谷口が消えてしまった。消えてしまったと一言に言っても、家出をしたとか学校を中退したとかのレベルの話ではない。文字通り、存在そのものが消失してしまったのだ。
違和感は今朝からあった。ギリギリ遅刻寸前で教室に入っても、見覚えのある1年からの友人の姿が見えなかったし、そもそも谷口の席自体がなかったのだ。しかしその時は深く考えることもなく、担任の岡部がHRにやって来る前に急いで自分の席に着くことで頭の中がいっぱいだった。
本格的に異変に気づいたのは1限目の休み時間になってからだった。暑さでぐったりしているハルヒに何気ない日常会話のつもりで、今日は谷口は休みなのかと語りかけると、ハルヒはなにを言っているんだこいつはという目つきで俺を見て、「谷口って、誰?」と返答したのだ。
ハルヒによる数々の変態的椿事に巻き込まれてきた俺だ。俺の脳内の超常的感覚アンテナが敏感にハルヒから発せられるP波に気づいた。これはおかしい、と。
ハルヒは性格から価値観にいたるまで壊滅的に一般常識と食い違った部分を多く持っているが、根は真面目な常識人だ。と古泉が前に言っていたことがある。こんなアイスクリームを取り上げられた子どものような仏頂面のままで面白くもないジョークを言うようなヤツではない。こいつがそう言うからには、本当に谷口って誰?と思っているのだろう。
「谷口? うちのクラスにそんな生徒、いたっけ?」と国木田が鮭の皮を神経質に剥ぎ取りながら言った。
既視感を覚える。前にもこんなことがあった。俺の記憶の片隅に強く刻まれているイメージだ。
しかし今回の場合は以前の一件とは若干様子が違う。俺の席の後ろにはショートカットバージョンのハルヒが鎮座しているし、理系クラスに古泉の姿もある。廊下ですれ違った朝比奈さんと鶴屋さんも、俺に笑顔で手をふってくれた。なにも変わらない。いつもと同じ、ごくごく普通の学園風景。
ただ一つ違うのは、我がクラスが全校に誇る希代のお調子者、谷口が、その存在ごときれいさっぱり消えてしまったということだ。
クラス名簿を確認しても担任の岡部にそれとなく訊いてみても、得られる情報はなし。
俺は困惑した。疑惑の眼差しで下敷きをうちわ代わりにするハルヒを見る。前回の消失事件の真犯人はこいつじゃなかったが、谷口オンリーがこの世から消えているという事実を鑑みたところ、どう考えても犯人はこいつとしか思えない。
しかしハルヒが谷口を消した犯人だと決めつけるのは早計だろう。こんなことをできるのはハルヒか長門くらいだが、そもそも2人にはそうする動機がない。
俺は国木田との昼食を早々に切り上げると、早足で教室を出た。目指す先は文芸部室だ。
SOS団のブレインである長門なら、きっと何かを知っているはずだ。
俺が部室棟の一角にある文芸部室のドアを開けると、やはり長門はそこにいた。いてくれると信じてたぜ。そして少し意外だったが、長門以外にも部室内にSOS団の団員が揃っていた。
朝比奈さん。古泉。2人も来ていたのか。
「長門さんから話は聞きました。あなたのクラスメイトの、谷口さん、でしたっけ? 彼が涼宮さんの力によって消失してしまったのだとか」
古泉、お前。谷口のことを覚えているのか? 一年つきあってきた国木田でさえ忘れていたのに。いや、そんなことはどうでもいい。やはりこれはハルヒの不可思議パワーのせいなのか?
「ええ、そうです。これは涼宮さんの能力によるものです。とある出来事から、涼宮さんはあなたのクラスメイト、谷口さんを嫌ってしまった。それも、いなくなってしまえばいいのに、というくらい激しい嫌い方を、です」
どういうことなんだ。一体ハルヒと谷口の間に何があったんだ?
