(※ これは谷口探偵の事件簿のつづきです)

 

 

涼宮ハルヒをさらった犯人の足取りは『機関』の連中がつかんでいた。なんでも、僕たち私たちの町からさほど遠くない、郊外の廃ビルに潜伏中ということである。

俺とキョンは古泉の運転する車に同乗させてもらい、目的地まで一直線に向かった。徹夜作業で鶴屋さんの足跡を探っていた上に休憩なしで車の運転とは。古泉、お疲れさん。頼むから、涼宮や鶴屋さんの元へたどり着く前に事故なんてのは勘弁してくれよ。

車の運転の方はすっかり古泉に任せ、俺は目指す廃ビルに到着するまで、少しでも睡眠をとっておこうと後部座席で横になっていた。未来の存亡にかかる重要な出来事を前に緊張はしているものの、昨夜は徹夜状態だったので、なんとかスリープモードに入ることができた。

後部座席で半覚醒に近い状態で眠っていると、夢を見た。夢の中で、俺は車に乗っていた。現実でも車に乗っていたわけだから、それが夢なのかどうかは正確に判断できなかったが、横になったまま周りを見回すとキョンと古泉が各3人に増殖し、車内にみっしりと充満していた。ああ、これは夢なんだな、と思った。

古泉に呼び起こされて目を覚ますと、キョンと古泉は各1人づつに減っていた。やはり人間は、夢よりも現実の中でこそ生きていくべきだよな、と少し哲学的なことを考えて車から降りた。

 

 

更地に囲まれた見晴らしのよい場所に、問題の廃ビルは建っていた。塀は崩れ、壁は破れ、風化しかけたコンクリートからは鉄骨がむき出しになっている箇所もある。絵に描いたようなその廃墟は、元々ビジネスホテルとして建設された3階建て建築物だったが、周囲になにもないという立地条件の悪さとオーナーの経済的問題が重なり取り壊しもせずに放置されているらしい。

周囲に遮蔽物はまったくなく、周囲100mくらいは清々しいまでに見晴らしが良い。

「我々がやってきたということは、相手にも筒抜けでしょう。行動も逐一視られていると考えた方がよいでしょうが、何か作戦でもありましたら伺いましょうか」

今さら作戦もサクランボもないだろう。正面から行くしかあるまい。ところで古泉、中の状況はどうなっているんだ? さらわれたお姫様はまだ無事なんだろうな。相手の数はどれくらいだ? まさか鶴屋さん1人なのか?

「分かりません。我々も中の様子をつかもうといろいろ試してみたいのですが、なぜかビルの内情は確認できないのです。望遠レンズなどを使用しても、まるで遮光されているように何も見えないのですよ。困ったものです」

スプライトのネクタイをいじりながら、古泉は睨めるように廃墟の外郭を眺めていた。

「相手は1名しか確認できていません。あなたの言うところの、犯人は鶴屋さんという女性です。他に仲間がいるのか、はたまた単独犯なのか。涼宮さんは果たして無事なのか。それもまだ分かりません。つまり何も分からないということですね」

困ったふうに両手を広げる古泉に不平不満をぶちまけてやりたくなったが、こいつにブーイングを浴びせても仕方ないことだ。いかに『機関』の組織力が高かろうと、未知の未来技術に対抗できるかどうかも怪しいもんだし。

ということはやはり最終的に、作戦など立てたって無駄だという結論に行き着くわけか。作戦なんて高尚なものでなくても、あらゆる対処を想定しておくことは大事だが、情報がまったくないのでは詳細な作戦も対処も立てようがない。

「なら正面きって乗り込むしかないだろう。いつもまでもこうしてたって始まらない」

珍しく格好いいことを言って、キョンが歩き出した。確かにこのまま廃れたビジネスホテルを眺めていたって涼宮ハルヒが返ってくるわけじゃない。よし、行けキョン! 先頭はお前に任せたぞ!

