第二章 涼宮ハルヒの選択 1

  長門の部屋でカレーを食べて、少しだけ話した。といっても、俺が長門に話しかけていただけだ。それを長門は頷くなり、首を振るなり、ボディーランゲージで答えていた。たまにそれだけでは伝えきれないのか、ぽつりと言葉を使った。サラダは長門が「得意」だというレタスに、トマトの二つだけしか盛られていなかった。別にそこまでの料理でもないのに、長門は水色のシンプルなエプロンを着ていた。カレーを混ぜるのに使っていたおたまとエプロン姿の長門は、熊と熊に咥えられた鮭ぐらいにはまっていた。いつでも木彫りにできるくらいに。サラダには、和風ごまドレッシング――俺が一番好きなドレッシングだ――をかけて食べた。缶カレーを長門の食いっぷりを見ながら食べた。テレビもコンポもない無機質な部屋で――テレビもコンポも無機質なのだが――、俺たちは二人だけの時間を過ごした。ハルヒも朝比奈さんも古泉もいない、長門の任務なんかとは関係ない時間だった。
 俺は長門と緩やかな時間を過ごして、長門のマンションを出る頃には午後十一時を過ぎていた。エントランスから自動ドアを抜けて、耳が痛くなるような寒さが俺を襲ったが、やはり寒さというのはゆっくりと身体を侵食していくらしい。街灯だけが頼りの帰り道を足早に歩いていて、長門の部屋のこたつで暖まった身体が少しずつ冷えていった。それだけじゃなく、長門と一緒にいたことで高まっていた言葉にしがたい高揚感も、少しずつ冷めていった。冷静になっていく思考は俺を激しく混乱させた。なぜ長門にあんなことをしてしまったのだろう、なぜ俺はあんな恥ずかしいことを言っていたんだ、なんて取り返しのつかないことを振り帰ることになったからだ。それから、俺は長門とは別のことを考えた。それは、部室で古泉と朝比奈さんが言っていたことだった。「あなたの好きな人が変えられている」、古泉はそう言っていた。それじゃあ、と俺は思う。もし変えられていたとしてだ、俺の「変えられる前の」好きな人は誰だったんだ? 俺は誰が好きだったんだ? 長門じゃないとしたら誰が考えられるのだろう? 最初に思い浮かんだのは、朝比奈さんだった。今日の俺の朝比奈さんを見る目を考えれば猿でも分かるだろう。涙する姿に心を動かされ、髪をかきあげる仕草に興奮する、ありえないことじゃない。次に思い浮かんだのは、鶴屋さんだった。階段でのあのちょっとした時間で鶴屋さんの魅力に引っ張られていたし、あの台風が近づいてきて手前でコースを変えたときのような去り際の寂しさはそう考えるのに十分な根拠だった。三番目に思い当たったのは古泉だった。あのスマイル野郎と抱き合って、愛を語り合っている場面が一瞬フラッシュバックしたが、きっと何かの強迫観念――もしくはPTSDかもしれない――だということで結論づけた。というのは冗談で、本当に三番目に思い浮かんだのはハルヒだった。それにしても、今日のハルヒの様子は異常すぎた。俺が下駄箱で話し掛ければ動揺していたし、それじゃあと教室で話し掛ければやたらと憤慨していた。憂鬱そうな顔で、溜息をつき、今にも消失してしまいそうな覇気の無さだった。いつもの暴走超特急はどこにいったのか不安になったが、退屈な様子ではなかったので、恐らく何らかの陰謀があるかもしれなかった。俺はその陰謀に対して、受身で待つだけだ。


 俺は記憶の確認のために、ターニングポイントとなったところだけでも正確に辿ってみることにした。俺が積極的に――ハルヒにばれないように――行動を起こしたのは数えるほどしかない。一年の時に三回、二年の時に二回だ。最初は神人たちが暴走する学校で、キスをしたときだ。キスに関しては夢だったということになっているが。次はちょうど今日、長門の世界改変によって変わった世界で、俺は元の世界に戻る選択をした。俺がこの世界、つまり、神様、宇宙人、未来人、超能力者――実は異世界人もいるかもしれない――なんてのが交錯するふざけた世界を選んだんだ。その次は、未来人との戦いだった。八日前から来た朝比奈さんを守りつつ、怪しげなチップを確保したり、亀を投げ込んだり、訳の分からないことをさんざんやった。二年が始まってすぐに起こった事件が四つ目だ。俺とハルヒが誘拐されたのだ。誘拐したのは古泉の所属している機関とやらの敵対組織だった。俺たちは鉄格子の窓が一つあるだけの完全に閉じられた牢獄で、ハルヒと手錠で繋がれ、どうしようもない状況の中で、必死に脱出を試みた。片手はハルヒと繋がっているし、自由に身動きできない状態で、俺たちは突破口を探した。徐々に体力は失われていき、水分補給もできずに、死に物狂いで探した。なんとか脱出に成功して外に出ると――その経緯についてはここで話すには長すぎる――、そこは山の中だった。俺たちは絶望した。それでも、俺たちは生きなければならなかった。小川の音が聞こえると、朦朧とする意識の中で、ハルヒを背負い、必死に音の鳴るほうに向かった。そこで水分補給を済ませ、俺たちは川を辿って降りていった。三日歩き続けて、俺たちは小さな集落に出ることができた。俺とハルヒは声なき声で叫ぶと、自然に抱き合っていた。まるでB級映画のラストのような、何の意味もない、歓喜のための抱擁だった。その後、そこのおばあちゃんに介抱して貰い、俺たちは一命を取り留めた。考えるだけで、腹が立ってくるできごとだ。最後はヨーロッパ旅行の時だった。鶴屋さんの別荘だという白亜の城は、時間を経て持ちえる威厳と荘厳さに満ちていた。到着して最初の夜に、ハルヒの「雰囲気を味わいましょう」なんて一言で俺たちは全員服を着替える羽目になった。どこかの姫のようなドレスで着飾っていたハルヒと長門、それに朝比奈さん。本物のティアラまで付けてたからな。タキシード姿の正装というなんとも堅苦しい服装を強いられた俺と古泉。古泉はタキシード姿がやたらと似合っていた記憶がある。全ては鶴屋さんによって、俺たちが出国する前から手配されていたと言うから恐ろしい。
