それは地球上全ての熱を集めたのではと錯覚するほどの熱気と、
鼻を刺激する異臭に囲まれた小さな場所での、
ポケット中の戦争の記録。
――なんてな。

「……くそっ、逃がした!」

毒づきながら、俺は体勢を立て直す。敵は神出鬼没であり、油断は厳禁だ。
体中から汗が噴出す。それは閉鎖されたこの空間に充満する熱気のせいなのか、怨敵を前にしての緊張からなのか――おそらく両方だ。
常識を超えた熱が思考を奪う。脳内では沸騰する鍋のごとくコトコトいってるのだろう。
楽しい冗談はここまでだ。
どうやら見失ったばかりか、弾切れまで起こしたらしい。投げ捨てた得物はカランと虚しい音を立てた。
仕方ない……なるべく使いたくなかったが、接近戦専用の武器に切り替える他ないだろう。

「何やってんのよ、キョン!」

俺を小突きながら、ハルヒが俺の背中につく。
考えナシに撃ちまくったハルヒは、早々に弾切れを起こして以降は白兵戦オンリー。それで生き残っているんだから大したものだ。
「ああ、すまん」
脊髄反射的に出る台詞が謝罪とは男として何とも悲しいことだが、気が緩んでいると叱らないで欲しい。
極限状態の中で、思わず無意識になれる相手に、背中を預けているんだからな。
「……しっかりしてよね」
今のは幻聴だろうな。表情を見ればわかる。
背中越しに見えるハルヒの顔には、ありありとした怒りが浮かんでいた。
やはりハルヒにとっても、奴は仇敵ということか。

奴を発見したとき、俺たちのとった行動はその場を閉鎖することだった。
更なる援軍を呼び込まないための措置でもあり、入り込んだ敵を完全に殲滅する空間を作るという理由もある。
しかし、それはまさしく諸刃の剣。
逃げられないのは、俺たちも同じことだ。

朝比奈さんは倒れ、長門も動けず、古泉はこの場にはいない。
デッド・オア・アライブ――できれば、一生体験したくないシチュエーションだったな。
ここはもはや、俺たちがかけがえのないときを過ごした文芸部室ではない。

戦場だ。



急かすように鳴るケータイの着信音が思考を妨げる。どうせ古泉だ、何度もかけてくるな。
ハルヒは敵を追って飛び出していったため、SOS団的な裏話を聞かれる心配はないはずだ。
電話の向こうから聞こえてきたのは、案の定シリアス具合が二割り増しした超能力者の声だった。
「かつてない規模の閉鎖空間があちこちで発生しています」
そんなことだろうと思ったよ。むしろ今のお前がそれ以外の話題を振ってきたら罠かと思うぜ。
「まさに最悪と言えるでしょう――そちらの状況は?」
「似たようなもんだ。部屋を閉め切った時点で、最悪であるのが前提だしな」
「いけませんね……おっと、また近くで発生したようです。涼宮さんのことはお任せしますよ」
切りやがった。本当に忙しい奴だ。

意識を戦場に呼び戻す。
ハルヒは見失ったと喚いているが、俺の視界は確かに奴の姿を捉えていた。
しめたとばかりに背後を取る。奴がゴルゴ気質でないことを祈るばかりだ。
そして得物を振り上げる。気配を察知したのか、標的は宙に浮かび上がり――

「かかったな小物め!」

俺はバットのスウィングの要領で得物を横に振りぬく。そう、全てはこの一瞬にかけたフェイントだったのさ。
壁に打ち付けられた得物が小気味良い打撃音を放つ。

「……なんとっ!?」

いないではないか。まさか、俺がフェイントを仕掛けたように奴も一枚上手のフェイントをかましたとでも言うのか。
違う。単純明快なスピードの問題だ。敵の飛行速度が俺のフルスウィングを上回っていた、それだけの話。
では奴は一体……

しまった!

ハルヒの方へ移動している。しかも間の悪いことにハルヒは接近に全く気づかず、図らずも敵に背を向ける体勢となっていた。
声を絞り出そうとするが、もう遅い。
ハルヒの体に、鋭い槍が――

「ハルヒィィィィィィッ!!」



チクッ。

プィィィィィィィン。



――今更で何だが。
上記のシリアス全開な展開はそのほとんどが嘘ピョンで。
ここで言う『敵』とか『奴』とは、夏の風物詩が一角、蚊のことである。


……すまん。
暑さにやられてイライラしてやった。今は王政復古を目論んだイギリス並に後悔している。



絶対不可侵らしい団長の敗北により敵性個体の殲滅を断念した我々SOS団は、まず窓を開放した。
言うまでもない、部室に充満する煙(戦闘の産物)を排除するためである。
その隙に蚊に逃げられたが、あえてみすみす見逃しておいた。達者で暮らせよ、俺の目の届かないところで。
ああ、風にあたることがこんなにも幸せな行為だったとは。

