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「『翼の君と。』:2巻」(2010/10/11 (月) 22:04:26) の最新版変更点
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針が時を刻んでいる。Tic,Tic,Tic,Tic……
閉塞した部屋の中で、平らかな空気を震わせる物は、その1つきり。
針が時を刻んでいる。Tic,Tic,Tic,Tic……
椅子に身を沈めた男は唇を真一文字に結んだ表情に、亀裂1つすら走らせない。
左の傍らで両膝を、毛足の長い絨毯に直接突きながら、男の左手に、右手を重ねている女がいる。
互いのまなざしは交錯し、互いの視線は絡んでいる。
空間を割る、ぜんまいの振動が、動かない2人の肌を叩いて、それでも揺らす。
青い光沢が雪色の月光のように、女の長い髪からは、放たれている。
輝きは、政庁用の、無機質な灯を天井灯から受けて、創られていた。
ことん、ことん、音なき拍動。
ついぞ針には刻まれぬまま、時を重ねるのは、それでも動く、掌の内側を巡る、真っ赤な脈流。
男のまぶたが3秒閉じた。
無数の刹那を喰い切って、また、開かれた、傍らを覗く世界の中に、同じ瞳が待ち続けている。
待ち続けている?
何を。
感じた時、城 華一郎は、かぶせられていたテイタニアの掌の下で、左手を裏返し、手指を絡めて手繰り寄せ、不安定な姿勢のままでいた、その、青い髪の彼女の上体を、自らの膝元へと引き込んだ。
「どうしましたか、華一郎」
可視化したような水色の声。
オアシスに湧く、あの軟らかな透明、そのままの声だ。
赤黒い衝動を心臓の下側に覚え、華一郎は口を噤むことで、幾多の言葉を噛み殺す。
思念が渦を巻く。
水色を磨くのは、木々の葉の、腐ったような土や、また、それらの腐らぬままに押し固まった、泥炭を経ての、ことである。
欲望を、思考の臼歯に掛けて、平らかに解きほぐし、擂り潰す。
だから、何だ?
完全な左右対称ではない、均整の取れた、ほのかな歪みを抱く、テイタニアの顔の造形を見つめながらに、自問する。
この歪みは彼女が人造物ではない処から頂いた揺らぎだろう。
かつてその身に、小指と薬指で数え足りる程度の魂たちが、袖を通したことの表れ。
だから、それがどうしたというのだ?
何でもないと口にすることは出来ない。
沈黙ばかりが積もり込み、直前に立てた衣擦れと肉の震えで、耳からは、時を計る、針音のささやきを、聞き取る細やかさが、すべて消し飛ばされていた。
深い、椅子の造りは、華一郎が腰掛けて、その上にテイタニアを引きこんでも、まだ、苦しくてかなわぬ、というふうには、ならぬ。
政務を執るための机とも、今は間を取られており、2人分の空間が保たれ続けている。
それがなんだっていうんだ。
瞳に赤い物が通い始める。
その赤と、対峙している女の瞳は、相変わらずである。
言葉が次々脳髄で噛み砕かれる。
言えば、こう返る。こう流れる。そんな物は求めていない。
もっと。もっと、求めている。
多くを?
深くを?
強くを?