 ここで俺の思考は止まってしまった。引っかかることがあったのだ。俺とハルヒが誘拐された牢獄の中で、ハルヒは何かを言っていた気がした。だが、虫食いされた記憶を埋めるには周辺の情報が足りなかった。確かに記憶というものは曖昧で、不確実なものだ。だが、そのハルヒの記憶は「忘れてはいけない記憶」に感じた。
 記憶の確認をし、長門のことを思い、ハルヒのこと考え、再び長門のことを思い始めたところで、俺は家に着いた。家の玄関から光が漏れていて、まだ寝ていないようだった。俺は小さく息を吐いて、ドアに手を掛け開けた。
「キョンくーん! ……うぅ」
 俺がドアを開け、玄関に入った途端、妹が抱きついてきた。顔は涙で一杯だった。いつから玄関にいたのかは分からないが、寒そうに身体を震わせているのを見ると、相当な時間が経っているようだった。
「どうして泣いてるんだ?」
 妹を落ち着かせるために、抱きついている妹の頭を撫でながら尋ねた。
「あのねぇー……お母さんが帰ってこないの。それにお父さんも。だから、あたしずっとキョン君が帰ってくるのを待ってたのぉー」
「ちょっと待て」
 俺はポケットから携帯を取り出すと、母親に電話をかけた。電話はすぐに繋がった。俺がなぜ家にいないのか問い詰めると、母親は「言うの忘れてたわ」とあっけらかんと伝えてきた。十年ぶりに催された同窓会に参加しているそうだ。新幹線で向かったので、泊りがけの予定だそうだ。携帯の受話口からは周囲の人の騒ぐ声が漏れていて、母親の話す声も携帯を離さないと耳が痛いほどだった。俺は両親が高校生から付き合いだということを知っていて、高校はこの街ではなく都会出身だということも知っていた。電気、ガスを消し忘れるな、鍵を閉めろだのお決まりの忠告を聞き流し、俺は電話を切った。
「今日はお母さんは帰ってこないらしい」
 電話中もしっかりと抱きついたままだった妹に言った。
「うん。それより、おなかすいたぁー」
「何も食べてないのか。そうだな、何が食べたい?」
「チャーハン!」
 妹はなんの躊躇もなく言った。
「分かった」
 俺は玄関の鍵を回しながら言った。
「よし久し振りに作ってやるか。だから抱きつくのはやめろ。このままだとリビングにもいけない」
「うん!」
 妹は俺から離れると、笑顔を見せて、ぱたぱたとリビングに走っていった。
「せわしないやつだな」
 俺はやれやれと溜息をついたが、もう数年もしたら甘えてくることも無くなるのかと思うと、少しだけだが寂しい気持ちになった。
「まだぁー?」
 ダイニングキッチンで騒ぎ立てる妹を無視して、俺は仕上げの作業に入っていた。既に十二時を過ぎているというのに、妹は眠くならないのだろうか?
「キョン君のチャーハン大好きなのぉ、だから早くぅ!」
「だから、少しは待て」
「うぅー!」
 確かに妹は俺の炒飯が大好きだった。中学の時はよく作ってやってたし、その度に大げさなまでに俺の炒飯を賞賛していた。炒飯をおいしくする方法は簡単だ。ネギをたくさん入れれば良い。入れ過ぎても駄目なのだが、初心者にはそれで十分だ。他にも隠し味に醤油を入れたり、うまみを少しだけ入れたりすれば良い。
 俺はガスを止めて、大皿に炒飯を盛り付けた。それを妹の前に置くと、妹はもの凄い勢いで食べ始めた。
「もう少し落ち着いて食べろ」
 俺は向かいの椅子に座ると、頬杖をつきながら、忠告した。
「うん!」
 妹はいつも返事だけいい。そして、返事をして無視をするのだ。無視つもりはないんだろうがな。妹の食いっぷりをぼんやりと眺めていると、妹は1.5人前をすぐに食べ終わった。
「おいしかったぁー」
 妹は本当においしそうな笑顔を浮かべて言った。
「それは良かった」
 俺は妹の空になった皿を取って、立ち上がりながら言った。
「キョン君、ありがとぉー」
「もう食ったんだし、遅いから寝ろ。小学生は寝る時間だ」
「うん!」
 本当に返事はいい。俺はなかなか温まらない水道水に腹を立てながら思った。妹は俺が皿を洗っている間にリビングからいなくなっていた。本当にちょっと目を離すといなくなる。別にいなくなっても構わないのだがな。俺の妹はいつ兄離れするのだろうか、ということを、石鹸で熱心に洗っても消える気配を見せないネギの匂いに腹を立てながら、俺は思っていた。
 俺が消灯を済ませて、自分の部屋に入ると、俺のベッドには妹が寝ていた。俺がベッドの横に立ち、毛布を引き剥がすと、
「あ、キョン君」
 まだ、寝ていなかった。二つ結びにしていた髪を解いて、身体を丸め、横になっていた。
「自分の部屋で寝ろ」
「えぇー、お母さんいないからやだぁー」
 確かに妹は母親と一緒に寝ていた。
「お前、来年は中学生になるんだぞ? 一人で寝れないと駄目だろ?」
「今日はやだぁー」
「わがままだな」
「今日はキョン君と寝るの!」
 幼い顔で怒ってるのを表現するのは難しいみたいだ。怒ってるのにかわいい顔のままだ。
