*

 

 単純な好奇心だった。
 パンドラの箱だの、楽園の果実だの、そんなおおぎょうなものでは決してなくて、ただふとした好奇心、自分の体験したことのないことをあまりにも気分よさそうにそいつらが為していたから、そんなにも具合のよいものなのかと、褒められたことじゃあないのはしっていたけれど、律によって禁じられているわけでもない、ただ俺にそうした機会はいままでになかったし、これからもないように思われた、それだけのことだった。
 些細なことだ。
 仕事の合間の息抜きに、外の空気を吸いたくなって表へ出た。街路から新年独特の、うわつきそわそわと落ち着かない気配はすっかり落ちて、いまは色もない。かといって閑散としているわけでもなくて、つまりはいつも通り、サンタンジェロまで伸びる大通りは観光客でにぎわっていたし、屋台の親父がくわえ煙草でやる気のなさそうにあくびをするのもいつも通り、ひとの波を避けて道路端を歩くと飲みこぼしたペプシで靴の裏がにちゃと粘つくのもいつも通りだった。
 履き古しちゃあいるが、気に入っていた靴だった。避けなければよかった。厭な気分になる。
 だいたい、よそものであるただの観光、おのぼり気分のやつらが、昨日くった飯がどうの、買い物に行くならどこがいいの、ゆるみきった、緊張の欠片もないつらがまえで団子状になり道のど真ん中を占拠し、ヴァチカンに住居登録をしている、それなりに日々の教会雑事をこなし、異教徒だのテロリストだのばけものの始末を敬虔なる信仰をもっておこなう俺が、やつらに譲って端を歩くというのがおかしな話だった。逆だと思う。心底そう思っているのに、人間のかたまりの密度にうっとなり、避けてしまった惰性がうらめしい。
 苛々とした。
 そもそも俺は気晴らしに外にでてきたわけで、その気晴らしに胸糞悪くなっているのだから本末転倒にちがいない。戻ってしまってもよかったのだけれど、来週頭からはじまる、カトリック各支部へちょっかいをだしやがる異教徒どものおおがかりな駆逐掃討戦、の準備に、現在我が特務機関はてんやわんや、とくに機関員を派遣するまえに徹底的に情報を集めることがいっとう重要なことだったから、事務局員をふくむ後方支援部隊は連日の激務で局室内の空気もよどんでいて、あそこに戻ると考えただけでげんなりした。
 溜め息をつく。
 いっそすこし足をのばしてこのまま通りを真っ直ぐゆき、橋を渡って向こう側へ行ってしまおうか。九割がた冗談で俺は思いつき、その思いつきにひょいと乗ってしまってもいい気分におちいった。小一時間でかけてくると言い置いてきたのだ。ぶらぶらと行って、戻るには、散歩にはすこし長いが気分転換には丁度の距離だった。
 サンピエトロを背にして、土産物屋のちゃちなつくりのペナントやブローチやキィホルダーを、見るともなしに眺めながら俺は通りをゆき、橋を渡り、そのまま堀沿いに右に折れて、地元の人間はともかく観光客にとってなにも見るもののない、つまりは観光客のほとんど来ないひっそりとちいさな緑地公園へ入り、わりと杜撰な間隔でしつらえられたベンチへ足を向ける。
 ふと木陰になにか動いた気がして俺は視線をそちらに流し、動いたものを目に入れて、それからああしまったなとたちまち後悔した。
 ここいらで屯しているということは金のない学生のたぐいなのだと思うけれど、つまりは男女のカップルが若気のいたり、昼日なかから隠せもしない細い木の根元で絡みあっていて、さすがに下半身をあらわにし交接しているということはないようだったけれど、それでも腰を下ろした男の上に女がまたがりたがいに腰をこすりつけ、みっともなく欲情し舐めあい吸いつき、俺がこうしてすこしはなれた場所から眺めていることにも気づかない。たがいの口のまわりは唾液にまみれ、こうして眺める赤の他人のひとつとひとつの個の肉がじつにきたならしいと思い、寮生活のころに下卑た笑みを浮かべながらそうした冊子をまわし読んでいた、相部屋のやつらの顔をふと思い出した。