涼宮ハルヒは大層ご立腹のようで。目に入るものは全て噛み付いてやると言わんばかりの歯の食いしばりぶりだ。
こんなんじゃカ●ーユも修正する前に逃げるだろう。女の子がそんな顔するんじゃありません。
痒み止めを塗ってやりながら、俺に噛み付くなよと必死に祈っていた。

夏である。
ものすごい勢いで夏だ。
それ即ち蚊の季節。他にもあるだろうということは充分理解しているので、苦情は一切受け付けない。
俺だってできればスイカとか花火とか比較的平穏な話をしたかったんだ。
それがなぜ蚊と戦うことに。誰かの陰謀か。

最初、俺たちと共に殺虫スプレー(from 保健室)を振り回していた朝比奈さんは真っ先に血を吸われた。
小癪なことに蚊の野郎も朝比奈さんの魅力を心得ているようである。忌々しい。
愛しのエンジェルはついさっきまで気温にやられ「ふみゅう」と弱っていらっしゃったのだが、
空気を入れ替えたことで少しは回復に向かっているご様子である。お疲れ様です。

長門は読書中で動きそうもないので適当に蚊帳で囲ってある。
傍らに豚の置物が佇んでいるが、気に入ったのかね。長門流に評せば、なかなかにユニークな光景だ。
なお、これは蚊の退治ごときに宇宙的な本気パワーを発揮させないための措置も兼ねている。
部室に到着するなり文学少女が物理法則無視のアクションを連発するSF映画を目の当たりにした俺の提案だ。
全米が泣いた、宇宙少女と蚊の壮絶な戦いの記録『NAGATORIX』――製作中止。
緑色の網は、長門の檻でもあるというわけだ。まあ、本気を出されたら何の役にも立たないんだが。

ちなみに俺は全員で蚊帳の中に避難することも提案したのだが、
「それだと蚊をのさばらせることになるじゃない!」
例え一時といえど、本拠地を蚊に明け渡すなどハルヒにとっては耐え難いことらしい。

古泉とは別行動で、世界の命運は主にあいつにかかっている。
何でも、夏は閉鎖空間の発生頻度がとんでもなく高く、その時期の神人はより凶暴になっているそうだ。
近年の某仮面の走り屋のような話だ。
新聞紙や殺虫スプレーを持ってエスパー戦隊を追い回すこともあるらしい。虫扱いか、哀れ古泉。
そういえば、あれ以来コールが1回もない。死んだか?

新聞紙(白兵戦専用武器)で机を叩く、乾いた音がこだました。
俺の記憶を頼りにすると、この面子でこんな行動を取ると予測できるのも今それをするだけの体力があるのも、
涼宮ハルヒただひとり、だ。
「ああ、もうっ!」
怒り心頭、怒髪天を衝く、腸が煮え返る。
それらの怒りの感情を表す言葉を全てかけあわせても足りないような形相で、ハルヒは立ち上がる。
どうやら涼宮ハルヒの業腹はピークを振り切ったようだ。


「蚊なんていなくなればいいのよっ!!」


その意見には、全面的に賛成だ。
俺もその場のノリでそう口走ったことは何度もあるし、実際に蚊がいなくなって困ることはない。
生態系がおかしくなるなんて話、太陽熱で沸騰しきった脳味噌にかかれば即座に「知ったことか」にカテゴライズだ。
しかし、なあ。たったそれだけの理由で、世界を滅亡の危機に晒さんでもいいだろう、ハルヒ?



その日の夜。
俺はいきなり頭を抱えるハメとなった。
とは言っても、連日の熱帯夜のお陰ですっかり寝つきが悪くなっていたことではない。
何十回めかの寝返りを打ったあと、目を開くと、

「や――っと起きたわね、キョン」

いきなりハルヒに覗き込まれていた、なんてことになったら、そりゃ抱えたくもなるだろ。
また夢か。
しかも、首を括りたくなるような夢判断の結果が目に見えるようなシチュエーションですか。
時代を超えて俺を散々苦しめるフロイト先生に撲殺天使でもけしかけてやろうか。
なーんて出来もしないことを真面目に検討していたが、そろそろ正気に戻った方がいいだろう。
夢にハルヒが出てくるなど、不吉な予感がビンビンするぜ。

景色が違う。ここは俺の部屋じゃない。
今、俺が見ているのは、文芸部室の天井じゃないか。
そして今までやけに柔らかい枕だなと思っていたものは、ハルヒの太ももではありませんか。
「なに赤くなってんのよ、エロキョン」
おいおい、カンベンしてくれ。俺はこういう全国青少年の夢的状況に耐性ないんだぞ。
それに赤くなってるのはお前も同じだろうが。
「しかし……」
夜の学校にふたりきりか。去年の嫌な夢(便宜上、そうしておく)を思い出すね。
というか今回もその線で考えた方がいいのだろうか。
「……」
「……」
「……早く、どけっ!」

ハルヒ の ちきゅうなげ!
きゅうしょ に あたった!