「今日だけだぞ」
 俺は折れることにした。こんな深夜に泣かれても困るし、それに俺は早く寝たかった。
「ほら詰めろ。一人用なんだから狭いんだ」
「うん!」
 妹が落ちないように、壁側のほうに妹を行かせた。俺が妹に背を向けるように布団に入ると、妹は俺の背中を突付いてきた。
「なんだ」
「キョン君、なんかお話してぇー。ねむれないー」
「俺は眠れるから問題ない」
 俺はそう言って、毛布を深く被った。
「いじわるー」
 確かに、俺も眠れそうになかった。今日は色々とありすぎた。そのことを考えると、今日は眠れないだろうと思った。俺は妹が寝ているほうに身体を捻ると、
「分かったよ。どんな話がいい? 童話か? ミステリーか? サイコか? 哲学でもいいぞ。それに……そうだな、宇宙人や未来人や超能力者の話もできるぞ。あと、神様もな」
「かわいい話がいいー」
「かわいい話か……難しいお題だ」
 俺は全力でかわいいものについて考えた。
「そうだなぁ……パンダの話なんてどうだ?」
「パンダかわいいー」
 妹は頬を緩めた。パンダなら良いようだった。
「昔々――」
「なんかそれっぽいねぇー」
「それがいいんだ」
 俺は妹は諭した。物語は始まりが一番肝心だからな。
「昔々、といっても最近のことだ。山奥の、そのまた奥に雌のジャイアントパンダがいたんだ。そのパンダは少し変わっていて、皆と違い、白黒じゃなかったんだ。全身真っ白。まるでホッキョクグマみたいな真っ白パンダだった。名前はリンリンっていう。リンリンは他のパンダと変わっていることで皆と馴染めなかった。リンリンも一緒にいようとはしなかったんだけどな。だから、リンリンはいつも孤独だった。ここまではいいか?」
「うん」
「リンリンはとても美しいパンダだった。それに、真っ白なパンダということで希少価値が高かったから、人間がリンリンをわざわざ山奥まで捕まえに来たんだ」
「リンリンかわいそう」
「かわいそうだけれども、やっぱりパンダじゃ人間に勝てない。だからリンリンは簡単に捕まってしまって、動物園に送られてしまった。普通のパンダだったら嫌がるんだけど、リンリンはむしろ嬉しかったんだ。動物園に行ったら、ライオンやら象やら今まで見たこともない動物と会えるから。リンリンは白黒のパンダを見飽きていたんだ。でも、リンリンの思いとは裏腹にリンリンは他の動物とは会うことができなかった。いつも同じ顔にしか見えない人間だけが相手だった。飼育員さんは優しかったし、問題なかったんだけど、リンリンはどんどんストレスを溜めていったんだ」
「ストレス社会、だね。テレビでもやってた」
「その様子を見た飼育員さんはもう一匹のパンダを一緒に飼うことにしたんだ。そのパンダが動物園にやってきたとき、リンリンは驚いた。そのやってきた雄のパンダはなんと真っ黒だったんだ。リンリンは驚いた後、とても嬉しくなった。ああ、あたしの寂しさを理解してくれるはずだってね。真っ黒のパンダも一緒で真っ白のリンリンを見たとき、とても驚いた。すごく綺麗なパンダだ、だけどどうして真っ白なのってね」
「真っ黒なパンダはなんて名前なの?」
「ユウユウ。リンリンと違って平均的なパンダだった。次第にリンリンとユウユウは仲良くなっていった。それに伴って、リンリンのストレスも解消していった。でもリンリンの問題は根本的には解決していなかったんだ。リンリンはこの柵を越えて、ライオンやら象やらに会うことを望んでいたからな」
「リンリンかわいそうだね。みんなからは嫌われて、ライオンさんにも会えないなんて」
 妹は悲しそうな顔をして言った。
「リンリンはどうしたらこの柵を越えることができるのか、一生懸命考えた。考えて、考えて、一つの答えを見つけた。ユウユウと力を合わせれば逃げ出すことができる。でも、それを実行することはならなかった。リンリンの元いた国がリンリンを返せって文句を言ってきたんだ。だから、リンリンはあの山奥に戻らなければならなくなった。リンリンはもの凄く悲しくなった。ユウユウと別れるのが嫌だってのもあったし、ライオンやら象やらに会いたかったんだ」
「あたしは会いたくないな。だって、ライオンさんに食べられちゃうかもしれないし、象さんに踏み潰されちゃうかもしれないよ」
「でもリンリンは会いたかったんだ。別れる最後の日、ユウユウはリンリンに聞いた、そう、ちょうど同じ事を聞いたんだ。『どうしてライオンやら象に会いたいんだ? ライオンは凶暴だから食べられちゃうかもしれないぞ』ってね。リンリンは答えた。『だって、面白いじゃない』。リンリンの答えは単純だった。白と黒しかないパンダの模様、みんな同じ形、全てに飽き飽きしていて、もっと面白いものが見たかっただけだったんだ」
「ちょっと分かりにくいなぁー」
 妹は少し眠そうな声で言った。眠らせる話には国会答弁のような単調さが必要だということは分かっていた。
「そうだな、例えで表現してみようか。海って普通は塩辛いだろ?」
「うん」
「リンリンが望んでいたのはイチゴシロップのような甘い海だったんだ」
「そしたらかき氷をいっぱい作れるね」
「でも、そんなものは物語の中にしかないだろ?」
「どこかにあるかもしれないよ?」
「あるかもしれない」
 俺は少し考えた後、しっかりと答えた。
「ねぇー、キョン君。もう少し近づいていい? 寒くなってきちゃった」
 妹はそう言うと、俺の許可を取ることもなく、俺の胸の中で小さな身体を丸めた。
