混沌の門
 The Gates of Delirium

 アスエドルによれば、混沌の諸力とは、無限の多様性を許容する志向そのものに他ならない。
 至純の混沌は、人に仇なすような性質をそれ自体もっているわけではない。人意を超えて荒れ狂う巨大な力、と呼ぶことすらできない。それは単に秩序に相反するものとしてのみ定義できる。換言すれば、混沌とは無限の可能性の滋養なる宝庫である。
 であれば、魔族のようないわゆる“混沌の諸族”と呼称されている存在とは、何者なのか? アスエドルは次のように説明する。
 「世界」とは、あらゆる可能性が海のように溶け込んだなかに浮かぶ「秩序」である。世界は自らに秩序を与えることで、内的事象の運行を維持する。あるいは、そのように自らを定義するものが、「世界」である。この秩序に穴が穿たれ、純粋なる混沌が世界に溢れ出ることは、世界の消滅を意味する。そのため、世界に混沌が少しでも入り込もうとした場合、世界それ自体は、何とかして混沌を許容しようと試みる。あるいはそれを“解釈”しようと試みる。そうでなければ世界は、可能性に満ちた「無限」そのものに晒され、なにひとつ定まることのない不確定の道を突き進むこととなるからだ。そうしないために、世界は、自分に入り込む異物を封じ込める必要がある。自ら器をつくり出し、そこに外力を封じることで、自然秩序は混沌に「かたち」を与えるのだ。
 別の言い方で言えば、世界とは、混沌に秩序を与える志向であり、そこに入り込む異質なものをすべて、秩序付けようとする働きがある。入り込もうとする外力と、秩序付けようという世界のせめぎ合い。それが、混沌の諸族と呼ばれる事象を顕現させる。
 その意味で、フュダーインが魔族を“混沌の門”と定義するのも理解できよう。われわれが魔族を前にして見ているものは、混沌それ自体ではなく、混沌が自然秩序に取込まれたその結果、なのだ。世界そのものが混沌に与えた器、これをフュダーインは混沌の“門”と呼ぶ。
 フュダーインがアスエドルの思想にそのまま影響されたとは考えにくいが、世界の諸力を感知する力を持つフュダーインが、魔族の本質とは混沌そのものではなく、混沌に対抗しようとする自然秩序の顕現なのだと看破し得たことは当然と言えるかもしれない。この流れで考えれば、魔族とは“外敵”ではなく、むしろ、世界の側に所属する存在なのである。



(以下は、いま構想中の小説のために考えている途中の設定で、今後大きく変更する可能性があるもの。)



穿孔


 魔族にとってその心臓とも言える構成要素。“蠢く孔”“虚無の裂け目”とも称されるが、狭義には穿孔こそを“混沌の門”と呼ぶことがある。世界そのものに穿たれた綻び。世界という秩序立った内界が何らかの原因で局所的な破れを生じ、そこから外界……すなわち無秩序が侵入して来ようとしている現れを意味する。
 “穿孔”は通常、魔族の身体の奥底に隠されているが、仮にそれが体外に露出されたとしても、人間がそのかたちを知覚することはできない。それは文字通りの混沌に他ならず、そのような絶対的な無秩序を世界内において人間の感覚器官へと伝えることのできる媒体があり得ないからだ。
 また、穿孔は厳密に言えば世界の理の綻びであり、世界の運行を阻害するだけのものであって(それは大変なことではあるのだが)、世界内に直接に実体として現れるようなものではない。概念的・抽象的なものとして理解した方がよいだろう。
 穿孔が世界に発生した場合、それは世界自体の自浄作用、換言すれば世界の秩序そのものによって世界への影響を最小限にするように覆われる。この作用の一環で、知覚できぬ“穿孔”は知覚可能な対象へと縮減される。たとえば濁った霧がどこまでも続く虚空のようなものとして。しかしそれはあくまでも、かたちなき綻びに与えられた仮の姿に過ぎず、穿孔の本質そのものが露呈されているわけではない。重要なのは、そこでは混沌という外界と世界という内界とが絶えず鬩ぎ合っていることだ。侵入しようとする混沌と拮抗するように、世界自体はその流れ込みを押しとどめようとする。この危うい平衡、流れ込もうとする混沌と、穿たれた綻びへ押し寄せる世界内の魔力とが相克して編み上がったもの、それが魔族の存在構造でありその身体である。
 穿孔は魔族の存在の根幹であり、これを閉塞させることができれば、魔族という存在は消滅する。
 しかし魔族は穿孔を介した〈世界〉と〈混沌〉との危うい平衡のもとに成立する現象であり、下手に手を出せばこの平衡は逆に傾き、穿孔を広げ、混沌がなだれ込むことにもなりかねない。それもすぐに世界自体の修復作用で押しとどめられるはずではあるが(世界の内的秩序の自律性はきわめて強い)、しかし局所的に見ればそれはその魔族の力が飛躍的に増大したかのようなものとして立ち現れることにもなり、対峙者の命運を大きく脅かすだろう。

