情報とは何か。心である。
 心とは何か。認識である。
 心の認めて識るを青き報せと人は呼ぶ。

 だが――――

 己で己を認められぬ心は、誰にも識られぬ情報は、それでも命と呼べるのだろうか。

 呼べるのだとしたら、それは無限に続く苦痛ではなかろうか。

 世界はいらえもなくただ偽りと過ちに溢れかえり今日も行く。

 自らを見つめるまなざしと共に。

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 What a perfect blue world #7

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「……なあ、ヨル」

 ぽつり、スバルは、唐突に訪れた場の沈黙を破るようにして呟く。

「なんだ?」

 雫のいらえは、こともなげである。

「お前の胸は、空白だな」

 スバルは呟いた。
 本名を東円(あずま まどか)という、男装の東国少女である。
 呟く先は、彼女が彼である事を辞め、彼女である事を自認するきっかけを作った、当の相手だ。
 かつてトウ・エン・スバルと偽りで名乗り、近づいた、暗殺しようとしていた相手。

 夜ノ塚雫(よるのづか しずく)。

 雫の胸は大きい。
 小柄なスバルよりもさらに背丈が低いのに、感覚比でまどかの3倍~5倍は大きい。
 裸でオアシスに落ちていたのを拾った時は、複雑な気分になったものだ。
 その屈折を乗り越えて、スバルは言った。
 雫の胸は、空白だ、と。

「何、自前だぞ!?」

 的外れな抗議の声。
 こんなシリアスな場面で、こいつは……と、雫と行動するようになってから、もうすっかり慣れっこになってしまった深い溜息と共に、訂正する。

「そういう意味じゃない」
「じゃあ、何だね」

 スバルは両の目を閉じた。
 雫は、夜ノ塚雫という名をまどかが彼女に与える前、出会った時のエピソードに習って、まだヨルとだけ呼ばれていた頃に、スバルならぬ、素顔の自分、まどかに短刀を突きつけられながら、青い髪を翻してこう言った。

『何を苦しんでいるのだ、トウ・エン・スバル。

 私には何もない。
 過去も、したがって過去の私に連なる一切のつながりもない。
 だが、私はいつでも喜びに満ちているよ。

 見たまえ、世界はこんなにも『君達』で溢れている。私のこの大きな胸に、抱きしめられる連中で一杯だ。
 物理的な事情で不幸にもこの脂肪のクッションにあやかれないものたちには、それより遥かにやわらかな、私の心でもって抱擁しようではないか。

 私には何もない。優れた身体能力もなければ、飛びぬけた知力を持つわけでもない。だが私は圧倒的だ。
 見たまえ、私は『君達』とこうして出会うことが出来た。なんという祝福だろうね。なんという幸運だろうか。それに比すれば己が何者であるかなどというアイデンティティの問題は、私にとっては何ら問題にはならん。
 私の背丈は小さいが、それで私が誰かを抱擁する妨げになるとは思わない。小さき者は抱き上げよう。大きな者は膝を与えよう。私と肩を並べて立つのなら、君の頭を抱きしめよう。

 見るがいい。そして知るがいい。祝福とは何らかの能力をもってするのではない、心でもってするのだと。
 私には何もない。過去も、したがってかつてあったかもしれない過去の私が備えた素性も何もない。
 だが、私には名前がある。
 たったそれだけでいいのだ、エン、いや、まどか君と呼ぶべきだろうか。それともスバルとあえて忌む名を呼ぶか?
 どっちでもいい。どれでもいい。私にとって、君は、私に名と祝福を授けてくれた、かけがえのない友なのだよ。

 見よ、西方に吹く風を。
 私の髪が青いのは、私がエラー体として生まれてきたからではない。まして君に殺されるためでもない。
 私の髪が青いのは、私の心が青いのだ。
 私の心が青いのは、私を見つけた君の心が青いのだ。

 天は西方に落ち、夜は訪れるだろう。
 だが、君という東方より、朝は来たのだ。
 私の夜はその時終わった。
 私に夜が、持たされたのは。
 君の朝を、導くためだ。

 目を覚ましたまえ、西方・白虎にその宿を持つ、誇り高き金牛の座に頂かれしものよ。

 昴よ。

 君のその名は私と出会う、そのためだ。
 そして聞く耳を持ちたまえ、エン。
 それは私にとって偽りなどでは毛頭ない。私は私を信じる。私の見た君を信じている。
 だから、君も君を信じたまえ。
 早く、まどか君を許してやるといい。
 君は優しい子なのだから』

 あの時、スバルとまどかは救われた。

 ヨルを裸で行き倒れているただの変な西国人だと思っていた頃に、知り合って、
 ヨルが、自分の一族の狩らねばならない、世界のバグだという事に気付いた後、
 まどかは苦しんだ。

 友を殺すべきか、一族を捨てるべきか、迷った挙句に、己のすべてを殺して彼女を殺そうとした。

 その時に、そう、言われたのだ。

 今では笑ってしまいそうなほど昔に思える話だ。唇に微笑を湛えながら、まどかは言葉を続けた。

「お前には記憶がない。
 それだけじゃなく、物事に対するこだわりもない。
 あるのはただ、いかにして人をその胸に抱きしめるかという、それだけだろう。
 それが、お前の胸をみせかけよりも大きくしている。
 お前の胸は、空白だ。
 すべての人間にある、内向きに詰め込まれた感情の何もかもを唯一吐き出せる、空白なんだ。
 俺は、お前が羨ましいよ」
「さっぱりないものなあ、君には」
「そうではなく!
 いや、そうなんだが、そういうことではなくてだな!」
「指示語の多い奴だな。何の話をしているのかさっぱりわからんぞ」
「あー、もー、こいつは!!」

 地団駄を踏みながら、心のどこかが笑っている。

 こいつと出会えて、私はよかった。

「……そういうわけだ、HA。待たせたな」

 もういい、もう、いいんだ。

「俺は、行くよ。
 確かに俺の使命は人殺しで、でも、それはもう、終わった。
 俺は俺を殺して終わる。
 『私』はまどか、東(あずま)の、まどか。
 私は未来に行く。
 それが今を生きるものの宿命で、それが、私の選んだ私の使命。
 アズマの氏族は、愛にて青と共に生きる。
 例え朱に交わろうとも、染まらぬ青、愛より出でて、愛より青い、この、青と」

 震えが、止まった。
 雫の手を、ぎゅうと握り締め、そうしてスバル=まどかは、言い切った。

「すべてを歪ませてきたのは、お前だ」

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最終更新:2018年02月15日 10:06