さて、床に頭からダイブするハメになった上にしっかり痛いので夢でないことを確認してしまったわけだが。
いよいよ嫌な予感が膨れ上がる。
部室の窓から覗いた先は――
「やっぱりな」
それは、見渡す限りの灰色の世界だった。
まったく、溜息だよ。

ここ、閉鎖空間だ。

ハルヒよ、今回は何が気に入らなかったんだ?
俺の思惑とは裏腹に、世界の主は割と元気そうだが。
「あたし、前にここに来たことあるのよね。夢だけど」
奇遇だな、俺もだ。もちろん口には出さない。
「また来れて助かったわ。蒸し暑くないし」
そりゃ、お前の都合のいいように創られた世界だからな。
いやに機嫌がいいじゃないか、ハルヒ。とても閉鎖空間を発生させるほど荒れてるとは思えねえぞ。

――しかし、このまま無事で済むだろうか。

ここが閉鎖空間だというなら、出るはずだ。
ハルヒのストレス発散の代行人であるところの、青く輝く巨人が。


結果的に言えば、神人は出た。
しかもそれだけでは飽き足らず、何だかややこしいのまで乱入する始末。
閉鎖空間で俺とハルヒが出会ったのは――

ある意味、ここに最も存在してはならない奴だった。



「元の世界に戻りたいと思わないか」
「んー、今はいいわ。こっちの方が居心地いいし」

念のため説得を試みたものの、凄惨たる結果であった。まずい、こりゃ世界が取って代わられるのも時間の問題か。
とりあえず、「今は」ってことは戻るつもりはあると好意的に解釈しよう。
俺の毛髪の危機のタネとなる気苦労などつゆ知らず、ハルヒは窓際で鼻歌まじりに灰色の世界を見下ろしている。
いい気なもんだね。この前は、らしくないほどうろたえていたというのに。
ハルヒはふとこちらに顔を向け、
「あんたこそ、戻りたいと思ってるの?」
そりゃあお前……
あー……
戻りたいさ。戻りたいんだが。
俺もおかしくなったんだろうか。不思議と「帰れ」と駆り立てるものがない。
それどころか妙な安心感まである。ハルヒといっしょにいるから? まさか。
どうしちまったんだ、俺。

青く発光する巨人を確認したのは、思ったよりも時間が経ってからだった。
お前も重役出勤か。本体の性格までトレースしているのか――そういやハルヒはシンパシーを感じるような発言をしていたな。
神人が現れたとなっても、俺の心は焦燥を覚えてはくれない。しっかりしてくれ、俺。
自身の分身(ただし無自覚)との二度目の邂逅に、ハルヒは顔を輝かせ――ヒビが入るBGMを伴うようにその表情は固まった。

ハルヒは新たな闖入者に釘付けになっている。
……奇遇だな、俺もだ。

それは宙を舞っていた。
大きさは、およそ神人の頭程度。青い巨人にとっては虫けらそのものだが、人間にしてみれば脅威を感じるでかさだ。
それは不愉快な雑音を発しながら、神人に突進をしかける。
神人も近づけまいと拳を振るって牽制する。しかし相手も諦めてないようで、ひたすら巨人の周囲を飛び回る。
青き拳は、虚しく空を切り続けた。
幻想もクソもない。思い出されるのは夏の夜に感じる理不尽なイライラとむず痒さ。

なにこれ。


蚊じゃん。


青く光る巨人の周囲を旋回する巨大蚊。
なんだ、この出来の悪い特撮怪獣映画のような光景は。
そして、
「ちょっとキョン、何よこれ……」
そんな光景を見てはいけない人がここにいる。
まずい。
具体的にどうなるかは想像もつかないししたくもないが、ろくでもないことにしかなりそうにない。
古泉らをあてにせず早めに手を打っておくべきだったのだ。ハルヒがこんな状況と鉢合わせしないように。
しかし……俺は遅すぎたのかもしれない。
ハルヒの目は既に、B級怪獣映画のワンシーンに奪われているのだから。
「なるほどね……把握したわ」
うはwwwおkwwww把握wwwww なーんてやってる場合じゃない。
マズイ、マズイぞこれはッ……
こんなに早く把握されるとは想定の範囲外だ。もっと狼狽してくれないか。

