涼宮ハルヒの悲調

 ●第一部

 何をしていたか思い出すのに、しばらく時間を要した。
 やがて目を開けるのを忘れていたことに気づく。
 カーテン越しの世界から、濁った光が溶け出している。
 そういえばずっと雨だなあ、と口に出すと、ベッドで寝息を立てる朝比奈さんが何か呟いた。
 ――何をしているんだろう。思い出したはずなのに、また忘れている。


 SOS団が一週間前に解散した。理由は一つ。ハルヒが死んだ、それだけだ。
 この事態を飲み込むのは、酒に弱い俺が飲み慣れない日本酒をゲロするよりも早かったが、それで爽快、というわけにはいかなかった。
 うすぼんやりとした哀しみはここの所続く雨みたいに降りしきる。
 積もることはない。薄い涙の膜が脳みそを綺麗にコーティングしてるみたいだ。
 うすぼんやりのままだ。たぶんずっと、おそらくだが。

 

 死んだ次の日、俺たちは――旧・SOS団員は――部室に集まった。
 あいつのつけていたコロンの匂いがした。あいつの座った椅子があった。あいつの描きかけの下手糞な絵が。あいつのバニー服が。
 誰も何も言わなかった。風が吹いて、カーテンが揺れた。古泉が口を開いた。
「彼女が……涼宮さんが亡くなったことによる影響は……ありません。彼女は死ぬ直前、自らの能力を最大限に利用し――書き換えていたのです」
「……どういうことだ?」
「この世界がこのまま続く、ということですよ。あえて言うなら、僕は普通の人間に戻りました。朝比奈さんはこれからの未来を抹消されていて……いや、どう説明すべきでしょうか? つまり……」
「あたしは、未来人ではなくなった……ってことです。本部とも連絡は取れなくなってました」
「そういうことです。彼女の”本部”も、僕の”機関”も、いずれは自然消滅するでしょう」
 結局そのお偉方が何をしていたのか、俺は知ることもできんわけか。それはいいが、じゃあ長門はどうなるんだ? まさか――
「ええ、そのまさかです。彼女は人間になりました。ありえないことですが……創造主がそう望んだんですから」
 改めてハルヒの恐ろしさに気づいた。古泉曰くの「神いわゆるゴッド」とはこういうやつなのだ。
 強情で意地っ張りで負けず嫌い。ギリシャ神話に加えて欲しいぐらいだ。
 しかし、そう望んだ……とは。
「彼女は……この世界が続くことを願ったのです」
「……」
 血液がものすごく遅く流れているのがわかる。俺は力を失って、団長の椅子に座り込んだ。
 ありがとよ、ハルヒ……? でもな、意味がねえ。お前の力とやらはまるっきり役立たずだ。
 お前がいないんじゃさ。


 翌日にSOS団は解散した。
 誰も止める者もいなかったし、止めようとも思わなかった。
 全校朝会などが開かれて、ハルヒの死は大変に痛ましい出来事だと力説する校長。泣く女子。
 俺は曖昧に顔を歪めてみたりもした。それだけだった。
 本当に悲しいと涙が出ないらしい。
 いつか堰が切れる日が、怖くて仕方がない。

 ある雨の日、朝比奈さんは俺を呼び出した。
「もう、あたし、キョン君と仲良くしてもいいみたいなの……だ、だから……」
「朝比奈さん……」
 俺たちは急速に近づいた。全校生徒が羨む美女だ。俺は幸せ者だっただろう。
 だが。いつだって、ハルヒの顔は脳裏にちらついていた。
 彼女と薄暗い部屋でセックスに耽っていても、ハルヒは俺の心の片隅に、確実にいた。
 盲目的に俺は彼女を欲した。呼び名も「朝比奈さん」から「みくる」に変わり、彼女も俺を名前で呼ぶ。
 ただただ、お互いがお互いを求めていた。何度も何度も交わり、全てを忘れた。
 ――そうか。忘れたかったのか。
 気づいても俺は求め続けた。


 俺は長門とも関係を持った。長門は朝比奈さんと違い奥手だったが、それでも一緒にいるだけで落ち着けた。
 放課後、「文芸部」になった部室。オレンジが眩しい部屋の中でキスをした。長門の唇は震えていた。
 ふと部屋の隅に置かれたダンボールが目に入る。「団長」と書かれた腕章。
 それは長すぎる、短すぎる時間。俺は長門に意識を戻した。
 忘れたフリをした、という嘘。
 長門の、時折漏らす噛み殺したような喘ぎ声だけが耳に入っていたはずなのに……確かに聞いていた。
「バカキョン!」
「! ……?」
「……どうかした?」
「い、いや……何でもない」
 俺は貪欲に長門を欲した。暗がりでも長門の肌は白く透き通っていた。
 忘れたいだけ、という真実。動かない。


