武は、舞か。
否。
ぺたりと情人に寄り添うように、身と、掌を相手に添わせて地を踏みしめる。
ぴたり数十キロ分の成人男子の体重が、踏みしめた脚力と、踏みしめられた硬い畳の藺草を抜いて、地の奥底までに貫いた。がつんと強烈な反発が足裏から即座にタイムラグほぼ0で跳ね返り、突き上がる衝撃力が体の中でうねる力と絡み合い、龍の顎の如く、ぱっくりと掌に体重に数倍する力を蓄えた。
ぽ。
と、その莫大なパワーが、ほんの一瞬、掌サイズから、相手の体の肋骨に、するりと手渡される。
無論、すぐに添わせた体は離れていった。
正確には、相手がくず折れたのだ。タイムラグも何もない。糸がぱつんと切れる、そんなようなものだ。相手の意思などそこにはない。認めない。くずれ落ちろ、そう、命じたようなもの。屈従を隷従を地を這い蹲る屈服を、命じたような、ものなのだ。
立てるまい。皮膚、脂肪、筋肉、肋骨、その奥側、内臓のやわらかな細胞をまとめて揺らし、すさまじい吐き気と気持ち悪さを生じさせる。のみならず、血流が乱れ、機能不全を一時的に起こしたことにより、体の内側すべてが連鎖して狂う。もう、呼吸すらも、出来るまい。一時ばかりはそこに這いつくばるのが精一杯か、あるいは気絶していた方が何倍も幸福だったかもしれない。
思うのだ。
武は、舞ではない。
もっと静かなものだ。
そしてそれはより淫らである。
床で手と手を絡めあうよりぴったりと、指の、腹と腹とで睦み合うより離れがたく相手を想う。一心不乱に相手と触れる己の身に、心を注ぐ。
武は、淫か。
いとわしい。
淫らなのは己の心だ。淫性を携えているのは、人の肉を打ちすえその感触を貪ることに悦びを感じる、己の感性だ。
剛とあればよいか。
地の一切を踏み砕き、触れる合切を一撃の下に従える、そのようなものであればよいか。
自然と体はそのような構えを取った。
指は、やわらかく、緩い。
拳を作る時に固く握りこめばいいというのは嘘だ。何も知らぬ子をあやすようにか、それとも愛撫するようにか、身体とは、己のものであってもそのようにやさしく扱わねばならない。
猛々しいのは貫く瞬間だけでいい。
そして何も余韻は残さない。何ひとつ、情はそこに残さない。
ただ与えたものだけを、そこに残せばよい。
それは、実る。
結実する。
受胎する。
殺意と言う名の反抗か、隷従という名の屈服に。
何も残したくないのなら、簡単だ。こきり、と力をこめればよい。トリガーを引くよりも簡単だ。スイッチを押すよりも簡単だ。操縦桿を繰るより何より簡単だ。
望めばいいのだ。
死ねと。
それが殺意となり、それが殺人となる。
快活な心ではないな。
天真爛漫に己と己を試しあう、そういう健全な心ではない。
そして俺は健全な心は要らぬ。
そう、思う。
言い訳はいらない。理屈もいらない。感傷もいらない。感動もいらない。やっていることは殺しだ。求めている結果はどうでもいい。求めている到達点はどうでもいい。それを認めろ。
その上で、じゃあ、どうする?