わからない。
ただ、直感だけが常にやかましい。
もっと、もっとだと、叫んでいる。
華一郎は、問いかけには答えずに、
テイタニアを膝上に載せ上げて、後ろから、ただ、胴体に脇から両腕を通すような形で、抱きしめた。
「この姿勢のままでは、希望された行為が取れません」
テイタニアの声には不純物が少なく、しかし、確かに含む。
軟らかな水色の声。
金属で形作られた女の、だが、金属の含有率が、少ない声。
オアシスは、砂漠に降る雨水の溜め池ではない。
遠く、山岳地方の地中を抜けて、流れこんできた水脈が、ぽっかりと湧き出る先を求めて現れた、そういう素性と由来を持っている。
風をその峰に受け、対流で雲を生み、
雨水を受けて、多くの木々を宿す山中には、
それらの積もった泥土が、深くまで層を成しており、
そうした、幾重もの有機と微かな無機が、水を磨いて、
運ばれてくる。
水の名で呼べば、軟水であり、
味で語れば、どこか甘く、柔らかい。
「そうだな。俺は、そばにいて、見つめていてほしいと、そう言った」
苦しみを吐き出すように華一郎は己が望んだ事実を喉から吐いて、
捨てた。
両腕に篭もる力は強い。抱きしめるほどに、柔らかくて、それが、苦しい。
「今は、こうしていたい」
「わかりました」
溜めのない回答。
テイタニアの、いつもの言葉や仕草と、それは同じ性質で。
翼として、愛を最速で届けるための形態を取っている。
それがわかるから。
「嘘だ。これでは足りない」
腿と腕の肉に、女の体のこすれて回る感触が押し付けられた。
腕力を振りほどくのではなく、小さな身じろぎだけで緩めて、その緩みの中を、滑るように回った、巧みな体の使い方。
頭を抱きしめられた。
「足りないんだ」
悲鳴のように華一郎は女の胸の中で、静かな呟きという形で、感情を口にする。
「これ以上は、ニューワールドの法規に触れます」
「わかってる。違う。そうじゃない。
足りてないのは、そんなものじゃない」
情報的に公開された領域内で、どれだけを望む。
触れ合うことをどれだけ求めても、そんなことではまったく足りない。
「欲しいのは、時間だよ、テイタニア」
言葉をよく聞こえるようにするために、彼女は己の胸から男の頭を離し、
見つめるようにして、待った。
「例えば君と家族になったとする。
俺の望みは、それでは足りないんだ」
華一郎の瞳は、感情が昂ぶり、血が凝ったせいで、
白目の部分で、赤く、血管部分の色が、にじんでいた。
濁っていた。
あるいは、その原因は、涙のないままに、
泣いていたことなのかもしれない。
「俺は生きたい。
俺も、君も、死ぬ。知っている。
君は一度その身を失った。
情報的には同じだろうか、異なるだろうか?
わからない。
失われるなら、この手で留めればいい。
でも、どれだけ留められる?
死した後も、なお、どれだけ…………。
どれだけ、俺達のいた証は、残せる」
俺は、この世界に居たいんだ。
そう、ひりついた喉から、声の涙を、ひり出した。
テイタニアは、動かなかった。
動かないことが最速であると、知っているから。
動かず、待って、華一郎の右手を取り、中指の側面に口付ける。
ほのかな湿り気が、第一関節の辺りに染み込んだ。
「…………」
テイタニアの唇はふさがっている。
だから、この沈黙は、華一郎の物だ。
視線を水平に保てば、水色に青い、豊かな髪色の中央、
テイタニアの、頭頂部のつむじが伺える。
華一郎は、それを見て、唇を、風を食む程度に薄く、1度、2度、開き、
閉ざす。
心臓の下側に感じる赤黒い衝動を、濃い思考でねじり伏せる。
口付けられているのは、
硬くしこった、利き手の皮膚だ。
何万字も、何十万字も、紡いで、物理的に磨き上げられた、
盛り上がったペンだこだ。
テイタニアは語らない。
言葉を求められていないから、ではない。必要がないから、語らない。
言葉を超えた最速を届けることが、己の存在理由だと知っているから。
だから、それでも、華一郎は、
「面を上げてくれ、テイタニア」
呼びかけて、しかし待つことをせずに、彼女の唇を奪いながらに抱きしめた。
大切だったから。
自分にとっての大切を、教えてくれたものは、自分の大切なものになるから。
相手の大切なものに対してテイタニアがそうしてくれたように、そう、応えた。
「テイタニア。今から1日間の完全執務停止を行う。
その後のリカバリーは可能か?」
テイタニアは答えない。
右手をかざし、ぱちり、電波による遠隔操作で執務室の人工灯のスイッチを、代わりに絶った。
光を失い、情報閉鎖が進む。
暗闇の中、外界からでは、2人の表情は、もう、見えない。代わりに彼女は、いつもの調子で淀みなく求める。
「1日でもまだ、短いですね」
(城 華一郎)