「あなたのせいですよ」
俺のせい? 谷口がハルヒに嫌われるのは2人の間の問題だろう。俺は関係ないじゃないか。
「キョンくん……。あの、これを見ても、思い出さない……?」
そう言って、朝比奈さんはハンガーにかかっていた愛用のメイド服を取って俺の前につき出した。恥らうふうに朱色に頬を染める朝比奈さんの姿は卒倒しそうなほど愛らしかったが、今はそんな場合じゃない。
朝比奈さんのメイド服と俺と谷口の消失の関連性? ホワッツ? 朝比奈さんのメイド服……メイドと言えば、お茶……お茶といえば静岡県。静岡か。富士山? そういえば富士山の名前の由来は、竹取物語で帝がかぐや姫にもらった不死の薬を捨てたから不死山、富士山と呼ぶようになったと聞いたことがあるな。そうか。つまり朝比奈さんは月からやってきたかぐや姫だったということか。新事実だな。ていうことは何か。未来人は月に住んでいるということか。スペースコロニー。藤原の野郎は月というより火星人っていう感じだな。まあ仮性人の俺も他人のことは言えないわけだが。
違うな、この線じゃないな。朝比奈さんのメイド服……メイドといえば市原悦子。見たわよ~。違うな。こっちでもないな。
あっ! そういえば。思い出した! あの夜。俺が勘違いで谷口に嫉妬に燃やし、決闘することとなったあの時。俺はあのメイド服を着ていたんだった。オーマイガッ! なんてこったい、あのこと朝比奈さんにバレていたということか!?
「そうです。まさにそのことです。あなたが朝比奈さんのメイド服に身をつつんでいた時、谷口さんは何を着ていました?」
そうだ。あの時、谷口は教室においてあったハルヒの体操服を……まさか、それが原因か!?
「おそらくは。まあ厳密に言えば、それだけが原因というわけでもないのですが。しかし、それがもっとも大きなファクターの一つであることは確かです」
自分の使用済み体操服を勝手に着用されるということに嫌悪感を感じることは分かるにしても、それで人間一人を消すっていうのも乱暴な話じゃないか。
「ですから、それだけが要因じゃないんですよ。あなたはネットオークションである物を手に入れ、谷口さんにプレゼントしましたね。それも理由の一つです。そしてその後。谷口さんと仲直りしたあなたは、よく谷口さんと一緒に遊びに行っていましたね。学校帰り、休日を問わず。SOS団の活動も休みがちになるほど」
おいおい。ちょっと待ってくれよ。ハルヒがSOS団の活動を大事にしてるのは最古参の俺が一番よく知っているが、俺がそれに参加する回数が減ったからって、それを谷口のせいにするってのはいかがなものだろう。どういう交友関係を持とうが、それは俺の自由じゃないか。ハルヒだってそれくらいのことは理解できるはずだ。
「いろいろあるんですよ。涼宮さんの心の中も、一枚岩ではないのです」
やれやれ。相変わらず無茶苦茶なヤツだな。
理解しがたいことだが、谷口の消えた理由はだいたい分かった。で、どうすればいいんだ? 谷口をこの世に呼び戻す方法はあるのか?
俺はお面のように変化のない長門の顔に目をやった。
「………彼の存在は涼宮ハルヒの情報改変によりデリートされてしまったが、完全に消えてしまったわけではない。涼宮ハルヒの中にも、谷口という高校生男子にいなくなってもらいたいという意思と、いかに嫌いな相手でも消えてしまえばいいと願うことは人道に反するという倫理観がせめぎあっていたと思われる。そのため、今回の件は不完全な形で安定してしまっている。涼宮ハルヒと近い位置にある我々、彼女の能力を知る者の記憶の中に谷口の情報が残留していることがその証拠。情報がわずかでも残っているならば、手はある」
具体的にはどうすればいいんだ?
