不死なる王の物語




 “煌く髪の”イヴナシュール
   魔剣バルグルアイオの所持者。オヴリエストの意志を継いでシンファウロル打倒の旅に出る。
 “リュシアスの瞳”ルハナ・シャウト
   魔法使い。イヴナシュールと共にシンファウロルの滅びを目指す。
 “赤い魔神”ザファルカス
   魔国の守護。有史以来最強のナヴァルフュス
 “幽かなる”シンファウロル
   ザカニラ王。魔術を極め、不死なる存在となった。西方全土へ侵攻し、魔の時代をもたらす。

  サンファラード・オヴリエスト
   イヴナシュールに師事される。不死なる王シンファウロルの滅びを画策するが、志半ばに世を去る。
  リヒシナ・メレル
   オヴリエストの師。プロミシア聖王朝の知識を継承する秘神官。




1.
 ヴァザルダウアとエレフ・ギアノの戦いと同様に、シンファウロルとイヴナシュールの戦いは「魔王との戦い」という物語の雛形として捉えることができる。〈冥王〉を倒す旅こそがこの物語形式のうち最大かつ最重要のものとして位置づけられているのだが、この世界には、これ以外にもいくつかの同等の構造を持った物語が散りばめられている。たとえば、詳細が語られることはまったく予定されていないものの、ファルアーにおける“黒の王”と火の龍ザワールもまたこの系譜に類する敵として用意されている。

2.
 シンファウロルは不死者。この者の魔術はラランのものとは程遠く、バルバド魔法からまったく乖離しているまではいかないもののきわめて独自の様式に属している。不死者ではあるが超越者には到達していない。従って、冥王や“夜の主”のような世界の理を超えた全能性は持っていない。とはいえ彼の居城はまさに魔界と化しておりある種の結界として機能してもいるため、外界と異なる摂理が支配的に通用するこの領域では、この摂理にもっとも通じているシンファウロルが絶対的な優位に立つことになるだろう。ただしそれはあくまでも超常性とは異なり、つまり「物語の力」を持っているわけではない。同様にイヴナシュールの方も、魔剣こそ所持しているものの聖剣を持つわけではないため、超越的に物語を駆使する力は持っていない。つまり、冥王との戦いに比べ彼らの戦いは構造として単純なものにとどまっている。
 代わりに彼らの戦いを規定するテーマ構造は、〈不死〉をめぐる概念的闘争である。

3.
 シンファウロルは感情を喪失した絶対的独裁者として記述される。疑いようもなく冷酷で残虐ではあろうけれども、それはもはや人の所業を想起させるいかなる要素も持ち得ていないため、自然災害の如く無機的な惨禍としてしか認知されないだろう。
 このものの出自は既に誰の記憶にも残っていない。当の本人を含めて。それがかつていかなる人間であったのかは、完全に闇の中に失われている。人間であった頃の面影をすべて捨て去って得た不死に如何ほどの意味があるというのか? 人の子であればそのように問うことだろう。しかし不死なる階梯とは現世の思惑から隔絶された境地に在るもので、シンファウロルが自身の境遇を嘆き後悔していると考えるのであればそれは浅見的な想像と言わざるを得ない。その行動はもはや人間とはまったく別種の思考原理に導かれているはずだ。人であったときに不死を目指した動機が仮に凡庸なものであったとしても。
 不死であるとは、そのものを殺すことはできず、その存在を構成する自己準拠過程がなにものにも妨げられ得ないことを意味する。内的にも外的にも。ただし不死は不滅と同義ではなく、殺すことはできなくても滅ぼすことはできるはずだ。——この考えこそオヴリエストが拠るところのものでもあった。

 シンファウロルの台頭以来、人類がそれまで夢想すらできなかった程の完全なる不死体が実現されたことで、特に魔法使いたちは脅威とおそらくはいくばくかの憧憬とを感じながらこの者を仰ぎ見た。不死なる王を打倒する挑戦は、やがてそれがまったくの無駄な試みであることが確たる事実として一般に流布するまで、数多く繰り広げられた。そしてそのひとつひとつが、あらゆる手段を撥ね除けるその不死性を立証する積み重ねとなるばかりだった。
 “幽かなる王”のとどまることを知らぬ軍勢から逃れ潜んだ対抗者たちは、隠れながらも集い、互いの知識を持ち寄り議論を繰り広げて、不死者を倒す術を模索した。

