(※ これは谷口探偵の事件簿の続きです)

 

 

長門が新しく発売される文庫本を買いに行くというので、行ってこいと言ったら荷物持ちについてきてくれと返答してきた。

文庫本を2,3冊買う程度でなぜ荷物持ちが必要なのか。嫌な予感がしたのでイヤだと断ったが、どうせすることなくて暇なんでしょう、と古女房のようなことを言ってきた。実際することもなくて暇だったのだが、そのままハイハイと言うことを聞くのもシャクだったので嫌だ嫌だとダダをこねていると、長門に頭を叩かれた。

何故この年になって、10代のガキに頭をピシャリとされねばならぬのか。あまりのショックにいろいろ考えていると、畳み込まれるように長門に同行を促され、半ば強制的に連れ出されてしまった。

まだまだ俺も甘いと思う。

仕方なく不貞腐れた顔で、夏場のチンピラのようにダラダラと歩いているとまた長門に、「………兄貴、恥ずかしいからちゃんとして」と注意された。母親に姿格好で反抗するダメな息子のような気分になってきた。

 

電車に乗って、最近できたばかりというデパートにやって来た。なにも文庫本を買うためだけに、出来たてホヤホヤのデパートに来なくても。新しい場所っていうのは、人が無尽蔵に集まってくる集合地点でもあるんだ。人間は旬の物がことの他好きなものであるからして、こういう場所に来たかったら、ある程度ほとぼりが冷めて人足が少なくなった頃合に来るのが疲れなくていいんだぞ。

「………中年はこれだから…」

おいちょっと待て、誰が中年だ。俺はまだギリギリ青年と呼べる範囲だぞ!? 訂正しなさい!

「………いや」

最近こいつが兄貴分である俺の言うことを聞かなくなってきた。反抗期だろうか。

 

 

「あれ、谷口くん? やっぱり。谷口くんと長門さんだ。お久しぶりです」

長門の買った本を10冊ほどまとめて紙袋に入れて腕にかけていると、人ごみの中から見覚えのある人影が現れた。見覚えがあるなんてもんじゃない。たとえ記憶喪失になって長門のマセ顔を忘れても、この方の尊顔を忘れるなんてことはないに違いない。

朝比奈さん。お久しぶりです。あれ、今日はお一人ですか?

「ううん。キョンくんと、キョンくんの妹さんと一緒よ。今は自由行動中なの。あと30分したら、1階の広間に集まる約束をしてるわ」

そうでしたか。くそ、毎度毎度キョンのやつめ。

「その後3人でお昼を食べる予定なんだけど、谷口さんと長門さんも一緒に来ない?」

「………行く」

間髪いれずにこくりとうなづく長門。

俺はどっちでもいいんだけど、長門が行きたいって言うんなら仕方ないな。うん。一応、俺が保護者なんだからな。うんうん。

朝比奈さんは何か買い物に来たんですか? それとも、新しいショッピングモールに冷やかしに?

「目的があってきたわけじゃないけどね。新しい店とかできたら、どんな所なのか見てみたいじゃない?」

「………ほら、兄貴。若い人はこういうアクティブな思考をするもんなんだよ」

やかましい。せっかく荷物持ちについて来てやったのに。紙袋をお前に押し付けて帰ってもいいだんぞ。

「その紙袋、長門さんの本だったの。谷口くんは荷物持ち? 優しいのね」

そうなんスよ。こいつがどうしてもってダダをこねるもんだから、仕方なく来てやったんですよ。いやあ、参った参った。あはははは。

「………うそつき」

ところで、朝比奈さんは何か買い物したんですか? そのビニール袋に入ってる箱、なんですか?

「ああ、これ。これは、キョンくんが私に買ってくれたの。オルゴール。ちょっと素敵じゃない?」

ああ……それはまた。ロマンチックですね。メルヘンっていうか、ポストモダンというか。

「………兄貴。私もああいうの欲しい」

ああいうの欲しいって。はあ。そう言うと思ってたよ。荷物持ちに来いって言われてた時からな。分かったよ、買ってやる。爪切りとかどうだ。実用的だろ?

