずよ。この事件の真相を、そのすべてを。ただ、それを認めたくないだけ。あなたはあの人の望んだシナリオに沿って行動しているに過ぎないわ。でも、それでいいの?」
目の前にいるあたしは、首を傾げて、あたしに問い掛けた。その言葉は、あたしの心の奥底へと響いた。
「もう現実から目を背けるのは止めて、真実をすべて受け止めて。その結果、あなたが下した結論であれば、あたしはそのすべてを受け入れるわ。だって、あなたはこの世界の王なのだから」
そう言いながら、彼女はあたしを優しく抱きしめた。
「しばらくの間、世界を元に戻すわ。あなたは明日の日の出までに、選択しなければならない。キョンをこの世界に残すか、それとも他の全員をこの世界に残すか。もし選択できなければ、あなたはすべてを失うことになるわ」
そう言い終わると、彼女の姿はスッと消え去った。周囲の風景はいつも見ている文芸部室になり、あたしはいつの間にか団長席に座っていた。時計を見るともう放課後だった。
あたしは、何をするでもなく、ただ茫然と団長席に座っていた。しばらくして部室のドアが開き、有希が、続いて古泉くんが、最後にキョンが部室へと入って来た。
最初は、普段と同じように、有希は部屋の隅で本を読み、キョンと古泉くんはボードゲームをしていた。その光景だけ見ればいつものSOS団のように思える。
しかし、部屋の中には重苦しい空気が流れ、誰も一言もしゃべることはなかった。あたしは意を決して、さっきあった出来事をみんなに打ち上げようと立ち上がった。
「ちょ、ちょっとみんな聞いてくれる」
一同の視線があたしに集中する。あたしがいまあった出来事を話そうとするが、なかなか話せないでいると、古泉くんがあたしの代わりに要点をみんなに聞こえるように言った。
「今日、彼か僕達のどちらかが消滅する……そう言いたいんですね」
「え、どうしてそれを……」
「理由はわかりませんが、僕達はその事実を知ってしまっているのです。おそらくはこの事件にかかわった者全員が知っているはずです」
古泉くんの言葉を聞いて、有希とキョンを見ると、ふたりとも無言で頷いた。
「僕達は自らの運命を涼宮さんに委ねます。おそらく、佐々木さんを始めとする彼らも同じ気持ちでしょう。まあ、例え抗ったところでどうにもならないのですが……」
古泉くんの言葉があたしの心に重くのしかかったような気がした。
「僕達に気兼ねすることはありません。涼宮さんの望む方を選んでください。もとはと言えば僕達の招いた悲劇ですから……」
古泉くんが話している途中で、有希がパタンと本を閉じる音がした。と同時に、終業のチャイムが鳴り響き、みんなが帰り支度を始める。
「ね、ねえ、みくるちゃんはどうしていないの」
あたしが古泉くんに尋ねると、有希が横からあたしの質問に答えた。
「おそらく、朝比奈みくるは未来の世界で査問会にかけられているため、我々の前に姿を現すことはできないと推測される」
「そ、そう……」
有希と古泉くんはそのまま部室を出て行った。キョンは戸締りのために部屋に残った。
キョンが部室の戸締りを終え、帰り支度を済ませて帰ろうとするまで、あたしはその場に茫然と立ち尽くしていた。キョンはあたしの様子がおかしいことに気づいて声をかけてくれた。
「ハルヒ、帰らないのか」
いつもと同じような口調であたしに声をかけるキョンが、やけに懐かしく感じる。あたしは勇気を振り絞ってキョンに言った。
「……キョン……いまから……あんたの家に行っても……いい?」
あたしの言葉を聞いて、キョンは少しだけ動揺した様子を見せたが、すぐに優しく微笑んで、
「ああ、いいぞ」
そう言ってくれた。その言葉が、いまのあたしには唯一の救いのように思えた。その後、あたしたちは一言も話すことなく無言のまま北高の校舎を後にし、帰宅の途についた。
明日の朝にはもしかしたらキョンはいないかもしれない。明日もキョンといっしょにいるためには……でも、そんなことができるだろうか。
