オルゴールが鳴っていた。

冷たく濡れた藍色の岩壁の、表面がうねる、洞窟の奥、
その金属の歯が奏でる澄んだ音色は、
たどたどしくも、途切れ途切れに、聞く者もなく、ただ、
延々と回り続けている。

いつまでも、いつまでも。

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「何も聞かないんですね」

青年は、工房の天井を見上げながら、呟くように尋ねた。
馴染みの古い、藍色の岩窟。
白い髪は絨毯の上に広がり、彼の長い背中を守るようにして、むき出しの岩床を覆っている。

一本の蝋燭が、壁に掛けられた真鍮の芯台の上で、白く滴りながら風に炎をはためかせていた。
ゼンマイやバネ、糸、絵筆、幾段にも重ねられた棚を飾る無数の人形達、そんなものばかりがごろごろと乱雑に散らかった狭苦しい密室に、どこからその風は入りこんできたのだろう。
隙間風の、ぴゅうるり、耳の中の世界を甲高く切り落としていくこともなく、木で仕切られた部屋は、職人が作品を組み上げる音以外は静謐で。
青年は、仰向けに倒れたまま、相変わらずの世界に微笑んだ。

赤が、背にした白に、染みていく。
喉から太い血の流れが、いまや枯れる直前の勢いで湧いているからだ。
流れに脈動の余韻はない。

「知ってるだろう、僕の性格」

名もなき職人は振り向きもしない。
椅子の上で美しい桐の棒切れに精緻に細工を施すのみで、まるで今同じ空間で起こっている出来事に関心がないようだった。

血の気を失いますます白くなった青年の唇が、くすくすと羽箒のこすれるような音を零す。
薄汚れた純白の装い。
絹の艶やかさと光沢を持つ髪も、肌も、ゆったりとした古代ローマの賢人がまとっていそうな長衣も、命の色で、飛沫(しぶ)いている。
端正に磨き抜かれた造形物の調和を思わせる、透徹した青年の顔立ち。
本当に満足そうで、けれど、なんだか疲れたようでもあって。
ゆっくりと青年は吐息を漏らした。

「いつもみたいに、聞いていてもらえますか?
私の話を」
「好きにするといいよ」

愛想のない平淡な答えに、苦笑。

ことり。

職人の手から彫刻刀が置かれる。代わりに取られたサンドペーパーから、しゅるしゅる耳の中の世界を削る音。
無駄のない手つきが、職人の中に既に完成形のあることを予感させた。
削り出すだけの繊細で迷いのない無限にも一瞬にも感じられる時間。
これまで何度、この手つきを見てきただろう。
これから何度、この手つきを見られるのだろう。
止まることなき砂時計の粒のように、次々と大事なことは零れていって。

「また、置いていかれちゃいました」

ふふ、と子供には出来ない純粋な笑みで青年は言う。
屈託だらけで、濁っていて、たくさんの何かが積み上がったその果てに内側で何度も屈光を繰り返し、その突端であるところの今に集った感情の切っ先を輝かせる、ただ一点の輝き。
そういう透明にまぶしい笑みで、微笑んだ。

職人は何も答えなかった。
風がびょうるると灯芯の先をまたはためかす。
水のように透明な液は灯芯を中心にして出来た蝋燭のくぼみからその風で溢れ、揺れずに前までと同じ道を滴り通る。
塗り重ねられていく、乾くことのない、白い道。
二つの似て非なる影が、浅く、濃く、床と机の後ろに照っていて。
静かに血溜まりがか細い髪を飲みこんでいく。

「置いていかれちゃったんですよ」

風のような軽やかな声が、繰り返す。
密室に吹く風は声であった。

風が、炎を揺らしていた。
青年の瞳に既に光はない。

「――――」

間断なく続いていた木の表面をやする音が、初めて止んだ。

「お前みたいなのは嫌いだと、いつもそう言っていただろう、僕は」

風が、止んでいた。

音が再び甦る。
しゅるしゅると、もはや聞く者も職人の他に誰もなく。
揺れることなき蝋燭の明かりが、棚に居並ぶ人形達の影をぼんやりと長く伸ばしている。
動かない血溜まり。
語られることのない物語が、流れる白蝋と共に、溢れ出る。
白くそして透明な。
語るその口の、誰なるか――――――――。

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はじまりは、ひとつぶのりんご。

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最終更新:2013年03月16日 20:21