例えば、と蒼野命は呟いた。

 例えば昔、私は皇帝だった。
 朝焼けが、まぶしいからと目を覚まし、河原で両膝を抱えて空を見ているホームレスの言う事である。
 半袖の白い学生シャツに、裾のところへ赤い二重ラインが入った紺のミニスカートを、着の身着のままで暮らす、ホームレスの呟きだった。
 座り込んだ地べたは尻のぬくもりが移ってぬるい。代わりに、パンツの、尾てい骨のあたりまで湿り気が貫通してきてもいる。
 ひなびた町工場を両脇に抱えているのは、水運で資材を運び込んだ名残だろう、治水上の工夫によって、一段下に掘り下げられ、広く幅の取られた河原から、それらの錆くさい建物の、波打つトタンのはげ頭やら、煙突やら越しに、薄紫色から茜色へと増しつつある輝きを漏らす空に、命はぼうっとまなざしを置いていた。
 金属が焼けた炎のような、青と、赤と、紫の、複雑に入り混じったグラデーションを描く空。青みがぐんと増して、光量により強まっていく白熱の度合いは、静かに夜の名残の赤紫を取り除いていく。その、切ない昏さを孕んだ孤独な青に、命の心臓がコトンと収縮した。
 せせらぎが不意に無意識の底から耳を打つ。一晩中、その音を枕にしていたためか、今、流れている事に気付かなかったほどの、存在感である。流れている事に、せせらぎに気付いてからも、しばらくは結びつかなかったほどの、水の流れである。
 顔を横に向ける。
 工業排水こそ注ぎ込んではいないものの、不法投棄された自転車だの、ゴミ袋だので、清流とは呼べない有様を呈した、幅3mばかりの小川がある。
 そろそろ朝焼けとも呼べぬ時分にまでさしかかった朝焼けは、水面からも夜を思わせる濃い群青を奪っていき、透明なような、濁ってはいないのだけれど、なんだか不純物だらけのような、つまらない水色を、命の目の前で暴き立てていった。

 例えば昔、私は皇帝だった。
 ずり、ずり、足で細かく体の向きを引き寄せて、尻の尾てい骨あたりをスカート越しでも地面にすりつけながら、朝焼けの正面に向けていた体育座りの格好を、顔に揃えて川へと向き直してから、ほんの三、四十分ほど昔と同じ言葉を、命はつまらない水色に向けて呟く。
 私の王国にはすべてがあった。
 まなざしはまたペンキのはげた町工場の背中を見上げる。
 私の王国には、研ぎ澄まされたアイスピックのように鋭く尖らされた工学があり、技術者たちは王国の民に、毎夜のように目新しく、珍奇で、そしてとても役に立つ製品を提供していた。
 栄えはいや増し、鉱石の灯りが絶えた事はない。
 ひもじさに蟻をつまみ、木の根をこそぐ、そんな民はいなかった。
 私の王国には。

 命の呟きは、朝に鳴く鳥たちとまぎれ、あるいは小川のせせらぎに混じり、風の下生えをなでる無音の音に転がって、とても閑静とは言い表せぬ、言い表し難い、河原の生活音の中に、響いている。
 帰るべき家を持たない、ホームレスの呟きの事である。

 私の王国には豪奢があった。瀟洒があった。洒脱があった。逸脱があった。
 私の王国は栄えていた。
 眠るようなまなざしで、命は河原を横に、視線を走らせる。
 両膝を抱きかかえ、人型のマッチかさいころにでもなりたがっているような圧縮率で、体を縮こまらせている。
 吐息が水辺の冷気で白く磨かれ、上がる体温の熱気で濃く際立たされている。
 学生シャツを着ているので、そんな風にしていると、まるで家出娘が自らの愚行と愚行に至るまでの経緯をすさみきった気持ちでうつろに客観視しているような風体になる。
 ホームレスの呟きに過ぎない。

 私の王国は栄えていた。
 また、自らの言葉を命は反復してみせた。
 それでは。
 そう、反駁の始まりを告げる文言を口にして、しかし思い切るかのようにその口をまた噤み。
 薄い、若い少女の唇が、瑞々しくも、自らの意志によって押し広げられる。
 それでは、私は栄えていたのだろうか?

 既に夜明けの名残もない。夜は欠片を風の温度に漂わすのみで、姿のあった事さえ匂わせない。
 晴れやかな空が、見上げるほどに際限のなく視線を吸い込んでかき消してしまう、晴れやかな空が、白くやわらかな青をその身に広げていた。
 蒼野命はその茫洋の空を見ている。

 私の栄えとは、何だったのだろうか。
 蒼野命はその空に呟く。
 私は何を望んだだろう。
 湿った土に、両手を突いて、手のひらを濡らしながら青空を見ている。
 名も語らぬ草草が、彼女の指の腹を、土をそぎ取るように舐めていた。
 私は暗闇に何を望んだだろう。
 太陽の呵責ない閃きに目が痛む。
 薄い緑の瞳。あるいはそれを、人は青と呼んだかもしれない。ブルーの欠片の粉ほどをしか、想起させない色合いなのに、心に青を呼び覚ますその色合いを、世に人は、青と呼ぶ時もあったかもしれない。
 完全なる容姿。
 まるでイラストレーションが立体化し肉を持ったがゆえの存在感の薄さ、とても言うのだろうか、次元の壁を無視したような均質に無駄のない意匠で形作られた姿は、しかし、美しいと誉めそやすよりは、綺麗と言いたくなり、麗というよりは淡くあり、次元の壁を無視したがゆえの、儚さで彩られている。

 蒼野命。
 彼女は学生シャツを着たホームレスである。
 彼女は無限を実現する架空の力を現実に持つ、かつての地下王国の、皇帝である。
 昔の名を、ブルーと言った。
 蒼野命は恥じていた。
 かつての己をではなく、今の己を。
 生きているだけをよしとする、心臓の鼓動に恥じない今の己を。
 朝焼けは既にない。
 皇帝の所有でもなく、ホームレスのものでもない、ただの一日が始まろうとしていた。

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最終更新:2018年02月15日 10:41