「寒いならちゃんと布団を掛けろよ」
 俺は妹に深く毛布を掛けながら言った。
「キョン君、もうお話はいい」
 胸のほうから小さな声が聞こえた。
「どうしてだ?」
「だって、キョン君リンリンのお話してる時、悲しそうな顔してるもん」
「そうか」
 物語の終わりは、もう少し先だった。でも、終わりについて俺は何も浮かばなかった。 
「もう寝るね。キョン君温かいし、早く眠れそう」
「もう寝ろ」
 俺は妹と向かい合っていた身体を仰向けにし、そのまま脱力した。妹は俺の脇に抱きつくような格好で、眠りに入った。まだ痛んでいない髪をベッドに広げて、しっかりと目を瞑っていた。俺は妹の柔らかい髪を指で弄びながら、捕らえがたい安心を感じていた。それをもっと明確にしたくて、ゆっくりと目を閉じた。しかし、明確になる事はなく、妹のぬるい体温とともに漠然とした安心が流れてくるだけだった。
 俺は眠くならなかった。むしろ、徐々に意識ははっきりとしていった。動いて妹を起こすわけにはいかないし、やることもないので、さっきの物語の終わりについて考えた。リンリンはあの後どうなるんだろうか? しかし、俺はすぐに考えることができなくなった。オチは考えていたのだが、物語を終わらせることができなかったのだ。次に俺は長門のことを考えようとした。だが、長門のことも考える事はできなかった。あまりにも鮮明すぎたのだ。暗い場所が見えないのは当然なのだけれど、同様に明るすぎる場所もぼんやりとして見ることはできないのだ。
 結局、俺はハルヒのことを考えることにした。考えると、ハルヒの笑顔がフラッシュバックして、ハルヒの怒った顔が目の前に浮かんだ。偉そうに指を振る姿も浮かんだし、あの傘を渡した時の気恥ずかしそうな表情も明確に思い出すことができた。古泉は言った『俺の好きな人が変えられている』。俺は『本当の好きな人』が目の前まで来ているような気がした。違う、来ているんじゃない。俺の『本当の好きな人』は俺の中にいた。そう思うと、またハルヒの笑顔が俺の前に浮かんで、俺はその笑顔に触ろうと、懸命に手を伸ばした。でも、それに触る事はできなかった。
「ハルヒ」
 ハルヒの笑顔は深夜に走るバイクの音とともに、音の無い部屋に溶けていった。俺はそれを防ぐことはできなかったし、する必要も無いように思われた。もう説明の必要はないだろ? 俺の好きな人がハルヒではないからだ。
「長門」
 俺はその名前が持つ安心感に抱かれながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。抱きつく妹の体温を感じながら。いつか見た長門の笑顔が、遠ざかるバイクのエンジン音のように、尾を引いていった。
 
 俺は妹に起こされることもなく、目覚めた。目覚めると、いつもより早く起きたのは全身に感じた寒さによるものだと分かった。俺の身体に一枚も毛布がかかっていなかったからだ。妹は毛布を巻き込むようにして占有していた。俺は震える身体を両腕で押さえながら、上半身を起こすと、ガラス窓にあたる水の音に気付いた。
「雨か」
 寒さで完全に覚醒してしまった意識の中、小さく呟いた。俺は妹を起こさないように、丁寧にベッドから降りると、机の上に置いてある正方形の小さな置き時計で時間を確認した。余裕があることが分かると、一つ大きく伸びをして、部屋を出た。
 リビングでヒーターのスイッチを入れ、朝飯の用意をするためにキッチンに入った。雨音はだんだんと強くなっていた。冷蔵庫から材料を取り出し、調理に取り掛かった。朝食を作り終えると、自分の部屋に戻って、妹を揺すり起こした。
「あ、……キョン君」
 妹は焦点の定まらない瞳を、俺の半分くらいしかない手で擦りながら言った。
「ご飯だ。もうできてる」
「う、うん」
 妹はぼさぼさになった髪をほぐしつつ、ふらふらとしながらベッドから降りた。
「キョン君があたしより早く起きるなんて珍しいね。眠れなかったの?」
 俺が階段を下りているときに後ろから妹が言った。
「お前が毛布を占有してたからな」
「そんなことないもん!」
「ま、そんなことはいいよ」
 リビングに入ると、妹は長方形のダイニングキッチンに、俺は冷蔵庫に向かった。
「何飲む?」
「オレンジジュース!」
「オケ」
 妹専用のプラスチックコップに並々とオレンジジュースを注いで、妹の向かいに座った。
「今日ねぇー、キョン君の夢見たの」
「忘れろ」
 俺は焼きすぎてしまったウインナーを頬張りながら言った。
「それが、なんか忘れられそうにないタイプの夢だったのぉ」
「たまにあるな」
「ハルにゃんとキョン君が一緒に遊んでた。キョン君たまにハルにゃんに叩かれてたよ」
「ハルヒも出てきたのか」
「うん。でも、ハルにゃん楽しそうだった。すごく綺麗で、あたしもあんな風になりたいなぁって思ったの」
「ハルヒを目標にするのは人生を棒に振ることになるぞ。朝比奈さんにしておけ」
「それから場面が急に変わっちゃったの。今度はキョン君もハルにゃんもすごく恥ずかしそうにしてた。なにをしてたかは分からなかったけど、あたしとても嫌だった。何かキョン君を取られちゃいそうで」
「何でハルヒに俺を取られるんだ?」
「うぅー。もういい、キョン君嫌い!」
 妹はたいそうご立腹のようで、皿の上に残っていた醤油をかけすぎた玉子焼きを一口で平らげた。
「一つだけ言っておくが、ハルヒを目標にするのはやめて、朝比奈さんにしろ。そうすれば将来は約束されたもんだ」