「………つめきり…やだ」

文句言うなよ。1週間くらいしたら絶対に、オルゴールよりもこっちの方を買ってもらっておいてよかった!て思うようになるから。俺は無駄のない男なのだ。

 

その後、俺と長門は朝比奈さんたちと5人で昼食を食べ、ぺちゃぺちゃ喋ってぐだぐだクダ巻いて、別れて家に帰った。

長門には結局、高価な爪切りを買い与えるハメになったしキョンともフリットを取り合っていつものように険悪なムードになってしまったが、まあそれもいつものことだ。なんだかんだで楽しいデパート見物だった。

その帰りに長門の家の近くまで荷物を持って行かされたが、長門に交通費を出してもらえたから電車代は1円も出さなくてすんだ。

家に帰ると、部屋に忘れていた携帯に国木田からメールが届いていた。急ぎの用だったらマズいなと思って確認したが、今夜用があるから店まで来てくれという内容のメッセージだった。よかった。指定の時間まで、まだ間はあるな。しかし何の用だろう。

いつものように使い古した中折れ帽をかぶり、俺はまたダラダラとした足取りで家を出た。

 

 

だいぶ素直に涼しいと感じられるようになってきた夜の街を抜け、いつも通るうす汚れた路地を抜けていく。今日は空に雲がかかり、月も見えない静かな夜だ。

見慣れた灰色塀の雑居ビルの螺旋階段を昇り、相変わらず人が寄りつかないような場所にある国木田の店までたどり着いた。

店に入って中折れ帽を脱ぐと、店の奥から身なりの整ったバーテンダーが現れた。

「やあ谷口。メールの返信がなかったから、どうしたのかと思ったよ」

ああ。悪かったな。ちっこいギャングに拉致されてたんだ。

「まあいいや。キミなら来てくれるお思っていたよ。でも、気を遣わせてしまって悪かったね。大した用事じゃなかったんだ」

気にするな。俺もやることなくて暇だったんだ。

「店においてあった酒が古くなってね。お客さんに出せなくなったから処分しようと思ったんだけど、ちょっともったいなくて。まだ十分飲めるんだし、キミにあげようかと思って。食品衛生上、本当はこんなことしちゃいけないんだけどね」

そういって国木田は棚から、濃いグリーンのボトルを取り出した。

固いこというなよ、国木田くん。固いこというなよ。俺とキミの仲じゃないか。なに? つまり、その酒を捨てるのがもったいないから、谷口くんに個人的に処分してもらいたいと。そういうことかい?

「そういうこと。キミ、普段からあまり大したお酒を飲んでないんでしょ? たまにはさ。上等な物を飲んでみるのもいいんじゃない?」

内緒だよ、と笑顔で国木田はボトルを開けた。

堅苦しいこと言うなよ。墓の中まで秘密にするって約束するよ。約束するから早くくれ。

あ、これうまいな。おお、なんか違う。においが違うな、におい。

「においじゃなくて、香りって言いなよ」

これは、あれだろ? 蒸留系の……なんだっけ。名前がここまで出掛かってる、ここまで出掛かってるんだけど。えと、エール?

「ははは。もういいよ。名前知らなくても、味が分かればそれでいいじゃないか。いっぱいあるから、飲みなよ」

いやあ、悪いねえ。こんなうまい酒をいただくのは初めてかもしれない。

「ふふ。良かった。喜んでもらえて」

そりゃそうだよ。うまい酒を飲ませて……いや、処分させてもらっているんだ。しかもタダときたもんだ。これで文句を言うようなヤツがいたら、その場で俺がデトックスしてやるよ。

 

それからしばらく、俺と国木田はちまちまと名前も分からない蒸留酒を飲みながら、18の時に出会って以来の思い出話に花を咲かせていた。

静かな夜だ。ただ俺たちの話し声と、液体が瓶の口からそそがれる音だけが、2人きりの店内に響く。

少年時代に戻ったような気分で、俺と国木田はなにもかも忘れ、腹の底から愉快に話し続けていた。

邪魔をするものもなく、うまい酒を飲みつつ、仲の良い友人とさし合わせで語り合う時間。ありきたりな出来事かもしれないが、これはこれで満ち足りた幸せな時間だ。

 

「あの頃は、楽しかったね。よく年をとった人が過去をふりかえって昔はよかったって言うけど、みんなこんな気分になってるのかな。あの頃は辛いとか嫌だとか思えたことも、何年も経った今なら、それも良い思い出のように思えるよ」

年寄り染みたこと言うやつだな。そういうこと言うヤツはな、あれだ。中年なんだよ。若い人はそういう思考はしないもんなんだよ。俺は若いから、そういうことは思わないんだよ。分かるか? 俺はまだまだ若いんだ! 中年じゃありませんー!