それにしてもこいつが仕切るとは珍しい。朝比奈さんがいなくなって何かふっきれたんだろうか。それともただ単に寝不足でテンション上がってるだけだろうか。

 

キョンの後につづく形で、俺と古泉も廃ビルの中に足を踏み入れた。1階は受付用カウンター台の残骸が凸のように出ているだけで、後はなにもない。閑散としたもので、誰もいないし誰かがいる気配もない。ホテルのロビーにありがちな調度品などは一切ない。ただ酒瓶や缶、タバコの吸い殻などが無造作に転がっているだけだ。こういう場所は、チンピラやゴロツキにとっては天国みたいな所なんだ。

「1階にはいないようだな」

何もないフロアだ。一周りすればそれくらいのことは分かる。

「上の階へ急ぎましょう。相手は過激派の未来人です。何を仕掛けてくるか分かりません。警戒はしておいてください」

1階に鶴屋さんはいないということが予め分かっていたのだろうか。さっきまでの余裕の笑みとはうって変わり、古泉は警戒心丸出しのシリアスフェイスで階段に足をかけた。

人を見た目で判断するわけじゃないが、長いこと探偵業やってる俺だ。人の顔色や立ち振る舞いを観ていれば、その人の虚実が分かってくる。相当に演技のうまい人じゃなけりゃ、ウソつかれたって見抜ける自信はある。多分こっちの貌の古泉が、本物の古泉一樹なんだろうな。

古泉とキョンの後に続きながら、俺は鶴屋さんと出遭った日のことを思い返していた。金魚のはいったお持ち帰り袋を手にした彼女は、屈託のない笑顔で俺のすさんでいた心を穏やかにしてくれたものだ。あのとびきりの笑顔で、彼女は涼宮ハルヒをさらったのだろうか。

 

 

2階には部屋番号のプレートのかかった個室が10室ほど等間隔にならんでいた。放送時間50分の刑事ドラマの40分経過クライマックス時現場突入シーンのように慎重で緊迫した空気の中、俺たちは次々と2階の個室に踏み込んでいった。

どの部屋の中も一様にがらんとしたものだった。ベッドもクローゼットも、冷蔵庫もない。ビジネスホテルの一室というのはやたらめったら狭いものだと思っていたが、家具がなければこれほど広い空間だったのかと考えさせられた。

2階の201号室から210号室まで見て回ったが、1階同様に人の気配はないし、怪しい物もなかった。

「最上階である3階。そこで間違いないようですね」

スーツの懐に手を入れながら古泉が3階への階段を昇り始めた。スーツの懐に手つっこむなんて、変わったクセだな。普段家で着流しでも着ているんだろうか。

 

3階も2階と同じく、狭い廊下の壁にそって10個ほどの個室の扉が並んでいた。下の階と違う点といえば、上へ昇る階段がないくらいのものだ。

いや、もう一つ違うものがある。廊下のつきあたり、一番奥の部屋の扉がわずかに開いていた。

鶴屋さんは、あの部屋にいる。直感的に俺はそう思った。理由はない。ただそう思っただけだ。

キョンと古泉に目配せする。2人も俺と同じようなことを考えているんだろう。うなづき返してきた。

あの一番奥の部屋は、順番的に言って310号室に違いない。俺たち3人はゆっくりと歩きだした。こつこつと乾いた足音が、コンクリートむき出しの廊下に響き渡る。

待ち伏せや罠の類は一切なかった。一応警戒心は持っていたが、そんな物は仕掛けられていないだろうという妙な確信が心の中にあったのも確かだ。1階2階と、何の仕掛けも設置されていなかったんだ。3階にもないだろう。無根拠な推測だが、なぜかそんな心境だった。