 不死者の最終的な目的とは何なのか。対抗者のひとりであるオヴリエストは、この問いにこそ、シンファウロルに終焉をもたらすための鍵が潜んでいると考えた。もちろん不死者の価値判断は人間とは著しく異なっているはずであり、それを理解することは不可能であろう。だが理解する必要はなく、ただその構造が読み解ければよい。
 彼らは単に自身の永続のみを願うのか? それとも別の目的のために不死を選んだのか?
 自己の存在が永遠に終わらないことだけを願うのは、不死としてはもっとも純粋なあり方と言えるが、この状態は同時に、それが他のいかなる目的も持たないことを意味する。存続のみのための存在。そのものはもはやいかなる行動もおこなう必要はないだろう。閉じた領域で永遠に在り続けていればよいのだから。生は生そのものを目的とするのではない。最初に不死を目指した動機はそのようなものであったかもしれないが、一度不死を獲得した後には、不死そのものを目的として存在し続けることはできない。何か別種の目的を定めなければ。
 とどまることのない欲望を際限なく追求する存在、それが不死者だ。すなわちあらゆる目的を掲げることができ、その追求に無限の時間を費やすことのできる者たち。つまり不死により獲得されることとは、無限の、文字通りに尽きることのない〈可能性〉だと言い換えてもよい。少なくとも時間によって制限されることはなくなり、どのような目標に対しても何度でも挑戦し続けることができる。
 では、そのように不死そのもので在り続けること以外に目的がある場合には、目的が果たされたときに、そのものはどうなるのだろうか? 目的を完遂するたびに、新たな目的を定めるのか? 永遠に?
 もし仮に、いかなる目的ももはやその者を魅惑させることがなくなるような時が来れば、不死なる自我は永遠を持て余し、自らの終焉としての死を再び希求するだろう。存在すること自体が、空虚で無意味なものになってしまうのであれば、それは絶望という他ない。
 不死者にこの絶望を与えること。それこそが彼らに滅びをもたらす決定的な方法である。そしてその滅びは自滅というかたちを取るはずだ。
 オヴリエストの辿りついた結論がこれであった。