「キミ、だいぶ酔ってきたみたいだね。これくらいにしとくかい?」

酔ってません! 俺は酔ってません! たとえ酔っていたとしても、酔ってなんかいませんよ!

「はいはい、分かったよ。気をつけて帰りなよ」

なんだよ。俺の言うこと信じてないな、こいつ。くそう。もういい! お勘定!

「お金はいいって。古くなったのを秘密で処分したんだから」

うーむ、せっかくポッケから財布をとりだしたというのに。しかし国木田がそう言うならしかたない。友人の顔をたてて、そういうことにしておいてやるよ。

「はいはい。ありがとうございました。足元に気をつけてね」

そこまで心配されなくても大丈夫です! 痴呆老人かよ俺は。少しもつれる足で、俺は椅子から立ち上がった。

んじゃな、国木田。あばよ。今日は楽しかったぜ。また処分しなければならない酒がある時は、いつでも谷口さんに言いなさい。すぐ駆けつけてやるから。

「あははは。そうさせてもらうよ」

 

俺が足元のおぼつかない思いで店のドアを開けると、おずおずとした様子で国木田が俺を呼んだ。

「ねえ、谷口。僕たち……友達だよね。ずっと。これからも。何があっても」

ああん? 何を言ってるのかよく分からんが、そうに決まってるだろ。お前は俺の大親友だよ。だからまたよろしくな。

カウンターの奥から出てきた国木田が満面の笑みで、俺に手を差し出した。

なに?

「握手」

はあ? 握手? なんでまた。

「いいから。ほら」

よく分からないが、まあいいや。俺は促されるまま国木田の手を握り返すと、上下にシェイクした。

これでいいのか?

「悪いね」

いや。別に。そんじゃ、また今度な。

「ああ。また……またね」

変なやつだ。まだ俺が酔ってるなんて世迷いごとを言ってるんだろうか。

俺は鼻歌をうたいながら店のドアを開け、店から出て行った。

さわやかな風の吹く、最高の夜だった。

 

つくづく自分が情けない。

この時、国木田の様子がおかしいことに気づいておくべきだった。

 

 

次の日、目が覚めると自室の床の上だった。玄関から上がってすぐのところで、うつ伏せ状態での起床となった。

昨日はけっこう飲んだと思ったが、二日酔いの気配もなく快調な目覚めだった。蒸留酒は悪酔いしないし二日酔いにもならないと言う。比較的健康にもいいらしい。今度から蒸留酒に乗り換えるのもいいかもしれない。

もぞもぞと部屋の中を歩き冷蔵庫をあけてみる。おお。なんということだ。見事なまでに何もない。ニンジンが2本あるだけだ。きゅうりならマヨネーズでもかけて丸かじりできるんだが、ニンジンはかじる気にならないな。いや、マヨネーズその物がないんだった。

ここまで何もないと諦めもつく。俺はよれよれになったシャツを着替え、顔を洗って寝癖を直し、家から出た。コンビニに行けば何か食いたい物があるだろう。持ち金があっただろうか。と所持金の確認をしようとポケットに手をつっこんだ俺は、あることに気づいた。

財布がない。あれ? こっち側のポッケだったっけ? いやいや、無いぞ。待て待て。これはどういうことだ。昨日、国木田のところへ出かける時、財布をポケットに入れた記憶はかろうじてある。ということは国木田の店に置いて来てしまったということか!? 落としたなんてことはないはず……そんなこと認めたくない。

暗澹とした気分で、俺は居間へ移動した。

頼む、国木田の店に置き忘れてたのでありますように! 祈る気持ちで俺は国木田の携帯に電話をかける。くそ、こんな時に限って国木田が携帯電話の電源いれてないみたいだ。一応状況報告のメールを送っておこう。

取りに行かないとダメだよな。あの財布に所持金が全部はいってるし。ATMのカードも財布に入れてあったし。銀行の通帳はどこにいったか分からなくなったから、銀行の窓口で金は下ろせないし。やっぱ国木田家に赴かないといけないのか。アレがないと飯も食えないもんな! ちくしょー、行くか!