その予感に裏切られることもなく、俺たち3人は皆無事に310号室にたどり着くことができた。部屋の扉は多少開いているが、中の様子がうかがえるほどではない。

古泉が扉に背をつけ、緊迫の面持ちでドアノブに手をかける。ドラマで刑事が犯人の根城に殴りこみをかける時こういうシーンがあるが、目の前で実際にそんな格好をおがめるとは思わなかったよ。よせよせ、古泉。レディー相手に、そんな乱暴なご対面はやめておこうぜ。

「谷口さん。何を言っているんですか。相手は強行派の誘拐犯ですよ? 一体どんな武装をしているのかも分からないのに」

たとえどんな物騒な兵器を持っていたって、それを使わせなけりゃ問題ないんだろ。俺は2度鶴屋さんに会っているが、銃を持っていてもそれを問答無用でぶっ放してくるほど無鉄砲な人には見えなかった。こっちが刺激しなければ、ちゃんと話し合いに応じてはくれると思うぜ。

「青くさい意見ですね。こちらが友好的な態度で接すれば、相手も友好的になってくれると思っているんですか? 子どものケンカの仲裁じゃあるまいし」

「だが、それが人と接するということだと思うぜ。力づくで迫ったところで、相手に敵対心を抱かせてしまっては解決することも解決しなくなってしまう」

珍しく俺とキョンの意見が合ったようだな。古泉は困ったふうな微笑を浮かべ、扉から一歩足を引いた。

「で、どうするつもりだ谷口。ノックでもするのか?」

そうだな。他人の部屋に入る時にノックなしは失礼にあたるしな。

古泉を脇へやるような形でドアの前に立った俺は、こんこんと扉をノックした。もしもし? はいってますか?

『はいってるよ~』

聞き覚えのある女性の声が扉の隙間から漏れるように聞こえてきた。

ちわー、三河屋です。スターウォーズエピソードⅠのDVDをお届けに来ました。ハンコもらっていいっスか? 認印で結構なんで。

『開いてるよ。入って』

入っていってさ。

 

 

扉を開け、部屋の中へ踏み入る。この廃ビルへ入る時に感じていた緊張や焦燥は、もうすっかりなりを潜めていた。穏やかな水中をゆっくり沈んでいくように、落ち着いている。心臓自体がとまっているんじゃないかと思えるほど、動悸も聞こえない。

部屋の中は、2階でも見てきた他の部屋となにも変わらない、15㎡ほどの広さの部屋だ。

部屋の隅にバスタオルが敷かれ、その上に涼宮ハルヒが目を閉じて横たわっていた。

「涼宮さん!?」

古泉の声が室内に反響する中、俺は部屋の窓枠に腰をかけ、陽の逆光を浴びながら外の風景を眺めるように首をのばしている髪の長い女性を見つめていた。

「彼女が、鶴屋さんなのか?」

ゆっくりと、鶴屋さんが室内へ顔を向けた。長い影のむこう側で、鶴屋さんは笑顔だった。

「キミがキョンくんかい。初めまして。長い間、みくるがお世話になったね」

むすっとした様子で、キョンがどういたしましてと答える。

「残念だったね。あの子、ああ見えてけっこう頑固なんだ。私も未来へ帰らなくてもいいって説得はしたんだけど……」

その瞬間、鶴屋さんの笑顔に陰がさす。俺の視界の端で、古泉がスーツの懐から拳銃をとりだすのが見えた。

「よせ、古泉!」

古泉が銃をかまえると同時に、キョンがその腕を両腕で押さえつける。

「離してください! 僕が、僕が涼宮さんを……助けなければ!」

もつれあうように倒れこむ古泉とキョン。俺は必死でキョンの腕をふりほどこうとする古泉の右手から、なんとか銃を奪い取る。見たところ殺傷能力は低いであろうピストルだが、当たり所が悪ければ致命的ともなりかねない危険物に違いはない。

