ソルダーガイン  【アーエン語】 Overdragon

 かつてまだ世界に真に至高なる知識があったころ、恐るべき暗黒の勢力に対抗する最高の騎士たちがいた。バルバド魔法の達人であり、「光と闇の霊龍」を駆る精霊使いでもある。その身は神秘の武具に包まれ、手には至上の武器である聖剣を握る。彼ら龍騎士たちと闇の勢力との戦いは数多く繰り広げられたが、星霜を経て今、あまたの偉大な武勲を知るものはほとんどいない。





シアルト  【アーエン語】 The Instrument

1.
 聖剣として語られている武器を、ソルダーガインはこのことばで呼ぶ。ソルダーガインの証。アーエン語で、“至高の道具”を意味する。まさにその名の通り、ソルダーガインがその手足以上に自由に動かすことのできる剣。この剣は力や技術によって振るうのではない。聖剣は所持者の「こころ」によって動かす。所持者の手にした聖剣はこころのままに動かすことができ、その動きに応じて自らの体も自然についていく。ソルダーガインにとっては攻撃も防御も等しくこの剣にゆだねられる。攻撃に際しては、使い手の意志を増幅して伝導させ、魔法的な衝撃力を発動する。通常の手段では絶対に破壊されることはなく、剣撃はもちろん、魔法も龍火も受けとめる。そして、敵のどのような防御手段も、「魂の思いめぐらすことのできる限り」どこまでも切り裂くことができる。
 この比類なき武器を使いこなすには、魂を特別に覚醒させることのできる力を持つ人間が、さらに聖剣と魂を同調させることができた場合にのみ限られる。
 聖剣の起源については謎に包まれている。もちろん現在、聖剣をつくることのできる者はいない。聖剣はあくまで“道具”であり、それ自体が自律した存在ではないともいわれる。ソルダーガインの分身、あるいはその魂の映し絵ともいわれている。

2.
 「バルバドの書」には“聖剣の魔法”という項目があるが、これは、バルバド魔法の体系がはじめから「聖剣」というものを織り込んで構成されているということを示している。「魔法」と「聖剣」の間にはわかちがたい関係があるのだ。
 “魂の道具”“魂の映し絵”。

3.
 “闇”や“魔”の絶大な脅威があるとき、聖剣がこれに立ち向かう助けとなり、その勇者の心を支えるよりどころとなろう。いや本当は、強大なるものに立ち向かおうとするその魂こそが、シアルトの力に他ならない。



4.
 シアルト。
 心の動きによって駆動させる武具。
 思うがままに。
 剣の動きを思い描く‥‥‥するとその通りに剣は動く。思い描き出せる限りどんな速さでも。そしてなにものも剣の動きを妨げることはない。剣の行くところすべて、舳先が波をかきわけるごとく、斬り裂かれていく。
 思いのままに動く武器を使うには、「どのように、何を思うか?」が重要。そしてその前提として、状況(あるいは、敵の心理、世界の魔法的様相)をどのように把握しているか、が問題となる。
 聖剣使いは、世界の状況を読みとったうえで、そこに聖剣の動き/自身の動きを思い描き、あらたな物語をかぶせる。
 それは結局「物語の力」であるという点で魔法に通じている。「魂」によって、世界を新たに描く物語が綴られる、という魔法原理と同様の構図が成立している。