キョンひとりの存在が、彼ら全員の存在と等しいとは……しかし、そのためにキョンを犠牲にすることは……なによりキョンの立場なら、そんなことに納得するだろうか。
でも、みんなを救うためにはキョンを……そうなればキョンは……
そんな堂々巡りの自問が、あたしの頭の中をこだまする。部室で会ったもうひとりのあたしの言葉、なにかが心にひっかかる。
「着いたぞ、ハルヒ」
キョンに声をかけられて、あたしはキョンの家までたどり着いたことに気がついた。もう日は暮れているというのに、家の中には明かりが灯っておらず、人の気配がなかった。
キョンの後ろについて、家の中に入る。キョンの家に来たのは今日が初めてだ。そしてこれが最後になるかもしれないのだ。
キョンは家の中に入り、電気を点けると、あたしを自分の部屋へ案内した。キョンは部屋を出て行った後、しばらくして食事の盛られたお皿の載ったお盆を持って戻ってきた。
「御両親は?」
「法事で親戚の家に出かけたようで、明日の夜まで戻らないようだ。妹もいっしょに同伴したらしい」
「そう」
あたし達は無言のまま、キョンの運んできた食事を食べ始め、食べ終わった後、あたし、キョンの順番でお風呂に入り、その後は何をするでもなくキョンの部屋でしばらく時間を潰した。
夜も更けて、日付が変わろうとする頃、キョンがあたしに声をかけてきた。
「そろそろ寝ようか。妹の部屋が空いてるから、ハルヒはそっちで寝てもらっていいか」
「…………しないで……」
「え?!」
「ひとりにしないで!!」
キョンの言葉を聞いて、あたしは胸の奥から衝動が沸き起こってくるのがわかった。あたしはキョンの胸に飛び込むと、自分のありのままの感情をキョンにぶつけた。
「できない! あたしには選ぶことなんてできないよ! あたしはキョンのことが好き! 世界中の誰よりもキョンのことが好きよ!
でも、キョンといっしょにいるために、有希やみくるちゃんや古泉くんを犠牲にすることなんてできないわ!!
どうしてよ! どうして、あたしがこんな選択をしなくちゃいけないわけ! ついこの間まで、みんなでいっしょにいられたじゃない!
みんなで楽しく過ごすことができたはずなのに……あたしが何をしたって言うのよ!! どうしてあたしが、あたしだけがこんな苦しい思いをしなくちゃいけないのよ!!」
「ハ、ハルヒ……」
「うわあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ……」
あたしはキョンの胸の中で思いっきり泣いた。涙が枯れ果ててしまうのではないかと思うほど、後から後から涙が溢れてきた。あたしが泣いている間、ずっとキョンはあたしの背中をさすってくれていた。
どれぐらいそうしていただろう。あたしが落ち着きを取り戻して、キョンの胸から顔をあげると、キョンは静かな声で優しくあたしにこう言い聞かせてくれた。
「ハルヒ、どんなに言葉を尽くそうとも、俺にはお前の苦しみをわかってやることはできない。だが、俺にはひとつだけ、お前にしてやれることがある。
それは、もしお前がみんなのために俺を消してしまうことを選んだとしても、俺は決してお前を恨んだりしないということだ。
だから、もしそうなったときには、俺のことは忘れて、お前は自分の幸せだけを考えて、生きていって欲しいと思う。
もし、お前が俺に未練を残して、自分の幸せを逃してしまうようなことになったら、そのことが俺には一番辛いことなんだ。
こんなことを勝手に言っちゃあ怒られるかもしれないが、おそらく長門や古泉、朝比奈さんも同じように考えていると思うんだ。
だから、俺達に構うことなく、ハルヒは自分の望む方を選んでくれ」
「キョン……」
キョンの言葉を聞いて、あたしは少しだけ心が軽くなったような感じがした。そしてあたしのことを想ってくれているキョンが、普段にもまして、愛しく感じた。
あたし達はそのままどちらからともなく唇を重ね合わせ、そしてこの夜、あたしとキョンはひとつになった。