 腰つきがいい。胸の張りが絶妙だ。乳輪の色がどうの、唇の赤がどうの、目が、鼻が。こちらが机に向かいラテンの書籍をひろげる上から、澄ましたおきれいな顔をしてないでお前も見ろよ。ページいっぱいにポォズを決める金髪の裸の女、本を読む邪魔をされ眉をひそめてやつらを睨みつけると、気ぐるいを見る目付きで逆にしげしげと数人から眺められるはめになった。お堅いよな、お前。
 そんなことは知らない。
 俺は黙って立ち去るか、そうでなければ絡みあう男女に近付き、一喝入れてやればよかったのだと思う。
 けれどどうしたわけか、そのきたならしい、不恰好で獣じみた行為を反復するふたりが、あまりにも没頭し悦い顔をしているものだから、もういっそ護身用の拳銃でもって撃ち殺しても構わんのじゃあないかと思う反面、人間のつらを捨ててそれほどに欲にまみれる行為と言うものが、生きる過程においてあるという人間、その感覚がどんな具合なのだろうと思う俺の好奇心もはたらいて、結局しばらくそのざまを観察してしまう。
 ふと、上になっていた女がうっすらと目を開き、男の肩越しにこちらを見やり、観察していた俺と視線が混じ合う。
 たちまち驚きと羞恥と、恐怖、俺がカソックを着ていたものだからおそらく余計にそうした反応を見せたのだろうけれど、ひ、と息を飲み、つられて男もこちらを振り向いて顔をこわばらせ、慌てふためき立ちあがると着崩れた格好もそのままに、滑稽なほど足をもつらせ走り逃げていった。足の遅さで置いて行かれた女が金切声をあげ、それもじきに聞こえなくなる。
 あとには見送ってしまった俺が残って、やはりこんなことだったら鉛玉叩きこんでしまったほうがましだったかなと、誰もいないベンチの前でちらと思った。
 
 
 俺の部屋に貴様がたずねてきた。めずらしいこともあったものだと思う。
 ヴァチカンから割り当てられた修道士用のせまい一室は、俺も仕事を終え休む以外の目的で使用したことが一度もなくて、というよりも部屋に他人をいれた記憶がない。緊急の際は携帯電話一本で局室へ参じたし、やってくるとしたってせいぜい機関員が戸口のあたりまでやってきて立ち話、必要項を手短にまとめ伝えてゆくだけで、だから、入れてくれと言われて戸口から内にだれかが踏みこむということが、そもそも初の体験だった。
 踏みこまれることが俺はかなり好きじゃあない。
 戸口越しにしたって、もちろんたいした家具もなくせいぜい寝具と椅子、それに適当に椅子の背にかけたパンツやシャツのたぐいしかないのだけれど、それでも覗きこまれるという行為そのものが、内面を窺われているようで、だから部屋に入れることを極端に俺は避けたし、ここだけは俺のテリトリーであり、俺が素になってもよい場所に思えた。他人の息遣いはいらない。
 それがアポイントメントもなしにいきなり俺の部屋の前に立ち、俺の名を呼ぶと中に入ってもいいかという。断ってもよかったのだし、どうせのちのち後悔することは目にみえていたから拒否してやってもよかったのだけれど、貴様が割り振った任務以外のことで俺をたずねてくることがまずもってありえない話で、だからなにかあったのかなとおかしな親切心を見せてやったのがいけなかった。
 のっそりと貴様が戸口をくぐり部屋をぐるりと見回した時点で、早々に俺は厭な気分でいっぱいになってはいたのだけれど、入れてしまった手前、回れ右をしでてゆけというのも妙な気がして不愉快をこらえて俺は黙っていた。