「それじゃだめなのぉ!」
「分かったよ」
 俺は諦めて、残っていた牛乳を一気に飲み干し、立ち上がった。すぐに皿を片付け、二階に行って制服に着替えた。十二月に入って朝比奈さんから貰った白のマフラーを使おうかと迷ったが、それが朝比奈さんの手製であることがばれた時に大惨事になることは目に見えていたのでやめた。谷口にばれたら、盗まれるか、焼却処分されるに違いなかった。学校の覇権を握っているという、朝比奈後援会の方々にもひどい嫌がらせを受けるかもしれなかった。俺はこのマフラーを朝比奈さんがどんな思いで縫ってくれたのか一通り妄想した後、リビングに戻った。妹も既に着替えていて、俺はリビングテーブルの上に置きっぱなしになっていた家鍵を取って、家を出ることにした。
 霧雨になっていた雨を傘で遮って、登校した。かじかむ手を腹からの息で温めつつ、歩を進めた。教室に入ると、ハルヒが俺の顔を見て、ニッと笑った。昨日の不機嫌さはどこにいったのかというほどの笑顔だった。
「どうした、不満は解消したのか?」
 俺は鞄を机に掛けながら話しかけた。
「なんだか馬鹿らしくなっちゃったのよ」
「馬鹿らしくなった?」
「そう。なんかあたしらしくないなって思ったのよ。ウジウジして、イライラして、一人で抱え込んで」
「イライラしてるのはいつもだろ」
「それはつまんないことしかないからよ。でも、今回のイライラは全然別物なの。元はと言えばあんたが悪いんだからね!」
「俺が原因なのか? ぜひ説明してほしいな。俺がイライラする事はあっても、お前がイライラする事はないはずだ」
「あんたとぼけるつもり? それとも頭悪い? あ、それは元からか」
 ハルヒは納得したように手を打った。
「すまんな。頭が悪いのは生まれつきだ。そんなことは恐らく俺が生まれる前から決まっていたことだろうよ。それより問題なのは、どうして俺が原因なんだってことだ。それを教えてくれ」
「あたしからは言えないわよ! あんたがもう一回言ってみれば?」
 ハルヒの声は語尾にいくにつれて小さくなっていった。
「俺が何か言ったのか」
「そうよ!」
 しかし、俺が何を言ったかは見当がつかなかった。この記憶は消されてしまっているのだろうか?
「そうか。何を言ったかは覚えてないが、思い出したら後でもう一回言うよ。それでハルヒに確認を取るようにする」
 俺がそう言うと、ハルヒは「えっ」と大きな目をさらに大きくしてあからさまに驚いた。
「あんたが覚えてないならいいわよ!」
 ハルヒの声は震えていた。もう少し俺が何を言ったのか情報を得ようとハルヒと話そうとしたが、運悪く担任の岡部がジャージ姿で入ってきた。暖房も完備してない馬小屋のような校舎にジャージ姿は寒すぎるだろうと心底思った。俺たちの会話が途切れてしまって、ハルヒは後ろで寝始めた。俺もやることもないし、蛇足の一週間の二日目であることも考慮して、体力温存のために寝ることにした。机に突っ伏しながら、俺がハルヒに何を言ったのか必死に思い出そうとした。ハルヒを一日鬱状態にさせるほどの言葉を俺が発したってことは確かだ。俺は何を言ったんだ? 根っこのない木のような不安定な記憶はどこを辿れば見つかるのだろうか?
 今日も俺は昼飯をかきこみ、部室に向かった。もちろん長門に会うためだ。廊下の窓ガラスに大粒の雨がぶつかって、けたたましい音を鳴らしていた。湿った廊下に上靴の足跡を残しながら、俺は長門の元へと急いだ。
 部室のドアを開けると、やはり長門はパイプ椅子に座って本を読んでいた。そのいつも通りの姿に安堵しつつ、長門にゆっくりと近づいて、本棚に寄り掛けてあったパイプ椅子を広げた。どかっと座り、何も話すこともないのに長門に話しかけた。
「長門」
「何」
「いや、別に話すことはないんだがな」
「そう」
 俺はそこで話す話題を思いついて、長門に訊くしかない話題だと確信した。
「えーっと、今日の朝、ハルヒが言ってたんだけどさ、俺がハルヒのやつに何かイライラするようなことを言ったらしいんだ。長門は分かるか? 俺の記憶がいじられてるみたいで、俺には分からないんだ」
「……」
 長門は何も答えなかったが、本をめくる手の動きを止め、何かを考えているようだった。
「禁則事項なんてことはないよな?」
「ない」
「それじゃあ教えてくれないか?」
「あなたは何も言っていない」
「そうか。ってことは、あれはハルヒの妄想だってことだな?」
「……そう」
 長門はやけに間を置いて言った。といっても、長門にとっては普通なのだがな。
「ま、どうでもいいか。ところで何を読んでるんだ?」
 俺が尋ねると、長門は本を胸の前まで上げて、表紙を見せてくれた。『Nesnesitelnalehkostbyti』。タイトルが英語でもなかったので、全く見当もつかなかった。
「日本語にするとなんて読むんだ?」
「存在の耐えられない軽さ」
「それなら知ってる。有名だしな。長門でも恋愛小説を読むんだな」
「たまに」
 長門はそう言うと、本を膝の上に戻し、再びページをめくり始めた。じゃまをするのも悪いと思ったので、立ち上がり、パソコンを起動した。ネットサーフィンをしていると、頭に入ってこないゴシック文字に戸惑った。隣で本を読んでいる長門がどうしても気になってしまった。昨日の手を繋いで帰った光景が思い出されるのだ。長門はどう思っているんだろうか? そもそも手を繋いで帰ろうと誘ったのは長門のほうからだ。