自分に喝をいれる意味で声を張り上げ、俺はすきっ腹を提げてコンビニの前に国木田家へ向かって出発した。

 

 

自分のミスとは言え、意味もなく遠出しなければならないというのが腹立たしい。おそらく腹が立っているのは、空腹であることも関係あるに違いない。チクショー。

腹減った、無性に虚しい、ハングリー。字あまり。

「谷口くんじゃない。どうしたの? 財布をなくして朝食にありつき損ねたような顔して」

顔を上げると、目の前に小首をかしげた朝倉涼子が立っていた。

やあ。朝倉さんじゃないか。おはよう。大当たり。実はその通りなんだ。慧眼だね。

「慧眼っていうか、なんだか空腹で機嫌の悪そうな顔してたから。大丈夫?」

いやいや。機嫌悪そうな顔はしてないぜ。知らないの? 巷じゃ、今こんな顔がブームなんだぜ。流行最先端なんだ。

「他にそんな顔してる人、見当たらないんだけどな」

前衛的だろ?

「……何か食べる? サンドイッチくらいならおごってあげるよ」

マジすか? さすが朝倉さん。ありがとうございます。この恩はサンドイッチを食べ終わるまで忘れません。

「食べ終わるまで……まあいいわ。私についてきなさい」

 

 

朝倉さんにサンドイッチを2袋、コーヒー1杯をおごってもらった俺は、公園のベンチに座っておもむろに食べ始めた。おお、うまい。腹が減ってるから更にうまい。

「それで、財布は本当に店に置いてきたの? 落としたんじゃないでしょうね。もし落としたんだったら、早く警察に届けて銀行で口座の凍結の手続きをしないと危ないわよ」

んー、多分あそこで間違いないっしょ。酔って転んだくらいで財布がまろび出るほどやわなポケットじゃないし。

「ならいいんだけど。私に言われるまでもないと思うけど、お金のことはちゃんとしておかないとダメよ」

俺は卵サンドをかじりながら、ベンチの隣に腰を下ろす朝倉さんに目をやった。風になびく前髪が繊細で、どこか果敢なげな印象を受ける。

朝倉さんは、なんで俺にサンドイッチおごってくれたの?

「理由が必要かしら? 目の前に困ってる人がいたら、手を貸してあげたくなるじゃない。それだけよ」

俺、そんなに困ってるように見えた?

「けっこうね。でも理由が必要なら、なんとでも言ってあげるわよ。縁日で金魚をくれたお礼、とかね」

なるほど。これはあの金魚の対価ということか。いやあ、やっぱ人に金魚はあげておくもんだわ。

 

それからしばらく、俺はサンドイッチを食みながら空を見上げる朝倉涼子の横顔を眺めていた。彼女は、ずっと物憂げな眼差しで遠くを見ている。何を見ているんだろう。少し気になった。

まただ。朝倉涼子のその表情を、その輪郭の曲線を、姿を見ていると、足の先あたりからじわじわと、震えにも似た心地よい感覚が込みあがってくる。

いつからこんな感覚が現れ始めたのかは覚えていないが、よくよく考えてみると、それは初めて彼女に会った時からずっとあったもののような気もする。

夏祭りで朝倉涼子に出遭った時も、こんなことを思っていた。

俺の視線に気づいたのか、朝倉涼子がわずかに俺の方へ視線を送る。

「どうしたの?」

震える感覚が胸まで達した。俺はほとんど無意識的に、ぽろりと頭の中の言葉を口にしていた。

俺やっぱ、あんたのこと好きだ。

 

風が凪いだ。ように感じた。

朝倉涼子は大きな目を見開き、驚いたふうに正面から俺の様子を窺っていた。

あ、やべ。言っちゃった。

俺はとっさに、サンドイッチの袋とコーヒーパックをビニール袋に乱暴につめこみ、彼女に背を向けるように立ち上がった。

背中に朝倉涼子の視線を感じる。おそらく、さっきまでのように無言で驚いた表情をしているに違いない。

言うつもりはなかったのに。あー、言っちゃったよ。マズったな。気まずいな。どうしよ……

遠くで、子どもたちがボールを蹴りあって遊んでいる声が聞こえてきた。

 