「なんとしても彼女を救ってあげないと、もう涼宮さんは僕を信用してくれないかもしれないのに! やっと、彼女の信頼を得られるようになったって言うのに!」

キョンと古泉が互いにつかみ合ったままもみあっている。古泉の突然の暴挙には驚いたが、彼には彼なりの意思があったんだろう。

「だからって、こんな時に銃を出すこともないだろう!」

次第に沈静化していく古泉とキョンのやりとりを見ながら、俺は奪い取った銃をポケットにしまった。こんな物はたとえ使うつもりがなくても、交渉の場でちらつかせるもんじゃない。相手に威圧感を与えるだけだからな。俺ピストルなんて持ったこともないけど、コレいきなり暴発したりしないよな……。大丈夫だよな。

悪かった、鶴屋さん。俺たちは話し合いをするつもりで来たんだ。銃をつきつけて脅したりする気はなかった。

「いいのさ。私も、そっちがこんな軽装で来たことに驚いているんだから。もっと重装備で、大人数で乗り込んでくるものだと思っていたよ。だから、そんなちっさいピストルを構えるくらいで終わったのが拍子ぬけしてるくらいっさ」

大人数さ。1対3なんだ。プロレスだってこんなハンデマッチは滅多にないぜ。それに、重装備でもある。鶴屋さんなら、知ってるんじゃないかな。俺が、朝倉さんから受け取った物。鶴屋さんたちにとって、これが一番の兵器なんじゃないの?

鶴屋さんから視点をずらし、床に寝転がる涼宮ハルヒの様子をうかがう。これだけの騒ぎがおきても目を覚ます気配はない。ぐっすり眠っているようだな。

 

 

俺は朝倉涼子から受け取ったアンチTPDDを汗ばんだ手で握り、鶴屋さんに見せつける。

びっくりするかと思ったが、意外にも彼女の反応は淡白だった。

「で? それをどうすんの?」

窓枠から飛び降り、鶴屋さんは笑顔のままで壁にもたれかかるように立っていた。

なんだ、この余裕は? 微笑を浮かべる未来人は、なにか確信めいた視線で俺を射すくめている。

「どしたの青年? そのスイッチ押すんじゃないの? ほらほら。遠慮はいらないよん。ポチッといきなよ」

彼女はこれが何なのか知っているはずだ。なのに何故笑っていられるんだ。俺の立ち位置から涼宮ハルヒの横になっている場所まで、目測だが10mは確実にきっている。これを俺が押せば、鶴屋さんは未来世界に強制送還されてゲームセットになっちまうんだ。すでに俺の指は、アンチTPDDのボタンに触れている。俺が圧倒的に有利な状況のはず。

なのに、どうして彼女は勝ち誇ったように俺を見つめている。ひょっとして未来の技術で作り出されたウェポンがこの部屋に仕掛けられていて、ボタンを押す直前に俺の指をふっとばせる、なんてトラップがあるのか?

「おやおや、顔色が悪いよ谷口くん。どったの? お腹でも痛い?」

からかうような目つきで俺の顔を覗き込む鶴屋さん。くそ、そうプレッシャーをかけられると本当にトイレに行きたくなるかもしれないからやめてくれよ。

床から立ち上がった古泉もキョンも、心配するように俺を眺めている。よせよ。そんなに見つめられたら照れちまう。

「谷口くんがそのボタンを押そうとしたら、私が何か凶悪な兵器をつかってキミを抹殺しようとしている、なんて思ってそうだね。のんのんのん。そんなことはしないにょろ。しないというか、正確には、できないよ。キミたちが未来人に対してどういう先入観を持っているかは知らないけど、実際私たち未来人はキミたちとさほど大きく変わらないよ。近未来映画で出てくるような光線銃を持ってると思う? 私が持っているのは古泉くんと同じような銃一丁だけさ。宇宙船でも用意してると思う? そんな物ないよ。私たち未来人はキミたちに比べて、ただ時間移動の原理を知っているというだけの差しかないんだ」

じゃあ、なぜ俺がスイッチを押そうとするのを止めない? けしかけるような事を言う? これは罠なのか?