~第四章 それぞれの想い~



俺が目を覚ますと、すぐ近くに、俺を見つめているハルヒの顔があった。どうやらハルヒは、俺よりも先に目を覚まして、俺の寝顔を眺めていたようだ。
「ハルヒ……」
「おはよう、キョン」
ハルヒは俺に優しく微笑みかけると、ベッドから起き上がり、窓のカーテンを開けた。朝日に照らし出されたハルヒの姿は、その透きとおるような白い肌に陽光が反射して、女神と見間違えるほどに美しかった。
確か、ハルヒの選択は、今日の朝日が昇るまでだったはずだ。そしていま、俺はこの世界に存在している。……ということは、ハルヒは俺を選んだということなのだろうか。
ハルヒは、俺のほうを見ると、ちょっと哀しそうな顔をして、俺にこう告げた。
「キョン、あたしたち、もうお別れだわ」
だが、そう言ったハルヒの表情は、昨日までとは打って変わって、迷いの吹っ切れた表情のように見えた。
「あたしは一晩中悩んだわ。でも、どちらも選ぶことはできなかった。もちろんキョンといっしょにいたかったから、キョンを残そうと何度も考えたわ。
でも、あたしが好きなのは、有希やみくるちゃんにデレデレして、なんだかんだで古泉くんとは仲がよくって、あたしの想いになかなか気づいてくれず、目の前で佐々木って娘にまで気を使う鈍感なキョンなの。
だから、キョンを残す代わりにみんなを消してしまったら、キョンがあたしの知っているキョンじゃなくなってしまうような気がして、そうすることはできなかった。
でもね………」
そこまで言うと、ハルヒは俯き、次の言葉を言いよどんだが、意を決してように顔をあげると、まっすぐに俺を見て、言葉を続けた。
「あたしは一晩、考えて考えて考えぬいて、ようやく真実にたどり着くことができた。そしてあたしは自らの信念を持って決断を下したの。どちらも選ばないという決断を」
そう言ったハルヒの目には強い意志が込められているようだった。
「あたしはどちらも選ばなかった。だからすべてを失ってこの世界から消滅する。でも、あんたや他のみんなはこの世界に残ることができるわ。それがあたしの下した決断よ」
俺はハルヒの言葉を無言のまま聞いていた。しかし、最後にハルヒの気持ちを確認したくて、ハルヒに問い掛ける。
「ハルヒ……お前はそれでいいの、うぐ」
ハルヒは俺に歩み寄り、キスをして俺の口を塞いだ。そして俺の肩を抱いて微笑んだ。
「キョン、昨日あんたがあたしに言ったこと覚えてる。もしあたしが、みんなを残してキョンを消してしまう選択をしたらって話。
その時、キョンは自分のことは忘れて、あたしの幸せだけを考えてくれって言ったよね。いまのあたしも、あの時のキョンと同じ気持ち。
だから、そんな哀しい顔をしないで。笑って見送ってよ。あたしもキョンが哀しい顔をしていることが、一番辛いんだから」
目の前にいるハルヒは、慈愛に満ちた穏やかな顔をしていた。すべてを悟ったような、そんな表情だった。
「本当は、朝日が昇る前にあたしは消えてしまうはずだった。でも、神様が最後に、あんたにさよならを言う時間をあたしに与えてくれた。
あたしはみんなと出会えて幸せだったわ。あんたには感謝している。あんたのおかげで色んな思い出を作ることができたんだから……
だからキョン、あたしは………ううん、ちょっと目をつむって」
ハルヒは何かを言おうとして、少し言いよどんだ。俺が目をつむると、ハルヒは俺の首に両手を回して抱きついてきた。そして俺の耳元でこう囁いた。
「キョン、あたしはあんたのことを愛しているわ。この世界の誰よりも。だから………」
「え!?」
俺が驚いて目を開けると、そこにはもうハルヒの姿はなかった。ハルヒの最期の言葉を聞いて、俺は茫然自失のまましばらく身動きができなかった。
目覚ましの音がして、俺はようやく自分をとりもどし、学校に行く準備をすると、そのままいつものように玄関を出た。
外には黒塗りの車が止まっていて、その前には見慣れたふたりの姿があった。