「あの……」

呟くような彼女の小さな声が俺の耳に届いた。あー、やっぱり。すげえ気つかわせてるよ。まずったわ。今世紀最大のミスだわ。

「なんて言うか、その。……ありがとう」

うっそぴょーん! と言って勢いよく振り返って誤魔化したいくらい重い空気が流れていたが、それはよくない。男として、人としてそれはよくない。どういうベクトルであれ、俺は彼女の心に大きな衝撃を与えてしまったんだ。彼女がそれを真摯に受け止めてくれているのに、俺が自分の理屈で一方的になかったことにしてブチ壊してしまいたくはない。俺の口から気持ちが流れ出てしまったその瞬間から、これは俺の問題じゃなくて朝倉涼子の問題になっちまったんだ。マジでまずったわ。俺の問題だけで終わらせておきたかったのに。

「わ、私も谷口くんのこと好きだよ。ほら! この前も金魚くれたしさ。今、私がお姉ちゃんと一緒に暮らせてるのも、谷口くんのおかげだし」

無理に作った喜声で朝倉涼子はそう言った。俺が友情とか仲間意識という意味で「好き」と言ったのだと思い込もうとしているようだが、きっと彼女自身それが違っていることに気づいているんだろう。でなきゃ、こんな無理して演技をしない。

誤魔化しちゃいけない。真剣に物事と向き合わなければならない時は、それが逃げ出したい状況であっても、適当なことを言ってはぐらかしたらいけないんだ。

俺はきびすを返し、朝倉涼子と向かい合った。さっきコーヒーを飲んだばかりなのに、のどがどんどん乾いていくのが分かる。ひりひりする口で、俺はもう一度、彼女に向かってさっきと同じことを繰り返した。

 

「私、その……人からそんなこと、言われたのって、初めてだから。なんて答えていいか、よく分からなくて……」

指を絡ませて下を向き、朝倉涼子はぼそぼそと小声でそう言った。

いや、いいんだ。答えをもらおうと思って言ったことじゃないから。ほら、俺って自分に正直だからさ。つい、思ったことを言ってしまったんだ。

「でも。返事はした方がいいんじゃ……」

いいんだ。いいんだよ。そりゃ返事がもらえるに越したことはないけど、今すぐなんて難しいだろ。いつでもいい。できればゆっくり考えてもらって、結論が出たら、教えてくれないか。メールでもいい。1年先でも2年先でもいいから。あ、いや、それは長いか。1ヶ月? それくらいにしといた方がいいかな。いろいろと。うん。え、早い? 2ヶ月……それはちょい遅いかな? うーむ!

妙にあわててしまってセリフをうまく口にできない俺を見て、朝倉涼子はくすっと笑った。

 

 

 

鉛のように重くなった頭を首の上に乗っけて、俺はふらふらと人のいない裏路地を歩いていた。まったく予期していなかった事態を自分の不注意で招いてしまい、興奮やら気恥ずかしさやら猛省やらの感情が坩堝のようにない交ぜになって全身をグルグル駆け巡っていた。

言わなきゃ良かった、断られたら気まずくなるかな、などネガティブなことを考えてみても、不思議と心には後悔が一切なかった。むしろ奇妙な達成感すらあるように思える。

まあ、考えたって仕方ない。なるようになるさ。

俺は自分にそう言い聞かせ、昨夜降りたばかりの雑居ビルの螺旋階段をまた昇っていった。国木田のやつ、店にいるかな。閉店の時間帯だけど、いてくれたらいいんだが。ドアに鍵かかってたらどうしよう。そういや、インターホンとかあったっけ。なかったんじゃないかな。施錠されてたらどうやって入れてもらおう。呼べば出てくるかな。

店の前に着いた俺は、少し違和感を覚えた。あれ、ここってこんな感じだったっけ? なんかいつもと様子が違う気がするんだが。

そうだ。閉店の時間帯にいつも店の前につっている「CLOSED」のプレートが無いんだ。珍しいな。あいつがプレートを掛け忘れるなんて。それとも、臨時で今も店を開けてるのか。

ドアノブを回してみると、なんの抵抗もなく扉が開いた。お、やっぱ開いてたんだ。ラッキー。

ほっと胸をなでおろし、店内へ「うぃーす!」と一歩踏み込んだ俺は、二歩目を踏み出すことなくその場で固まってしまった。

 

昨日まで俺と国木田が思い出を熱く語り合っていた店内には、文字通り何もなかった。

 

 