「ほらほら。早く決断しなよ。はっきりしないなぁ」

鶴屋さんは、そっと、懐から銃を取り出した。それは古泉の持っていた子ども騙しのピストルなんかとは違う。窓からの陽差しを受けて鈍く黒光りする、小型のリボルバーだ。

「谷口くん。怖いの?」

握った銃を誰に向けるでもなく、手に提げて鶴屋さんが問いかけてくる。

怖いかって? 怖いに決まってるじゃないスか。銃を持つ人の前にペンライト一つで立ちはだかる俺の心境にもなってくださいよ。いつ撃たれるかと思ったら、足がガクガクですよ。

「あはは。違う違う。そっちじゃないよ。銃なんてどうでもいいんだ。何が怖いのか、私がいちいち言わなくてもキミが一番よく理解してるんじゃない?」

リボルバーを手に目の前に立つ女性に痛いところを突かれ、わずかに口をつぐむ。

そうだ。俺は怖いんだ。このアンチTPDDを作動させることが。

 

たとえ話だが、もし深い山奥で遭難し、食料が底をついたとしよう。現状を脱出できる見通しはまったくたっていない。腹は減ったが食料がない。周囲にも食べられそうなものは皆無という状況だ。

そんな時、やたら毒々しい色のキノコが生えているのを見つけたらどうする? 俺に植物の知識があってそのキノコに毒があるのかないのか分かればいいが、俺にはそんな知識はない。目の前の唯一の食料に毒があるかどうか、分からない。これは食べるべきか? 食べないべきなのか? 毒がなければ問題ないが、もし毒があって腹をこわして酷い下痢でも起こしたら、体力を消耗して生還することはかなわないかもしれない。

キノコのことを知らないことからくる、未知の恐怖だ。

 

朝倉涼子は言った。朝比奈みくるがこの時代へ遡行してくることは分かっていたが、鶴屋さんがやって来ることは想定外の出来事だ、と。そして、涼宮ハルヒの謎のミラクルパワーの原因は依然不明である、と。

つまり俺が朝倉涼子から受け取ったアンチTPDDを作動させることは、朝倉さんサイドの未来でも鶴屋さんサイドの未来でも起こっていないパラレルアクシデントなのだ。

本当にこんな電池で動いているようなちゃちい棒切れで涼宮ハルヒの摩訶不思議夢現能力に火をつけ、無事で済むのか?

何事もなく本来の機能だけを果たして副作用は起こさない、という保証はない。まかり間違ってこないだの大型台風みたいなのが全世界を襲い始めても、俺は責任持てないぜ。

「かわいそうだなあ~、谷口くんは。だから言ったのに。朝倉涼子には気をつけなってさ」

後ろ手に銃を持ち、ゆっくりとした足取りで鶴屋さんは、古泉の制止の声も無視しして俺の前まで歩み寄る。

「そんなに悩むくらいならさ。やっぱり最初から何も知らなかった方がよかったんじゃにゃい?」

息をふけば届くほどの距離で、鶴屋さんの大きな瞳が俺の目をのぞき込んでいる。きれいな目だ、と思った。

 

 ───知らないでいられるってことは、けっこう幸せなことだよ

いつだっただろう。鶴屋さんがそう言っていた。

 

なにも知らなければ。

朝倉さんとは依頼人と探偵という関係だけでいればよかったのか? 国木田とはただの同期生仲間で、あいつがいなくなったのは夜逃げでもしたせいだと、知らんぷりしてりゃよかったのか? 未来人の存在や涼宮ハルヒのことは悪質な嘘八百だと鼻で笑っておけばよかったのか?

もしそうだったなら。はたして俺は幸せだったのか?