「………こうする」
長門はゆっくりと俺たちの前を横切り、団長机に置いてあるパソコンの電源を入れた。起動音と共にパソコンが立ち上がる。
俺と朝比奈さんと古泉の3人が長門の背後からデスクトップを覗き込むが、そこには何も映し出されていなった。いつもならハルヒがペイントし、長門が微調整を加えた複雑怪奇なZOZ団シンボルマークが壁紙として表示されるはずなのに、パソコンの画面上にはアイコンやマウスカーソルさえも表示されることなく、ただただ画用紙のように真っ白なだけの平面が展開されていた。
「………谷口の残留情報は我々の脳内以外にも、空気のように大気中を漂っている。たとえばこの長門有希というインターフェースは便宜上、有機生命体という形を持っているが情報とはそもそも形のないもの」
長門はパソコンをじっと見つめたまま、ぶつぶつと例の超高速早口で何事かを唱え始めた。
「………谷口を形成していた情報を、このパソコンの中に集め、封入する。このパソコンを通し、彼とのコンタクトを図る」
よく見ると、画面についたほこりさえも見えないほどの純度を保っていたデスクトップに、ぼんやりと薄い色がにじみ出はじめた。最初は違和感程度にしか感じなかったそのにじみも、次第に濃くなり、やがて人にモザイクをかけたような具合に変化してきた。
「だいぶ谷口さんの情報が集まってきたようですね」
神秘の宇宙パワーを目の当たりにして、古泉も嬉しそうな表情だ。俺としちゃ親友の進退がかかった一瞬なわけだから、オカルトじみた未知の現象を楽しむ余裕はないのだが。
クイズ番組のモンタージュのようにモザイクが徐々にとれ、人間の体を形成していく谷口の情報たち。
そしてついに谷口情報が100%集まったのか、完全なオールバックの姿がデスクトップ上に現れる。
「どうも、谷口です」
生まれたままの一糸まとわぬ裸体で現れた谷口は、笑顔で挨拶した。相変わらず妙に律儀なヤツである。両手で顔を覆い、きゃっと顔を伏せる朝比奈さんが最高にかわいらしい。よくやった谷口。いや、これは谷口のやったことじゃないか。
「だったらったーたったらったーちゃーちゃーちゃっちゃっちゃちゃらら」
やおらハレ晴れユカイのメロディーを口ずさみながら、中国拳法のような型を見よう見真似で踊りだす谷口。なにをやっているんだ、こいつは。
「あれ、そこにいるのはキョンじゃないか。何やってるんだよ、そんなブラウン管の向こう側で」
あれ、向こうからこっちが見えるのか? 会話もできているようだが。
「………パソコンはあくまで意思疎通の媒体。会話は可能」
そうか。それはよかった。会話ができなかったらどうしようかと思ったところだ。それはそうと、いい加減谷口にも何か服を着せてやったらどうだ? 裸じゃ何かと気になるだろう。何からナニまで。
「………このパソコンの中は今、様々な情報で満ちている情報飽和空間。この空間内にいる限り、情報刺激を加えたものすべてが反映されることになる。彼が衣服を着用したいと思えば、その思念が周囲の漂流情報体に影響を及ぼし、情報を形質化させる」
ええと、要するに、谷口が服を着たいと願えば服が出てくるということか?
「………そう。安直に言うならば、なんでも願い事がかなう空間」
なるほど分かり易い説明だ。おい谷口、聞いたか? 服を着たいと願うんだ。そしたら服が出てくるから。
「え? やだよ。何言ってるんだよキョン。せっかく開放的な気分にひたっているってのに、水をさすようなこと言わないでくれよ。野暮だな。俺は裸がいいんだよ。言うなれば、野生的な俺を見てくれって感じ?」
いや、見たくないから。指の隙間からこっちを垣間見てる朝比奈さんは見たいのかもしれないが、俺は見たくないから。
「なんて言うかさ。すごいパッショナブルだよ。全てを外気にさらしてるって。そして感動的なほどにトゥギャザーだよ」
トゥギャザー言うな。
で、長門。谷口が完全に消えてしまったわけじゃないことは分かったが、このままってわけにもいかないだろう。どうやれば、元通りこっちの世界に復帰できるんだ?
「………ここに、谷口のTFEIを用意した。これにパソコン内の谷口情報を移し変えるする」
いつの間にか長門の隣に、北高の制服を身にまとった谷口1/1モデルTFEIが用意されていた。まるで本物の人間だ。芸が細かいな。まさにファン垂涎の出来だ。
「………さあ。彼をパソコンの中からこちらへ移るよう話して」
谷口、おそらく事情は飲み込めてないと思うが、これは夢なんだ。いいか? 夢だから登場人物や世界観、現在進行形で目の前で起こっている出来事などは全て無意味なイメージ映像なんだ。お前が朝目が覚めてこの夢に対してなんらかのリアリティを感じたとしても、それはお前の一時定な心的興奮からくるものに他ならない。いいな。そのことを念頭に置きつつ、俺の言うとおりにしてくれ。谷口、そこから出てこっちのお前の体に移るんだ。
「やだね」
な、なに!?