古泉は俺の姿を見ると、少しだけ驚いた表情を浮かべたが、すぐに真剣な表情に戻り、俺に話し掛けてきた。
「涼宮さんはどうされ……いや、僕達を庇って涼宮さんが犠牲になられたのですね」
「………ああ」
少し間を置いて、俺は古泉の言葉を肯定した。
「そうですか……こんな結果になるとは……いや、僕達は心のどこかではこうなることを……」
「そんな言い方は止めろ。ハルヒは自らの意思でこの世界から去る決断をしたんだ。ハルヒの決断を無駄にするようなことは言わないでくれ」
俺が古泉の言葉を遮り、ふたりの間に沈黙が訪れる。しばらく見つめあった後、古泉が俺に心の内を打ち明けた。
「僕は涼宮さんのことが好きでした。でも、立場上、僕は彼女に自分の胸の内を打ち明けることはできませんでした。でも僕は、彼女の傍で、幸せな笑顔の彼女を見守っているだけで満足でした。
でも、これからは、そんな彼女の笑顔を見ることすらできないんですね………非礼を承知でお伺いします。涼宮さんは最期、どんな風にこの世界から去って逝かれたのですか」
古泉の質問を受けて、答えるのを少しだけ躊躇したが、
「笑顔で、ハルヒはこの世界から旅立って行ったよ」
と、答えた。古泉は俺の言葉を聞くと、涙がこぼれないように、空を見上げた。古泉が、俺の前で、こんな風に感情を露にするのを見て、少し意外に思った。
「そうですか……笑顔で去って逝かれましたか……」
古泉はそうつぶやくと、俺に泣き顔を見せないように、車に乗り込んだ。黒塗りの車が去っていき、俺と長門が取り残された。
長門は、少し俯き加減で、何か言いたそうに、俺を見ていた。
「長…門……」
俺が声をかけると、長門は、何かを言おうとして顔をあげたが、結局なにも言えないまま俺の前から走り去って行った。
ひとり取り残された俺は、憂鬱な気分を胸に抱いたまま、いつものように学校へと向かった。そして、その日から数週間ほど後に、俺はみんなの前で東京へ転校する意思を伝えた。




転校の準備がすべて整い、俺が新神戸駅から出発する日、古泉と長門、それに橘が俺の見送りに来てくれた。
「スマン、なんか俺だけが逃げ出すような格好で、みんなには申し訳なく思っている」
「仕方がありませんよ。あなたは涼宮さんの最も近くにいらしたのですから、彼女を失った悲しみは僕達の比ではないはずです。
だから、我々のことは気にしないで下さい」
古泉は、いつものニヤケ顔こそしていないが、普段の古泉に戻っているような気がする。だが、多少無理をしているような様子がなんとなく感じられる。
さすがの古泉でも、ハルヒを失ったショックからはそう簡単には抜け出せないようだった。
なにしろハルヒはSOS団のムードメーカーだったし、なにより俺達の学生生活はハルヒを中心に回っていたといっても過言ではないからな。
「朝比奈さんは?」
そう尋ねると、古泉は暗い顔をして、首を左右に振った。
「機関の総力をあげて探したのですが、いまだに行方不明です。無事だといいのですが……」
俺と古泉の間に沈黙が訪れる。ハルヒを失った後、朝比奈さんまで失うことになるのか。おそらくここにいる全員がそんな不安を感じているのだろう。
そんな空気を払拭しようと、俺は古泉の隣で心配そうな顔をしていた橘京子に別の話題を振った。
「そういえば、佐々木は今日は来ないのか」
俺がそう尋ねると、橘京子は、俯きながら、暗い表情で佐々木の近況を話してくれた。
「あの日から佐々木さんはめっきり塞ぎこんでしまいました。今日もあなたを見送りに行こうと誘ったのですが『僕はキョンに会わせる顔がない』と言って、結局あたしひとりで見送りに来ることになってしまいました。
本当は、あなたにこの街に残って佐々木さんを元気づけて欲しいのです。でも、自分のために、あなたが意に反してこの街に残ったことを知ったら、佐々木さんは余計に悲しむと思うから……」