 座ってもと聞かれ、どうぞとこたえる。椅子に腰かけるかと思った貴様はそのまま床に膝を着き、かるく手を組んで額にあてるとうつむきひとりで祈りをはじめてしまう。はあ?あきれた声がでかけた。こいつ本気で俺の部屋くんだりまで赴いてなにをしてるんだ。おかしいんじゃないか。
 告解したいのなら広間のほうにでもゆき、手のすいた人間をつかまえて話を聞いてもらえばいい。フェルディナントルークスにかぎった話なら、教戒師のだれかと愚痴をこぼし合えばいい。わざわざ俺のところにやってきて、俺の部屋に入り、俺の目の前で祈るということが俺には理解できない。
 しばらくどうしたものかと胡乱な目で眺めてしまったのだけれど、考えるだけしようもないので俺は跪く貴様をひとまず部屋にのこし、食堂へ顔を出す。まだ厨房にのこり、明日の朝食の仕込みをしていた人間へ声をかけ、数分後には酒と、すこしのベーコンやハムやチーズと言ったもの、それにグラスをふたつ盆にのせて俺の部屋へ続く廊下を戻っていた。貴様が飯を食ったかどうか俺には判らなかったけれど、だったら食堂へゆくなり外にでも出向いて軽食屋に駆け込めばいい。俺はそこまでお人好しになる気はなかった。
 部屋にもどると相変わらず同じ姿勢でぶつぶつとしていたので、俺は貴様を横目にグラスのひとつへ酒を注ぎ、先まで読みかけだった本の頁を開き目を落とす。そうして数十分、室内に籠もっていた声がいつの間にかやんでしんとしており、目を上げると向かいで貴様がこちらをながめてじっと俺が気付くのを待っていた。
 なんだと片眉を上げる。
「私を眺めて面白いものでも見つけたか?」
「……目と、鼻と、口を見つけた。」
「ばかばかしい、」
 貴様にしてはめずらしく冗談口を叩いた気がして、俺はすこしおやと思う、だが顔に出すほど真っ正直な人間でもないので、伏せていたグラスをかえし、どばどばと酒を注ぐと貴様へ向かってさしだし飲めと言った。
「……飲みに来たわけではないのだがな。」
「始末書の追加でも持ってきたのか?」
「いや、」
 差しだしたグラスと俺を見比べ、まよった色を貴様が浮かべたので、俺はたっぷりの皮肉とともにぐいともう一度貴様にグラスを差しだし、はやく受けとれ腕がくたびれると言った。
 ことわる理由も見つからなかったのか、貴様がおとなしく今度はグラスを受けとる。受けとり鼻を近づけ、ブランデーかと言った。
「らしいな。信徒から大量に献納されたんだとさ。」
「ほう。」
 薄く笑って貴様がぐいと一気に中をあおる。それなりに多めに入れたはずだったので、エールならともかくブランデーでその飲み方はないだろうと若干ぎょっとなった。
 ああやはりこいつは、今日なにか厭なことでもあって俺のところにきたのだ。そんな風に思う。けれど、貴様から口を割るならともかく、俺のほうから聞きだしてやる義理もない。片てのひらでグラスをあたためながら、俺は貴様のじっとうつむく横顔を半分、開いたページを半分に斜め見して、そう言えば来週の詳細は耳に入っているかとたずねた。
「承ってます。荷造りも済ませました。……私は中東でしたね。」
「前線も前線、異教徒どものど真ん前の定位置、うれしいだろう貴様が最も力をふるえる場所だ。」
「ふん、」
 先ごろとはかなり意味合いのことなる笑みを貴様が浮かべ、俺はなんとはなしにほっとした。そうでなくては、貴様はそうして悪鬼めいた笑みを浮かべ、威風堂々ひたすらまっしぐらに敵へ向かって突き進んでゆかなくてはならない、そうでなければ貴様の存在意義がない、そんな風に思った。