武とはとても小暗いものだ。微笑ましい成長物語も胸暖まる恋愛談もそこには要らぬ。武とは殺すためのものだ。紐解けば一度でわかる。どんなに崇高に活人を謳う武術でも、己の敗北と死を甘受するための技術は教えていない説いていない。それは、裏返せば、殺すということなのだ。
指で切る突く払う打つ刺す抉る、鍵裂くかける回す引く、ただの指一つでも武はこれだけのことを、する。
相手にである。
己にではない。
そこに誇らしげな英雄談はない。そこにはただ、血にまみれた、ぬめった肉の感触と、死体と、痛みと、記憶だけがある。
だから。
と、思うのだ。
だから、俺は武が好きなのだ。
明確なる殺意で以て、この手で殺す。
何の言い訳もない。何の加減もない。
殺す。
偶然暴発したとか、誤ったとか、そういう言い訳のない武が、大好きだ。
殺意にかわりはないだろう。
鋼の銃弾が肉を引き裂いて飛び散らせることに快感はない。グロテスクなだけだ。いとわしいだけだ。
ごく、希に、数万数十万の弾丸を、繰り出しかわし潜り抜け、そうして鋼に愛撫を重ねたものにだけ、やはりそういう感覚は宿るのだという。
天才である。
グロテスクだ。
嘲う。
グロテスクなのは変わりない。お互い、ただの人殺しなのだ。
肉が飛び散ろうが飛び散るまいが、綺麗に死のうが汚く死のうが、そんなことには関係がない。
溜め息。
己を試しあうことは素晴らしい。試しあえることは素晴らしい。
それもまた、武だ。
だが、それがすべての武ではなく、それはまた武のすべてでもない。欠片にすぎない。その欠片が大きいのか小さいのかそんなことはわからないしどうでもいい。
言い訳が、嫌いだ。
笑って武に殉じて死のう。
笑って死ねることがいい。
彼らとなら、笑って殺しあえるだろうか。
それとも。
それとも―――……
/*/
「・・・・・・」
猫に拳法家のアイドレスがなかったことが、俺の幸福だったのかもしれない、そして、俺を猫の国へと導いてくれた人がいたことが、その幸福の二番目だったかもしれない、と、益体もない思い出の反芻をしながら華一郎は道場を後にした。
唇を、舐める。
舌が、肉付いて、赤い。
黒オーマとの戦いからはや10日がすぎようとしていた。身にまとう、もう大分使い込んで生地の柔らかくなった胴着の白に、ぎゅと裾を正した。
衣服を整えるのは礼儀ではない。
礼儀よりももっと即物的なことがある。
己の心を、普段の位置に正すのだ。
そうでなければそんなものはいくらでもはだけてよい着崩れてよい、それでもってぐるりと相手の腕喉を締めて固めて殺せばよい。いや。
固めるところまでいけば、あとはもう、殺すも生かすも己次第なのだ。
力だ。
思った。
力があれば、それを選べる。
心の力ではない。
心の力は大事だが、それだけではどうにもならないものがある。
だが。
心の力がなければどうにもならないものもある。
心が正しくなければ、力は育たぬのだ。
武とは静かなものだ。
それは悟りに似ていると華一郎は思っている。
同僚のアスカロンならばどう思っているだろうか。
かのつるぎびとならば、もっと違う、自分とは異なった考え方を、身のうちに巣食わせているのではないかと、そう思うのだ。
人は傲慢で強欲で狭量で、それでもいとおしい生き物だ。
それを知ればいたずらに人を殺めようと思ったり、殺めたいなどとは思わなくなる。
腹に、いつまでも消えないものはあるが、それは消えないだけだ。出てくることは、なくなる。武を深く修めるとはそういうことなのだ。己の中の肉の猛りを、抑えるのでもなく、操るのでもなく、あやすのでさえもなしに、流してしまうことが、出来るようになる。
必然的に。
だから俺は武が好きなのだと思う。
自制の緩い人間だからな。
唇が、笑った。
「今日も暑い――――」
西国のレンジャー連邦は、よっぽどの偶然か、さもなければ雨季でもない限りは日差しがやわらぐことはない。季節の移りかわりによるその強弱も、到底そこに慣れたものでなければ感じ分けることは難しいだろう。
開け放たれた道場の扉からは、砂漠の蜃気楼がだだっぴろく見晴らしよく満ちている。こうしていると砂が舞い込みあとの掃除が大変だが、何、たまにはそういう合理的なこすからい日常は忘れて、心の合理を重んじたくなる時も、あるものだ。
人は、心で出来ている。
それと同じく肉でも出来ている。
どちらが欠けてもならぬのだ。
普段からの、掃除の心がけと、今のような掃除の面倒を増やす気晴らしと、どちらが欠けても、それは不全な人なのだ。
それはじんかんとしての人間ではない。
ただの、いびつな生き物だ。
自分は生まれついていびつだが、そういうものが、世界だろう。
最初から美しく生まれたいとは思わないし、美しく生まれているとも思いたくない。
それでは救いがない。