 俺たちが教室よりかは幾分暖かい部室で、それぞれの時間を過ごしていると、ドアが開いて、俺はディスプレイから目を外した。
「あ、キョン、こんなところで何してるの?」
 ハルヒが部室の入り口で立っていた。ハルヒはそのまま部室にずかずかと入ってくると、俺の後ろからディスプレイを覗いた。
「何だつまんない。エロ画像でも漁ってるのかと思ったのに」
 ハルヒは心底残念そうに呟いた。
「長門がいる前でそんなことするか」
 俺はブラウザを閉じながら言った。
「ちょっと貸しなさいよ」
 ハルヒは俺の肩に寄りかかるようにして、マウスを奪おうとした。取られるのも癪だったので、とりあえず抵抗してみた。
「早く貸しなさいよ! このパソコンはあたしのなの!」
「このパソコンは朝比奈さんの涙の結晶だ」
 俺は肩に押し付けられるハルヒの形の良い胸に気付いていたが、ここで反応すると、逆に冷やかされる可能性があったので何も言わなかった。俺が諦めて立ち上がると、ハルヒは俺を突き飛ばして、団長専用椅子に勢いよく座り、その長く直線的な足を組んだ。
「たく、突き飛ばす必要も無いだろ」
 俺はズボンについた砂を払いながら立ち上がった。
「つまんなかったからよ。それに、有希と二人で何してるのよ? 昨日もここに来てたでしょ」
「暇つぶしだ。それに、教室よりこっちのが暖かいからな」
 ハルヒは「ふーん」と何か企んでいるような顔をすると、
「有希に会いに来てたんでしょ? あんた有希のこと大好きだからね」
「さあな」
 俺はハルヒの考え通りにいくのが気に食わなかった。
「どうだかね」
 ハルヒはやれやれといった感じに、古泉の仕草を真似た。そして、立ち上がると、
「やっぱいい。あたし教室に戻る」
「人からパソコンを奪っといて使わないのかよ」
「あんたも有希と二人のが嬉しいでしょ?」
「そうだな。平穏な昼休みを過ごせる。昼休みくらいゆっくりさせてくれ」
「バカキョン! 死んじゃえ!」
 ハルヒは一メートルも幅がないところで完璧な回し蹴りを俺の腕にクリーンヒットさせた。その勢いはすさまじく、俺が壁に叩きつけられるほどだった。ハルヒはそのまま走って部室を飛び出していった。長門が近づいてきてしゃがむと、俺の様子を伺っていた。
「問題ない」
 長門の真似をした俺は、問題大ありの左腕を押さえながら立ち上がった。長門も立ち上がると、俺を気遣うような瞳で――少なくとも俺にはそう見えた――じっと見つめた。
「気にするな。ハルヒのやつも気が立ってたんだろう」
「……そう」
 俺は気遣ってくれた長門の頭を優しく撫でた。
「ごめんな、本読むの邪魔しちゃって」
 長門は首を横に振った。
「俺もそろそろ戻らないと」
「わたしのこと好きじゃない?」
「えっ?」
「さっき涼宮ハルヒがあなたのわたしに対する好意について訊いたとき、あなたは何も答えなかった」
「なんだ、そんなことか。昨日も言ったが、俺は長門のことが好きだ。変わらないよ」
「本当?」
 長門は小首を傾げた。俺の好きな仕草だった。
「もちろん」
 俺ははっきりと言った。
「そう」
 長門はほとんど唇を動かさずに言って、またパイプ椅子に座り、本を読むことに戻った。
「俺、教室に戻るわ」
 俺がそう言うと、長門は俺をじっと見つめて、見送ってくれた。部室から出ようとしたときだった。開けっ放しになっていたドア、その横で、ハルヒが立っていた。俺と目が合うと、ハルヒは走って逃げてしまった。何か思い詰めた瞳だった。追いかけようにも、俺程度の足の速さじゃ追いつくこともできない。ハルヒが視界から消えて、冷静になって初めて、俺と長門の会話がハルヒに訊かれていたことに気付いた。なぜだか俺は取り返しのつかないことをしてしまった気がした。
 教室に戻ると、ハルヒは机に突っ伏していた。話すのも気まずいので、俺は何もなかったふりをして、椅子に座り、時間が過ぎるのを待った。一番近い席にいるはずのハルヒがいない気がするほどの距離を感じていた。振り返ればハルヒは確かにいるだろう。俺にはそれができなかったし、怖かった。ここで話したら、俺とハルヒの距離は永遠に埋まらない気がしたからだ。何も話さない、何も言い訳をしない。それが今俺にできる全てだった。
 心にわだかまりを感じながら授業をこなし、帰りのホームルームが終わると同時に教室を飛び出た。一刻も早くハルヒから離れたかった。あのままずっと一緒にいたら、俺は何か言い訳をしてしまいそうで、気が狂いそうだった。
 部室に行くと、長門と朝比奈さんがいた。冬用のメイド服に身を包んだ朝比奈さんは白の毛糸で編み物をしていた。
「涼宮さんは変わりありませんか?」
 朝比奈さんは器用に動かしていた指を止めて、言った。
「あいつはいつも変わってますよ」
「そうですよね」
 朝比奈さんは溢れる笑みを浮かべて、頷いた。さっきあったことを朝比奈さんに言ったらどうなるだろう? 怒られるだろうか? それとも泣かれるだろうか? どちらにしろ、俺には先ほどあったことは朝比奈さんに言うべきではないように思われた。これ以上問題を複雑化する必要はない。
 騒ぎを起こす奴がいない部室は、ひどく静まり返っていた。雨音だけが激しさを増していった。この雨で道端に留まっていた落ち葉は全て洗い流されるだろう。今日はサッカー部や野球部の声も聞こえなかった。世界があの時の閉鎖空間のような灰色に移り変っていた。どうすれば、俺はこの世界から抜け出せるのだろうか? 長門との会話を聞かれただけで、この喪失感はなんだ? あれは俺の本当の気持ちを言っただけだ。ハルヒに聞かれたからといって何が問題だ。確かに、俺が長門と付き合うようなことがあれば、SOS団は今のままではいられなくなるだろう。そしたら、どうなる? 俺は堂々巡りの思考を続けた。