 それからぽつぽつととりとめのない話をし、グラスへ酒を注ぎ、ずいぶんときが過ぎたように思う。俺はいつの間にか貴様が部屋の空気に馴染んでいることを知る、先まで俺しかいないはずの、俺の巣穴でありテリトリーであった場所へ、遠慮会釈なしにずかずかと踏み入り、いつのまにかわがもの顔で酒をあおっているのだった。時計を見ると深更を回っていた。明日の業務にひびくなと思い、こいつ、いまからどうやってフェルディナントルークスまで戻るつもりなのだろうとつづけて思う。部屋に入れてやり、こうして差し向い、どういうわけか酒を酌み交わす状況になっているけれど、寝床まで共にする気は俺にはない。来客用(客と言ってもここは神の家であるわけで、しつらえはほとんど俺の部屋と変わらないわけだけれど)の部屋でもとるか、もしくは十三課の仮眠室を利用するつもりなのかもしれない。
 しかしこのみっしりと肉の詰まった貴様だったら、仮に廊下の隅の方へ転がしておいても、一晩程度風邪もひかずにけろりとしてそうだと思った。
 ふと気配が動いて、見ると二人で一本目を空にし、二本目の封を貴様があけているところだった。俺が厨房から運んできたのはひと瓶だったから、貴様が厨房に頼みにでも行ったものらしい。いなくなったことに俺は気がつかなかったとすると、すこし眠りこんでいたのかもしれない。ぼんやりと重いまぶたを上げる。酔ったかと貴様が聞くので酔っていないとこたえた。
「だが眠そうだ、」
「まだいける。付き合ってやるよ。」
 おもしろくないことでもあったんだろう、言外につつくと貴様がすこし黙り込んで、なんでもないと低い声で呟いた。そうか、とこたえる。言いたくないのならば黙っているがいい。口からこぼれた言葉は二度と元には戻らないからな。
 それから俺は自分のグラスへも酒を注ぐよう貴様に示して、なあ、と椅子の背もたれに寄りかかり、天井を仰ぐ。太い梁がちょうど俺の真上にあり、いまあれが落ちてきたら瞬間内臓を口からぶちまけて即死だなと縁起でもないことを思った。
「なあ、」
「うん……、?」
「乳繰り合うというのは、それほどに具合のいいものか?」
「は?」
 前ふりなしに俺がつぶやくと、まったく予期してなかったらしい貴様が軽く目を見はった。貴様でもそうしてぎょっとすることがあるんだな。ざまがおかしくて俺は笑う。
 笑いだした俺を見て貴様は眉をひそめ、やはりすこし飲みすぎているだろうと言った。
「酔っていない。」
 肩をそびやかしてみせると、酔っ払いはみなそう言うものだ、貴様が溜息をついて、水を汲んでくると言い残し、部屋を出た。立ちあがる際に貴様も若干ゆらと足元が揺れたのに俺は気付き、なんだ人のことを言えないじゃあないかと思う。貴様も充分酔っている。
 ひとりいなくなった部屋は急に寒々しくしんとなり、せまいせまいと思っていた部屋はこんなに広いものだったかなと俺は思った。
 それからふと、昼間見た男女をまた思い出す。惰性のようなものだ。とくだん目立つ二人と言うわけでもなかった、容姿がととのっていたわけでも逆に悪かったわけでもないし、ヴァチカンの聖堂内でさすがにそうした行為を目にすることはないけれど、町へ繰りだせばいくらでもあちらこちらでいちゃつく光景は目にした、だから別に俺は今日見たあれがはじめてだったから、妙に気になり貴様にたずねたわけじゃあなかった。
 だとすると、どうしてそんなことを聞いたのかと問われたとしてもこたえはない。俺にもよく判らない、ただああした風に、身も世もなく目の前のひとひとりのことしか考えていない状況というものにあまり俺はおちいったことがなくて、だから気になったのかもしれない。例えば、前から読みたかった蔵書書籍のたぐいだったら話は判る。もしくは細やかに神経をつかうミニチュアの模型作り、絵を描くということ、音楽を聴くということ、そうしたことに没頭するというのなら判る。