 雨の音は絶え間なく鼓膜を揺らしている。それは紛れもない悲調。
 俺は、やはりハルヒの影を忘れることはできない。
 ハルヒとは何の関係もなかった。ただ一度キスを……それも夢の中で。
 でも、それでも、俺は唇の感触を忘れられない。驚いた顔も。髪の匂いも。温もりも。
 その全てが愛おしかった。告白するが、俺はあの一度きりのキスのとき、どうしようもなくハルヒが愛しかった。
 ずっとこうしていたいと思ったし、世界がどうなろうと関係なかった。
 ただ俺とハルヒがいた。


 ●第二部

 11月になった。ハルヒが死んでからもう5ヶ月だ。
 死んですぐの時には、「なあに、すぐに忘れられるさ」と思っていた。でも違った。俺は未だにハルヒの影を引き摺って生きている。
 2ヶ月ほど経って俺は学校になかなか行かなくなった。いや、学校だけじゃない。家にもいたくなくなった。朝比奈さんも長門も一人暮らしだし、俺が望めばいくらでも寝床を提供してくれたので、しまいには家にも帰らなくなった。
 やがて、俺は学校を辞めた。俺だけじゃない。朝比奈さんも、長門も、連れ立ってやめてしまった。
 俺が二人と関係を持っていることをお互いに知ったときも、怒ったり嘆いたりしなかった。俺と朝比奈さんと長門は同棲を始めた。
 そしてひたすら求め合い、堕ちてゆくのみだった。朽ち果てた精神が音もなく崩れた。俺達は生きて死んでいるも同然だった。
 忘れたフリをして生き延びた。時間だけ過ぎて俺達を照らした。
 ――ハルヒ、俺を笑うか? 季節は、もうすぐ冬になる。

 
 初めて雪が降った日だ。古泉から連絡があった。
「お久しぶりです。元気でしたか?」
「……ああ。お前も元気そうだな」
「ええ、おかげさまで」
「そうか……で?」
「はい?」
「何か用があるんだろ?」
「……ええ。実は、部室を整理していたら……MDを見つけました」
「MD……?」
「ええ。涼宮さんの残したものです」
 胸の辺りがぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。眩暈がして、俺は座り込んだ。
 そうか。あいつはいたんだ、確かに。他人の口からハルヒの名を聞くのは久々だった。
「大丈夫ですか?」
「……ああ。そのMDというのは」
「ええ、それが……あなたに宛てたメッセージです」
 メッセージだと……? あいつが? 俺に? 何だって言うんだ……?
「何だっていうのかは知りません。僕も聞いていませんから。ただ、『キョンへ』と、そう書かれています」
「……」

 
 俺は古泉に送ってもらうよう頼み、電話を切った。
 その場に座り込んで、タバコを燻らしたけれど、落ち着くことはない。
 ふとやわらかい感触が背中に重なった。
「どうしたの……?」
 風呂上りの朝比奈さんが俺の首に抱きつく。嗅ぎ慣れた石鹸の香りがした。
 彼女の吐息が耳にかかって、そうしてまた俺は眠たくなる。
「有希は……?」
「今買い物に行ってるわ……今日もカレーだって」
「俺は好きだな、あいつのカレー」
「ふふ、あたしも」
 彼女が俺のうなじに舌を這わせているときも、ハルヒのMDの件は俺の脳みそにこびりついて取れやしない。
 思い出すと涙が出そうで、俺は朝比奈さんの胸に顔をうずめた。

 
 そのMDはすぐに届いた。
 今は二人とも出かけている。俺一人だ。今、聞くしかない。
「このMDは、涼宮さんが病床に伏せている時に録音されたものです。最後に学校に来たときに部室に隠していかれたものと思われます」
 古泉はそう言った。あいつは病気の体をおして部室に来て、そしてこのMDを――
 場面が想像できて、俺は気分が重くなった。俺のためにハルヒが。
 ふと、「ああ、悲しいんだな」と気づいた。
 俺はMDデッキの再生ボタンに手をかけた。
 ゆっくりと、当時には掠れてしまっていたハルヒの、それでもどこか優しい、あの声が流れ出した。 

 ●第三部

 ハルヒの声が止み、MDプレイヤーは耳につく機械的な音で止まった。
 俺は涙をぬぐうことをすっかり忘れていて、頬がうすら涼しくも感じるほどだった。
 灰色に腫れてむくんだ空から数多の雨粒が落ち、窓に当たって騒いでいる。
 その音だけが充満して息苦しい部屋で、俺はさめざめと泣いた。

 次の日も雨だったが、かまわず俺はハルヒの墓参りに向かった。
 なかなか大きい墓だった。墓標には「涼宮ハルヒ」の文字が燦然と輝いてやがる。
 立派なもんだ。金持ちだったからな、あいつは。
 俺はお前に渡すものがある。笑わずに受け取ってくれ。頼む。
 俺は、昨夜一晩かけて捻り出した思いを綴った手紙を墓前に添え、その場を後にした。
 


