まだ三人が一緒にいられた頃の話だ。

「復興支援機関、ノア?」

 その社長令嬢であると名乗るキリヒメの、それにしてはあまりに脳天気なニャハたれ笑顔に、スバルは正直戸惑ったものだった。
 およそ箱入り娘という概念から掛け離れた存在。
 猫科の気まぐれさと自分勝手に付け加え、ついついそれを許してしまいたくなるほどの強い愛敬。
 思えば、違和感はその時抱くべきだったのだろう。

「うん。
 アイドレスって、良く物がぶっ壊れるからさー。
 儲かるよー」

 記憶の中に残るのは、屈託のない相好ばかり。
 今はもう、まともには見られないその無邪気さ。
 キリヒメの事を思うと、スバルは心ばかりが苦り切る。

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「何故、裏切ったのです」

 そう問うた盲目の青年に唾が飛ぶ。
 キリヒメは憔悴し切った顔の中、目だけはいまだにぎらつかせて、眼下に慇懃無礼なる従僕を見下ろしていた。
 かがり火に照らし出される白皙の面は、唾を避けもせず、瞼も開かぬまま、汚れた頬を笑みにたわませ続けている。
 吐き捨てるようにその顔へと鋭い声を叩きつける。

「下郎。
 たばかっていたのは、貴様であろうが、HA」

 焼けた鉄塊の埋め込まれているかのように痛む両肩。
 それよりずっと強く刺す胸の中の痛みを、猫科の肉食獣の獰猛と高貴で耐え、成す、歯噛み。
 火を吹くような憎悪のたぎった視線が、唾の代わりに飛び続ける。

「殺せ!
 この上我を何に使う!
 糸に気付いた傀儡の姫など要らぬであろうが!」
「死なれては、困るのですよ、プリンセス」

 たおやかな菩薩の笑みと共に男は親指を弾いた。
 その頬についた唾が弾け去る。
 拭われもせぬのに。

「あなたは彼女達のための、大事なペット」

 な…、と、二の句も告げられずにキリヒメはいよいよ激昂した。

「貴、様ァァァ!!!!!」

 鎖が激しく引き鳴らされる。
 腕も千切れよとばかりに暴れ回る彼女の手首から、血が零れ出していた。
 ここに引きずられてくるまでにも何遍となくそうしたのだろう、肉は抉れ鉄錆の濁った色合いを枷の隙間から覗かせている。
 足を振り回し、男を蹴りつけんと傷だらけの素足をもがかせる。
 けれど、すべての動きは徒労に終わり、己の傷を深めるばかり。
 眼前にさらされている優美なアルカイクスマイルが、いっそせせら笑っているようにも見え始めた時、ようやく彼女の抗いは止まった。

 ぱち、ぱち、ぱち。

 鳴らされる拍手。

「さすがは『斬姫』KH」

 ずい、と言葉と共に、近付けられる顔。

 びく、と、キリヒメの挙動に初めて恐怖が混じった。

「やめ……」

 弱々しい抗いも突き抜けて、ぱっくりと眼前で唇が割れ開く。

「寄る者すべてを叩き切るその豪腕の、」

 声に目も閉じられず、いやいやをしながらも、視線は目の前の相手の上から剥がす事が出来ずに。

「本領に浴する事が出来て、」

 胸の痛みはどんどんと強くなっていき、

「やめろおおおおおおお!!!!!」

 悲鳴の先で、盲目の瞼が開かれる。

 白いがらんどうの瞳なき眼球。
 その白に映りこんだ、返り血だらけの己の姿。

「私達も、大変光栄でしたよ――――?」

 ぱっくりと、喉元の断面を持ち上げて見せた、男の凄まじくも凄惨な哄笑と共に。

 忘却を望む絶叫が、痛みと共にキリヒメの胸から解き放たれた。

 背後に広がるのは血と肉片の海。

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 What a perfect blue world #2
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 地上に生い茂る木々の根でも模さんとするかのように屈折を繰り返した岩壁の隘路は、複雑に絡み合っているせいで、先刻のキリヒメの絶叫を散らし切っていた。
 瞳孔の一杯に広がった目、震えて噛み締められもせぬ唇、あれほど激甚に跳ね回っていた体はいまや力なく垂れ下がり、髪が錆びた焔のように乱れ切っている。
 しゃらしゃらと、放心したままの彼女の耳を、薄い金属音が掻いた。

 ぴくり。

 無意識に顔が音源を追おうと反応した。

「偉い、偉い。
 さすがに愛用の武器は聞き分けますね」

 歌うような男の口調にも、キリヒメはもはや怯える猫の目を向ける。
 カン! と、金属音が、突き立った。
 眼前にかざされる、歪み一つない銀月の如き鋼の弧。
 刃渡り2mはあろうかという大鎌が、妖しくも闇を向こうに輝いていた。

「私が代わりに磨いておきましたよ。もう、SKはいませんから」

 かつてと変わらぬ忠義な声が、断ち割られたままの喉を抜けて耳
朶を震わす。
 現象が孕む狂気に、朦朧となる意識。

「罪の象徴を見つめるのは、どのような気分ですか、姫?」

 不意に、ぶつんと心が焼け落ちた。
 かくりとキリヒメの首がうなだれ落ちるその音を、耳で捉えながら男は呟く。

「おや……。
 この程度で気絶するほど、甘やかして使った覚えはないのですが」

 いいでしょう、とサディスティックに微笑んで、自分の腕にはとてもじゃないが不釣合いな武器を床へと投げ捨てる。

「そろそろ客人を出迎える準備も致さねばなりませんし――――」

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 暗澹とした道行きを進み続ける二つの影。
 湿気る闇色の迷宮に、荒涼たる岩肌をすらぬとつかせる死臭の山。

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最終更新:2017年09月08日 12:02