 けれど人間同士が互いに注視するということ、それが敵ではなく味方であり、身近な人間であるということ、見つめ合う意義が理解できないし、なにが楽しいのかも判らない。
 いつの間にかほつれた髪がうるさく肩に流れて、払った弾み、俺はそのままおのれの右手をしげしげと眺めた。
 自身の手だ。見なれたものだった。
 長いだの細いだの形容する言葉もない。それは他とくらべる際につかう言葉で、俺ひとりしかいないこの状況で、指はただの指だった。昼の女は指を口に突っ込まれて喘いでいたっけな。
 ふと魔が差した。
 ほんとうに、ちょっとした好奇心だったのだ。
 俺は人差し指を口元へ差し込み、かるく舌をだしてその指先へ舌をからめてみた。爪のおもてを舐め、節を前歯でもって噛み、こんな感じだったろうかと首をひねる。だが一本では足りないような気もして、中指もそろえて二本同時に突っ込み、上顎を撫ぜてみた。人差し指と中指のあいだに舌先をはさみ押しつぶす。唾液が口の端にたまりぬるぬるとしたので、それを指にからめ頬の裏あたり、指の腹で触ってみた。
 ふーん、と鼻息が漏れた。安心のような、がっかりしたような、ないまぜの感想だった。なんのことはない。それはただの触診で、歯科受診の際に口中へ器具を突っ込まれる行為となんら変わることはない、だったら女はどうしてああまでしてあられもなく喘いでいたか。
 それとも、やりかたが悪いのかな。
「……マクスウェル?」
 いきなり室内に声が響いた。指を咥えたまま思案していた俺は文字通り椅子から若干飛びあがって、あわてて声のするほうへ顔を向けた。誰かだなんて見るまでもない。水をとりに行った貴様が戻って、常ならばノックしただろう、けれど先まで入室していたものだから無遠慮にドアを開け、後ろ手に閉めたのだった。
 なにをしている、深い声でいぶかしみながら貴様が俺を見た。
「なにも。なにもない。」
 俺はいそいで背を正し、、唾液に濡れた指をパンツの腿のあたりにこすりつけて、咳払いをしてなんとか体面と言うものを保とうとした。
「口がどうかしたのか?」
「いや、なんでもない。奥歯がちょっと、痛んだような気が、いやほんとうになんでもないんだ……水をよこせよ。」
 ぶっきらぼうに俺は呟き、この妙な空気からはやくなんとか別の方向へもってゆきたくて、貴様が手にしていたマグカップを催促し、ひとくちふたくち水を飲み下した。
 急な動作をしたせいか、頭がぐらぐらとする。顔に血がのぼるのが判った。
 怪訝な顔をしていた貴様は、けれどそれ以上たずねようともせず、向かいの椅子に座りなおすとグラスの中身を口に含み、それから水を飲み下し、ふうと息をついた俺を眺めて片眉を上げた。
「お前、」
「……?なんだよ。」
「こぼれている。」
 言って貴様がひょいと手をのばす。俺の口の端をのばしたシャツの袖で拭った。
 俺はこちらへ向けて伸ばされた腕に一瞬びくとし、それは先日貴様が猛ったままのときに俺が帰還部屋でうっかり気を抜き、手ひどい仕打ちを受けたことを思い出したからなのだけれど、そうと気取られるのは癪だった。そもそもあれは、任務から帰投する貴様が滾っていることを充分認知していながら、隙を見せた俺に非がある。貴様は特務機関の切り札で、はなたれる銃剣ではあったけれど、俺個人の猟犬じゃあない、だから飼い犬に手を噛まれたとも言い難い、要は刃物で指を切ったとでもいうのか、銃火器の取り扱いをしくじったとでもいうのか、つまりはそういうことで、だから俺は爾来そのことについて言及したことはないし、穿りかえす気もなかった。なかったことだ、そうして押し殺し忘却の波に流してしまうのがいちばんだった。