 生活は変わっていった。俺も朝比奈さんも長門もいつしか勉強を始め、三人そろって同じ大学に入学した。
 やはりみんな、このままの生活を続けるのはいけないと感じていたのだろう。
 大学生活も俺たちは存分に楽しんだ。が、恋愛だけはしなかった。
 卒業後、それぞれが別の仕事についたが、帰る家は同じだ。いつも長門の作る料理の匂いは俺たちを待っている。
 俺は小説家になり、朝比奈さんはモデルになった。長門は専業主婦だ。
 なかなかお似合いだろ? 朝比奈さんなんか写真集まで出して、タレント、女優もやってやがる。
 俺はといえば小説家だ。何本か書店に並んでるぜ。新進気鋭の売れっ子だよ。
 長門は料理の腕をめきめき上げて、家事全般をこなせるいい嫁になった。
 だが、俺たちは俺たちの中ですごしていった。結婚するわけじゃない。俺たちはおそらく一生このままだと思う。
 このままでいいと思った。そう願った。
 せっかく願ってやってんだから、ハルヒ、お前俺たちの願いをかなえてくれ。お前なら簡単だろう?
 だからさ、頼んだぜ? なあ神様。

 
 ●Per sempre

 暗くもなく、明るくもない。
 窓を隔てた灰色から漏れる光が、この部屋の唯一の光源だ。
 俺はそっと瞼を閉じる。瞳に映る黒、黒、黒。
 いや――そうか。瞳の裏には、いつだってその笑顔があった。
 忘れたことはない。この50年のうちに起こった幾多の出来事、そのいつだって俺は目を瞑り、その笑顔を思い出していた。
 忘れたことはない。共にすごした二人が先に逝ってしまったときも。
 忘れたことはない。俺一人、明かりのない部屋の中で静かに聴く雨音……いつだってその笑顔は俺の中にいた。
 MDデッキを持ち出す。お前も、よくがんばってくれた。再生ボタンに手をかけ、目を瞑る。
 やがて声が流れ出し、俺は深い哀感に駆られるだけ――
 
「キョン、聴いてるかしら? 聴いてなかったらぶん殴るわよ! ……聴いてるわね?
 あたしはたぶん……たぶんそのときには死んでると思うわ。ま、まあ、生きてたら物凄い恥ずかしいけどね!
 そのときは知らないフリをしてね? しなさいよ絶対! それからキョン以外の人が聴いてたら……今すぐ止めなさい! 団長命令よ!
 ……ごほん。ええと……そう……キョン。キョンには、伝えなきゃならないことがあるわ。
 ううん……あたし……ね、キョンのことが……好きだった。たまらなく好きだったの。今更だけどさ。
 あんたが一緒にSOS団を作ってくれたとき、あたしすごい嬉しかった。
 まあ、強引にあんたを連れ込んだってのもあるけどね。そこは気にしなくていいわ。
 あんたと過ごす一日一日が、あたしは……げほげほっ……ごほっ……ごめん。あたしは……ああもう、何をしゃべったらいいのかしらね?
 あたし……キョンと出会えて良かった。キョンだけじゃない、有希やみくるちゃんや古泉君とかと出会えて良かった。
 でもね、キョン、あたしはやっぱりキョンが一番好きだった。気づいてた? ずっと好きだったの。どうしようもないくらいに。
 でも……断られたらどうしようって……あたし、こう見えて臆病なんだ……あ、今笑ったでしょ! 笑うな!
 ……だから、今言うわ。キョン……愛してる。あ……ごめんね、こんな形で。あたし、メールとか電話で告白する人嫌いなんだけど、まあMDで告白する人はいないだろうから大目に見なさい!
 ……ごめんね、キョン……死にたくないよ……あたし、まだキョンと一緒にいたい。たくさん遊びたかったし、遊ばなくてもいいからずっとキョンと一緒にいたかった。
 この際だから言うけど……あたし、前にキョンと校庭で、その……キスする夢を見たことがあるの。ば、馬鹿にしないでよね! ……嬉しかったんだから。
 あの朝、キョンがあたしの髪型を『似合ってるぞ』って言ってくれた時、あたし泣きそうだった。嬉しくて仕方なかったの。
 あたし……だめ……涙が止まらないよ……好き……キョン……
 ……ぐす………………すん……………………
 ……でもね、あたし、幸せ者だわ……キョンが好きなままで死ねる。
 幸せ者のままで死ねるから、幸せ者だわ…………ごほっげほっ…………
 …………キョン、もうさよならだわ……キョン、あたしのこと忘れないでいてくれる?
 10年経って20年経って、お爺さんになっても。ずっとあたしを覚えていてね……。
 キョン、大好き。じゃあね……」

 耳に障る機械音でMDは静かに、止まった。
 さよなら。忘れない。

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最終更新:2020年03月12日 10:40