フュダーイン  【アーエン語】 Transcendence Master


1.
 第一紀末の大変動を越えて生き延びた“真の”バルバド魔法を継承する魔法使いたち。彼らの力はラランの魔法使いをはるかに凌駕するもので、ウイリアのあまねく魔法流派のなかでも最高に位置する。色の称号と特別な杖とをもつ、“認められし者”。
 フュダーインは隠れた存在であり、国々や歴史の動きに干渉しようとしない。彼らのそれぞれは独立しており、互いに関わりあうこともない。とはいうものの、世界全体を揺るがすような巨大な事変に対しては進んで立ち向かい、ソルダーガインとともに幾度も暗黒の力に抗してきた。その伝説の多くは秘められ、あるいは忘れ去られて、彼ら至高の魔法使いたちのことを知るものは少ないが、ラランの賢人たちはおぼろげながらその存在を知っている。

2.
 現在のウイリアに何人のフュダーインがいるのかは知られていない。フュダーインは“隠れたる魔法使い”たちである。人間たちと交流を持とうとはせず、自らの超常の力をもって世界の事象に積極的に関わろうとすることもなく、ただ隠者として常命をはるかに越えて生き続けるのみ。
 彼らの消極的なその生は、魔法を極めた者に等しく訪れる境地ともいわれる。魔法を極め、世界を自在に操作することが可能となったとき、その主体とは果たしていかなるものなのか? すべてが自由であるとき、他ならぬその無限の自由によって、その者は一歩も動けぬほどすべてに疑念を抱いてしまう。シーザの大神官ドルカノンは、そのようにフュダーインたちを評している。

3.
 とはいえ世界そのものが滅亡の危機に瀕するとき、フュダーインは世界の運行を維持する最後の砦として、その重い腰を上げる。彼らはその自由の対象である世界を脅かすものに全力で対抗するだろう。

4.
 影の予言が果たされ暗黒帝国が発動した今、まさに世界の滅びの時であり、フュダーインたちも闇の勢力の動向には大きな関心を払っている。しかしフュダーインたちは実はまだそれほど危機感を持っていない。彼らの恐れる最大の危機は、魔王アウバスの復活以外にはない。仮に暗黒帝国が人間世界を滅ぼし、闇の王国をもって世界を支配しようとも、フュダーインは自身の領域に閉じこもって安泰に生きていくことができる。フュダーインの恐れるのはただひとつ、“魔法の究極”アウバスが再来し、フュダーインの力の基盤である「魔法」そのものの定立を揺らがせることである。
 しかし、暗黒帝国の世界戦略は徹底したものであり、そのなかにはフュダーインの攻略計画も含まれている。そして、暗黒の侵攻の最終段階では、世界の「魔力」を完全掌握し、森羅万象をつくりかえることが目論まれている。フュダーインたちは、まだ暗黒帝国を甘く見ている。しかしいずれフュダーインも、暗黒帝国の戦略の全貌を知るだろう。そのときには、フュダーインたちと冥王の間に超常の戦いが繰り広げられることになるだろう。まだ遅くなければだが。

5.
 魔法を極め、世界を自由に操作することが可能になる一線というものが存在する。フュダーインにしろ龍人にしろ、果ては冥王に至るまで、超常の存在はことごとく、同一の一線を越え得た者である。

6.
 超常の力、世界を掌中におさめる力とは、「物語の力」に他ならない。世界を自由に語る「語り手」たち。
 このことは、結界内における全能を実現するザフルハードや、すべての闇の意志を体現する暗闇の神・冥王を滅ぼすためのひとつの手がかりとなろう。






超越魔法   Transcendental Sorcery


 ここでは、フュダーインが用いる「制限のない魔法」について記述する。
 一般にフュダーインは、自らの用いる力、他の魔法流派とは明らかに異なるその力を単に魔法と呼んでいるが、彼ら以外の魔法使いたちは畏れを込めつつ“神性魔法”と呼んで区別することがある。またラランの魔法使いたちのうちフュダーインの知識に通じる者は“超越魔法”とも呼んでいる。いずれにせよその含意は神あるいは超越者の用いる力ということであって、世界の摂理を越えた領域としてフュダーインの能力は位置付けられている。そこには厳然たる一線があり、フュダーインの用いる魔法は、他の魔法、それが一般に普及しているものであろうと秘密裏に伝承される密技のようなものであろうと、超常事象の招来を果たさんとするあまねく技術体系すべてと根本的に異なる孤高の審級にある(唯一、聖剣により到達される超常力のみが例外である)。
 フュダーインの力は〈願うことが何であれ現実のものとして実現される能力〉である。どのようなことであっても、およそ思考し得るすべてのことが。ラランを始め他のあらゆる魔法流派は、独自の体系に定められた規範に沿った技術を実践することで超常事象を達成する。そこには一定の制約があり、得られる結果にもまた当然の限界が存在する。しかしフュダーインには基本的にはそのような束縛はない。彼らの手にするのは文字通りの自由である。
 論点を先取りして言うならば、在来の魔法が所与の形式のなかでの操作技術の優劣に徹するのに対し、フュダーインの魔法は、魔法を成立させる形式自体を魔法の行使主体が不断に構築していく・・・あるいは、構築していかなければならない、という点に最大の差異がある。つまり彼らはいわば世界原理をその都度においてつくりだしている。極端に言うならば、一挙一動ごとにそれぞれ異なる世界を創世し続けるかの如くに。
 「何でもあり」の能力は、しかしそれを制限なしに行使すると世界改変の範囲が際限なく広がり、いかに行使者が万能といえども「手に負えなく」なるという問題を伴う。そこでフュダーインは一般に、改変の範囲をなるべく自分に制御可能なものとしてとどめておけるようなさまざまな工夫と規律を編み出している。本来制約のないはずの超越魔法が内的に要請するこうした制約は、無制限の自由が生む破滅的事態を回避するための自律的な規範であり、逆にこうした自律制約がない限りこの無制限能力は成立しないという言い方もできる。無制限の自由がいつまでも無制限の自由であり続けるためには、一定の自己制約が必要ということ。それがなければ無限の混沌・無限の制御不能状態へと容易に拡散してしまう。またこの制約は外的に与えられるものではなくあくまで魔法行使者が自分自身に定めるものであり、他我を前提としない孤高の規律であることも重要な点である。すなわちこれは倫理めいて聞こえてもそうではなく、世界のあり方を決定する論理形式に属する問題なのだ。
 それゆえに、フュダーインの辛苦は呪文や術式を覚えたり技法を磨くといったことにあるのではなく、いかにして世界を駆動させる「形式」を組み上げるか、という点においてあると言えよう。

















最終更新:2011年07月06日 23:19