呆けた頭で、店の中を見回す。カウンターや備え付けの棚はあるが、それ以外の物は何もない。客用のテーブルも椅子も、棚に並べられた酒のボトルも、なにもかも。

そして、国木田の姿もなかった。

ひやりとした感覚が俺の頭に去来する。来る場所を間違えただろうかと思いつつ、こそこそと店内に入る。

カウンターの上に、黒い革財布が置いてあった。俺の財布だ。中を開けて確認する。カード類から金額にいたるまで、昨日俺が持っていた物に間違いない。

 

間違いなく、ここは国木田の店だった。

しかしこれはどういうことなんだ? どう見ても、これが営業を今夜に控えるバーの姿には見えない。

国木田の名を呼びながら、狭い店内を探し回る。今まではずっと狭い小さな店だとばかり思っていたが、こうしてみるとけっこう店内が広かったことに驚いた。

どこを探しても、国木田の姿はない。生活臭さえもきれいサッパリ消えている。部屋の隅々まで掃除が行き届いているらしく、ほこりっぽさもまるでない。無機質な印象が強すぎる。

落ち着け、俺。これは一体どういうことなんだ。冷静に考えてみろ。昨日俺が座っていた席に俺の財布があった。つまりここは99%国木田の店に相違ない。しかし国木田がいない。ちょっとお買い物に出かけている、というわけでもなさそうだ。

引越しでもしたのか? 昨日まで普通に店を開けていたのに、今日になって突然? 何の報告もなく? あいつらしくもない。

いや、今は昼前だ。引越しをするにしても、半日でこの店の物をすっかり持ち出すのは無理だろう。この店を引っ越そうと思ったら、何日も前から忙しく段取りをして、荷物をダンボール詰めしてレッカーでも雇ってテーブルを運び出して……。となるはずだ。とても半日で終了できるもんじゃない。

夜逃げの線もなしだ。あいつは店の経営が危なくなったからといって夜逃げするようなヤツじゃないし、そこまで資金繰りが危うい様子でもなかった。そもそも夜逃げするなら、テーブルなどの余計な荷物はすべて置いていくだろう。

 

なによりも、国木田が俺に一言の連絡もなくこんな行動に及んだ理由がわからない。

身体から力が抜ける感触に足をとられ、へたりこむようにカウンター席の回転椅子に腰をかけた。

そういえば。昨日、国木田の様子がおかしかったな。ふるまってくれた酒も、古くなっているという感じはしなかったし、あいつの態度にも不審な点が多かった。昨夜は酒の勢いでそんなことまったく気にしなかったが、思い返すと明らかにおかしい。あいつが、普段の生活の中で俺に、おやすみの握手を求めることなんて考えられないことだ。

何があったのかは知らない。何を国木田が考えていたのかも知らない。しかし、あいつにはあいつの理屈があって、黙って一人ここを出て行ったんだろう。

あいつが昨日俺を店に呼んだのは、古くなった酒を処分するためではなく、俺とお別れの酒宴をささやかに開くためだったんだろうか。そう思うと、少し寂しくなってきた。

 

 ───ねえ、谷口。僕たち友達だよね。ずっと。これからも。何があっても

昨晩の国木田の言葉がリフレインする。

どこに行ったんだよ、国木田。早く帰ってこいよ。

どうせコンビニにサンドイッチでも買いに行ってるんだろ? そうだろ? 帰ってきて店のドアを開けて、「あれ、谷口どうしたの?」とか少しびっくりしたような笑顔でひょこっと現れるんだろ? 分かってるんだよ。俺をハメようたってそうはいくか。

不安になんかなってないぜ。本当だぜ。だから早く帰ってこいよ、国木田!

 

 

扉のきしむ音がして、店のドアが開く気配があった。

カウンター席で肩を落としていた俺は、弾かれるように店の入り口を振り返った。

国木田か!?

 

「すごいですね。まさかたった一晩で、この店がきれいサッパリ消えてしまうなんて」

おや谷口さんじゃないですか。そう言って、にやけた顔の男が現れた。

「どうしたんですか? 国木田さんなら、ご覧のとおり不在ですよ」

お前こそどうしたんだ、古泉。昼間っからアルコールを飲みに来たわけじゃなさそうだな。

古泉は相変わらず張り付けたような笑顔を浮かべて、店の入り口に立ったままだった。

 

 

 

  ~つづく~

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最終更新:2007年08月09日 23:15