 けれど、おののいた。
 それも認めたくもなかったけれど、実際のところほんとうだった。
 俺は貴様が異教徒どもやばけものどもへ向けて猛りくるい、血風飛沫をあげ、ひと息の寸断、情け容赦のない戦いぶりを何度も目にしてきたけれど、それはあくまでも貴様と俺、長じてはヴァチカンの敵へむけての行為で、こちらに注がれたためしのないものだった。いつの間にか寝入り、前後不覚だった俺へ、その貴様の衝動がそっくりそのまま投じられて、俺は正直あそこで食い殺されてもおかしくはなかった。言葉の通じる相手であるなら、俺はこわさと言うものを一切感じない、言葉が通じるということは、意思疎通の余地があると俺は思っているからだ。
 だがあのときの貴様はけだものそのもので、俺は、狼だか虎だかと同じような貴様と対峙しなければならなかった。押し倒され上に圧し掛かられ、たのみの銃には腕が届かない、なぜなら手足の動きは封じられていたからだ、そうして俺もそれなりに上背があり、同性が仮令本気で押さえ込みにかかってもそれなりに抵抗できると思っていた、だのにまったく歯が立たず、食いちぎられ、舐め上げられて、ああもうこれは駄目かもしれないとまで思った。お笑い草だ。ヴァチカンの特務機関の長である俺が、懐刀に叛意され噛み砕かれて終わるだなんて、各課の俺にたいしてよい感情をもたないやつらの笑う顔まで浮かぶようだった。
 逃げ延びることができたのはたまたま貴様が油断したから、俺が逃げることをあきらめたあとだったように思う。力がゆるまった瞬間、助かったと思った。すかさずホルダーへ手をのばし、弾倉に込められていた数発、貴様の頭蓋へ遠慮なくぶち込むと、俺は脳漿をまき散らし血反吐を吐いた貴様からようやく解放され、不恰好に、全身擦り傷、血まみれになりながらなんとか帰還部屋を抜け出し、ほうほうの態で自室へ戻った。手当てもそこそこに、頭から毛布をかぶって俺は寝た。もうなにも考えたくはなかった。
 夢でふるえた。
 どうして人間とかいうやつは、益体もない記憶をいつまでもずるずると引きずるものなのだろう。有益な情報ならともかく、コンピュータのように不必要なものは総まとめにして消去できてしまえばよいのに、わりと本気で思って、目覚めてもいまだ続いている悪夢にうんざりとなった。
 そんなことをふと思いかえしながら、俺は口の端をぬぐった貴様のてのひらがそのまま、俺の頬にあてがわれたまま、動きをとめていることに気がついた。
 なんだ、言いかけて俺の視線は貴様の腕をたどり、カフスの隙間から見える貴様の膚の部分に目がゆき、無数に刻まれた傷跡に目を奪われそうになる。慌てて逸らし、すこし角度をあげると、飲んで窮屈になったのか、釦をふたつほどはずした貴様の首筋が見えた。全身を鍛えあげた貴様は首まで太い。あんなところどうやって鍛えるものやら、男の俺でも純粋にそれはうらやましいと思う。
 視界の端のほうで貴様がグラスを口につけ、すると嚥下する勢いでごくと喉頭が隆起する。どういうわけか俺はそこから目が離せなくなって、というよりも正直に言えば、貴様の面構えを見ることがこわくて、無意味に喉もとを凝視した。
 俺をじっと視界に入れる貴様はなにも発さない。
 目をあげ、たしかめることは容易なはずだったけれど、そのわずかな所作が俺にはできなかった。たしかめて、もしまた貴様が爪牙もつけだものになっていたとしたら、俺はどうしていいか判らない。