橘京子の目は涙で潤んでいた。暗い話題ばかりが出て、その場の空気が沈んだような感じがした。そんな雰囲気を察してか、橘京子は笑顔を作って俺を励まそうとしてくれた。
「佐々木さんはあたし達が責任を持って立ち直らせます。だから……心配しないでください」
「……わかった、頼んだぞ」
しばらく沈黙が流れた後、「じゃあ、そろそろ行くわ」と言って、新幹線に乗り込もうとしたとき、長門が一歩前に歩み寄り、俺の袖を掴んだ。
「ん、長門?」
「あなたに謝りたいことがある」
不意に長門にそう言われ、予想外の出来事に俺だけでなく、古泉や橘京子も驚きを隠せないでいる。
「あなたが朝比奈みくるとこの時間平面から消失した後、わたしは九曜周防の世界改変に本来であれば気づくべきだった。
だが、そのときのわたしは、あなたが朝比奈みくると消えてしまったことに気をとられ、九曜周防の世界改変に気がつかなかった。
わたしは、朝比奈みくるの行動を阻止できなかったことに気をとられていたわけではない。あなたと朝比奈みくるが消えたことに気をとられていた。
いまになって、その気持ちがよくわかる。あの時のわたしは朝比奈みくるに嫉妬していたのだと。
だが、わたしの個人的な感情で、未然に防げたはずの惨事を防げなかったことを、あなたに申し訳なく思っている」
そう俺に謝罪する長門の口調は、どことなく今までと違って、人間味を帯びているような感じがした。
「気にすることはない。お前だけの責任じゃない」
俺がそう言うと、長門は少しだけ安堵したような表情を見せた後、
「もうひとつ、あなたに伝えておきたいことがある」
そう言って、長門は、ハルヒが決断を迫られた日に、俺やハルヒと部室で別れた後で、自分の身に起こった事を語りだした。
「涼宮ハルヒが決断を迫られたあの日、情報統合思念体は、涼宮ハルヒがあなたを消滅させる決断をするように働きかけろと、わたしに指令を出した。
わたしはそれを自らの意思で拒否したため、情報統合思念体は激怒し、わたしを処分する決断を下した。だから、本来であれば、わたしはここに存在できないはずだった。
だがわたしは、消失する瞬間の涼宮ハルヒによって、あなたと同じ一個の人間としての生を与えられた。それはかねてからのわたしの望みでもあった」
そこまで言うと、長門は少し間を置いた。この後に続く言葉を言おうか言うまいか迷っているようだった。
「わたしがあなたにとって涼宮ハルヒの代わりになるとは思わない。だがもし、あなたが行き場所を失ったときは、この街に戻ってきて欲しい。
わたしはいつまでもあなたのことを待っている。あの図書館で……」
そう言った長門の目からは涙が溢れていた。その様子を見て、長門が人間になったのだということを確信した。
「長門さん……」
古泉が長門に声をかける。発射のベルが鳴り、俺は新幹線へと乗り込んだ。乗り込んだ後も、俺は乗車口で見送りの三人に手を振っていた。ゆっくりと周りの景色が動き出し、すぐに三人の姿は見えなくなった。
俺は切符を見て、自分の座る席を見つけると、荷物を隣の席に置いて席に座り、流れていく景色を眺めていた。
「お隣……よろしいですか」
不意にそう声をかけられたため、少しびっくりして声をかけた人物を見ると、俺はさらにびっくりする光景を目にした。
朝比奈さんがそこに立っていたのだ。
「朝……比奈さん……ですよね。い、いままでいったいどこに?」
俺は、朝比奈さんに尋ねながら、隣の席に置いていた荷物を退けた。朝比奈さんは、ちょっと俯きながら隣の席に座ると、あの日からいままでの出来事を話し始めた。
「あたしはあの日、藤原さんに捕まってから、自分のいた時間平面の世界に戻され、査問会で世界崩壊の危機を招いた責任を問われました。
誰の目から見ても、わたしは有罪だったはずなのに、査問会は『今回の朝比奈みくるの行動は不問とする』と判断を下しました。
おそらく、涼宮さんの能力が時空を超えて働き、わたしを救ってくれたのだと思います。ただ、涼宮さんがいなくなったことで、いまの任務を解かれもしました」