 

 

混沌の魔法

 南大陸では、バルバド魔法の系譜とはまるで異なるさまざまに独特の魔術体系が、奔放なまでに繚乱している。そのなかでももっとも特異な系譜は、“魔族”の力を利用して超常効果を発動させる魔法使いたちだ。彼らはどれも異端かつ禁忌と言えるものではあるのだが、南大陸における高度な魔法使いを例示する際には決して無視できない一定の力を持った存在ではある。また、北大陸でのラランのように、魔法を体系付け魔法使いに統一した行動規範を与えるような組織もない南大陸では、魔法使いに倫理や正統性を求めても無駄なことである。魔族という禁断の存在を何らかのかたちで利用し自分の力の糧とする魔法使いたちも、彼ら自身では、単に世界原理を追求し真摯に技術を研究した結果と自認しているだけなのかもしれない。
 北大陸の人々に“暗黒の大陸”とも呼ばれる南大陸は、ラランの力も及ばず、大きな版図を持った文明国も少ないがために、人間の領域でも魔族が出現する頻度が概して高い。魔族は間違いなく人間たちにとっての明白な脅威であり、畏怖はされども決して崇拝すべき対象とはされていないのだが、一方で、その強大な力はある種の人間たちにとって垂涎の的となってきた。
 彼らによって魔族の力を利用するための数々の試みがおこなわれ、夥しい犠牲が払われてはきたのだが、ある程度の成果も得られて、継承可能な技法としていくつかが体系化されている。どの体系も、熟練すれば絶大な効力をものにできるが、習得過程や行使における危険もそれに見合った巨大なものである。



〈混沌魔法の主な体系〉

“紋様術師”、または“描者”
 魔族固有の「力ある形象」を簡易に描出する技法を用いて、魔族の力を発現させる術の使い手。
 紋様術師は、魔族の本質たる混沌が世界に染み出るその現れ──すなわち“発現形象”を簡易に描写することで、魔族と同等の巨大な力を呼び起こすことができる。この簡易な形象は“略式形象”と呼ばれ、その描術は“象徴技法”と称される。簡易といっても、元の力を脆弱に模倣したものというわけではなくむしろ逆であり、形象の適切な簡略化が成功したならばそれは力の本質に接近できたことを意味するため、純粋に強大な力が発せられることになる。簡略化に失敗すれば、力が暴走し施術者に向かってくるという危険もある。
 略式形象の描写は、具体的には、何らかの媒体を用いて為される。たとえば粉塵や粘土、煙、あるいは湛えられた水と油などであり、術者によってさまざまではあるが、概して立体的な造形展開を可能とする媒体に限られる。

“操隷術師” “鏡像使い”、または“使役者”
 魔族を召喚し意のままに制御するこの術体系は“鏡像操隷法”と呼ばれる。この体系の術者は、使役する魔族に対して絶対的君臨者の位置に立つ。使役という字義から想像されるものとは異なり、魔族を屈服させることによって果たされるようなものではなく、対象の魔族と使役者とで魂を同化させる処理を経て実現される。
 同化過程には、試行者が自身の魂を喪失する危険が伴われる。また、魂の同化に成功したと思いつつも実は魔族に魂を奪われてしまっている場合というものもあり、試行者自身は当然この事実を認識できないばかりか外部の他者もまた魂の真贋を判定できないため、隠れ潜む重大な危険と考えられている。にもかかわらずこれらを見くびり使役に失敗した者が、魔族に自己を奪われ彷徨っている事例が数多くあると言われる。
 人の魂が“黄泉の門”に源を発するのと同様に、魔族にとっては穿孔すなわち“混沌の門”こそが魂の源となる。操隷法の真髄は“混沌の門”と“黄泉の門”とを象徴的に同一化することにあり、この操作は“鏡像過程”と呼ばれている。