 ここは俺の部屋だった。俺が素のまま逃げこめる部屋で、最後の砦も同然の場所だった。逆説的かもしれないが、だから俺はなるべく自室へ近寄らないようにしたし、他人を入れるだなんてとんでもない話だった。その部屋で追いつめられてしまったら、俺は他に行きようもなくなってしまう。
 視界がぼうと揺らぐ。
 貴様と同じようにグラスを乾し、それでまた俺は前後左右にぶれる。思考が、得操が、根底からするとほつれて、しまりのない俺の髪のようにだらだらと広がる、すると昼間の女と俺は徐々に重なって一縷のものになる。俺は貴様の手を掴み口元へもってゆくと、せんだって俺自身の指にしていたように、おずおずと舌をだし、絡めて吸いなぶり、指の股を唇で挟んで何度かかるく歯をたててみた。他人の指ならばどうだったろう。
 ぜんたい、どうしてそんなことをしたか、俺がしてみたいと思ったからだ。
 なにを考えているのか判らない、されるがままにだらと力を抜いていた貴様の指は、実際普段は手袋に覆われておもてにさらすことがすくないから、こうして地肌を見せているとどうにもなまなましく感じて困る、そんなことを思いながら舐めしゃぶる俺をしばらく黙って眺めていた貴様がふ、と息を継ぎ、不意にぐいと二本の指を口中へふかく差し込んできた。
 笑ったのかもしれない。
 喉奥を衝かれ、ぎくとした俺の頬の内側を貴様の指が撫ぜる。
 全身がそそけだった。
 その感触は寒気にも似ていた。言ってみればそれは、俺があの帰還部屋で貴様に羽交い絞めにされたときと同じようなものだった。けれど背筋を走り抜けるぞくぞくとしたものはしばらくあとを引いて、なんだったのだと思い問う気持ちで、目を上げ、うっかり貴様の面を見てしまう。
 貴様はまっすぐに俺を見ていた。
 酒が入り、ややすればとろんと重たげなまぶた、その下からのぞく緑灰色の目、見るたびにごつごつと角ばった芋を思い出す頬骨のあたりや顎のライン、うすく開いた口からのぞく頑丈な歯。あれで俺は噛まれたのだったな、思ううちにも貴様の指は口中を這い、俺はだらしなく口を半分がた開いて、貴様が上顎や歯裏や舌上をなぶるがままにさせ、またおのれから舌を絡め、口をすぼめて貴様をの顔を見上げる。
 弄られてあふれた唾液が顎に伝った。
 貴様の瞳がすがめられ、熱にうかされ、すうと薄いものになる、どちらかというと普段は落ち着いた緑で充溢されている虹彩が、色をうつし飴色のようになって、それが俺に注がれはなれない。
 人間同士が注視すること、それがいま俺がやっていること、貴様の目に俺はどんなふうに映っているのか判らないけれど、互いに向かい合い椅子に座ったまま、ばかのように見つめあい、目の奥の意図をさぐろうと画策し、それはどこか威嚇することにも似ている気がした。
 どれほど経ったのか知らない。一瞬のようにも思えたし、ひどく長い時間指を口に含み舐めあげ、弄られていたような感じもあった。
 不意に口中から指が引き抜かれ、驚き眺める俺の前で、貴様が片手で顔を覆った。いきなりだった。頭をうち振り、すまんと何度か口早につぶやく。
 すまん、俺も酔ったようだ。どうかしている。
 言って立ちあがり上着を手に取ると、失礼する、もうこちらを見やりもせずに、そそくさと、逃げるように、背をむけ部屋を出ようと戸口へ向かおうとする。それだけか、一瞬ぽかんとして俺は貴様の背を眺めた。
 言うべきはそれだけか。
 俺の中に煮え立つ感情が湧きだし勢いよく噴き上げ、瞬間ドアノブへ手をかけた貴様の襟首をつかみ、からだを力任せに引き回し、さすがにそこまで読めなかったのだろう、虚を衝かれてたたらを踏んだ貴様、ドアへおしつけ俺は下から睨みあげた。
 逃げるように、いま俺は思ったな。そうじゃあない、貴様は逃げるんだ。
 なにから逃げる。俺か?それとも別のものか?