「これは夢なのね」

……は?
「夢よ。夢に決まってるわ。あんなバカでかい蚊がいるなんて」
そのとき、垣間見たハルヒの形相を、俺はしばらく忘れないだろう。
こいつは不動明王も裸足だぜ。

今まで威嚇するだけだった神人が、新たな動きを見せる。
なんと、蚊を捕まえると躊躇なくヘッドバットをかましたのだ。家族の悪口でも言われたのだろうか。シュパパンシュパパン。

「やっちゃいなさい、そんなの! もうギッタンギッタンに!」 
キレてるんですか? などと尋ねるまでもなくハルヒは怒り狂っていた。
長●小力とかそんなチャチなモンじゃあ断じてない。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったね。

それから先は神人による暴虐ショーになるかと思いきや、一方的にやられることを良しとしなかった蚊は、誠にそれらしい反撃に出た。
突き刺さりやすく抜けにくいように進化した口が神人の首筋を捉える。
吸血攻撃だ。
神人は抵抗していたが、次第にその形状が揺らぎだす。
ついには虚空に霧散してしまった。
……神人が消えた? 馬鹿な、あれを駆除できるのは古泉らエスパー戦隊のみのはずだ。
しかし俺の理解の範疇を超えた現象は留まることを知らない。
勝者であるはずの巨大蚊まで、空間に溶け込むように消えていってしまったのだ。
何なんだ、いったい。

ゆらり、とハルヒの体が揺れる。

バランスを崩したハルヒは、そのまま倒れこむ。
俺は咄嗟に受け止めた。いろいろ際どいところを触ってしまったが、不可抗力だ。
「おい、ハルヒ!?」
返事がない。ただのしかば……気を失っているようだ。
古泉は言っていた。神人はある意味、ハルヒの分身であると。
まさか神人がやられるとハルヒにまで悪影響が出るっていうのか?

「涼宮さんっ、大丈夫ですかぁ!?」

天使の御声が。まずいぜハルヒ、お迎えが来ちまった――
笑えない冗談はよしとこう。それより、今は聞こえるはずのない声が聞こえてきた方が問題だ。
そして、俺の横で心配そうにハルヒを覗き込む朝比奈さんは幻覚か何かだろうか。
背後に感じる人の気配も、極限状態における一種の錯覚で……

「……」
「こんばんは」

前回はいなかった宇宙人、未来人、超能力者が揃い踏みしていた。

時に古泉、その包帯は――
ああ、うん。大変ですね。



突然倒れたハルヒは依然として目を覚まさず、今は朝比奈さんに抱かれている。
朝比奈さんは晴れない表情でハルヒの頭を優しく撫でた。
「涼宮さんには申し訳ないですが、もうしばらく眠っていてもらいましょう」
なるべく穏便にことを進めたいので。
ハルヒには悪いが、古泉の意見に俺も賛成だ。
「いつからいた」
「つい先ほど、あなたが涼宮さんを抱きとめるシーンからです」
表へ出ろと言いたいが、男ならグッと我慢だ。
「そう落ち着いているってことは、ハルヒは何ともないんだな?」
「ええ。涼宮さんにとって神人は、それこそ細胞程度の存在ですからそう心配することもないはずです」
「だったら何故倒れた」
「前にも話しましたが、閉鎖空間はニキビで僕たちは治療薬。今回は治療法が違ったので、その副作用かと」
持病に対して常備薬を使用したか新しい薬を使ったかの違いか。
しかしあれは薬なんて生易しいものじゃなかった。何といっても、蚊だ。
逆にストレスがたまったんじゃないのか。
「さて、今回この閉鎖空間が発生した理由ですが――」
古泉に解説の隙を与えてやるまでもない。これくらい俺だってわかる。


「蚊帳か」
「ご名答」


文字通り僕らは蚊帳の外だったわけですよ、と笑う古泉。誰がうまいことを言えと。
蚊のいない世界を新たに構築しようと思ったのか、それとも単に逃げ込んだだけなのか。
古泉たちが入って来れたぐらいだ、前者はないだろう。
ハルヒは疎開用の蚊帳を創ったのだ。閉鎖空間という、虫一匹入る隙間のない無敵の城砦を。
しかし、それは破られた。
この世界のおいて存在を許されないはずの、しかも何だか並大抵でない夏の風物詩によって。

「アレは何だ?」
「蚊です」
「そんなのはいい、見ればわかる」
何があったというんだ?