きっと幸せだっただろうな。だって、そうだったなら、俺はこれほどいろんなことの板ばさみで悩みまくることもなかっただろうから。2つの未来世界。国木田の酒。朝比奈さんのオルゴール。朝倉さんの髪の香り。涼宮ハルヒの横たわる姿。目の前の鶴屋さん。古泉の言葉。ここ最近で俺の脳内に垢のようにこびりついた様々な記憶がざわざわ騒いで、俺の頭を蹴飛ばすようにわめくのだ。

こんなしち面倒なことに関わってさえいなけりゃ、今頃は家で横になりながらダラダラとプロレス雑誌でも読みながら長門の出す味のない湯みたいな茶を飲んでいたことだろう。何も知らなければ。

「今からでもまだ、間に合うよ」

俺の心を見透かすように鶴屋さんは、けらけらと笑って身をそらす。

「そのボールペンみたいなヤツをこっちに渡せばいいんだよ。私はキミたちにそれ以上の用はないし。キミはまた元の生活に戻れるってわけさ」

「渡すな、谷口!」

鶴屋さんは一歩踏み出すキョンに銃口を向ける。

「この時代の人、特にこの国の人はあまり実感がないかもしれないけどさ。人の命って、けっこう大事なものなんだよ。それが分かってるから、私はあまり切った張った撃った撃たれた、なんてのは遠慮したんだ。ねえ、分かってよ。だから動かないでね」

彼女はハッタリで言っているわけじゃない。この威圧感は、中途半端なチンピラ風情が出せる凄みではない。鶴屋さんは一から十まで、口にしたことはすべて本気なんだ。

キョンと古泉は動けない。古めかしい言い方だが、蛇に睨まれた蛙といったところか。

 

俺はどうしたらいい。じっとりと汗ばんだ手で、金縛りにでも遭ったように動かない指で金属棒を握り締めている。

朝倉さんの話を聞いても、古泉の口ぶりを聞いても、鶴屋さんはテロリストっぽい悪人イメージとして語られていた。だから、俺は最初、涼宮ハルヒを発見しだい、即座にアンチTPDDのスイッチを入れるつもりだった。オタオタしてたら、未知の未来パワーで何をされるか分かったもんじゃないからな。だが俺はそうしなかった。

この部屋に踏み込んだ時には気づかなかったが、鶴屋さんと間近で向かい合った今ならば分かる。なぜ俺がこれを押すのをためらっているのか。

鶴屋さんの笑顔だ。

 

悪人だなんてとんでもない。彼女の笑顔は、とても慈愛に満ちている。こんな状況であるにも関わらず、底抜けに明るく、いや明るいというよりも現状と乖離していると言っても良いほどに輝いていて、なんだか見ていて心が落ち着いてくる。

前にも言った通り、俺は人を見る目には自信がある。もし鶴屋さんが悪人だとしたら、キョンの仏頂面など会社の不祥事を部下に押し付けてトンヅラきめこむ極悪社長だろう。どっかの食品会社みたいな。古泉のいやらしい顔にいたっては赤詐欺師か、2,3人くらいバラしてる凶悪ヤクザだろう。ヤクザだろうというか、古泉はヤクザだが。ピストル持ってたし。

たとえ俺たちや鶴屋さんの正義観に違いがあろうとも、問答無用で彼女にこちら側の意見を押し付けたくない。そういう気分になっちまったんだ。この部屋に押し入って彼女の笑みを見た時にな。

鶴屋さんとは、話し合いでケリをつけたい。土台ムリな試みかもしれないが、朝比奈さんとだって話は通じたんだ。きっとどこかに妥協点くらいはあるはずだ。

 

 

鶴屋さん。あんた、涼宮ハルヒを攫ってここに来て、何をしたいんだ? 身代金がほしいってワケでもなんだろ?

「攫ったとは人聞きが悪いなあ。私はあの子をかどわかしたつもりはないよ。昨日公園で、雨に濡れてたところを保護してあげたんだよ。本人も自分の意思でついてきたのさ」

じゃあ何故、涼宮は寝てるんだ。普通、これほど大騒ぎしてりゃどんなに鈍い人でも目を覚ますもんじゃないか?