4.
 不死者にとって、その生の動機付けは、どのように供給され続けるのか。
 前提としなければならないのは、不死者の精神は人間とはまったく異なっているものになっているはずだということで、この点を押さえなければ、不死という存在形態を理解することはできないだろう。
 たとえばオブリエストの師であるリヒシナ・メレルは、シンファウロルは自分より上位の〈記述者〉*1の存在を想定し、それを欺くことを最終的な目標に定めるだろうと考えた。われわれ人間には関知できないより上位の存在が世界を運行しているという想定は、諸々の宗教体系を初めとして広く人類一般に見られる世界観のひとつであるが、人間より上位の精神構造を得たシンファウロルは、この想定を、人間が扱うよりももっと現実的な問いとして考慮せざるを得ないはずだという。少なくともそれが完全に否定される事柄でない限り、不死者としては、対処すべき脅威として考察の対象に括り入れることになる。そのように自明のものとしては排除され得ない不確定の想定のうち、世界の上位存在の仮定は、不死なる生に対し考えられる脅威として最大のものになるはずであり、それこそがシンファウロルが最終的に解決すべき問題となるだろう、と。
 しかしオブリエストによればこの想定もまだ人間の視点に準拠したものであり、人間と異なる精神構造に昇華しなおかつ不死という存在形式を獲得したシンファウロルに当てはめることはまったく無意味であると考えられた *2。なぜならばシンファウロルの思考などは絶対に確認しようがないことだからである。それは彼が強大な敵であり城都の奥底に潜むから、という理由ではなく、もはや意志疎通の様態が人間同士のそれと根本的に異なっているからに他ならない。
 だからわれわれが考えるべきは、シンファウロルはどのようなことを考えているのか?という類の問いではなく、不死という条件を持った存在はどのように思考せざるを得ないか、という問いである。すなわち不死という形式が不可避に要請する論理構造を解明すること。そこにこそ、原理的に解明不可能な問題設定を回避し、曖昧さを排除した厳然たる帰結が見出されるだろう。これがオブリエストの最終的な問題設定となった。
(*1:この概念は魔法原理にも関連する。)
(*2:リヒシナはこれに対する反論として、「〈記述者〉がいるとすればこうした不死なる存在をどのように記述するだろうか?」と問うのであればそれは不死者の思考も記述者の思考も問題とせずに論理構造だけで考察できる有意義な問いだとしたが、オブリエストは否定した *3。)
(*3:ところで、リヒシナのこの考え方がまったくオブリエストに役立たなかったというわけでもない。オブリエストの活動は最終的に、シンファウロルに滅びをもたらすイヴナシュールとルハナ・シャウトの冒険を教導することとなったが、これは「不死者を倒す物語をいかに記述すべきか?」という命題を実行したものとも言われており、リヒシナの考えを応用して展開したものとされている*4。)
(*4:そしてそのような彼らの行程は、聖剣使いによる超常力行使を擬似的に達成したものとも言える。すなわち不死王を倒すことができたのはイヴナシュールの魔剣が直接原因であるというよりも、そのための行程全体が不死者を倒す物語として適切に記述され得たからだ、と言うべきなのだ。聖剣の有意な機能は聖剣自体にあるのではなく、そこに関わる物語にある。そしてフュダーインの思想によれば、これこそが“魔法”の現れに他ならない。この観点から言えば、フュダーインの用いる上位魔法も、聖剣使いの超常力も、ルハナとイヴナシュールの冒険も、すべて機能上同等なものなのである。)

 このようにしてオブリエストが考察したシンファウロルの思考構造は、完全なる解明に到達することこそなかったものの、弟子であるイヴナシュールに委ねられ、彼はオブリエストの解析結果の断片を紡ぎ併せて、ルハナとの冒険の果てに〈不死者〉に絶望を与えることに成功したと言われている。もっとも、その具体的な手段は伝わっていない。ただひとつ言えることは、シンファウロルがオブリエストの画策通りに自滅の道を歩んでこの世から消え去ったのであれば、それはいかなる死よりも過酷なものとなっただろうということだ。死に得ぬ者に死を与えること。そのこと以上に困難な企てなどありようもなく、しかしそれを果たし得る者は、死という限界を持たぬ不死者自身をおいて他にない。
 自分がかつて退けた死を再び願うほどの絶望をもたらされたために、不死なるその生のすべてを賭けて、決して死に得ぬ自分に死をもたらすことを試み続ける。それがシンファウロルの最期であるならば、悲劇などという矮小な言葉では形容するに足りぬかもしれない。








ザファルカス


1.
 〈魔神〉と呼ばれるナヴァルフュスで、不死なる王シンファウロルの最強の守護者。シンファウロル自身は、さして強力な肉体能力を持っているわけではなく、直接的戦闘力はすべてこの忠実なるナヴァルフュスに依存しているという。代わりにザファルカスは、まさに史上最強の名にふさわしい圧倒的な攻撃能力を所持している。
 最大の特徴は、まずその活動速度にある。ザファルカスの運動能力は雷撃をも上回る速度を持つと言われ、地上のいかなる生物も基本的にはこのものの運動を知覚することすら能わず、仮に認識することがかろうじてできたとしても、その攻撃に「対応」することは不可能である。