 その日、ハルヒと古泉は部室にこなかった。

 長門と二人で帰った後、俺はベッドで横になっていた。すでに両親も帰ってきていた。夕飯を少しだけ食べた。ぼんやりと天井を見上げて、ハルヒがなぜ俺と長門の会話を聞こうとしたのか考えていると、一つの答えが出て、すぐにそれを否定した。ハルヒは俺と長門の関係を疑っていた。しかも、それは今に始まったことじゃない。一年くらい前から、ちょうど世界改変された後からだ。確かに、俺はその時から長門のことを気にかけていた。再び長門が世界を改変しないように。
 俺が、ハルヒと長門について考えて、眠りに落ちるまで、そう時間はかからなかった。

   ***

 目覚めると、俺は部室にいた。長机で制服を着て寝ていた。こういう時の俺の落ち着きようは異常と言うほかなく、とりあえず周囲を見回した。予想通り、窓の外は灰色で、部室の様子は今日の放課後と全く変わっていなかった。ハルヒはどこにいったのだろうか? ハルヒがいるという確証は無かったが、過去の経験から、そしてなんとなくこの世界にハルヒがいるだろうと思った。
 俺がパイプ椅子から立ち上がると、石をぶつけたような音が鳴って、窓の方を見ると、赤い玉が浮いていた。
「古泉!」
 俺は窓まで駆け寄って、勢いよく窓を開けた。風は入ってこなかったが、じわりと冷気が入り込んできて、肩が震えるような寒さを感じた。
「古泉、またなのか?」
 古泉と思われる赤い玉はぐにゃぐにゃと形を変え、人の形になっていった。嫌味なほどの笑みをたたえた顔が形成されると、古泉は俺に話しかけた。
「またです」
「というか古泉、久し振りだな」
「そうですね。あの僕が怒って出て行った日以来です」
「あれについては今言及してる時間はない。後でゆっくり話そう」
「そうしてくれると嬉しいです」
「それじゃあ、今の状況について説明してくれるか?」
「今回の閉鎖空間は非常に特殊です。まず、『神人』がいません」
「あの化け物がいないってことは時間制限がないってことか」
「そうですね。それで一番重要な点なんですが、今回の脱出方法は長門さんも朝比奈さんも、もちろん僕も知りません。あなた自身に見つけてもらうしかなさそうです」
「俺が見つける、か。ところで、この世界にハルヒはいるんだよな?」
「涼宮さんはこの世界にいます。この世界で、あなたを待ち続けています」
「それなら良かった。俺だけこの世界に残されてるんだったら、脱出方法はないだろうからな。ハルヒの場所が分かるなら教えてくれないか?」
「涼宮さんは教室にいますよ」
「俺たちのクラスで良いんだな?」
「そうです」
「古泉、そろそろいなくなるな」
 古泉の身体は徐々に原型を留めず、再び赤い玉へと戻りつつあった。
「前回、一年の時と比べても、この世界に他者が介在することを拒んでいるようですね、涼宮さんは。もうそろそろ時間です」
「俺はまたそっちの世界に戻るよ。安心してくれ。ハルヒの奴も絶対に戻してみせる」
「期待しておきます」
 赤い玉は一瞬揺らいだかと思うと、灰色の世界に消えていった。
「ごめん、古泉。俺、自信ないわ」
 古泉がいなくなった後、窓を閉めながら呟いた。今、ハルヒと会って話すことができるだろうか? 長門との関係を訊かれたら俺はどう答える?
 古泉が言っていた通り、俺は教室に向かった。太陽も月もないこの空間で、どこから光が入ってくるのだろうか、廊下の窓からは月明かり程度の光が漏れていた。夜の学校というのは心地良いものだ。誰の声も聞こえない、埃も舞っていない。だから、空気が清潔なのだ。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んでみた。普段使っていない肺胞まで染み渡るような充足感が俺を追い込んだ。本館までの長い廊下と階段は、死刑台の道のりより遠く感じた。
 教室のドアを開けると、ハルヒは自分の机――一番後ろの窓際だ――で寝ているようだった。俺は自分の席に座り、うつぶせたままのハルヒが起きるのを待った。薄い窓ガラスごしにグラウンドを見ながら、いつかのハルヒとの思い出を思い起こした。俺の目の前には、制服姿のハルヒがいた。繊細な髪に黄色のカチューシャを付けていた。髪の間からは白くて小さな耳が覗いて見えた。細くてこれ以上ないくらい洗練された指はしっとりと机の上に置かれていた。ぼんやりとした薄暗いこの空間が、空間とハルヒとの境界を曖昧にして、ハルヒは抽象的な美しさを誇った。
 どのくらい待ったのだろうか? ハルヒはゆっくりと顔を上げた。顔を赤くして、ばつの悪そうな様子だった。
「キョン」
「何だ?」
「また来たわね」
「そうだな」
「これ夢なのよね?」
「もちろん」
「嫌な夢ね」
「ああ、最悪だ」
 俺とハルヒは目を離すことなく話した。
「あたし、さっきまで長い夢を見てたの。キョンが出てきたわ」
「忘れろ」
「それが忘れられそうにないような夢だったのよ」
「たまにあるな」
 どこかで聞いたことのある台詞に感じたが、何かは分からなかった。
