『ますたー』
「マスターではない。僕は君の主人じゃない。だから、マエストロ、職人と、僕のことはそう呼び給え」
雑木林から造った、まだ中には何もない小屋の床に、直にベタ座りをしながら、男は自らが削り出している木材と言葉を交わしていた。
林檎の赤い、爽やかな甘みを孕んだ香りが一杯に漂っている。
『まえすとろ ほんとうにわたしで よいのですか?』
「ああ?」
『にんぎょう づくりの ざいりょう』
男の横柄な聞き返し方にも木はちっとも機嫌を損ねることなく言葉を注ぎ足す。
「喋るな、気が散る」
『すみません でも どうしても きになって』
額に滲む汗。
本人は拭うこともせぬそれを、ふわり、風がさらう。
風は、やはり木材の中から立ち起こっていた。
表には林檎の若木は既にない。
小屋を建てるや否や男が切り倒し、小分けに割って運び込んでしまっていた。
「木の癖に、知類でもないのに喋るな、畜生。いや、畜生ですらないのだったか。
まったくお前はややこしい奴だな……」
『すみません』
「謝るな」
言いながら、窓から差し込む陽光に、透かし見るようにして手の中の木材を掲げる。
木材は、人間の腕のような形になっていた。等身大のサイズである。
「僕は生き物が大嫌いだ。だから人形士になったんだ。
人形はいい。人間と違って、愛してこない。僕は愛したいだけなんだ。愛されたいわけじゃない。
生き物は、愛せば必ず愛し返してくる。
けれど、もしかしてお前みたいな素材なら、これまで作った人形よりも面白いものが出来るかもしれない、そう思った僕が馬鹿だった」
『…………』
「お前は生きてるよ。
作り始めたんだからしょうがない、最後まで仕上げてやるが、それっきりだ。
僕はお前を愛さない。
だから、あまり僕に構おうとするな」
『すみません』
「喋るな、謝るな」
『すみま せん……』
窓からの光が、泣いたように歪む。
熱で、陽炎のようになっているらしい。
ふわふわとただ、一心に造形作業に没頭する男を、密室の中、それでも風は撫でていく。
男はもう、何も言わなかった。
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人形は、どうやら女性形らしかった。
次第に自身が組み上げられていく中、『彼女』はそのことに自分で気付いていく。
男曰く、「同性のボディなんぞ作っても愛でたくないし、第一つまらん」らしい。
出来かけのボディを載せておくために作られた椅子の上から、作られかけの目が室内を見回す。
ものを見るのは楽しかった。
それまで世界は光と熱とその身を育てる養分だけの、とてもシンプルなところだったから、文字通りに色づいた何もかもを、たとえ部屋の中から動けなくても、見るのはとても楽しかった。
男の姿を見やる。
アイドレスからログアウトしたまま無造作に眠っている姿。
感じたよりもずっと小柄で、さらさらとした栗色の髪で、偏屈そうで、まだ若くて髭の薄い人形士。
その彼と同じくらいに小柄な自分。
少しでも似ているところがあるのは、何故だろう、ほんのりと嬉しくて。
夜色に染め上げられた空気を彼女はただ黙って見つめ静謐を守る。
次にあの手が自分を作ってくれるのは、いつかしら。
月影が伸ばす、窓辺に置かれた人形の影。
揺れることなく男の上にそっと落ちてる。
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「マエストロ」
ふっくらとほのかに赤い唇が音を作った。
両肩を覆うのは豊かな髪。癖っ毛で、ふうわりと広がっている。
澄んだ白さを帯びた肌色は簡素だが質の良い衣に包まれて、胸や腰肩うなじに浮く完璧な曲線美を、完全には日にさらさぬことで一層際立たせていた。
髪色と同じ、淡い新緑の葉色をした瞳が、目の前にある男の姿を映り込ませている。
「私、どこか変じゃありません?」
1/fの揺らぎを帯びた、碧流の声色が、おずおずと尋ねる。
「変なものか。最高だ。僕の手がけるものにぬかりのあるはずがないだろう。
――――お前が到底人形に見えないということを除いては、な」
溜息と共に男はそう答えた。
「さ、これで僕の仕事はおしまいだ。
どこへなりと行くがいい」
「そんな…!」
気弱げな小振りの顔立ちが泣きそうに歪む。
「私、まだ、マエストロにご恩をお返ししておりません…!」
「そういうところが、僕は嫌いだと、口をそれこそ青林檎よりも酸っぱくして何度も言ったはずだぞ」
「……はい、すみません」
ほら、行った行った、と、手で追い払われるように仕草され、肩を落として踵を返す。
彼女が扉に手をかけようとした時、男は初めて「待った」と言った。
「冗談だ。ここにはまだ面白い樹がいくらも生えている。仕事をする間、身の回りの世話をするくらいなら許してやるから、そんな顔をするな。
その顔は、僕の渾身の造形美なんだ。泣かせて美しいことはあっても気分の乗るような心地はしない。だから、金輪際その顔で泣くなよ。いいな?」
「マエストロ…!」
男はそれから小一時間あまり、喜びのあまり抱きついてくる彼女を、どうやって傷を作らずに剥がそうか、腐心する羽目に陥るのであった。