2.
 しかしザファルカスの真の能力は、この一点のみにはとどまらない。その真髄は、複数の分裂した攻撃をおこなうことにある。
 ザファルカスの身体は、明確な輪郭を持ったいわゆる「肉体」のみに限定されておらず、霊質構成、魔法的構造体など複数の身体様態に分かれている。そのそれぞれは当然異なる攻撃形式を持つのだが、特筆すべきは各々が異なる速度での独立した運動をおこなう点にある。(その数は三つ、と言われているが定かではない。)
 すなわち、最速の運動をおこなう肉体的身体、知覚で捉えることはできてもそれを「運動」として認識することを見逃してしまうほどの遅延した運動をおこなう身体、そして速度をさまざまに可変させる身体、など。
 このため、ザファルカスに対峙する者は、まったく異なる運動をおこなう複数種類の敵と戦っているような体験をするはずだ。仮に最速のザファルカスに対応することができたとしても、一方で緩慢に襲いかかる極微の遅効攻撃を同時に知覚することは至難の業であり、さらにはそれらの間隙を縫って変幻自在に速度を変転させる第三の攻撃に対処することなどは不可能と断定できよう。

3.
 このような能力を持つザファルカスは、ひとつには、自己を複数の時間に分岐して状況に対処し得る力を持つ「聖剣使い」に打ち克つために生み出されたとも言われる。たしかに聖剣使いは如何なる速度の運動体にも対応できるよう時間を操作することができるが、それでも、異なる時間を同時に攻略することは難しいことかもしれない。(ところで、もし聖剣使いがこのものを敵として扱う必要に迫られた場合、その聖剣使いはこの敵と実際に対面して戦う必要はない。聖剣使いは通常世界より上位の審級から事象を制御できるため、「この敵を眼前におさめることなく滅ぼし得る手段」を可能とする物語に自己を移行させるだけのことである。ザファルカスがその生の間にひとりの聖剣使いにも邂逅せず、最終的にはイヴナシュールによって倒されたという事実が、彼か何らかの聖剣使いに導かれて間接的に滅びがもたらされたことを意味する、という可能性を否定することは誰にもできない。もっともそれは検証不可能な領域の話ではある。)

4.
 ザファルカスは、その驚異的な行動特性の代償として、大量の活動力補給を必要とする。そのため基本的にザファルカスは、一日のほとんどを摂食と睡眠のみに費やす。完全な戦闘態勢に入ったザファルカスは、ほぼ如何なる相手にも無敵となるが、摂食中・睡眠中からの戦闘態勢への移行は、緩慢なものではないにしろ即時とはいかず、この時間差にこそ、ザファルカスへの無謀な挑戦者の勝機が潜むと考えられなくはない。

5.
 ザファルカスにおいて真に驚嘆すべきは、複数に分化しそれぞれ異なる速度を展開するような運動を制御し得る統覚中枢の存在であろう。
 こうした特異な自己構造を持つザファルカスは、一方で、不死なる王シンファウロルと意志疎通を可能とする数少ない存在のひとつであり、この事実は、シンファウロルがザファルカスと似た思考構造を有する可能性を示唆している。すなわち他ならぬシンファウロル自身がそもそもそうした分割的自己構造を持っていて、自分に似せてザファルカスを作り出したという可能性であり、このことはさらにシンファウロルが、そのように分割を前提とした自己により不死階梯への到達を果たし得たという可能性を類推させる。
 いずれにしてもこのように、人間と、あるいは他の意志を有するあらゆる存在とまったく異質な〈自己〉のあり方が存在する事実は、魔法を行使する主体として「ひとりの人間の人格」という統合された自己像を出発点に据えるラランの魔法使いたちに衝撃をもたらすこととなった。彼らの一部は「分割する自己」による魔法理論の探求に魅せられ、あくまでラランに対する傍系として異端にとどまり続けはしたものの、その継承者が連綿と生きながらえて、やがて“魔王”アウバスの再来を目論む〈反逆者〉アウロゾーンの輩出につながったことは、銘記に値する点かもしれない。

6.
 分割する自我、という想像もできない様態を持つザファルカスが睡眠時に見る“夢”は、人間の知り得るもっとも苛烈な悪夢を遙かに超えた混沌たる世界を展開しているとされる。(これは睡眠中のザファルカスの精神への侵入を試みたルハナ・シャウトにより垣間見られた。)









最終更新:2012年04月30日 10:40