5.
 「語り手」はまず(自身に相対する〈外界〉としての)世界(客観世界)の状況を把握しなくてはならない。
 世界をどのように認識するかが重要。
 聖剣使いは、戦闘において、世界・状況・心理を一体の様相のものとして捉える。(いわば、“魂の絵”)
 この状態において、聖剣使いは世界の運行を通常よりもはるかに遅い時間のものとして認識できる。時がその歩みを遅め、自分のみが通常の時間を生きているかのように。そしてなおかつ、そこには、状況‥‥‥そこに存在するものの立場、相互関係、意味、それが取りうる様態の可能性、それが今後取りうる選択肢‥‥‥が独特の様相をもって聖剣使いの認識に映し出され、さらに、それらすべては、人間はもちろん、動物、はては静物に至るまで、すべてのものが「心理」を有するものとして認識され、その身を赤裸々にさらけ出す。
 戦闘状態に入った聖剣使いのこのような知覚は、統合されたひとつの様相として把握されているため、膨大な量の情報が流れ込んでいるにもかかわらず表層意識は極めて整理されている。(いわば、悟りの状態。)
 あたかも、物語を伴ったひとつの絵を見るが如くに。
 この状態において、聖剣使いは「魂の道具」の動きを好きなように思い描く。「道具」の動きを思い描き、「道具」を所持する自分の動きを思い描き、「道具」を伴う自分の動きに影響される世界の変位を思い描く。
 そして、それらすべては、実現する。

6.
 このような状態では、もはや「聖剣」と「魔法」の区別はほとんどないともいえる。
 「聖剣」はあくまで事象の中心を演じる媒体にすぎず、これを媒体として引き起こされる超常的な諸事象は、呪文の詠唱こそ伴わないものの、魔法によっておこされるものとかわらない。聖剣使いの戦いはあくまでも剣技を中心とはしているが、そこには常に魔法的事象が伴われる。自らの意志によって世界が書き換えられることこそが、魔法という事象に他ならないからである。

7.
 聖剣使いの戦いにおいてその結果を決するのは、「語り」がどのようにおこなわれるか、のみである。
 これは魔法使いにもいえることだが、超常の認識者たちは、いくら好きなように世界の展開を語ることができるとはいえ、物語としての破綻・矛盾はできるだけ避けなければならない。矛盾が大きければ大きいほど、自らの思惑を越える結果(因果)を増大しかねない。
 「語り」による世界の運行への介入は、常に、世界を止められぬ混沌へ突き放す危険性をもっている。超常者に介入されていない世界は、もっとも「自然な」状態にあり、ここでは世界は安定している。そこにどのような事象が起こっていようとも、それは世界の規範内にあり、通常の因果律の結果としてのみ生成しているからである。
 ひとたびこの自然な運行に介入し、世界を「不自然な」状態にすれば、規範による安定は望めず、自分の思い描いたものから新たに引き起こされる因果関係が膨大に拡がっていき、結局どこかで自分の想像もしなかったような「結果」が誘発される。超常者はもちろんそこで新たに生成した「結果」に対しても介入することはできるが、それが矛盾的関係のなかから生まれたものであればあるほど、自分でもその流れ・文脈・前後関係を理解できない‥‥‥つまり、制御できない。超常者たちは、世界を自分でも掌握できる範囲内で、動かさなくてはいけないのだ。自分の望みのままに動かしながらも、かつ、その運行は世界として「自然」に見えなくてはいけない。


8.
 「魂の道具」聖剣。
 この世に何本かしかない、至高の道具。
 それらには、どのような差異があるのか?
 たとえば、“二つの剣”エグネウンと、“光の樹”ジ・エルムには、どのような違いがあるのか?
 能力に違いがあるのか?

9.
 聖剣は、「物語の力」の媒体であり、それゆえそこに能力の優劣などあろうはずもない。
 聖剣の差異とは、能力ではなく、個性の差異である。
 聖剣は所持者とともに物語の中心に存在しなくてはならない。
 そこでは、自らもまた自身によって語られる物語の一部なのだ。
 そこで語られる自分とは、何者か?
 聖剣は常に、自ら自身を説明する物語を伴っている。自分の出自、来歴を語る物語‥‥‥つまり、“伝説”を。
 その物語を伴っているがゆえに、現在における聖剣使いの戦いにおいて、過去から連綿と続く物語の果てに綴られる最新の物語における媒体となりうる。
 自分が無個性な存在であるのに、どうして物語の中心を演じれようか? 物語の主人公であるがために、聖剣は自ら自身を語る物語を必要とするのだ。
 意志により世界を書き換えること。それは限りない自由であるがゆえに、その権利者を束縛する。
 つまり、あらゆる可能性を前にして、その者は途方にくれてしまう。
 聖剣が自身に纏う物語は、無限の自由に対し一定の方向性を与える機能を果たしている。