「情報生命体の亜種が介入した」

長門がここで初めて口を開いた。
「涼宮ハルヒの起こした小規模の情報爆発に誘導されたと思われる」
「あ、それって……えっと……」
「あれは招かれざる客というわけです」
長門⇒朝比奈さん⇒古泉の説明リレー。一部パスだが。
つまり、いつかのカマドウマのような野郎――今回は蚊か――が無断で入ってきちゃったということか。
「とにかく、今は涼宮さんを守りましょう。今は姿を消していますが……敵の目的はおそらく涼宮さんです」
「涼宮ハルヒの情報量は膨大。取り込むことで存在確立を大幅に高めることを目的としている可能性が高い」
「ええと……と、とりあえず、涼宮さんが危ないってことですかぁ?」
加えてハルヒによからぬちょっかいをかけようとしている、と。
前々から思っているが、お前らは本当にいいコンビだ。
「いつか、あなたともそう呼ばれる関係になりたいものですね」
俺に柔和な笑みを向ける古泉、無表情ながら決して無感情とは言えない視線をよこす長門。なんなんだ、いったい。
「ふえ……ごめんなさい、わたし、お役に立てなくて……」
朝比奈さんも潤んだ瞳で見つめないでください。緊迫すべき場面だというのに骨抜きになってしまいます。

三者三様の解説を聞き、俺も事態を把握した。
ほどほどにヤバイらしい。さっさと行動を起こすに限るぜ。
「脱出しよう」
方法が前回と同じだというなら、なるべくハルヒが寝ているうちに……って変態じゃん俺。
「いえ、今回は王子様の出る幕はありません」
誰が誰の王子だって。
古泉のからかうような微笑に投げつける物はないかと探しながら、俺の乏しい脳細胞にも働いてもらう。
「やっぱり、あの蚊が曲者なのか」
「そう」
「具体的に、どうすればいい?」
「現在この空間を支配している敵を消滅させれば脱出可能」

勝利条件:敵の殲滅
敗北条件:ハルヒの奪取

オーケイ。トントン拍子に状況が整理されていく。
あとは長門と古泉に頑張ってもらおう。カマドウマのときのように首尾よく終わればいいが。
「……」
いつの間にか、長門は新聞紙と蚊取り線香と豚の置物を抱えていた。
そして呟くように呪文を唱える。問答する間もなく、何か細工をしたらしい新聞紙を手渡された。
「身を守る武器は必要」
否定するつもりは毛頭ないが、これが武器? もう少し選べたんじゃないか?
……というか、俺も戦力に入ってるのか。
参ったな、俺が八百長なしで倒せるのはせいぜい谷口だ。
蚊取り線香を受け取った朝比奈さんも困惑なさっているようで、燻ぶる渦巻きを目の前で振ったりしている。
まあ、武器というからには、それらしくしておくか……そう思い、新聞紙を丸めたときに変化は起こった。
質量保存の法則を無視して変形しだした新聞紙は、活字まみれの野球バットを形成したのである。
近代芸術っぽいデザインの凶器が、俺の手に握られていた。
朝比奈さんの蚊取り線香は、魔法使いが持つような先っぽが渦になっている杖と化していた。そんな奇抜な。
「情報操作した」
自分は口から蚊避けの煙を吐くあの豚の置物を携える長門。きっとそれにも宇宙パワーが付与されているのだろう。
もう一度言うが、もう少し選びようがあったんじゃないか?

突然、部室が歪んだ。
錯覚ではないらしく、スプーンで突付かれるプリンのように背景が小刻みに震えだした。
慣れないことばかりに直面する俺は、朝比奈さんと一緒にうろたえることしかできない。
「空間の主導権が涼宮さんから敵に移ったことで、空間が変質します」
何故わかる?
「空気を感じるというか……第六感ですよ」
「信用してやろう、超能力者」
現に、構築はもうほとんど終わっているようだしな。
俺の腕にすがりつく朝比奈さんと寝たままのハルヒの体を支えながら、俺は地平線の彼方まで続く不毛な大地を見据える。

また来てしまったな、この黄土色の靄がたなびく気味の悪い空間に。

耳障りな羽音に神経を支配される。
「……」
間違いなく蚊のそれだ。ただし、多い。
「ふぇ……あぅぅ」
さっきの巨大な蚊は失せていた。
「これはこれは」
その代わりとでも言うのか。だとしたら悪い冗談だ。