“第三使役者”
鏡像操隷による使役関係は、どちらかが自明の使役者と既定されているわけではなく、鏡像関係を二次的に観察する上位の象徴視点を導入することによって始めて可能となる。この第二次の視点によって、鏡像関係を結ばれた二者のうちどちらに制御権があるかの区別が付与されるのだ。とすれば論理的には、第二次の視点をさらに覆す第三次の視点もあり得ることとなる。このあらたな立場、すなわち“第三使役者”は、第二次の象徴視点では隠蔽されていた盲点を観察することができる。そして重要なのは、第三使役者にとっても同様の盲点があるはずであり、これを当の第三使役者には観察することができない点である。だが第三の使役者には、自身にもそのような盲点があるだろうと推察することが可能であり、これがひとつの利点となり得る。


“誓言修辞師”、または“誓約者”
 魔族との間に複雑怪奇な誓約体系を結び、限定的にその力を行使させる者たち。この誓約関係において両者は対等であるが、誓約内容は単純明快なものではなく、あらゆる例外事象を網羅するための膨大な細則に満ちており、読み落としや解釈の誤謬などをめぐっての鬩ぎ合いが両者の間に繰り広げられる。まずは何の抜けもないように文言を組むことが必要最低限の原則であって、一度達せられた合意事項を慎重に解釈しながら拮抗を突破し自分の意に添う結果を導くに長けた者が、“誓言修辞師”なる称号で呼ばれる。
 術者は当然のことながら魔族の巨大な力を欲するがゆえに誓約に踏み入るわけだが、魔族がこれに応じるのもやはり術者に見返りを求めてのことである。しかし魔族の動機は人間の常識とはかけ離れており、善悪いずれとも無縁で、しばしばまるで理解できぬ奇怪な要求が投げかけられる。その「意図」を推し量ることは誓約体系での騙し合いに克つための第一歩ではあるが、魔族の精神構造の全容を知るのは人のこころのすべてを解読するよりもさらに取り留めなく茫漠なものである。
 また、この体系の大きな陥穽は、相手が誓約を守るのかどうかという点に何の確証もないことにある。術者は相手を誓約に応じさせるために何かしらの確実なる合意を築かなければならない。しかし、ある合意が守られるためには、それを必ず守るという別の合意が必要であり、であればこの新たな合意を守るというさらなる合意も必要であって…… つまり同様に無限に遡行されてしまう。誓約体系は、本来避けられぬこの無限遡行をどこかで中断しなければ成立しない。これはひとつの原理的陥穽ではあるが、現実には両者がこれに疑問を抱かない限りにおいて回避され続けるものでもある。
 仮初めにであろうとも魔族との間に誓約関係が成り立つのは、魔族が単に純粋なる混沌の発現なのではなく世界によって飼い慣らされた外力であるがゆえにである。いかに混沌を力源としようとも魔族も所詮は世界内の存在であり、世界原理に即した行動をおこなう者たちであるからだ。もっとも、魔族の一挙一動をも説明しきるほどに世界原理を詳解することは、決してたやすくたどり着ける境地ではない。

“混沌使い”
 魔族を介さずに直接自分自身が“混沌の門”を開きその無尽の力を操作しようという技法。きわめて扱い難く高度な術であり、制御に失敗した際の危険はあまりに大きくはあるが、魔族という未知なる他我を扱わずに済むということがこれ以外の技法に比べての利点とされる。
 この技法の術者は、人間としての理性を保持しつつも、自ら魔族と同等の力を発揮する。遭遇した者からすれば、彼らは魔族そのものとしか見えないはずだ。
 実際、高い水準に達した混沌使いは魔族を自称することもあるが、彼らが厳密に魔族と言い得る存在なのかどうかは、混沌学者のなかでも意見が分かれるところである。否定派は、彼らが未だ自己の精神を維持している点に着目し、秩序立った理性は混沌の本質にそぐわないと主張する。一方で肯定派は、“混沌の門”が充分に開かれた上で世界自体による安定化が為されている場合には、術者がどのようなかたちでその生成過程に関わろうともそれはもはや魔族と同等の現象であると主張する。
 いずれにしても、魔族としての「格」は、その行動様式が理性的なものからどれだけ遠く離れているか、人間にとっての理解不可能性をどれだけ孕んでいるかという基準で決まるという点において両者は一致している。混沌使いが自分たちをいかに魔族と同一視しようとも、人間としての行動原理に縛られている以上は、メルグアズールの称には程遠いと言えよう。




最終更新:2009年09月09日 23:22