「まあ、これはキョンの言うとおり夢なんだろうな。何故か知らないが俺の思い描いたものが全て理想通り現れるし。たこ焼きだってパッキン美女だって思いのままだ」
なんという情報の無駄使い。
「なんでかな。感覚的に分かるんだよ。そっちに行ったら、この夢のような夢から醒めてしまうって。夢のような夢? いや、夢のようなドリーム……なんでもいいか。とにかく俺は、眠っている間くらいは嫌なこと全て忘れてこの理想郷の中で過ごしていたんだ。邪魔してくれるな」
ああ…まあ一理あるな。俺だって夢の中くらいは嫌なことも忘れて楽しい思いをしていたいし。だが悲しいかな、これって現実なのよね。ハルヒの力を知らない一般人の谷口に、事情を説明することができない状況がもどかしい。
でも、ダメだぜ。谷口の居場所はそんな情報空間じゃないんだ。親友である俺が認めない。お前の居場所はこっち側の現実世界なんだ。必ず連れ戻してやるぜ、谷口。
HOI☆HOIと気分よさそうに踊りつつ、美女に囲まれ狂ったように頭からドンペリを浴び続ける谷口に背を向け、俺を長門に問いかけた。
長門、谷口がいる空間に俺も行くことができるか? あ、いや、俺もあっちで思う存分遊びたいということじゃなくてだな。こうなったらひっぱたいてでもあの馬鹿を連れ戻すんだ。
情報飽和空間の中はひどく居心地の良いところだった。暑さや寒さなどの概念はなく、まるで38℃の静かな水中をゆっくり進んでいるような心地よい錯覚を覚える。あたり一面が真っ白で、なにも見当たらない。地面さえも目には見えない。しかし大地はそこにしっかりと存在している。長門が言うには、俺が大地を脳内で無意識的にイメージし続けているから、意識的に願わなくても足場はあるのだという。まあ、この空間内にいる俺は人間ではなく、俺と言う人間が持っていた情報を長門の力で情報飽和空間に移送した意識体だから、地面も酸素も、あってもなくても関係ないらしいのだが。
「ひどく居心地の良い空間ですね。猛暑の折など、ここへ来させてもらいたいものです」
「そうですね。ここなら夏の暑さも冬の寒さも関係ないですし」
そうそう、言い忘れていたが、古泉と朝比奈さんも俺に同行している。思うところがあるわけではなく、単なる好奇心らしい。断る理由もなかったから、反対しなかったらみんな仲良く長門がここへ送ってくれたのだ。
俺たちの目の前には、豪華な社長椅子にふんぞりかえって左右に情報から作り出した都合のいい美人の女性をはべらせた谷口がいる。なんて欲望に忠実であり、そしてチープな男なのだ。
おい谷口。遊園地は楽しかったか? もう十分遊んだだろう。さ、帰るぜ。
「ふん、やだね。俺は帰らないぜ。あんなつまらない現実世界になんか。俺は一生夢の中で暮らすんだ」
出たよ、漫画や小説で器の小さいチンピラが言いそうなセリフ。「夢の中で暮らしたい」、「俺はビッグは人間になるんだ」
「やれば出来るけど、やらないだけだから」。このへんのセリフを言うヤツが実在したとは驚きだった。そして同時にそれが俺の親友であったとは。驚愕と落胆の新事実だ。
「キョン、お前もここで遊んでいけよ。楽しいぜ? 何せ、自分の思ったことがそのまま反映されるユートピアなんだからな。親友のよしみで、特別にタダで遊ばせてやるよ!」
口には出せないが、ここはお前のただれた頭の中じゃなくて、長門の作り出した情報飽和空間なんだぞ。入場料をとるんじゃない。お前こそまず長門にリベートを支払うべきだと主張したい。
おい谷口、現実から目を背けたままいつまでも自分の世界で遊びほうけててどうする? そろそろ目を覚まして学校に行く時間なんじゃないのか?
「口うるさいな、キョンは。固いこと言うなって。お前もゆっくりして行けばいいじゃん。そこの2人みたいにさ」
俺が振り向くと、異様な光景がひろがっていた。
不気味なくらいスラッとスレンダーな体をした白馬。それにまたがる、一昔前の少女コミックに出てきそうな王子様。まつ毛の長い、涼やかな目元、カールした頭髪、風になびくマント。どこをどう見ても王子様だ。その王子様が、真っ赤に顔を染めた朝比奈さんをお姫様だっこしてバラの花をくわえている。
なんだこのシュールな光景は!?
