狂ったように愛情を求めた。
求めるたびに、さらに狂った。
満たされない底無しの欲望が、さしもの温厚な夫をすらも、音を上げさせた。
「疲れてるんだ」
「ごめんね、また今度でいいかな」
「キスだけじゃ駄目かい?」
「こうして抱きしめてるだけで僕は幸せだよ」
違う。
違うの。
感情の底が抜けていた。
欲望の底が抜けていた。
恐怖は不信に変わった。不信はジレンマに変わった。
他の誰からも愛されたくはない。
でも、もっと愛されていたい。
怖い。
男に相談してみた。
「俺と、来い」
言葉は、稲妻のように強く彼女の闇を貫いた。
闇よりも濃い、漆黒の響き。
「俺や、お前のような存在が、世界にはまだいくらもいる。俺達は、バグだ。バグには正常な情報が通じにくい。それは、バグ同士の間でも変わらない。お前の能力は、俺や、俺達と同じような存在には、ほとんど通じない。
お前はお前の箱庭を作れ。
お前は女だ。幸せを探せ。
俺は男だ。敵を探す」
でも、と、ためらいが口を衝いた。
彼を、彼を置いていきたくはないの。
男は笑った。
とても強い、強靭すぎるほどに漆黒な笑み。
「なら、好きにしろ」
明日のこの時間、この場所で待っている。
それだけ言って、男は去った。
彼女は取り残された。
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「ねえ、あなた」
息子を寝かせつけた後、彼女は切り出した。
「なんだい?」
久しぶりにくつろいだ雰囲気で過ごせて、夫はリラックスしていた。
だからこそ、ためらいがちに、彼女はずっと胸に秘めていた問いかけを口にする。
「もし、もしよ。もしも私が、この世界にとってバグ――――だとしたら、どうする?」
「虫(バグ)?
どちらかというと、僕にとっては花だけどね。どうしたの、急に。悪い考えの虫でもついたのかい?」
隣に座る感触。ソファーが良く知る重みで沈んだ感触。
頭を撫でられる。
「ううん、バグよ。
プログラムとしてのバグ。アイドレスという電網世界にとっての、本来いてはならない、あってはならないバグ」
「ああ………目の事、まだ気にしていたのかい?」
トーンが気遣いに沈む。それからまぶたに冷たく湿った唇の感触。
「大丈夫だよ。君は、大丈夫」
「そうじゃないの」
否定するたびに、心臓が引き裂かれるようだった。
きりきりと不随意筋が引きつれて泣き出す痛み。
「そうじゃない」
「じゃあ、どうしたんだい?」
1つ、言うたびに、
1つ、後戻りが効かなくなる。
それでも言わなければ。
それでも、言いたい。
この人と一緒にいたいから。
苦しみを心臓から搾り出すようにして声にした。
「私は本当にバグなの」
「――――?」
夫は不思議そうに動きを止めた。
「ねえ、私達が初めて会った日の事、覚えてる?」
「ああ、もちろん。
僕が気分転換に遠出して、君が庭先でうたた寝してた」
「違う!!!!!」
切りつけるように、否定する。
声で切りつけるように、否定する。
「私――――あの時歌ってた」
「え―――?」
「あなた、忘れてる。
私がそうしたから。
私がそうさせたから」
頬を伝う感触。
涙が吹き零れていた。
言葉も吹き零れていた。
もう、何も止まらない。
「おかしいと思わない?
誰かに聞かれなかった?
『君の奥さんの演奏、また聞きたいねえ』とか、『どうして使いもしないはずの楽器がこんなに沢山うちにあるんだろう』とか、そんな出来事は一度も起きなかった?」
「――――――」
心当たりがあったらしく、彼は口をつぐんだ。
その服の胸を、彼女はすがるようにして掴んだ。
「それが私の能力。
それが私の異端。
この目じゃない。
私は音で、世界を触る。
私は音で、世界を操る。
あなたへもそう。
きっと本当はそう。
初めて出会った時、私、寂しかった。
施設の人たちは、みんな私に優しくて、でも、私、寂しかった。
優しいだけじゃない。誰か、愛してくれる人、愛せる人と、一緒にいたかった。
たまたまそこにあなたが通りがかっただけ。
でも偶然なんかじゃない。
私はずっと歌ってた。
私はずっと歌ってた!
その音の中に、あなたという人が飛び込んできてしまったのは偶然。
でも、その音の中に、誰かが飛び込んできてしまったのは偶然なんかじゃ決してない。
私が、そう望んでた!!
初めての時だけじゃない。その次も、その次の次も、その次の次の次も、ずっと!!
あなたは私の望む通りに私に惹かれてくれただけ!!
あなたの心は私にない!!
あなたの『好き』は、私にないの!! 私には、ないのよ!!」
「お、おい、子供が起きるよ……」
弱々しい声。
この声は、ああ、よくわかる。わかってしまう。
どうしたらいいかわからなくて戸惑ってる音だ。
否定してくれない。
否定、してくれない。
「私はバグ。だから普通に生きてはいけない。普通に生きてはいられない」
男の言葉を、思い出しながら、繰り返す。
「バグは駆逐される。
バグは世界に否定される」
「そんな…僕は」
「あなたには出来るの? 世界を、敵に回す事が」
唇を、彼の震える口に、重ねた。
ゆっくりと、食む。
お返しは、なかった。
「それを止める事は誰にも出来ない。
誰にも」
「でも、君は今までだって無事にずっと生きてこられたじゃないか。今だって」
「ええ。でも、それももうお終い」
彼の頬に手を添える。
あたたかい。
けれど、
冷たい。
自分の中から涙は流れない。流れ出てこない。
かわりにもっと致命的な何かが、胸の中から零れていた。
「あなたの心は最初から私にはない。
私はここにはいられない。
私はもう耐えられない。
どれだけ――――愛されても、私は満たされなかった。
私の愛は、あなたを潰す。
それがわかったから」
「そんな事、」
「『ない』って、本当に言えるの? あなたに?」
額を突き合わせる。
普段は見苦しいと自ら恥じて閉じている、がらんどうの白い目を見開き突き合わせる。
ああ、どうして世界は私にこんな瞳を与えたんだろう。
どうして私に、こんな力を。
彼は身動きもしなかった。
「私、行くわ」
「どこへ」
「仲間のところ。
それともあなたも一緒に来てくれるの?」
「それ、は―――――」
にこり、微笑む。
その微笑みは彼にとり、どのように映っただろうか。
「今まで――――」
ふ、と、息が詰まる。
自分でもわからない何かが息を詰めさせている。
それでも――――
「今まで、ありがとう」
それでも、言わなくちゃ。
彼女は彼を抱きしめながら、嗄らした声を絞り出す。
「大好きでした」
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What a perfect blue world #10
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最終更新:2018年02月15日 10:28