等身大の蚊が無数に飛び交っていた。


こうして、俺たちは蚊帳の中でも外でも夏の風物詩と戯れることになってしまった。
――ああ、どうもスッキリしないと思ってたら、暑さのせいか言うのを忘れていた。

やれやれ。



頭上を紅玉が飛んでゆく。
物理法則的にありえない軌道を描くそれは浮遊していた蚊を捉え、小爆発を伴い標的を消滅させた。
もちろん、笑顔で佇む古泉の攻撃である。

『この蚊は、涼宮さんの畏怖の対象として現れたものでしょう』
『畏怖とは違うと思うが、こうして現れている以上、それに近いものと認めてやらんでもない』

視界の端で、数匹の蚊がまとめて焼き払われるのが見えた。
長門のお気に入りの火噴き豚だ。
できれば豚さんの口から炎ともレーザーともつかない攻撃が炸裂するところなど見たくなかった。もう覗き込めない。
しかし長門と重火器の組み合わせは、恐ろしいほど似合うな。鬼に金棒とはこのことか。
そして、その横で煙を撒き散らしながらチェッカーフラッグのように蚊取り杖を振っているだけの朝比奈さんは、猫に小判と。
まあそもそも朝比奈さんは戦力にカウントしてゲフンゲフンいやー朝比奈さんがいてくれるお陰で俺の戦意は底なしっスよー。

『閉鎖空間に侵入する際、涼宮ハルヒの思考をトレースしたと思われる』
『ずいぶんと行き当たりばったりな奴だな』

上空から俺――というかハルヒを襲おうとしていた蚊を、一筋の光が貫いた。発生元は、どうやら朝比奈さんの杖。
蚊取り線香だから閃光というダジャレだろうか。
「きょ、きょきょきょ、キョンくん、大丈夫ですか!」
むしろあなたが大丈夫ですかと言いたいところですが――前言撤回です、朝比奈さん。頼りにしてます。
ところで、やる気のポーズよりも煙幕を張らないとあなたの身が危ないですよ。

『来るなり例の巨人を襲ったのはどういうわけだ』
『神人を吸収し消滅させることで、存在が無意味化した空間の主導権を握ったんです』

で、古泉よ。お前は丸腰か?
「普段とは違えど、やはりここは閉鎖空間ですから。自分の能力の方が使い勝手がいいもので」
朗らかさ二割り増しの微笑み。はしゃいでやがるな古泉。
「ええ、まるで友人を自宅に招いたような気分ですよ」
ここがお前の自宅のようだと言うのなら俺はお前ンちには絶対に行かない。
「あくまで気分ですよ。初めは忌み嫌っていた能力や場所でも、長く付き合うと多少の愛着はありますのでね」
お前はツンデレか。

『部長氏のときは、一体化してないと顕現できないような話じゃなかったか?』
『涼宮ハルヒの情報量は膨大。思念への接触のみである程度の実体化は可能』

古泉はいつもより多めの0円スマイルを浮かべつつ、
「そう言うあなたもやけに元気なようですが」
ちっ、気づきやがったか。
ああ、白状するとも。不謹慎だが、正直興奮してるのさ。こんなに効率のいいストレス解消法は他にあったもんじゃない。
しかし、考えナシに一人で突っ走っていく主人公のような真似はしないぜ。
送りバントの重要性を知っている今の俺には、スタンドプレーで仲間を危険にさらすことを避けるくらいの脳みそはある。
九回裏ツーアウト満塁の場面でライバルバッターとの決着の為に全力ストレートを投げるピッチャーは二次元世界の住人なんだ。

『――とにかく、この蚊を全て始末すれば解決ということか』
『そのはずです』

それに、エキサイティングになりつつも平常心だって忘れていない。
何たって、SOS団と一緒にいるんだ。その事実だけで、安心できる要素は無限に発見できるね。

――とは、言うものの。
かれこれ一時間ほど経っただろうか。時間の感覚は定かでないが、さすがにここまで長引くと辛いものがある。
それは俺の他のメンバーも同じようで、長門以外は疲労を隠そうとしない。
無理もない。実際、彼らの労働量は俺の倍以上なのだから。
朝比奈さんと長門と古泉がいてくれるから、こうしてハルヒに接近する蚊のみを冷静に叩き落すことができる。
しかし連中がダウンしてしまうと、俺のみでは宇宙パワー付加のバットがあっても絶対絶命は必至。
そして蚊の数は依然として減らない。敵に回すとこんなにも厄介なのかハルヒパワーってやつは。
このままではジリ貧だ。コールドゲームすれすれで膠着状態の続く夏の甲子園的状況は見るのも嫌だというのに。