「あれが朝比奈さんの願望か。俺たちより年上とは思えない少女趣味なんだな」
谷口のセリフにはっとする。そうか。ここは自分の願いが具現化する空間。つまり自分の理想がそのまま像を結ぶ世界なのだ。
なんだろう。朝比奈さんを抱くあの王子様。どっかで見たことのある顔なんだが……はて誰の顔に似ているんだったっけ。自分の記憶力に難があるとは思わないが、あそこまで少女漫画チックにデフォルメされてたら、元の顔が誰だか分からない。あの不気味な王子様の顔の元ネタが、朝比奈さんが行為を抱く相手なんだろうか。美化されすぎていて誰だか判別できないが。
さらに別視点に移すと、古泉が扇子で自分をあおぎながら高笑いを上げ、優雅に将棋を指していた。
「はっはっは。いやあ、6枚落としでも勝ってしまうとは。悪いですねえ。僕が強すぎてしまって」
「ううぅ、竜王者なみの棋力を持つ古泉様に私め程度の者が相手になるわけがございません。相手をしてもらえただけでも感謝感激の極みでございます~。ありがとうございました」
自分の頬がひきつるのが分かる。古泉と将棋板を挟んで対面に土下座して許しを乞うているのは、なんとも情けない泣き面をさらす俺だった。さらにその周りには、古泉を称える森さんや新川さん、田丸兄弟などの機関関係者の姿も。
こいつ……。いつも俺にゲームで負けていたのをそこまで根に持っていたのか……。今度会う機会があったら、森さんたちにこのことを教えてやろう。
「「「「古泉様、最高!」」」」
「ワンモアセッ!」
「きもかっこいい~!」
処遇はきまったな。
「キョンよ。いい加減お前も自分に素直になれよ」
谷口が俺に語りかけてくる。全裸で。まるで悪魔のささやきだ。
うるさい! 俺はお前を救おうと……目を醒まさせようとここに来たんだ。俺まで変な妄想にとらわれたら、誰がお前を助けるって言うんだ!?
「そうは言うけどさ。キョン。後ろを見ろよ」
俺の首筋にふっと、暖かい息がかかった。俺の耳元で、誰かが俺の本名をつぶやく。
どきりとする。背筋に冷たいものを感じ、俺はおそるおそる、肩越しに後ろを振り向いた。
「どうして……私を見てくれないの?」
黄色いカチューシャと、髪留めでとめたポニーテールが視界に入る。
「……好きだよ……」
「キョンよ、お前やっぱ……」
やめろ!
俺はかぶりを振って谷口に向き直った。あいつはこんなこと言わないんだ。これはあいつじゃない。
制服越しに感じられる、背中の指先の感覚。
谷口。お前、いい加減にしろよ。俺は、帰るからな。これだけ言っても俺の言葉がお前の耳に届かないんなら、仕方ない。一生でも永遠でも、好きなだけここで脳内ユートピアに頭までつかって腐ってろよ。
もう、俺はお前の親友じゃない。絶交だ。あばよ。
俺は谷口に背を向けて歩き出した。俺の背後に、黄色いカチューシャの女は、もういなかった。
長門に連絡をとろう。俺はすぐにでも、この薄気味悪い空間から脱出したいんだ。あばよ、谷口。
「待てよ、キョン」
谷口の声が、俺を呼び止める。
「その……悪かったよ。からかったりして。俺も遊びが過ぎたよな。勘弁してくれ」
振り返ると、北高の制服を着て恥ずかしそうに鼻をこする谷口が立っていた。
「自分の思い通りにことが進む世界なんて、面白みも何もないもんな。こんなところ、まっぴらごめんだぜ。俺は、厳しくても自力で困難を乗り越えてつかむことができる理想の方が好きだ。それに……お前と縁を切るなんて嫌だしな」
谷口……。ありがとう。わかってくれて。
「いいってことよ。さ、そうと決まればさっさと帰ろうぜ!」
ああ! 戻ろう、俺たちがいるべき場所へ!」
長門の用意したTFEIに収まり、元の人間谷口となんら変わらない姿をした谷口は、俺とともに昼休みの校舎の物陰にひそんでいた。俺たちの前方を、ハルヒが腕を組んで歩いている。