淡々と未来の世界で起こった出来事を話す、朝比奈さんの表情はどこか寂しげだった。
「本来、もうわたしには、この時間平面に来る権限は与えられていません。しかし査問会は、わたしがこの世界に情を移したことを知り、任務の報酬として、たった一つだけ、わたしに選択をする権限を付与してくれました。
未来の世界に帰るか、それともこの世界の住人として生きるかの……
わたし自身は、みんなと会えなくなるのはとても寂しいけど、未来の世界に帰るべきだと思っています」
朝比奈さんは、いままで遠くを見つめていた視線を俺に移し、俺の目をじっと見つめるようにして言った。
「でももし、キョンくんが残って欲しいと言うのなら……わたしは……」
「朝比奈さん……」
俺は朝比奈さんの話を聞いて、咄嗟に答えることができなかった。
「その……俺は…………」
俺が朝比奈さんへ回答を苦慮している姿を見て、朝比奈さんは穏やかな口調で俺の言った。
「答えづらければ、答えていただかなくても構いません、聞かなくても答えは……いまのキョンくんを見れば……わかりますから……
それに……涼宮さんを犠牲にして、わたしだけがキョンくんと幸せになることは、やはり、わたしにはできそうもないです。だから……」
「……すみません………」
朝比奈さんは、俺から目を逸らすと、遠くを見るような目でもどの外の風景を見ながら、いままで自分が胸に秘めてきた想いを俺に聞かせてくれた。
「最初、わたしがこの時間平面に派遣されてきた頃は、わたしは自分の任務に誇りを持っていました。この任務をやり遂げるという強い意志もありました。
でも、キョンくんに出会ってから、わたしは自分の任務がだんだんと嫌になってきたの。それは、わたしがキョンくんのことを好きになってしまったから。
そのことに気づいてからは、ずっと自分がこの時間の人間でないことを恨めしく思ってきたわ。この時間の人間でさえあれば、キョンくんと結ばれる可能性もあるのにって……何度も何度も考えた。
だから古泉くんの作戦で、キョンくんの彼女になる演技をしたとき、わたしは自分の胸に秘めたこの想いを押さえることができなくなっていたの。
そんなわたしの行動が、こんな悲惨な結果を招いてしまったにもかかわらず、涼宮さんはわたしを助け、わたしの願いをかなえてくれようとしている。
でも、だからこそ、わたしはこの時間平面には留まることができない。それが、同じ人を好きになってしまった涼宮さんに対する、わたしなりの意地なの」
朝比奈さんは再び俺のほうを向くと、懇願するような目をして、俺に言った。
「だから、わたしはキョンくんといっしょになることはできないわ。でも、この新幹線が横浜に着くまで、たった2時間だけで構わないから、わたしの、わたしだけのキョンくんでいて欲しいの」
俺の手を取り、すがるように頼み込んでくる朝比奈さんを前に、俺は承諾せざるを得なかった。
「ありがとうございます」
泣いているのか笑っているのかわからないような顔で、朝比奈さんはそう答えると、頭を俺の肩にもたれさせて、目をつむった。
「この時間が、この瞬間が、ずっと続けばいいのに……」
そうつぶやいた朝比奈さんの目からは、涙がこぼれていた。俺の胸に複雑な感情が渦巻いているのがわかった。
俺も、朝比奈さんに倣って目をつむると、ハルヒや佐々木、長門、そして隣にいる朝比奈さんの寂しげな顔が、交互に浮かんでは消えていき、その度に後悔の念が押し寄せる。
そのまま、何事もなく時間は過ぎ去ってゆき、やがて新幹線が新横浜駅に到着する。
朝比奈さんは寂しげな表情で「さよなら」と一言告げると、席を立った。その姿があまりにも切なかったので、俺は後姿の朝比奈さんに思わず声をかけた。
「朝比奈さん!」
「え!?」
「あ、あの……その……お、お元気で」
振り向いた朝比奈さんに、俺はそう答えることしかできなかった。朝比奈さんは少し微笑むと、
「キョンくんも、体に気をつけてください」