「キョンとあたしが一緒に遊んでた。すんごく楽しそうで、ああ、あたしもあんなに楽しそうにキョンと遊びたいなって思って、少しだけ嫉妬した。その後、場面が変わってあたしとキョンは向かい合って、恥ずかしそうにしてた。どっちも何か言いたそうな感じなのに、何も言わないの」
 俺はハルヒの夢が妹の夢と同じだということに気付いた。
「夢の中で見る夢か。どちらが夢なんだろうな」
「どっちでもいいのよ」
「そうかもな」
「そうよ。夢は夢でしかないわ」
「夢は夢でしかない」
 俺はハルヒの言葉を繰り返した。
「ねえ、キョン」
 ハルヒは似合わないほどに甘い声で呼びかけた。
「何だ?」
「あたし、キョンに言っておかなきゃならないことがあるの」
「どうしても今言わなければならないことなのか?」
「夢の中でしか言えないわ」
「言ってみろ」
 ハルヒはグラウンドのほうを見た後、俺をしっかりと見据えた。
「キョンはあたしのこと、好き?」
「好きではないと思う」
 俺は自惚れでなく、ハルヒの言ってくることが分かっていた。だから、解答も用意できていた。
「そう。あたしは夢の中でもキョンに振られるのね。でも、よく考えたら当然よね。ここにいるキョンは『あたしの中の』キョンなんだもんね。せめて夢の中だけでもって思ったんだけど」
 俺は勘違いをしていた。ここにいる俺は「ハルヒの中で作られた」キョンなんだ。俺がどう言おうと、現実にはならない。
「じゃあ、俺も訊いていいか?」
「いいわよ」
「ハルヒは俺のこと、好きなのか?」
「分からないの」
 ハルヒは首を横に振った。肩まで伸びた髪が、一本一本明らかに揺れた。
「そっか、じゃあ訊かないことにするよ」
「キョンにしては優しいわね。やっぱり、『あたしの中の』キョンだからかしら?」
「もう一つ訊いて良いか?」
 ハルヒはくすっと笑うと、「どうぞ」と言った。今まで見たハルヒの笑顔の中で、一番優しい笑顔だった。
「今日ハルヒが言ってたことなんだ。俺がハルヒに何かを言ったって。俺はハルヒに何を言ったんだ?」
 俺が疑問に思っていることだった。
「それはね――」
「それはね?」
「キョンとあたしが指輪を買いに行ったときのことよ。二日前、夢の中だから三日前になるのかしら、とにかく十二月十七日よ。日曜日にあたしたち二人で街中に出かけたときのこと。あたしがわがままを言って、キョンに指輪を買ってっていったの。もちろん、キョンは嫌がるわよね。だからあたしは言っちゃったの。無意識だったわ。『あんた、あたしのこと好きじゃないの?』。そしたらキョンはなんていったと思う? 『好きだが、指輪とは関係ない』。きっとキョンも無意識で言っちゃったのよね。あからさまにしまったって顔をして、その後、『何も聞いてないよな?』って言った。あたしはキョンに合わせてあげた。『何も聞いてないわよ。早く指輪を買いなさい』。合わせてあげた、なんて言ってるけどあたしも恥ずかしかったのよ。その後、キョンはしぶしぶ指輪を買ってくれたわ。安物だったけど、初めてキョンに貰ったものなのよ」
 ハルヒは楽しそうに話していた。俺はナゾナゾが解けた気がした。
「そうだったのか」
「これよ」
 ハルヒが俺の前に左手を出すと、ハルヒの指には指輪がついていた。ハルヒの言う通り、デザインもシンプルというより陳腐なもので、露店で売っていそうなほどの安物に見えた。
「安物だな」
「あんたのことを気遣って安物にしたのよ」
 ハルヒは俺をじっととした目で見つめ、
「でも、大切なものなのよ」
 ハルヒは左手をしっかりと右手で包み込んだ。
「現実の俺に会ったら殴っといてくれ。お前はハルヒが好きなんじゃないのかって」
「そうするわ。キョンごときで生意気よ」
 ハルヒは笑った。つられて、俺も笑った。
「さて、そろそろ夢の中にいるのも飽きてきたな」
「そうね」
「何をするか分かってるか?」
「もちろん。『あたしの夢の中の』キョンとキスをする、でしょ?」 そう言うとハルヒはゆっくりと目を瞑った。薄明かりの中、長いまつげで顔に陰が落ちていた。俺も目を瞑ると、ハルヒにキスをした。直後に世界がハルヒを中心に収束していった。

   ***

 ひどく混沌とした意識の中、俺は目を覚ました。ベッドで横になっていた。俺は身体を起こし、ベッドから降りると、机の引き出しを開けた。そこにはハルヒが見せた指輪と同じものがあった。俺はその指輪をはめなければいけないことに気付いていた。理由は分からなかったが、俺はその指輪が全ての問題を解決してくれる気がしていた。
 左手の薬指にはめると、タイムジャンプした時のような眩暈と不安と嘔吐感が襲って、俺はその場にしゃがみこんでしまった。そして、俺は全ての混乱の始まりを知った。

 頭の中を暴走する膨大な情報の中で、妹に話したリンリンの話が執拗に誇張された。リンリンはあの後どうなるのだろうか? 落ちは考えてあった。真っ白の身体のリンリンと真っ黒な身体のユウユウ、それは表面に覆われてる体毛は違うが、その中に隠されている皮膚の色は同じだ。リンリンはそれをライオンに教わるんだ。だから、寂しくない。それで、どうなるんだ? リンリンの抱えている問題の本質はそこじゃない。
 それでも、リンリンの物語は終わるだろう。全てに満たされた、暖かい春の日のような穏やかな終わりを願った。



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最終更新:2007年01月26日 20:38