いびつなものが鍛え上げられ美しくなるからこそ人は輝けるのだ。その、輝きのことを、人は美と呼ぶのだ。
美とは心に宿す刃である。
それは天与になるような疎ましいものではない。
その切っ先は、常に己に向けられているからこそ美しいのだ。
切り刻むための美など美ではない。
それは醜悪というのだ。
美は、存在することが美しいから、美だ。
それ以外の何の目的も必要とはしない。何の代価も求めはしない。
それゆえに、美とは心のものなのだ。
武を極めると、その所作は美しくなるという。
その心はどうだろう。
美しいだろうか。
……
武を、極めたともいえぬ己に比して語るのは何だが、その意味において武は遠回りな道筋であるように思う。
武とはただの手段であり手段の塊であり目的には決してなりえない。武を生かすのは人の心だ。武が美しいというのならば、それは武を生かした人の心根が美しいのだ。
それだけにすぎない。
武は、美しくない。
武は、武だ。
人殺しだ。
そのための、術利の塊だ。
それをどう使うかすらも人次第だ。
心次第だ。
「戒めるわけではないんだがな―――」
つい、思い出すとほころんでしまうのは、先日のakiharu国でのバトルロイヤル。
あれはよかった。楽しかった。
己を試しあうのでもない。ざれあうのでもない。殺しあうのでもない。
ほどよかった。
ほどほどでいいのだ。
楽しいとは、ほどほどであること、そのものなのだ。
生きる上において、望んだことであろうと、望んでいないことであろうと、人は、なかなかほどほどであるということができない。稀有といってもよい。だからそれが出来た時はとても楽しい。
あれが、ゲームだ。
思う。
akiharu国はいい国だ。娯楽に富んでいる。
心が娯楽に富んでいる。
なるほど、娯楽を消費し食糧を生む南国人か。実にらしいじゃないかと思う。
ならば自分たちはどうだろう。
レンジャー連邦はどうだろう。
資源を使い、燃料を生み出す。
資源は、時か。燃料は、愛情か。
ふっ。
笑ってしまう。
笑ってしまうが間違いじゃない。
間違いじゃないということは正しいのだ。
間違いよりは、正しい方に、近いのだ。
リゾート。
行きたいなと思う。
楽しかったのを覚えている。
反面、行かなくてもいい気もする。
ただ、足るを知る。
奪うことが愛ではないだろう。
華一郎はそう思っている。
貪ることが愛ではない。
愛とは、文字通り、愛でることなのだ。
そして愛でるとは、可愛がることでもない。
それをするには見つめるだけでいい。
目と目が絡み合えばそれが愛だ。それでいいだろう。それ以上のものは、必要じゃない。
微笑むことが愛ならば、その微笑みがあることを、信じるだけで、それは愛なのだ。
目で確かめる事すら要らない。
どうしようかな。
思う。
行ってもいい。行かなくてもいい。
まして自分にはたらふくのマイルがある。
まあ、いっそ、全員で呼びたいACEをいちどきに呼ぶなんて豪勢をするのに浪費してもいいかもしれない。
別に深い仲にならなくていい。
特別な関係にならなくていい。
しあわせであればいい。
相手がしあわせであればいい。
それが自分の幸せだと思う。
自分の幸せだと、確かめる必要すらない、自然なことだと、そう思う。
触れなくてもいいのだ。
満ちなくてもいいのだ。
愛は、そこにあればよい。
愛もまた、そこにあるだけでよいものなのだ。
だから尊いのだ。
子供とは、尊いのだ。
ビクトリーの物語を読み、思う。
愛が結晶するとはそういうことなのだ。
愛は、普段、形を取らない。
それが、形を取るから尊いのだ。稀有なのだ。
そして何物にも変えがたく常に求められ永遠に必要なのだ。
それが、命なのだ。
それは淫ではない。
それは、微笑みだ。
見詰め合う微笑みの間にこぼれる滴だ。
ならば武はどうか。
武は、結晶するのか。
武に残せるものは何か。
それはやはり武だけである。
身と身と目と目と拳と拳を交わしあい、それによって初めて伝える事が出来る、それによってしか伝えることの出来ない、それが武の結晶であろう。
それはとても尊いものだ。
愛の結晶と同様に、尊いものだ。
その手に残ることはとても少ない。
大抵は、貪るように消費され、その意味を確かめることすらせずに浪費されていくだけのものだ。
だからこそ尊いのだ。
武が、結晶するに価するだけの、敵にまみえることが出来るということは。
それは人生の一大事である。
武道家にとって、武術家にとって、子を成すよりも、伝えるよりも、ある意味で一番幸せなことなのである。
武は、それによってしか磨かれない。
磨く事が出来ない。
磨かれぬ武に用はない。意味はない。
だからこそ武は悲しいのだ。そして、そんな武が、俺はとても好きなのだ、と、思うのだ。
それは形が違うだけで、それは確かに残るものなのだ。
死で?
死で。
生で?