 昼間見た男女と同じだ。俺が見ていることに気付くやいなや、慌てふためきばたばたと駆け出し背をむける。けたたましく女が喚き、追いすがる。だが俺は女じゃあない。あんな風に置いていかれるなんてまっぴらだった。
「……飲みすぎた?」
 俺は言った。低い声で言った。いっそこのまま頭の血管が数本切れるんじゃないかと思うほど、怒りで目がくらみながら言った。
 貴様が驚いてまじまじと俺を見おろす。視線に力があるというのなら、今この瞬間貴様を射貫き、刺し殺してしまえばいいと思った。標本に貼られた羽虫のように四肢をひろげ冷たくかたくなって、動けなくなってしまえばいいと思った。
「酒が過ぎた?おのが意図しない行動をした?……酔ったから、酔ったうえでの勢いだったから、しようのなかった、あれははずみだった、そう自分に言い聞かせて、一晩寝たら忘れるか?なかったことにするのか?なにもなかったことにして、しおらしくうなだれ黒衣をまとい十字に跪き祈るか?」
 貴様の目が細められる。苦しいか。いい気味だ。俺は思った。あのときと同じだ、俺が院の貴様の部屋で酒を飲み、寝潰れた、あのとき貴様はたしかに俺に欲情していた。そうだろう?
 背後から抱え込み息を荒げはしたなく腰を高ぶらせて、俺は理解し、混乱し、恐怖した。どうすべきが互いによいのか俺は頭をかかえ、俺自身の勘違いですべてを片付けようと思った。なかったことにしようと思った。貴様は綺麗なままでいるがいい、そうしてだいぶん苦労をして俺は平常を取りもどしたし、もう半年ほど前の話になっていた。
 だが、まただ。また貴様はそうして自分だけ殊勝な顔をして、俺を置いてゆこうとするからだ。置いてゆかれる俺はどうなる。
 反復行動を強いられることはもう厭だった。
 分別のつかない、結構なことだ、俺はそれでもよかった。貴様が俺の部屋を訪れ、俺が貴様へ入室を許したその瞬間から、篤信なんざかなぐり捨てたようなものだった。他のない空間に貴様は入ったのだ。
 貴様が踏みこんだ、それがすべてだと思った。
 俺は酔っていない。俺は言った。俺は酔っていない。すくなくとも、酔ったことを言いわけにしておのれの本性へ蓋をする生きものでないことはたしかだった。
 睨みつける俺と同じぎらぎらと鋭い視線になって、貴様が俺をのぞきこんだ。こうして並んで立つと、どうしても貴様のほうが背が高いものだから、いつでも俺は見下ろされる格好になって、それが実に悔しかった。
 そうか、貴様が言った。そうか。それがお前のこたえか。
 言われてなにをと言うより早く、貴様の手が伸び俺は頭を鷲掴まれて、そのまま唇を覆われ吸い弄り、噛みつく勢いに混然となった。ああまた食われると思ってしまったけれど、不思議と恐怖は感じなかった。がさついた貴様の唇が、むさぼる間にたちまちぬめり泡立って、おしだす息が酒臭い。俺も同じだ。舌を突きだしからめ、無心に貴様の感触のこと以外なにも考えられなくなって、手を這わせ貴様の胸ぐらを引き絞る。
 力任せにおしつけられたからだが弓なりに反って、それはたいそう苦しかったのだけれど、背の骨が折れたところでいっそ構わないとさえ思った。押しつぶされ肉塊となり貴様に染み入ってしまえば、もう離れる理由はいらない。
 呼吸が逼迫し、顔をゆがめ、それでもやめろとは言えずに、角度を変えなんども押しつけられる貴様の口唇、歯列をなぞる動き、押し入られ故意に注がれる唾液、いっさいが不快で俺は唸りながらこたえる。
 最後まで貴様を睨んでいてやろうと思ったのに、いつのまにか俺は目を瞑り触覚以外のなにも判らなくなった。
 こうでもしなければ触れ得ることもできない。互いに途方もない臆病者だったのだ。

 

 


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最終更新:2013年02月10日 10:29