……ともあらば、ここは切り札に頼ってみるか。

「一発逆転の方法がある」
視線が集まるのを感じる。なるべく厳かに、真剣さが伝わるよう声のトーンを調整して言わねば。
「ハルヒを起こす」
まあ待て古泉、呆れ顔をするな。俺もお前の意図はできるだけ汲んでいるつもりさ。
要はこの空間の主導権を元の持ち主に返してしまおうというのだ。ハルヒさえ自由になれば、蚊を好き勝手にさせるはずがない。
お前ら機関が言うところの神様が味方につくんだ。この戦いも八百長以外の何物でもなくなるぞ。
「なるほど、一考の価値はありますね。しかしそれは諸刃の剣というものです」
「いざとなったら夢オチにしてやればいい」
前回も閉鎖空間の消滅に伴い俺とハルヒは自動的にベッドに転送された。夢と思ってくれる可能性は高い。
もう一度、一蓮托生の仲間たちを見回す。
「やらせてくれ」
皆、しっかりと頷いてくれた。

長門のはからいにより、俺とハルヒを一時的に別空間へと飛ばしてくれることになった。
最初は俺とハルヒだけだったのだ、混乱を避けるためにも2人だけになった方がいい――とは古泉の談。
「わたしの処理が及ばなかったとき、敵の侵入も考慮される。気をつけて」
俺は親指を立てて答える。大丈夫、いざとなったらお前のバットがあるさ。
「……そう」
長門は呪文を唱え、俺の視界は真っ白に染まった。



俺とハルヒは所定の位置に戻っていた。即ち、蚊が闖入する前の文芸部室というシチュエーションに。
違いといえば、膝枕をしているのはハルヒでなく俺で、そこで寝ているのが俺でなくハルヒといったところだ。
もちろん時間が逆行したわけでなく、全ては長門が再現したオーバークオリティなハリボテだ。
さて、そうのんびりとしていられない。『外』ではSOS団の3人が未だ激闘を繰り広げているはずだしな。
ハルヒの寝顔が見納めになるかと思うと少々残念ではあるが、仲間の身柄と秤にはかけられまい。

両の頬に手を掛け、むにゅうと引っ張ってやると割とあっさり起きやがった。
その際の暴走によって俺は頭部に新たにこぶを設けたが、これから一仕事してもらわなければならないので不問としよう。
さすがにからかいすぎたか、ハルヒは顔を背けたまま一言も発していない。
「ハルヒ」
俺の呼びかけに体を震わせ――何をそこまで警戒するのか――妙に硬直した表情で振り向くハルヒ。
「ちょっと外に出よう」

この長門空間内で俺は全てにオチをつけなければならないんだろうが、実を言うとそんなもの考え付かなかった。
だからといって代案は無いこともない。このスタート地点の世界と、その外に広がる蚊の世界。それらをリンクさせてしまえばいい。
ハルヒ気絶の前後から考えて、粗は目立つが設定はそこそこ出来上がっている。あとは解説のタイミングだ。
幸い俺のペースで事を運べているものの、無言でついてくるハルヒはやはり違和感ありまくりだ。
黙っていれば文句なし、と言ったのはどこの誰だよまったく。
「ねえ、キョン」
ようやく沈黙劇が幕を下ろす。ここまでは計画通りだ、今はハルヒと談笑してても問題はないだろう。
何せ、俺の一人芝居をおっ始めるのに必要な協力者の到着がまだだからな。
「前に、今のこれと似たような夢を見たのよ。その時に……」

――そして、その協力者が来たようだ。

俺もハルヒも、空を割って入ってきた等身大の蚊の群れを見上げていた。
そう、この瞬間を待っていた。冒頭のふたりぼっちと、現在の大乱闘をつなげる存在は――蚊。
敵さえも利用してやろうというこの作戦、行き当たりばったりなのは俺の方か。
まあ、夢なんて唐突なぐらいでちょうどいいだろう。
「キョン、あれは何!?」
「見ての通り、蚊だ」
現実の俺はバットを構え、精神面での俺はホラ貝を構えた瞬間だった。

「お前の眠っている間に、世界は突然変異した蚊に攻撃を受けていたんだ。
世界を救う方法はただ一つ、あの巨大蚊を全滅させること。
SOS団の皆も戦っている。だが安心しろ。この通り、お前は俺が護ってやる」

前後の脈絡など無視して、急ごしらえのトンデモ設定を披露する。棒読みを悟られない程度に。
後半部分の台詞はどうかしていたとしか思えないほどのヒーローっぷりだが、
どうせ「なかったこと」になるんだ、このくらいのやんちゃはしてもいいじゃないか。
仰々しくポーズをとり、ハッタリに近い台詞を吐いて俺は高く振り上げたバットで――バットが無い。

あれ?