10.
 そう、それゆえに聖剣はその持ち主の運命を避けがたく変えてしまう。
 エグネウンの所持者であり、後にジ・エルムの所持者となったアージェン・アストールこそまさにそのひとりである。奇怪な邂逅のもとに聖剣を所持し、やがて数奇な冒険を繰り広げ、巨大な闇の底でもっとも忌まわしき魔物と戦い、敗れ‥‥‥、そして暗闇の克服者となって再び地上に帰還し、新たなる聖剣を得てついには冥王にすら相まみえた英雄。
 その物語は、聖剣の物語なのか、それともアストールの物語か?
 英雄が聖剣の物語に語られているのか、それとも聖剣が英雄の物語の一部にすぎないのか?
 それとも、さらに他に、見えざる語り手がいるのだろうか?


 誰しもが運命に語られる存在であり、そして同時に運命を語ることのできる語り手でもある。




11.
 世界の運行に自らの意志を介入させ、超常の事象を生じせしめる聖剣使い。
 では、聖剣使い同士が戦った場合どうなるのか?
 語りの力を駆使し、世界の因果を己が意志に屈せしめる権利を持つ者が相対したとき、何が起こるのか?

 語り手同士がまみえた場合、両者の権利は交錯する。どちらかが優先されるということにはならない。両者の意志とその具現は、必ず、互いに相関する。
 それは対話ということばで説明されるべきだろう。(対話とは、常に、予測不可能なもの。誰でも、相手の反応を予期し、それに応じて発話内容を決定する。その予期は、確実ではない。不確定であるからこそ、対話は成立する。)
 聖剣使いの相関は、対話の構図に類似している。
 そして、もちろんこれは聖剣使い同士の戦いに限らず、超常者同士の戦いすべてに言えることである。


 しかし実際、聖剣使い同士が戦い合うことはまずないだろう。
 物語の綴り手がそのような不確定な状況に自らを投じることは、ありえない。
 聖剣は、複雑な事象を避けようとする。
 ‥‥‥このような表現は、聖剣が自我を有しているという誤解を招くかもしれない。聖剣ではなく、あくまでも、聖剣に付属する物語が決定する。つまり、聖剣が何かの事件を経過することで物語が加えられていくわけだが、その次に来る物語は、先行する物語と矛盾するものであってはならない。そうでなければ、物語は成立しない。原理的に。物語が、物語を呼ぶのだ。最初から最後まで一貫した物語を生成するために。別の言い方をすれば、物語が途切れ成立しなくなった時点で、聖剣の存在も終わるといってもいいだろう。はじめから存在していなかったかのように。逆説的だが、聖剣が存在しているということは、それがそこに至るまでに体験した物語が、物語として一貫した矛盾のないものだということだ。ゆえに、聖剣が存在している以上、その物語は、矛盾のないものである。



12.
 聖剣使い。
 通常の存在より速い時間を戦い、状況を正確に認識し、その場を共有するものの心理を把握し、あらゆる障壁をものともせず、その行為には魔法的事象を従属させる‥‥‥。
 まさに無敵。
 世界を絶望に包み込む超常の意志に唯一拮抗するものがあるとすれば、聖剣使いをおいて他にはない。