長門の言によれば、ハルヒの内面で谷口の存在情報が非常に希薄になっているらしい。このままでは谷口の存在情報は薄れて消えてしまい、そうなったが最後、完全にこの世から谷口の存在は痕跡を残さず消滅してしまうという。
「………涼宮ハルヒ内で谷口の存在が希薄になっているのなら、その存在感を上げれば事態は解決する」
そうは言うが、長門よ。どうやればいいんだよ。
とにかく谷口。お前これから、自分の存在というものをハルヒに嫌と言うほど見せ付けてきてやれ。
「え? なんで?」
いいから。早くしろよ。
「ああ、わかったよ。何だか知らないが、それくらいなら。まあ、夢の中だしな」
夢の中だからって、あんまし無茶はするなよ。特に安直な下ネタなんかはハルヒには厳禁だ。気をつけろ。
「やれやれ。夢の中でまで、お前らの変な行動につきあわされることになるとはね。ま、いいや。そこまで言うなら、谷口さんここにあり!ということを涼宮に見せ付けてきてやんよ!」
頼もしいな、谷口。余裕の表情を浮かべる谷口は、足音を殺して背後からハルヒへ向かって駆けていった。
「涼宮ああああああぁぁぁぁぁぁぁ! うおおおおぉぉぉぉぉぉ! 涼宮ああああああああああああ!!」
「へ? ぎゃあああ!?」
振り返りかけたハルヒに後ろからしがみつく谷口。
「頼む! お前のハイソックスを俺にくれ! かたっぽでいいんだ! なあ、頼む!!」
……谷口、お前ってヤツは……。
「こんのアホンダラが! いっぺん死んでこいクサレ谷口!!」
ハルヒのナックルパートが谷口のアゴを的確にとらえて放たれた。
でも、良かったな谷口。ハルヒがお前のことを思い出してくれたぜ。
昼休み明けの5限目が終わったところで、谷口が俺の元にやってきた。
「なあキョン。俺さ、さっきまで保健室に寝てたんだけど。記憶がなくてさ。俺、なんで保健室で寝てたかしってる?」
まさか本当のことは言えないよな。ハルヒのパンチで脳震盪を起こして運び込まれたなんて。
軽い貧血だよ。いきなり1限目中に倒れてな。あわてて保健室に担ぎ込まれたんだよ。本当だぜ? 長門の情報操作は完璧だ。
「ふーん。そうだったのか。ま、いいや。でさ。保健室で寝てた間に、俺、変な夢みたんだ」
そ、そうなのか…。それは、大変だったな。
「いい夢だったんだけどさ。なんか途中で変な展開になってさ。せっかくお楽しみのところへキョンが邪魔にしやってくるんだよ」
そうか。そりゃ悪かったな。
「まったくだぜ。幸福の絶頂を味わってたのによ、空気読めないキョンが俺にむかってさっさと目を覚まさないと絶交だ!なんて脅すだ」
まあ、夢の中の話だから。水に流してくれよ。
「でもさ。なんでかな。不思議と嫌な気持ちはしなかったんだ。むしろ、嬉しかったっていうか。俺が間違った方向へ進もうとしているところをお前が力づくで止めにきてくれたみたいでさ」
俺は言葉をうしなってそっぽ向いた。顔、赤くなってないよな。
「ありがとよ、キョン」
変なヤツだな。夢の中でのことを現実世界にもちこむなんて。馬鹿やってないで、さっさと6限目の準備しろよ。
「夢の中のことを話すのもバカバカしいと思ったけどさ。何故か、一応お前に礼が言っておきたい気分だったんだ。そんだけ。じゃな」
おい谷口。
「なんだ?」
今日、帰り予定あけとけ。ラーメンおごってやる。
これで、谷口を消失させたハルヒの一大事件は無事終結を迎えた。
あれだけハルヒに強いインパクトを与えたんだ。二度と谷口がこの世から消えてしまうなんてことはないだろう。
ちなみに、古泉があっちの世界から帰ってきたのは3日後。朝比奈さんが戻ってきたのは、それから更に1週間後のことだった。
~完~