そりゃ、無いはずだ、奪われていたんだから。バットの現在地は雄たけびをあげて猛進する涼宮ハルヒの手中である。
ちょっとこれ、想定外じゃないか。俺、今回は珍しくやる気だったんだが……。
間抜けに固まる俺をよそにハルヒの暴走は止まらない。バットを振るい、次々と蚊を消滅させてゆく。
無謀にも特攻をしかけたラスト一匹の蚊を、俺からぶんどったバットでかっ飛ばし、
「行くわよ、キョン」
涼宮ハルヒは言い放った。

「一匹残らず叩き潰してやるわ!!」

――もう好きにしてくれ。



絶対神ハルヒの覚醒により、形勢は一気に逆転した。
長門の解説によると、空間の支配権はすぐさま本来の創造主に移り、物凄い勢いで世界が書き換えられていったという。
最終的にはハルヒが蚊を狩るだけの年齢制限が存在しない至極安全なストレス発散ゲームになってしまったそうな。
全ての鬱憤を晴らさんとするばかりのハルヒの暴れっぷりは――俺たち4人を、唖然とさせた。
そう、俺たち4人だ。長門も自分謹製の空間を勝手に抜け出されたことに軽く驚いていたようだったしな。

ありがたいことに、怒りに我を忘れたハルヒはこの状況を訝しむ暇も惜しいらしく、古泉も肩を撫で下ろしていた。
まさしく百人力となったSOS団は蚊の数をみるみるうちに減らしていったのである。
俺? 凡人らしく黙って見てたさ。バットもとられちまったんだ、仕方ないだろう。

ハルヒが満足げに「スッキリした」とのたまったところで――瞬くと、自室の天井が見えた。

やれやれ。

勝手は違ったが、ストレスは解消できたので閉鎖空間も消滅した、ということだろう。
俺としては助かった。脱出方法はあれに限定されているわけではないらしい。
この解説に不備が見つかったなら、改めて部室で長門にでも聞けばいい話だ。
そして片付いてないことがあるとすれば、それこそ後回しだ。今は寝たい。とにかく寝たい。
「……暑い」
そうして、俺はベッドの上で寝返りを再開する。
せっかく戻って来たというのに、この暑さでは向こうのが良かったと思えてしまうじゃないか。

さて、今更ながらわかったことをひとつ。閉鎖空間にぶち込まれたというのに、俺が落ち着いていた件について。
――我ながら恥ずかしい理由だ。朝起きたら、記憶の片隅に追いやられているのを望む。
古泉教信者になった覚えはないが、俺は信頼し始めているんだ、ハルヒのことを。古泉曰くあいつが俺をそうするように。
この面白おかしい現実を捨てようなんて、思うわけがないってな。

しかし間違いが起こらないとも言い切れないので……たまには、こんな非日常な暇潰しをさせてやった方がいいんだろうか。
カマドウマ関連は長門の領域だったか。ダメもとで、もし朝方まで覚えていたら申請してみよう。
問題は、夢オチがいつまで通用するかだな。

耳元で羽音がする。どう聞いても蚊です本当にありがとうございました。
まあ、あの等身大の蚊に比べりゃ可愛いもんだ。放っておくとしよう。
……
……
くそ、忌々しい。



次の日、蚊を泳がせていた結果である食われと寝不足を引っ提げて登校した俺を待ち受けていたのは、
昨晩は「スッキリした」と言ったはずの、不満そうな顔をしたハルヒだった。
問い質そうにも、あれは『夢』でありハルヒしか知りえないはずの出来事なので、俺は口を噤むしかない。

仕方がないので、昼休みに長門に相談しに行った。場所はもちろん、文芸部室。
俺の報告を聞いた長門は、
「そう」
と言うだけだった。しかし待て、今の「そう」には「やっぱりね」というニュアンスが含まれていた気がするぞ。
「涼宮ハルヒの本来の目的が達成されなかったのが原因」
確かに世界規模の蚊帳を創ったというのにあっさり侵入されてはいたが「違う」
「あれは涼宮ハルヒのたてまえ。本来の目的は、あなたと以前の再現をすること」
再現、というと、やはりアレか。
まいったね。今回はうまく誤魔化せたと内心喜んでいたんだが。

もう一度あるかもしれない、と長門は言った。ハルヒはイライラが続く限りそれを紛らす夢を見続けるのだろう。
俺はというと、まあ蚊と戯れるよりはマシだなと思いながら、豚の口からゆらゆら立ち上る煙を見つめていた。


――夏が終わるまで続くとか、言わないだろうな。

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最終更新:2007年01月15日 17:06