見上げる瞳が君を捉えた。
小さな背丈、真っ直ぐに伸ばされた手。
けれどそれは君に届かなくて。
何故だろう。
彼女が浮かべた微笑みは、それでも誇り高かった。
はじまりは、ひとつぶのりんご。
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What a perfect blue world #1
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鋼のようにどっかりと鋭く座った目。
その目を瞬かせると、夜ノ塚雫は短い手足でのプルプルした爪先立ちをやめてひとしきり満足げに頷いた。
額には汗。
頭上のりんごを諦め地に足着けて振り返ったその先で、最前からずっと仏頂面下げて腕組みし、宝石のような黒髪を一房首裏真ん中から長くたなびかせてこちらを見ている者がいる。
負けず劣らず長い髪と、相手にはない豊かな胸とを揺らし、自信満々に雫は事態収束の宣言をする。
名にも似て、ぽってりとした唇から零れれば殷々と響き渡る、低い、びいどろのようなびろうどの水声。
「待たせたねスバルくん、もう大丈夫だ」
「取れてねえじゃねえか」
馬鹿、と藪睨みにツッコまれる。
辺りには、りんごに限らずまるで百科事典の中ででもあるかのように、それこそ無数の果実がぶら下がっている。季節も枝も環境すらをも選ばぬ、冗談じみた万種の水菓子。
雫は漂う濃い空気をして、たなごころに遊ばす仕草でゆるりと一帯を見渡す。
「フィトンチッドが凄い。軽い傷なら一晩で治ってしまいそうだ」
「ツッコミは無視か、おい」
ぼやくスバルに、少しだけ寂しそうに答える。
「彼女が無事だと良いと、そう思っただけの事だよ」
「む……」
沈黙が垂れこめる。
思い出されるのは、血塗れのまま引きずられていった赤い少女。
地に痕跡など残っていようはずもないが、思わずスバルは地面を見つめてしまう。
光さえ染めるほどの緑の天蓋、進行方向には絡んだ蔦蔓で肌も見えぬ怒涛の樹木、足元には絨毯か波のように押し寄せている下草達。
頂く世界を空と呼び、没する領域の海ならば、道を、掻き分けねば進めぬほどに遮って絡んだ豊穣の大地は、そのどちらでもなく網目状にただ二人を飲みこみ広がっている。
目前には、その緑の中に妖しく穿たれた空隙。
入り口に掛かる破れた蜘蛛の巣を払おうとして、ふと、雫は惑った。
「なんだよ、怖いのか?」
漆塗りの黒い手甲を嵌めた華奢な手が、そう言いながら雪の結晶構造にも似た古糸を千切ろうとするのを、はっとなって掴み止める。
「くぐっていこう」
指差した片隅には、粒ほど小さな小蜘蛛。
せっせと懸命に尻から糸を紡ぎ出し、裂け目を上から補おうとしていた。
その下を、身を屈めて滑りこむ。
途端、それまでの沃野が嘘のようにひからび枯れた岩肌が、二人を取り囲むようにして現れる。
日の差さぬ完全な暗がり。
空気までもが、色が違う。
かさついて、冷たく。
そして深い。
一筋、青々とした匂いに混じり、鉄錆びた香りが漂ってくる。
血の匂いだ。
そこまで感じ分けて、火はいらねえか、敵に見つかる原因になるなと考えていたスバルは、手に人肌の感触を急に得て、ぎょっとして隣を見下ろした。
「はぐれぬよう、手をつないでいこう」
雫の瞳がじいと真面目にこちらを見つめていた。
にこり、やわらかに微笑まれる。
鋼のやわらかさ。
「急ごう。トモダチが待っているのだから」
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てんで不器用で、自分とは違ってそこらの角や窪みに引っかかってばかりだが、雫は確かに正しかった。
温もりに、苦笑するスバル。
自分よりも小柄で、自分よりもずっと柔らかくて頼りない、手。
暗闇の中でその感触は、思ったより遥かに心強くて。
ムカつくほどデカい胸や人を食ったような態度からは想像もつかないほど、それは気持ちのよい温もりだった。
スバルは蜘蛛の巣の時を思い出しながら、少しだけ先行して彼女に道を探ってやる。
こいつがいなければ、俺はここまで来れなくて。
こいつがいたから、俺達はここまで来てしまった。
道程の最果てで待っているであろう、笑いあう間柄の友を次に思う。
笑いあうべき間柄ではない、しかし、友。
「あたっ」
間抜けな声に物思いを断ち切られ、スバルは盛大に溜息をついた。
「またか馬鹿野郎、これで一体何度目だ」
「ふ、ふふ、瑣末な障害にほど、よく転ばされるのもまた、大人の証左なのだよ、スバルくん。大人とは、得てして自分の中でだけ、世界を完結させがちだからね」
無駄口叩きやがって、と、ぼやきながらも、ほら、と手を引き導いてやる。
じわりと逆手が空を握る。
暗闇で良かったとスバルは思った。
今の俺は、こいつにだけは見られたくないような顔をしちまっていただろうから。
ひからびた大気中に点々と綴られた、赤き生命の標。
迷宮の如き洞穴は、際限もなく深く続いている。
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ぶら下げられた長いシルエット。
かがり火に照らし出され岩窟内に浮かび上がっているその主は、人形と見紛うばかりに虚ろな赤毛の少女。
奔放に伸びた髪に似て野性的な肢体をしているが、傷だらけであり、中でも肩が一際異様である。
腱の伸び外された関節部が、意思を感じさせずにだらしなく肉の緩んで見えるせいだろう。
両の手首には天井からつながる鎖と枷。
眼前に立つのは白い足音。
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洞窟の入り口、吹き流れ出る風に、揺れた蜘蛛の巣、
ひらりと千切れた。
最終更新:2017年09月08日 12:00