cf.1
実際には、戦闘モードにおける聖剣使いの認識は、相対時間感覚として処理される。
つまり、認識する対象それぞれの速度に応じて、認識が変化する。
速い対象はより遅く;たとえば、ハチドリの羽の動きのひとつひとつが把握できる。
遅すぎる運動は、認識できる程度の速さとして認識される;たとえば、緩慢たる潮の満干、あるいは月の満ち欠け、それらは、あたかも早送りでみるビデオのように、把握できる。ちなみに、その場合、その運動のすべてを見ていなくても、そのように認識される。(つまり、ある瞬間の運動を積分解析してその全体を把握するという認識処理がされている。)
あらゆる事物が、自分に把握できる程度の速度のものとして、認識されるのだ。
だから、卓越した戦士と剣を交えているとき、その剣撃がスローモーションで見えると同時に、頭上に輝く星がゆるやかにその軌道を動いているのが見える、という、矛盾したような時間感覚を味わう。
これらはすべて、聖剣が「物語の力」の媒体であることからきている。
人が何か書物で物語を読んでいるとき、その者は物語世界に対して完全に時間を掌握しているといえる。
なぜなら、物語内でどんな事象が生じていようとも、読みの速度でそれらを思うがままに扱うことができるからだ。
めまぐるしい場面をゆっくり読んでみることもできるし、退屈な場面は流し読みすることもできる。
聖剣使いの一見錯綜した時間感覚は、まさに物語の読み手の味わう時間感覚と同一である。
聖剣使いにとって、世界とは、開かれた書物のようなものとして認識されるのだ。
ただし、唯一、そして決定的に異なる点は、書物の物語を読むときは前の頁に遡ることもできるが、現実世界では、時間がその不可逆性を失うことは決してないということである。たとえ聖剣使いのような超常の語り手といえども。現実世界の時間とは、決して取り返しのつかないものなのだ。それこそが、「現実」と「物語」の違いの定義でもある。

cf.2
客観的に聖剣使いの戦いを目にした場合、その戦いは、とにかく速い、目にも止まらぬ動きのものとしてしか見えないだろう。すべての事物に対し常に自分にとってベストな相対時間を確保し行動できる聖剣使い、それだけでその強さは理解できるだろうが、さらに、思いをすべて(「聖剣」の物語という媒体を基盤としながら)実現させる能力をもった超常者であるということ、それゆえに聖剣使い‥‥‥すなわちソルダーガインが、至高の戦士であり、世界の脅威に対する最後の守護者となりうることが、お分かりいただけただろうか?

cf3.
悪のソルダーガインというものは、存在するのか?
端的に答えれば、聖剣使いであり、なおかつ人間に仇為す存在ではない、というもののみがソルダーガインと呼ばれるので、言語的に、悪のソルダーガインはありえない。
ちなみに、悪の聖剣使いというのはありえるかもしれない。聖剣の物語によっては。

cf4.
聖剣使い同士の戦いが起こることはまずないだろうが、超常者同士の戦いは、ありうる。
聖剣使いの場合、自分以外にストーリーに影響を与える権利を有する「聖剣」という媒体が絡むので、それによって聖剣使い同士の戦いという複雑かつ矛盾が予想される物語が回避されるのだが、単なる上位魔法使い同士の戦いであれば、それは普通にありうることだ。
その場合こそ、そこには「物語」から「対話」への構造展開が生じうる。
意志をもって現実という名の物語を展開する権利を持つはずなのに、そこに、同じ権利を持った超常者が相対するとき、自ら紡ぎだしたストーリーが見知らぬ意志に撹乱され、予想もつかない方向に展開していく。両者はそれぞれ相手のストーリーを超越しようとさらに意志を展開するが、そのこと自体が影響しあい、どちらも意図しない新たな現実をつくりだしていってしまう。それは、ふたりの対話に他ならない。もはやどちらも世界を確定する絶対者ではなく、意図の力を失いとまどうふたりにすぎない。ひとりの語り手の紡ぐ「物語」が現実世界の展開を決めるという構図が、ふたりの語り手の「対話」によって現実世界の展開が決まる、という構図に変わるのだ。



「それでは、超常の力を持たぬ普通の人間と変わらないではないですか。予測できない未来を前にもがく人間と」
「そのとおり。確定できない未来、それは現実という賜物なのだ。あらゆる可能性が広がっているからこそ、現実という価値は生じる。それゆえに、ただひとりでとじこもり絶望に喰らわれることを厭うフュダーインであれば、同等の存在との対話に自らを投じる道を選ぶだろう。それだけが、フュダーインを覆う無限の退屈から逃れる方法なのだから」

‥‥‥ドルカノン 













最終更新:2009年10月25日 22:19