畳敷きの侘びた一室で、ぶつりと断ち切れる音がする。
 小さな肩。
 その上を伝い、黒い髪の塊が、かすかな感触を残して手前に敷かれた白布へと落ちる。
 白刃を手に立つ壮年の男の謹厳な面差し。
 ことり、ししおどしが、庭先で落ちて跳ね返る。

「今日よりお前は、昴(スバル)と、そう名乗りなさい」

 背より掛けられた声の重たさに、機械仕掛けのように少女はただいらえを返す。

「はい、お父様――」

 黒い瞳に浮かばぬ光。
 敵襲……、どこか遠い場所で綴られている物語ででもあるかのように、そう、現実味のない声がした。

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 What a perfect blue world #4
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 まどかは誕生日が嫌いな子供だった。
 一族を挙げて盛大に祝われても、大勢いる親戚から沢山のプレゼントを貰っても、ちっとも好きにはなれなかった。

「アイドレスは若い世界だ。
 まだまだ未熟で歪みが生じやすい。
 その歪みを内側から正すために、私達のような一族が必要なのだ」

 元服をしたら、お前もその大事なお役目に就いて、立派に働くのだぞ、まどか。
 ことあるごとにまどかの父はそう言って、幼いうちから彼女を厳しく鍛えてきたからだ。

 元服なんて、やだ。
 大きくなんてなりたくない。
 いやいやをしながら泣いてクナイを握らされ、そのたびに父から頬を叩かれても、どうしてもまどかはそれをさせられる事が嫌だった。

 設定情報にバグを起こした国民達。
 エラー体と自分達の一方的に名づけて呼ぶ彼ら。
 それらのすべてをこの世界から排除する事が、
 人殺しが、彼女の未来に課せられた使命だったからだ。

「やぁ……私、雛人形がいい」

 抗いを無視して被せられるのは、幼子の頭にはぶかぶかの、立派な武者兜。

 口々に皆が誉めそやす。

 若様は立派でいらっしゃる。お父様もこれなら安心だ。将来が楽しみですわね。一族もきっと繁栄いたしますわ。

 言われるたびに、諦めで心が死んでいった。
 こんな家、無くなってしまえばいいと思った事も一度や二度ではない。

 今、住み慣れた家は火の手に舐められ轟音と共に崩れ落ちている。

「まどか様ッ!」

 呆然と立ち尽くしていた彼女を突き飛ばしたのは、ずっと昔、まどかにこっそりと手縫いの人形をくれた叔母だった。
 まだ若く、笑うと綺麗なえくぼの出来る、姉とも慕った憧れの相手。
 振り返れば、倒壊した梁と屋根瓦に埋め尽くされて、後ろにはもう誰もいない。
 断末魔が間遠に立ち昇る。

 元服の儀を狙われた。
 当主の跡目たるまどかの成人に際し、一族のすべてが集まっていたのだ。
 それも、さしたる警戒らしい警戒もせぬままに。

「まどか様、いえ、スバル様!」

 腹を押さえた若者がまろび寄り、呆けていた彼女の頬を、御免、の声と共に平手で叩く。

「しっかりなさって下さい!
 あなたまで敵の手に掛かれば、東の一族はお終いです!」

 さあ、と差し出されたのは短刀。
 呆然と、鞘に収められたそれを眺める。

「お取り下さい。
 そして逃げるのです。
 各地にはまだ、分家筋の者達が幾らかは残っているでしょう。
 彼らを頼り、そしていつか、いつか――――」

 ごぶ、と、若者の目が裏返って血を吐いた。
 その喉からぎゃらぎゃらと野太い百足が這い出して、触覚をいやらしくくねらせる。
 倒れた彼の向こうで笑う、茨髪の豊満な女。
 五体には無数の蟲を従わせている。

「『赤猫』、覚悟ォォォ!!!」

 表から父の叫び声が聞こえてきた。
 間もなくして、ああっ、お館様――――!! と、誰かの悲鳴が挙がる。
 いやいやをするように、まどかはほとんど無意識にすがるものを求めて短刀を取り、目の前の百足を切り払った。
 ゲラゲラとその頭上から降る声。
 見上げれば、崩れかかった天井に逆さに張りついた異形の人蜘蛛。
 後ずさる背中に、ぶつかったのは、人間だって一飲み出来そうなほどの巨大な口だけで出来た頭部を持った裸の化け物。
 そのデタラメに生えた牙の隙間からは、くちゃらくちゃらと肉片が唾液に混じってだらしなくはみ出ている。

 怪物達が、自分を見つめて取り囲んでいる。
 何もしないままただただ彼女を取り囲み、ゲラゲラと楽しそうに笑っている。

 まどかは、

 そんな世界のすべてに狂い、

 逃げ出した。

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 逃げおおせたのは奇跡に近い、と、今でも壊れて完全ではない記憶をたぐるたび、思う。
 生き延びられたのは、お父様が厳しく教えこんでくれた技と体術のおかげだと。
 思い知るたびに、涙が零れて止まらなかった。

 アイドレス世界に表出する、歪み。
 その化身があれらの化け物ならば。
 彼らを、いや、奴らを皆殺す事に、もう、ためらいは感じなかった。

 あれから歳月が流れた。
 スバルの手が小さく震えている。
 男に案内され、奥へ奥へと進むにつれて、冷え冷えと空気は頬肌に染みてくる。
 寒さのせいだけではない。
 殺意がようやっと噴き出せる先を予感して、体の中で牙鳴りを起こしているのだ。

「!」

 そっとその手を握り締める感触に、彼女は共に歩く仲間を顧みる。

 大丈夫。

 そう、雫が目で微笑んでいた。

 微笑まれたスバルの薄い胸の中、心が偽りに軋む。

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最終更新:2017年09月08日 12:04