そう言って、俺の前から去って行った。朝比奈さんの姿が見えなくなり、大きなため息をついたとき、不意に背後から声がした。
「追いかけないのか」
振り向くと、藤原がそこに座っていた。
「………………」
無言で俺が睨みつけていると、乗車口が閉まり、新幹線が動き始めた。それを確認して藤原が嫌な感じに顔を歪ませて俺を嘲笑した。
「ふっ、愚かな奴らばかりだ。策を弄したところで、得られるものなど限られているということに、なぜ気がつかないんだ。
女ならそれもいいが、男なら自分の思うままに生きるべきとは思わないのかね。策をちまちま練って、窮屈に生きる人生など、僕には理解できないなあ」
藤原は立ち上がり、観察するような目で、俺を見ながら、さらに言葉を続けた。
「最初、あんたは僕と同じタイプの人間かと思っていたのだが、どうやらあんたは僕よりも古泉一樹のほうに近いようだな。
そんな窮屈な人生の何が楽しいんだ。策を弄したところで幸せになれるとは限らんぞ。まあ、馬の耳に念仏かもしれないがな」
そう言うと、藤原は両手を広げ、首を左右に振る。
「まあ、好きにするがいいさ。あんたの人生だからな」
捨て台詞を吐いて、藤原は俺の前から姿を消した。
そうこうしている内に、新幹線は終点の東京駅にたどり着いた。この事件の終焉となる東京駅へ……





~エピローグ~



俺が新幹線を降り、プラットホームを通り抜けて、改札口を出ると、ひとりの髪の長い女性が俺を待っていた。
「やあ、キョンくん、ひとりかい?」
「それはあなたが一番ご存知のはずでしょ」
鶴屋さんは満面の笑顔で俺を迎えてくれた。俺は鶴屋さんに歩み寄り、彼女の華奢な身体をそっと抱き締めた。
「あたしは嬉しいよ。ようやくキョンくんの一番近くに寄り添うことができたんだから」
いま、俺の前にいる鶴屋さんは、北高では決して誰にも見せることのなかった、恋する少女になっていた。そんな、俺にしか見せない鶴屋さんの表情や仕草が、いつもにもまして愛しく感じられた。
ふと、俺は改札口の向こうを振り返る。誰かに、いやハルヒに見られているような感じがしたからだ。
「どうしたんだい」
「いえ、別に……」
鶴屋さんは、俺の心を見透かすような顔で、俺を見つめて言った。
「ハルにゃんのことを考えていたね。まあ、仕方ないにょろ。二年もいっしょに過ごしたんだから。
あたしもハルにゃんのことは好きだったしね。もし、キョンくんがいなければ、ハルにゃんとはいい友達になれたと思うよ」
そう言いながら、鶴屋さんは背伸びをして、俺の首に腕を回し、顔を吐息がかかるくらい近くに寄せた。
「だ・か・ら、今日一日はハルにゃんやみくるのことを考えてもいいさっ。でも、明日からは、あたしの、あたしだけのキョンくんになってもらうからねっ」
そう言って、俺にキスをすると、鶴屋さんは「じゃあ、あたしは他に用事があるから」と言って俺の前から去って行った。
再び、俺は改札口の向こうに視線を移す。
いままで俺が企んできた陰謀の数々が走馬灯のように脳裏に浮かんでは消える。
俺は古泉が俺とハルヒをくっつけるために策略を練っていることを知っていた。だから、鶴屋さんに頼んで古泉に助言するとともに、朝比奈さんを焚きつけた。
橘に古泉の策略を話したのも俺だ。おそらくそのことで佐々木たちは手を打ってくると予想していた。だから、俺はハルヒがひとりで登下校する機会を何度か設けたのだ。
そして俺は最期にハルヒが自分を消してしまう選択をするであろうということまで予想していた。
だから、今回の一件はすべて俺の陰謀によって引き起こされた、と言ってもいいだろう。表面上は………
どうして俺は、こんな陰謀を企んでまで、ハルヒと別れようと思ったのだろうか。
ハルヒの我侭に付き合いきれなくなったからか、それとも自分の周りにいる人外の存在から逃れたいと思ったからか。いや、そうではないことは俺自身が一番よく知っているはずだ。
最初、俺は鶴屋さんのことがハルヒよりも好きになってしまったためだと思っていた。