生で。
残ってゆく。
紡がれていく。
つながれていく。
しあわせなのだ。
心を交わるその瞬間がしあわせなのだ。
武を交し合うその瞬間が、なによりしあわせなのだ。
黒オーマはどうだろう。
それに価する相手だろうか。
武は、戦とは違う。
似て非なる。
同じなのだが、重ならない。
黒オーマと武でまみえることが出来たら幸せだろうか。
だがそれは、どのようにしてかなえればいいことなのだろうか。
アラダとして、互いにまみえることか。
それでしか、叶わぬのか。
であれば、間に合わぬか。
俺は、弱い。
人の最強たる、人の束ねの力を、強くはもっていない。
弱くはない。
強くなりたいと思うから。思ってきたから。
弱くはないはずだ。
だが、強くはない。
強くはないということは、弱いということだ。
強いよりは、弱いという方に、近いということだ。
俺は、文族だ。
そんな言葉を口走っても見る。
届くのか?
そんな言葉が、届くのか?
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
沈黙だけが己の中に垂れ込める。
このレンジャー連邦は愛を掲げる国だ。
一人一人の愛を認め、それを尊重する、いい国だ。
俺の愛は何だ。
何のための、愛だ。
誰の、ための。
何の。
華一郎は、その問いに答えられなかった。
ただ、楽しいのがいいのか。
違う気がする。
ただ、己の限界を試したいのか。
それだけではない。
愛情はそこにないのか。
そうである気もする。
ならばなぜここに。
なぜ、ここが、居心地がよい。
………………………………………………………………。
時は落涙よりも遅く零れ落ちていた。時計を見れば、まだ始まってから1時間かそこらほどしか経っていない。
それとも。
時は、思いよりもは早く過ぎ去っていると、言えばよかったろうか。
追いつけない。
時に、追いつけない。
どれだけ思っても、どれだけ願っても、考えても、悩んでも、時には追いつけない。
時を見つめればそれは常に敗北し続けることしかない。
時には、流されるものであり、また、乗りこなすものである。
時とは乗り物だ。
決して間違っても操るものではない。
タイム・コントロールという言葉は、正確にはよろしくない。
タイム・キープという言葉の方がまだ本質的には近い。
時を乗りこなすための姿勢を保つから、タイム・キープなのだ。
そしてキープされているのは常に時ではない。
人の、時を乗りこなそうという姿勢だ。
ライディングしている。
美しく時を乗りこなすものが芝村的というのなら、それは確かに一つの人の理想だろう。
だが。
それだけではないだろう。
芝村的という言葉は、それっぽっちで出来てはいないだろう。
芝村舞を思い出す。芝村英吏を思い出す。
彼女は彼は、胸の中にそびえる誇りである。
出会えたことを喜び、だが、決してそれらを愛することはせず、そのしあわせだけを一心不乱に願う、そういう相手である。
それはつまり、ただの赤の他人ということである。
本来人は、そのようであるべきなのだ。
誰もが誰に対して、そのようにあるべきなのだ。
見知らぬ誰かであればあるほど。
人は、どれだけ広がっても、見知らぬ人の方が、見知った人より必ず多い。それは覆せない。
だから、出会わぬ人に対して思うことが、一番大事な姿勢なのだ。
出会う人に対することは、出会わぬ人に対する姿勢と同じでいいのだ。
それが正しいのだ。
どちらかが重んじられるべきかといえば、それは見知らぬ人に対してであるべきなのだ。
そういう心が、必要なのだ。
それは武術家の心ではない。
それは戦士の心だ。
俺は武は好むが、それは己のためにだ。
俺は戦士を好む。それは未来のためにだ。
武よりは、戦士が多い方が、好ましい。
戦士は、勝つためには手段を選ばない。
武よりはずっといい。武よりはずっと目的に近い。
武は、戦士の下では道具でいい。より下位に位置するものでいい。
尊ばれなくてもいい。
武は、剣なのだ。
ああそうかとそうして気付く。
「俺はあなたたちの剣になりたかったのだ」
/*/
早朝の訓練を終えおはようとにこやかに城内の猫士たちに挨拶をする。最初に自分が来た時に比べて倍ほども増えたフィクショノートたちとすれ違っては愉快な馬鹿をする。またその馬鹿をにこにこ見つめて笑っていじる。
まあそんな日常。
城華一郎は、今日も健康だった。
/*/
-The undersigned:Joker as a liar:城 華一郎
最終更新:2008年01月29日 00:04