鶴屋さんは、ふと悲しげに瞳をくもらせ、涼宮ハルヒの元へ歩み寄る。そしてその枕元にかがみこみ、涼宮の頬にそっと手をあてた。涼宮は変わらず、やすらかな寝息を立てている。

「思えばかわいそうな子だよね。この子も」

涼宮ハルヒにささやきかけるように、低くそう呟く。

「両親が亡くなって、理解できないへんてこな力が身についちゃったばっかりに、怪しい奴らから狙われて。ずーっと寂しい思いをして毎日送ってきたんだよね」

窓から降り注ぐ光が彼女たちの姿を、フィリッポ・リッピの絵画のように暖かく、優しく照らし出していた。

そして、鶴屋さんは涼宮ハルヒの頭上へリボルバーを掲げた。

「本当はこうして、すべてを終わらせたかったんだけどね……」

「谷口、なにしてんだ! 早く押せ!」

キョンの声が俺の耳を打つ。しかし俺は、銃口をゆっくり涼宮の頭へ向ける鶴屋さんの姿を見てなお、まるで現実から剥離した幻の映像でも見るかのような気分でその動きを見つめていた。

「辛いことがあっても健気に前向いて生きてるこの子を見てたらさ。なんか、私の生まれ育った世界のことが頭にちらついてね。引き金が引けなかったんだ」

鶴屋さんは、涼宮の無垢な寝顔を凝視したまま、じっと動きを止めていた。遠くを見ているようなその目は、彼女自身の記憶を顧みているのだろうか。

「昨日からずっとそんなことを思ってたんだ。自分たちの世界を救うためとはいえ、この子の命を奪うのはやっぱりイヤだなってね」

どうしたものかな、みくる……。と独り言のように呟き、鶴屋さんは銃をおろした。

その様子を見て、俺は確信した。やはり鶴屋さんも、この時代にきて、朝比奈さんと同じようなことを考え始めているんだ。郷愁というか、思い出を恋しがることで、自分たちの世界を消滅させようとすることに躊躇を感じているんだ。強行派だなんて言われても、やっぱりこの人は俺が思った通り、慈悲深い心優しい人なんだ。その優しさゆえ、自分たちの世界に住む人たちが苦しむ姿を見るに耐えられなかったんだろうと思う。

どうやら、俺たちがこれ以上どうこう言わずとも、鶴屋さんは涼宮を返してくれそうだな。

 

 

リボルバーの銃口から放たれた弾丸が、部屋の壁に穴をあけた。部屋の中に響いた銃声が、俺たちを打ちのめすように鼓膜をふるわせた。

鶴屋さんの手に握られていた銃の、引き金が引かれたのだ。

「なんて。ネガティブになっちゃった。1人であれこれ思い悩んでたからいけなかったんだなあ。いやあ、良かったよ。キミたちが来てくれて。おかげで決心つきました。私は結局、何をしなければいけなかったのかを見失いかけてたよ」

硝煙のくゆる銃口が、身じろぎひとつしない涼宮ハルヒの頭に押し当てられる。

「迷うことは何もないんだ……」

「よせ!」

突然の出来事に気圧され身体の自由を奪われたように立ち尽くす俺とキョンの横を古泉が駆け抜ける。

しなるように持ち上がった鶴屋さんの手先から、再び大きな銃声とともに弾丸が放たれる。

古泉の身体が大きく跳ね、もんどりうって床に転がった。どこか遠くの国で起こっている出来事を、スクリーンを通して見ているかのような錯覚に襲われる。

「古泉!」

すぐさまキョンが駆け寄る。古泉の身体を抱え上げたキョンの腕に、赤黒い血糊がぬめっていた。

一瞬にして体中の血が頭に集まって、急激な速度で駆け巡るのが感じられた。

気がつくと俺は、熱を持った手の中の、アンチTPDDのスイッチを押していた。

 

 

 

  ~二又の世界② へつづく~

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最終更新:2007年08月26日 03:49