そしてそのままハルヒを放っておけば、俺の想いを鶴屋さんに伝えられないだけでなく、世界に大惨事を引き起こしかねないため、仕方なくハルヒを欺くのだと考えていた。
だから、例えSOS団のみんなや佐々木達を騙すことになったとしても、それは世界の崩壊を防ぐための必要悪なのだと、自分に言い聞かせていた。
しかし、本当にそれは俺の本心なのだろうか。実は自分を欺いていただけに過ぎないのではないだろうか。
俺がハルヒと別れた本当の理由、それは俺がハルヒのことをこの世界の誰よりも好きだったからではないだろうか。
俺はハルヒが自分に好意を持ってくれていることを知っていた。しかしハルヒは、自分の能力について知らなかったように、本当の俺を知っているわけではなかった。
だから俺は、ハルヒに隠している本当の俺の醜い部分を、ハルヒに知られることを恐れ、ハルヒに嫌われる前に、自ら離れようとしたのではないのだろうか。
ハルヒの俺への愛があまりにもまっすぐで純粋すぎたため、その愛が俺の醜い部分を引き立たせ、俺はいたたまれなくなって、ハルヒの前から逃げ出したのではないのだろうか。
そしてその本心を隠すために、自分を欺くために、世界のためだとか色々な理由をこじつけているだけに過ぎないのではないだろうか。
もしそうならば、俺は卑怯者で臆病者だ。
だが、俺は自分の陰謀が成就していく中で、ハルヒがいつか俺の陰謀に気づくのではないかと考えていたのも事実だ。いや、それを望んでいた節さえある。
あの日、ハルヒが決断を迫られた日も、もしハルヒが俺の望んだ結論とは違う選択をしたとしても、俺はそれでいいとさえ思っていた。
そう、俺は心のどこかではハルヒに俺の陰謀に気づいて欲しかったのだ。それでもなお、ハルヒが俺を好きでいてくれることを、俺は切望していたのだ。
つまり俺は、ハルヒに対して、すべてを許す無制限の愛を求めていたのだ。もちろんこんなことは、他の誰かが見れば自分勝手なことだと非難されるに違いない。
だが、ハルヒが俺に捧げてくれた愛は、俺が求めていたものよりも、ずっと大きく深いものだった。ハルヒは、俺を許すだけではなく、自らを犠牲にしてまで、俺の陰謀の成就を願ったのだ。
思えば、俺の張り巡らせた陰謀は穴だらけで、無事、望みどおりの結果になったことがいまでも信じられないぐらいだ。それでも俺の陰謀が成就したのは、ハルヒの能力が介在したからだろう。
そう、ハルヒは醜い部分も含めた俺のすべてを知り、それでもなお、俺のことを見捨てることなく、その無限大の愛で俺を包んでくれていたのだ。
だが、俺がそのことに気づいたときには、もう後戻りはできなくなっていた。
ハルヒはこの世界から消失するその瞬間に、確かに俺の耳元でこう囁いた。
「キョン、あたしはあんたのことを愛しているわ。この世界の誰よりも。だから、あたしはあんたのすべてを許すわ」と
その言葉を聞いて、俺は愕然とした。そして俺はハルヒの愛の大きさにようやく気づくことができたのだ。
だが、時間を戻すことはできない。もう失った物を取り戻すことはできない。
改札口の向こうには、そこにはいるはずのないハルヒや長門、朝比奈さん、古泉、佐々木の姿が幻のように見える。
だが、ルビコン川を渡ってしまったカエサルのように、俺はもう後戻りすることはできない。賽はもう既に振られてしまったのだから。
SOS団での思い出や、高校生活の記憶、佐々木とのエピソードなどは、すべて改札口の向こうに置いて行こう。
そして、ハルヒが俺に与えてくれたのと同じ無限大の愛で、鶴屋さんのことを愛しよう。それがいまの俺にできる唯ひとつのことだと思うから……
「ありがとう……さようなら……ハルヒ」
小さな声でそうつぶやいて、俺は振り返ることなく改札口を後にした。


~終わり~

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最終更新:2007年09月08日 21:00